才子佳人
自分はいったい、何を見せられているのか。
釧の皇太子紫鷹は、異国の地で頭を抱えていた。
目の前で異国の王とイチャコラする妹を見ているだけでも相当な精神的苦痛を強いられていると言うのに。二人の会話を聞いていた通訳によれば、国王の背後に飾られた目障りな書は、その内容を伏せられたまま妹から国王レイモンドへ贈られたものらしい。
内容を知らなかったのであれば、妻からの贈り物を大事に飾るのも頷ける。実際に釧の者でなければ何が書かれているかは分からないだろう。
意地の悪い妹の悪戯に翻弄され騙された国王も気の毒だが、悪趣味な書をデカデカとこんな目立つ場所に掲げ続けたのは自業自得。どうやら書の意味を国王に教えたらしい妹を見て、そんなものを堂々と飾っていた羞恥に国王が激怒し二人の間に亀裂でも入れば、と期待した紫鷹は、とんだ思い違いをしていたと気付く。
妹から書の真実を告げられたはずの国王レイモンドは、その直後から何とも言えない所謂〝デレ〟っとした顔で満更でもなさそうに口元をニヤけさせているのだ。
何故だ。何故そうなる。あれがもし自分の立場だったら。羞恥で憤死寸前になり、怒り狂って書を破り捨てるくらいのことはする。なのに何故。あの男は書を外そうとしないばかりか喜んでいるのだ。まさか書の意味を知ってもそのまま飾り続ける気なのか? 正気か? 紫鷹には到底理解できなかった。
……あの国王の精神は鋼なのか? はたまた、余程肝が据わっているのか? それともただの恥知らずな馬鹿なのか?
分からない。分からないからこそ、紫鷹は国王レイモンドが得体の知れない恐ろしい男に思えてきてならなかった。
そもそも、釧側は認めていないとしても。あの妹の夫を務めていること自体が異常だ。その能力の高さ故に他者を見下し、決して心を許すこともなく。いつも兄である紫鷹を虚仮にしては嘲笑ってきた性悪な妹。
そんな妹をあんなに愛おしげに見つめているばかりか、妹の方からも甘い眼差しが国王に向いている。そんな顔をする妹は初めて見た。釧ではいつも退屈そうに遠くを見ていたあの妹が。とても活き活きと目を輝かせている。更にはあんなに気安く名まで呼ばせているとは。いったいこの男は、妹に何をしたのか。
釧の至宝とまで言われ、女神・嫦媧の生まれ変わりと謳われ父である皇帝からの寵を一身に受ける朝暘公主。そんな妹をいとも簡単に手懐けているレイモンドはどう考えても普通ではない。
もし仮に、妹が本気で国王に心を奪われているとすれば、色んな意味で恐ろし過ぎる。
ゾッと背筋を凍らせながらも、紫鷹はしかし、こんなことで怯んではいられなかった。
父である皇帝に約束した手前、紫鷹は何としても妹を釧に連れ帰らなければならないのだ。その為にはまず、この厄介で得体の知れない国王と妹の仲を引き裂かなければ。
とてもとても不快極まりない二人の甘い空気の中に押し入ろうと意を決した紫鷹は、次の瞬間。突如こちらを振り向いた国王レイモンドの言葉に思考を停止させた。
『義兄上殿には感謝する』
釧の言葉で正面からそう告げられ、紫鷹はぽかんと口を開いた。
『…………は?』
『義兄上殿が釧より来なければ、照れ屋な王妃がこの書の意味を教えてくれることもなかったかも知れぬ。本当に遠いところを来て頂いて良かった』
意味が分からない。
誰が照れ屋だと?
まさか。この国王の目には、先程から扇子で口元を隠し、小馬鹿にしたような目で兄である自分を見下ろすあの性悪女がそういう風に見えているのか?
駄目だと分かっていながらも、紫鷹は満面の笑みのレイモンドに完全に毒気を抜かれてしまった。
特に強そうなわけでもない小国の国王に過ぎぬ男。しかし、何故だかこの国王には勝てる気がしない。
嫌味の一つも思い浮かばず、ただ黙り込む紫鷹。そんな紫鷹へと、レイモンドの方から言葉が投げ掛けられる。
『それにしても、義兄上殿……いや、釧国皇太子殿下。王妃は正式な手筈を経てアストラダム王国に嫁いで来た。何故、今更婚姻が認められないと言う話になるのだ?』
このまま有耶無耶に追い返すのではなく、ちゃんと自分を釧の皇太子として扱い、話を聞いてくれようとするレイモンド。その態度に、紫鷹はまた一つ何かが負けた気がした。
『……本来貴殿に嫁ぐ予定だったのは我等の妹、七公主であった。それをそこにいる三公主が勝手に身代わりとなったのだ。故にこの婚姻は無効だ』
「……それは本当か、シュリー?」
夫からの問い掛けに、シュリーは肩をすくめて答えた。
「ええ。妹の七公主には既に想いを寄せ合う殿方がいたのですわ。ですから私が身代わりになりましたの。ですけれど、もともとの話はあくまで釧の〝姫〟を陛下に嫁がせることですもの、私では駄目と言う話にはなりませんわ。それに婚姻の儀は滞りなく済ませましたし、私の純潔は陛下に捧げました。そして私は今や、紛う事なきこの国の王妃です。この婚姻が無効と言う釧の主張など無視してしまって問題ございませんわ」
「私も今更そなたを離すことなどできない。いや、絶対に離したりしない」
愛する夫から真剣な顔でそう言われれば、シュリーも悪い気はしない。
「陛下……!」
くどい程の甘ったるい空気に、言語は分からずとも二人が何を言い合っているのか察した紫鷹。無理矢理その空気を断ち切る為に、紫鷹はここで切り札を使うことにした。
『紫蘭! これ以上のおふざけは父上も許さぬであろう。我等と共に直ちに釧に帰るのだ! そもそもお前には許婚がいるではないか!』
「…………許婚?」
それを聞いてグッと眉間に皺が寄ったレイモンド。対するシュリーは余計なことを言い出した兄へ向けて舌打ちをした。そうして悲しげな表情の夫に身を寄せ弁解する。
「違うのです陛下。あれは父である皇帝が勝手に一人で盛り上がっていただけで、私の元に正式な縁談話が来たことは一度もないのですわ」
実際には縁談の話が出そうになる度にシュリーが力尽くで揉み消してきたのだが、皇帝がシュリーに優秀な子を産ませる為に名家の跡取りを当てがおうと画策していたのは事実だった。
「その男と私の間には何の情もございませんわ。私が生涯で心を惹かれたのは貴方様ただお一人です。ですからどうか、そのような顔をなさらないで下さいまし」
「…………」
尚も複雑そうな顔の夫に必死で言い募るシュリーへ向けて、紫鷹は高らかに言い放った。
『お前を連れ戻すため、今ここにお前の許婚も来ている。金公子! 貴殿からも何とか言ってやってくれ!』
しかし、背後に控える使節団に向かって呼び掛けた皇太子の声に応える者は一人もいなかった。
『……金公子?』
ずっと頭を下げ拱手の姿勢を貫いていた使節団の面々が動揺してキョロキョロと辺りを見回す。その中で一人だけ、ピクリとも動かない男がいた。
『金公子! おいッ! こんなところで寝るな! 金黙犀! 起きろっ!!』
異国の国王と自国の皇太子が面会する場で立ったまま居眠りしていた釧の貴公子金黙犀は、皇太子に揺さぶられて漸く目を開けた。
『……ああ、話は終わりました?』
呑気に欠伸をしながら目を擦る公子に、皇太子紫鷹は今度こそ血管がブチギレそうになるのだった。




