王妃の異能
「まったく、そなたには驚かされてばかりだ……」
レイモンドが首を振ると、シュリーを女神の如く崇めるマイエを見送ったシュリーは、大きな黒い瞳で夫を見た。
「あら。私、呆れられるようなことはしておりませんわ。全ては陛下の為でございますもの」
「私の為だと?」
「左様ですわ。服飾職人であるマイエをこちら側に取り入れたことには意味がありましてよ。彼女達は流行を作り出す存在ですもの。私の側に置き、私が流行の発信源となれば、王妃としての格が上がりますでしょう? そうなれば陛下の名声も自ずと高まりますわ」
いったいどこまで見越しているのか。まだ出逢って一日しか経っていないというのに、レイモンドは妻の底知れない才覚に末恐ろしさすら感じた。しかし、だからと言って妻を厭う気など微塵もなく、寧ろ自分の為にアレコレと考え、動き回る彼女が好ましくて堪らなかった。
「さて。お次は礼儀作法ですわね。先程マイエから、この国の夜会で最も重要な作法はダンスだと聞きましたわ」
やる気に満ち溢れたシュリーを見て、レイモンドは不安げに妻を見た。
「シュリー、ダンスは流石に難しいのではないか? いくらそなたでも、夜会まであと数時間しかない。異国人のそなたがダンスを踊れずとも、誰も文句は言わないだろう」
この国の作法など知らない妻を心配したレイモンドだったが、当の妻はそんな夫に向けて堂々と胸を張った。
「それでは完璧なお披露目になりませんわ。私は陛下の妃として、貴方様の完璧な妻になりたいのです。どうぞ私にお任せ下さいませ」
そして軽やかに身を翻すと、ふわりと舞った袖の間から、壮絶な美しさを撒き散らして微笑んだ。
「私、舞には多少の心得がございますの」
「男女が手を取り合って、あんなに密着して踊るのですか? なかなか破廉恥ですこと」
レイモンドの腕に腕を絡めながら、扇子で口元を隠したシュリーは眉を寄せた。
国王夫妻の前でダンスの手本を見せているのは、初老の侍従とレイモンドの乳母も務めた世話役のドーラだった。熟練とはいえ、決して軽やかとは言えない二人が手本役をしているのには、少し訳がある。
と言うのも、レイモンドには信頼できる家臣がいないのだ。下手に詮索され、異邦人の王妃がコソコソとダンスの練習をしているなどと、夜会前に妙な噂を立てられては堪ったものではない。
そこで、数少ない信頼できる者であるドーラを呼び、レイモンドが相手役となって手本を見せようとしたところで、シュリーからとても冷ややかな声が掛かったのだ。
「陛下、その手をどうする気です? まさか、私の目の前で他の女の手を取る気ですの? そのようなことをして良いとお思いでして?」
「いや、これは……」
ただの礼儀作法なのだが、という言葉は、レイモンドの口の中で霧散した。
「私の国の、前の前の王朝の時代に女帝がおりましてね。その女帝は聡明でしたが大変気性が荒く、恋敵の手足を切り落として酒甕に漬け込み、苦しむ様を一晩中眺めて楽しんだという逸話がございますのよ。陛下、本当に私の目の前で私以外の女の手を取る気なのでございますか?」
満面の笑みで微笑むシュリーを見て、レイモンドは震え上がるドーラから急いで距離を取り、寡黙で仕事のできる侍従を呼び付けて相手役をさせたのだった。
多少足取りが重くとも、ふくよかなドーラに痩身の侍従が振り回されていようとも、経験豊富な二人のダンスを見ていたシュリーはふむふむと頷く。
「舞踊と道教の禹歩を合わせたような動きですわね。上半身より下半身の動きが重要なのかしら。女性がくるくる回るのは、ドレスの裾を広げて優雅に見せる為ですの?」
「よく分からないが、ドレスの裾がヒラヒラと舞う様は美しいとされている」
「成程。だいたい分かりましたわ。今の動きをもう少し軽やかに、優雅に踊ればよろしいのですわね? 陛下、お手合わせ頂けますか?」
「なに? もう良いのか? まだ最後まで踊り切ってすらいないだろう」
「充分ですわ。大事なのは足運びと、相手と呼吸を合わせることでございましょう? このような舞踏は初めてですが、陛下とであればとても楽しく舞えると思いますわ」
悪戯な表情で微笑む妻を見て、レイモンドはフッとつられて笑みを漏らし、シュリーの手を取った。細い手を握り、細い腰を支えてステップを踏み出すと、シュリーは全く危なげもなくレイモンドの動きに合わせて足を踏み出した。
そのあまりの滑らかさ、迷いのなさ、正確さにレイモンドは目を瞠る。
「本当に……初めてなのか?」
「こういった他者と手を取り合うダンスは初めてですが、コツさえ掴めばどうとでもなりますわ」
そう笑って大胆にターンを決めたシュリーを見て、レイモンドは自分の妻がやはり只者ではないことを、改めて実感したのだった。
ダンスの練習も終え夜会の準備をしたシュリーは、艶やかに結い上げた黒髪を金の簪で仕上げ、愛らしい化粧ではなく、目を切長に見せる大人っぽい化粧を施してレイモンドの前に立った。
昼に選んだ衣装が、揃いの色のレイモンドの盛装とよく合っている。それぞれに施された金の蘭が上品に光を反射していた。
「そなたは元から美しいが、今宵は殊更に輝いているな」
妻の美しさに感嘆する夫を見て、シュリーは嬉しげに微笑んだ。
「陛下の為に着飾ったのです。思う存分愛でて下さいまし」
美し過ぎる妻に可愛らしいことを言われて、レイモンドは満更でもなさそうに頬を掻いた。
照れた時の夫の癖を見逃さなかったシュリーは、長い袖で口元を隠してクスクスと笑う。
「そろそろ行こうか」
レイモンドが差し出した手に手を乗せて、シュリーは戦場に赴く時と同じくらいの高揚を感じながら会場へと向かった。
しかし、会場に近づくにつれてレイモンドの足取りが重くなる。それに気付いたシュリーが足を止めると、立ち止まったレイモンドは虚な目をしていた。
「陛下? いかが致しましたの?」
「私は……自分が情けない。名ばかりの王でしかない私には、妻であるそなたを守る力すら無い。私はそなたに見合うような夫ではないのだ」
急な夫の落ち込みに驚いたシュリーは、夜会の会場から聞こえるゲラゲラと下品な貴族達の笑い声に気付いた。よく聞けば、二人のいる所まで異邦人の王妃を馬鹿にするような言葉が届いている。それが聞こえたのか、シュリーの手を握り沈んでいくレイモンド。表情を翳らせていくその様子に、これまで彼が貴族達からどんな扱いを受け、独りで耐え忍んできたか垣間見た気がしたシュリーは、そっと夫に寄り添った。
「陛下、どうかお顔を上げて下さいませ」
言われた通りに顔を上げたレイモンドは、この世のものとは思えぬ程に美しい姿の妻が、うっとりと自分を見ていることに気付く。
「どうです? 貴方様の目の前にいる女は、世界一美しいと思いませんこと?」
「ああ。確かに」
心から素直に頷いた夫を熱く見つめるシュリーは、甘い声で嘯いた。
「この、世界一美しい女は貴方様の妻でございます」
その言葉に、レイモンドは目を瞬かせる。
「……ああ、そうだな」
キョトンとした夫へと、穏やかな声で言い含めるシュリー。
「私の国には、古い言葉で〝比翼連理〟と言うものがございますの。『天に在りては願わくは比翼の鳥と作らん、地に在りては連理の枝と為らん』私達にぴったりの言葉ですわ」
「それは……どういう意味なのだ?」
言葉の意味が全く分からず素直に問うレイモンドを、心から慕わしいと思いながら。シュリーは夫婦の結び付きを表すその言葉についてレイモンドに教えた。
「比翼の鳥とは、目も翼も一つしかなく、雌雄で寄り添わねば飛べぬ鳥です。連理の枝とは、元は別々の二つの木が、伸びた枝を絡めて一つの木目のようになることです。天に在っても地に在っても、寄り添い合い決して離れられぬ夫婦を指す言葉でございますわ」
「寄り添い合い、離れられぬ夫婦……か」
「貴方様に足りないのは、力ではございません。自信です。貴方様はこの国の正当な国王ですわ。そして世界一美しいこの私の夫であるのです。どうぞ堂々と、ご自身を誇って下さいませ。貴方様が輝かねば、片翼たる私の輝きも半減してしまいますのよ」
自分を諌める妻を見遣ったレイモンドは、シュリーの瞳が思いの外優しいことに気付いた。
「……そなたとなら、空を自由に飛ぶことも、大地に深く根を張ることも、容易いのであろうな」
「うふふ。勿論ですわ。私のシャオレイが望むのなら、私はどんなことでも叶えて差し上げます」
強く絡まる指先。片目片翼の鳥も、枝を絡ませ合う木も、レイモンドは初めて知った。暗くモノクロだったレイモンドの世界が、真っ赤な衣装で嫁いできたシュリーのお陰で、痛烈なほど鮮やかな色彩に彩られていく。
顔を上げたレイモンドの目には、強い力が宿っていた。
「行こうか、シュリー」
「はい、レイモンド陛下」
国王夫妻が扉の前に立つと、その登場が夜会の会場中に告げられたのだった。