天才と天災
見たことがあるような、ないような。よく知らない令嬢が躍び跳ねながらとても奇妙なことを口走っている。
何が起きたか分からず耳障りな声に眉を顰めたレイモンドがふと感じたのは、凍えるような冷たさだった。
抱き寄せていたシュリーから、異様な冷気が発せられている。
「シュリー……?」
冷たい。あまりにも冷た過ぎる。指先から這い上がる凍り付くような冷たさにハッとしたレイモンドが呼び掛ければ、美貌の王妃は氷のように冷たい瞳を例の令嬢に向けていた。
「……她是誰?」
「シュリー、落ち着いてくれ。そんなに体を冷やしたら……」
「我不能静下心来!」
王妃が異国の言葉で叫んだ次の瞬間には、式典の会場はパニックに陥った。
晴れ渡っていた王都の空に突如として暗雲が立ち込め、耳を劈くような激しい雷鳴と共に目が眩む程の稲妻が走ったのだ。
何処からともなく悲鳴が上がる。
暗闇と轟音と落雷。それらが交互に王宮を襲い、その衝撃であちこちの調度品は破裂して散らばり、窓ガラスは割れ、地面は激しく揺れた。立っていることもままならない程の猛烈な雨と暴風が割れた窓から吹き荒れ、仕舞いには大きな地鳴りまで。王宮の豪華な床にはビキビキとヒビが入り、まるでこの世の終焉のような有様に、あちこちから恐怖に泣き叫ぶ声が聞こえている。
先程までの和やかで煌びやかだった平和な式典は、一瞬にして地獄と化した。
「なに、なに!? 何なのよー!?」
風に煽られ雨に打たれ、調度品の破片が降って来たかと思えば地割れに躓きドレスは破れ、雷がすぐ近くに落ちて髪の先が焦げて……と、まるで見えない何かに揉みくちゃにされているかのようなシャーロットは、金切り声を上げて逃げ惑っている。
「シュリー!!」
そんな阿鼻叫喚の中、レイモンドは氷のように冷え込んでいく妻の体を抱き締めた。
シュリーはそこに立ってはいるが、その瞳には何も映っておらず、ただただ莫大な力を発するだけで、我を忘れてしまっているようだった。
触れたところから凍て付いていきそうな程に冷たいシュリー。その魔力の圧でレイモンドの頬には傷ができたが、そんなことはどうでも良かった。この悲惨な状況がシュリーの心境の現れかと思うと、レイモンドは胸が苦しくて居ても立っても居られなかった。
頭のおかしな令嬢のせいで、愛する妻がこんなにも傷付いてしまっている。言いようのない怒りを覚えながらも、レイモンドは何も見えず聴こえていない無反応な妻を、強く強く抱き締め何度もその名を呼び掛けた。
我を失いこの惨状を引き起こしていたシュリーは、レイモンドの体温を感じて何も映さない夜闇のようだった目を瞬かせた。僅かに光を取り戻し揺れた瞳が、自らの霊力によって傷付いた夫の血を見付け、シュリーはやっと我に返った。
「シャオレイ」
夫に抱き締められたその状態で辺りを見回したシュリーは、あまりの怒りとショックで自分の力が暴走していることに漸く気付く。
「……あらあら。少々やり過ぎてしまいましたわね」
王妃の呑気な声が響いたかと思うと、次の瞬間には何もかもが元通りになっていた。
割れたガラスは元に戻り、散らばった調度品は品良く元の位置に収まり、床のヒビはくっついた。怪我をした者も服や髪が濡れて乱れた者達も全てが何事もなかったかのように元の状態に戻っていく。
レイモンドの頬にできていた傷も綺麗に塞がっていた。
今の地獄絵図は夢だったのかと、誰もがぽかんとする中でただ一人。例の令嬢だけは、故意か態とか意図的か、びしょ濡れで髪はグチャグチャ、ドレスは大きく裂けたボロボロの状態で会場の中央に倒れ込んでいた。厚化粧が雨に濡れてデロデロと溶けたその顔は、とても見られたものではなかった。
「何をしている、早くあの女を捕らえろ」
周囲が呆気に取られる中で、国王レイモンドから今まで聞いたこともないような冷たい声が出る。想像以上の大惨事に唖然としていたマドリーヌ伯爵は、慌てて衛兵達と共にボロボロのシャーロットを縛り上げた。
「ちょっと! 何するの!? レイ様! コイツらを何とかしてよ!」
悲鳴じみたシャーロットの懇願に、レイモンドは汚らしいものを見るような目で顔を顰めた。いつも優しげな表情を見せるその顔には、不快極まりないと書いてあるかのようだった。
「いったいこの女は何処の令嬢だ? 国王である私に対する不敬、侮辱。公の場で有りもしない妄言を吐き、更には私の言葉を遮るという愚行。何よりも私の愛する王妃を傷付けるようなその言動。決して赦せない。マドリーヌ伯爵、素性を調べて家門ごと厳罰に処せ」
「はっ、仰せのままに」
温和な国王の鋭い命令に、伯爵は深く礼をした。
「何を言っているの!? 私は新しい王妃……ッンンー!?」
「どういうことだ!? 国王陛下は私の娘に夢中なはずでは……ッンンー!?」
煩い口を塞がれて、シャーロットは一瞬にして惨めに取り押さえられた。ついでとばかりにその隣で恐ろしいことを喚き出したエクレイア子爵も縄を打たれて床に押し付けられている。その様子を見届けるわけでもなく、シュリーは夫に背を向けた。
「……私、何だか疲れましたわ。式典の途中ですけれど体調が悪いので今日はもう休ませて頂きますわね」
「シュリー! 待ってくれ!」
一人で行こうとしたシュリーの手を慌てて掴んだレイモンド。その体に体温が戻っていることにホッとしつつも、振り向いた妻の顔を見てレイモンドは目を見開いた。
「少し、一人にして下さいまし」
「…………ッ」
顔だけ向けたシュリーの黒曜石のような瞳が、レイモンドを映すことはなかった。目が合わず逸らされた視線。
いつも微笑を浮かべながら楽しげに見つめ返してくれる何よりも慕わしいその瞳が、今は全く自分を見てくれない。
鋭いナイフで刺されたように、レイモンドの胸がズキンと痛む。
そのまま手を解いて去ろうとする妻を、それでもレイモンドは離さなかった。
「陛下……?」
「……そのような顔のそなたを、一人にはしたくない。せめて部屋まで送らせてくれないか」
「シャオレイ……」
「どうか頼む、シュリー」
根負けしたシュリーは、夫のエスコートを受けながら歩き出した。
と、見慣れた衣装に身を包んだ集団の前まで来たシュリーは、その中の一人を見て足を止めた。
「ジーニー」
「……この状況で僕に話し掛けるのかい?」
釧の使節団の中に立っていた金公子ことジーニーは、面倒臭そうな顔をしながらも国王夫妻の前に立った。因みにシュリーの兄である皇太子は、妹の暴走に驚いて尻餅をついたままだ。
「貴方、昔から人豚を作ってキョンシーにしたいと言っていたわよね」
「ああ。それがどうしたんだ……ってまさか君」
「あそこにいる雌豚、貴方に任せるわ」
ボロボロな上に縄で縛られた悲惨な有様の令嬢を指差して、シュリーは何の感情もなくそう言った。
「本気かい? 本当にいいのかい?」
興奮気味のジーニーは、嬉しさが抑えられていないようだった。
「ええ。やっておしまいなさい」
「うわぁ、夢みたいだ……! こんなに楽しいことがあっていいんだろうか! 準備が大変だなぁ。何から用意しようか」
ジーニーは、子供が見れば確実にトラウマになりそうな顔でニンマリと笑った。




