王妃の才器
皇太子一行の案内役を任されたリンリンとランシンは、挨拶のため頭を下げたその瞬間から、目の前に飛び出して来た金黙犀に口説かれていた。
『おお、凛凛に藍芯じゃないか! 二人とも相変わらず可愛いな。あんなに人遣いの荒い主人は見限って、早く僕のところにおいで』
「「…………」」
会う度に絡んでくる公子に特に反応を返すこともなく、二人は黙々と与えられた仕事を熟した。
その様子をヤレヤレと呆れた目で見遣りながらも、皇太子は顔見知りの宦官に呼び掛ける。
『藍芯よ』
『はい、皇太子殿下』
素直に跪いた眉目秀麗な宦官を見下ろし、皇太子は懐から何かを取り出した。
『其方に陛下から書状を預かっている。忘れているわけはないであろうが、其方の主は朝暘公主ではない。釧の皇帝陛下である。己の役割をよくよく考えろ。宦官である其方は、紫蘭や凛凛とは違い、陛下に逆らえば命は無いのだからな』
押し付けられた書状を受け取ったランシンは、無言のまま頭を下げたのだった。
国王レイモンド二世の即位一周年を祝う宴が近いこともあり、その準備のために国王の執務室に出入りしていたレイモンドの側近、ガレッティ侯爵、マドリーヌ伯爵、マクロン男爵は、突如押し掛けて来た釧の皇太子の目的を聞いて静かに怒気を漂わせていた。
「やはり……早々に追い出すべきではありませぬか」
「左様。我が国の王妃を連れ去ろうとは。そのようなこと、全国民が許しませんでしょう」
「今やセリカ王妃は我が国の女神。決して釧に帰すわけには参りません」
何の特産もない、西洋の小国の一つでしかなかったアストラダム王国は、セリカ王妃が嫁いできたこの一年にも満たぬ間に目覚ましい発展を遂げた。
釧のシルクや陶磁器が人気を博していた西洋諸国の中で、初めてシルクや磁器の生産を成功させ、貧民街を立て直し、様々な事業を拡大させて国全体の景気を爆発的に上昇させた王妃のその手腕は神業であり、そのカリスマ性で社交界を纏め上げ、国民の絶大な人気と信頼を得る前代未聞の王妃。
そんな王妃を、今更返せと言われたところで返せるはずもない。
例え釧との全面戦争になろうとも、絶対にセリカ王妃を守り抜く。そんな気迫を滲ませる面々に、レイモンドは苦笑を漏らすばかりだった。
「そこまで深刻に考えなくてもよい。何より王妃自身が釧に帰る気はないのだ。王妃を無理矢理どうこうしようとする者はいないであろう」
「それは……」
セリカ王妃が様々な知識と能力を有していることは既に知られており、アストラダム史上稀に見る魔力を持つ魔塔主のドラド・フィナンシェスを弟子にする程の魔術の才や、武術に定評のあったアルモンド卿をいとも簡単に制圧した強さは国民のよく知るところとなっていた。
それらは伝説になりつつあり、一部の噂では空を飛べるだとか、千里眼を持っているだとか、荒唐無稽な話まで出回っている程だった。
そんな王妃が、釧ではなくアストラダムを選んでいるのだ。考えてみれば、何も心配する必要がないのではないか。
釧の皇太子が力尽くで連れ出そうとしたところで、返り討ちに遭うのが目に見えている。
そこまで考えたレイモンドの側近三人は、取り敢えず胸を撫で下ろした。
セリカ王妃がアストラダムを見限ることは絶対に有り得ない。何故なら、この国の国王は他でもないレイモンド二世その人だからだ。
周囲が砂糖を吐く程に甘ったるくベタベタに愛し合っている国王夫妻を引き離そうものならば、怒り狂った王妃が世界を破壊しかねない。そう思わせる程度には、あの王妃はこの国王に心底陶酔し惚れ込んでいるのだ。
つまり、レイモンドが国王である限り、セリカ王妃がこの国を去ることは有り得ない。
「どうやら、そこまで気にする程のことではないようですな」
「確かに。王妃のご親族として、陛下の即位一周年の式典に参列して頂くと思えば、ただの国賓に過ぎません」
「そういえば、釧からの突然の訪問ではありましたが、何故陛下は事前に準備を進められていたのですか?」
素朴な三人の疑問に、レイモンドは嬉しそうに答えた。
「ああ、それは。王妃が占いで言い当てたのだ。釧から客人が来ると」
「なんと! 王妃様は未来を見通す才能までお有りなのですか?」
「王妃様が千里眼を持つと言う噂も頷けますな」
「やはり、王妃様がいれば何も恐れることはないようです」
表情を明るくさせた三人は、釧の厄介な客人のことは放っておくとして、検討すべき式典の話し合いを始めたのだった。
同じ時刻、ガレッティ侯爵邸にて、ガレッティ侯爵夫人、マドリーヌ伯爵夫人、マクロン男爵夫人が神妙な面持ちで顔を突き合わせていた。
「……困りましたわねぇ」
「本当に。困りましたわ」
「私も困惑しております」
三者三様に頭を抱えた夫人達は、優雅な仕草でセリカ王妃がアストラダムに持ち込んだ工芸茶を飲むと同時に溜息を吐いた。
「シャーロット・エクレイア子爵令嬢ですか」
「エクレイア家は王妃様がデビューされた昨年の社交シーズン、王都に来ていなかったのですわ」
「ですから王妃様のことをよくご存知ないのでしょうね……」
夫人達の話題に上っているのは、このところ社交界の片隅をほんのちょっぴり賑わせている人物だった。
「王妃様の気品、美貌、聡明さ、そして何よりあの恐ろしさを知る者ならば、決してあのような軽率な言動はしないでしょうに」
「あの噂がもし王妃様のお耳に入ったら……」
「考えただけで卒倒してしまいそうですわ」
「やはり、ここは何としても王妃様には隠し通すのです」
「そうですわね。他の貴婦人方にも協力をお願い致しましょう」
「王妃様を知っている者であれば、ことの重大さを理解して下さいますわ」
夫人達を悩ませている話題の令嬢の問題行動は、ある意味では、釧の皇太子一行の来訪よりもずっとアストラダム王国を危険に陥れる行為だった。
「……まさか。自分を陛下の恋人だと吹聴して回るだなんて。命知らずにも程がありますわ」




