釧魂洋才
「ああ、そうだわ。ドラド、今度の視察の件なのだけれど、ジーニーを連れて行ってくれるかしら」
「は、ジーニーをですか……?」
困惑するドラドの横では、期待に目を輝かせたジーニーが女神を見るかのような目でシュリーを見ていた。
「王妃様……約束を覚えていてくれたのか!」
「勿論よ。ドラド、彼は役に立つはずよ。日程の相談をしてあげて頂戴」
「分かりました。確かにジーニーがいればより詳細な調査ができるかもしれません」
「うんうん、何をしに行くのか知らないが、僕に任せてくれ」
調子良く笑うジーニーとドラドが去って行くのを見届けながら、シュリーは肩をすくめた。
「それにしても、私の夫を騙そうだなんて。ジーニーには困ったものですわ。あの性格はそう簡単には変わらないのでしょうね」
やれやれと首を振るシュリーは、呆れたように冷めた茶に口を付けた。細い手首に通された金の腕環が光を反射する。
その様子を隣で見ていたレイモンドはふと、妻や釧の皇太子、そして先程のジーニーにとある共通点があることに気付いた。
「ふむ。そういえば、そなた達……釧の者達は皆、左手に腕環を着けているのだな」
シュリーが嫁いで来た当初から着けていた腕環を見遣りながらレイモンドがポツリと呟けば、顔を上げたシュリーは自らの左手を見下ろし楽しげに微笑んだ。
「他国の者には馴染みのない風習でございましょうね。この腕環は、私の祖国である釧の名の由来でもありますのよ」
「名の由来……?」
カップを置いたシュリーは、外した腕環を夫へと渡した。
「釧とは、釧とも言いまして、腕環を指す古い言葉ですの。建国神話には創造の二神が釧を交わし国を造ったとあり、釧の宮廷では身分を示す道具として装着が義務付けられているのです」
「ほう。興味深い文化だな。身分を示す、とはどのように使い分けされているのだ?」
いつかも間近で見たことのある金の腕環を眺めながらレイモンドが問えば、シュリーは悪戯をする子供のように笑った。
「腕環の素材や色、形、彫刻によって身分が異なるのですわ。例えば兄様が着けている銀玉瑞祥釧は皇太子の証。ジーニーが着けている一玉の琥珀釧は彼の生家金家の跡取りの証。そして私が持つこの金玉四獣釧は、国家の最高権力者……本来であれば皇帝の証とされる、釧の国宝なのです」
「……は?」
腕環を持ったまま固まった夫を見て、シュリーはクスクスと楽しげな笑い声を漏らした。
「国宝? 皇帝の証? それをどうしてそなたが……」
「少々、父に腹が立ったことがございまして。父が後生大事にしていたこの腕環を、私の元に来るようあれこれ手を回して仕向けたのですわ」
ニヤリと悪い顔で美しく笑う妻を見て、レイモンドは苦笑を漏らした。
「そなたはまったく。いつぞやは、この腕環のことを釧では平凡なものだと言っていたではないか」
「皇帝など私に比べれば平凡な存在ですもの。それを象徴するその腕環もまた、平々凡々に変わりありませんわ」
実の父親を鼻で笑うシュリーを見て、レイモンドは柔らかく目を細めた。
「傲慢だな」
「あら。私のシャオレイは、私のそういうところもお好きなのではなくて?」
「勿論だ」
夫の真っ直ぐな瞳に気を良くしたシュリーは、釧の腕環について更に説明を始めた。
「こういった金属製の釧は一部の高貴な者にしか許されないのですわ。後宮では身分の低い者は組紐でできた釧を着けたり、紐に数粒の玉を通したりしておりますわね。同じ紐釧でも色や素材がその者の所属を示すのです。他にも、この腕環自体に呪術が込められたものもございます。例えば宦官が着ける黒蛇釧には……」
と、そこで。機嫌良く説明していたシュリーの言葉が止まる。
「シュリー? どうした?」
妻の様子がおかしいと気付いたレイモンドがすかさず呼び掛けると、シュリーは顔を上げて夫を見た。
「私としたことが。どうして思い至らなかったのかしら」
シュリーが思い出したのは、つい先日のとある違和感だった。シュリーの為に扉を開けたランシンは、利き手の左手ではなく、右手を使っていた。些細な違和感であれど、見逃していいものではなかった。
「陛下、急ぎランシンの元へ向かいましょう」
「ランシン? ランシンがどうかしたのか?」
レイモンドの腕に縋ったシュリーは、眉を寄せる夫へ向けて静かに口を開いた。
「早くしないと、手遅れになりますわ」
『何をしているの、兄様』
ランシンを見付けたシュリーとレイモンドは、ランシンに詰め寄るような体勢の紫鷹を見て割り入るように声を掛けた。
『……何だ、気付いたのか?』
ランシンから離れた紫鷹が舌打ちするのを無視して、シュリーは自分から目を逸らすランシンの前に立った。
「ランシン。左袖を捲りなさい」
「……」
シュリーに命じられ観念したランシンが、そっと長い袖を捲った。
「ッ!?」
露わになった腕を見て、レイモンドが思わず息を呑む。
いつも長い袖に隠れていたランシンの左腕は、手首から這い上がるようにしてグルグルと巻き付いた黒い腕環によって締め上げられ、青紫色に変色していた。
「これはいったい……」
『それなりに進行しているな。もう時間がないんじゃないか』
驚くレイモンドの隣で、刺々しく紫鷹が呟いた。黒い腕環は蛇のように手首から二の腕に掛けてを痛々しく締め上げている。
「何故言わなかったの?」
「……」
シュリーの問いに、ランシンは黙り込んだ。
「このまま黒蛇釧が左腕を伝って心の臓に届けば、お前は死ぬのよ?」
釧の宦官ーー特に皇帝の身の回りを世話する高位の宦官は、宦官の身になる時にこの黒蛇釧を装着させられる。
釧であり鎖でもあるこの腕環には古代の呪術が込められており、皇帝の命令に背けば腕を締め上げ戒めて、それが広がれば命を落とすように呪いが掛けられている。
絶対的な皇帝の手先を作り、裏切りを防止するための手枷。その呪いの効力が、少しずつランシンの命を蝕んでいた。
「娘娘、どうかこの通りです」
跪いたランシンは、痛々しい左手を上げて右手と合わせ、シュリーに向けて拱手した。
「私のことをお見捨て下さい」




