猪口才
※『』は釧語、「」はアストラダム語です
『我は釧国皇太子の座を預かる雪紫鷹と申す。アストラダム王国国王レイモンド二世陛下に拝謁致す』
シュリーの占い通りにアストラダム王国にやって来た、釧の皇太子であるシュリーの兄とその一行。事前にシュリーから恐らく兄である皇太子が来るだろうと聞かされていたレイモンドは、一切動揺することなく通訳も待たず釧の言葉で気安げに異国の皇太子に応えた。
『遠路はるばるよく来て下さった、義兄上殿』
突然の釧からの訪問を予め知っていたかのように迎え入れ、釧の言葉で挨拶を返して来た国王レイモンド二世に面食らいながらも。見栄っ張りな紫鷹は必死に動揺を腹の奥底に隠して高慢な態度を貫こうとした。
しかし、紫鷹が顔を上げた瞬間。国王レイモンドの背後にデカデカと掲げられた書が目に入ってしまい、言葉を失ってしまう。
そこには明らかに妹の手と分かる達筆で、巫山戯ているとしか思えない文言が記されていたのだ。
【我愛你小蕾】
(愛してるレイちゃん)
……馬鹿にしているのか。
はたまた、これは新手の嫌がらせか。こちらの動揺を誘う姑息な手段か。なんと猪口才な。そんなものに嵌められて堪るものか。
紫鷹は、拳を握り締めて必死に理性を総動員し冷静さを取り戻すと、何も見てはいないと自分に言い聞かせて頭に血が昇るのを何とかやり過ごした。カッとなった心に平静を取り戻し、目線を極力書から避けつつも、頑なな態度で国王レイモンドに向かい改めて口を開く。
『……貴殿に義兄と呼ばれる所以はない。我が妹にして釧の三公主、朝暘公主である雪紫蘭と貴殿との婚姻を、我が国は一切認めていない。故に三公主は我と共に即刻帰国する。我は釧を代表し、三公主を連れ戻しに参ったのだ』
あくまでも強硬な態度の皇太子に苦笑するレイモンドの横から、シュリーは扇子で口元を隠しながら呆れたような声を上げた。
『相変わらず面白味のないお方ございますこと、兄様。どうせ父上に言われて仕方なくやって来たくせに、私の愛する夫にしてアストラダム王国の国王陛下に対しその無礼な態度は何ですの?』
「こらこら、シュリー。義兄上殿をあまり刺激するな」
レイモンドがアストラダムの言葉で小さく妻に囁くと、シュリーも扇子の下から夫へ囁きを返した。
「ですけれど……シャオレイ。兄様は私と貴方様を引き離しに来たのですわ。ここは何としても追い返しませんと」
「そなたと引き離されるのだけは絶対に避けたいが、他でもないそなたの兄上ではないか。追い返すのはもう少し話を聞いてからでも良いのではないか?」
「陛下がそう仰るのなら……ですが。私達の仲を邪魔するのであれば、例え兄様であろうと容赦なく切り刻んで魚の餌にして差し上げますわ」
「シュリー……」
その物騒な内容とは裏腹に、ほんわかと呑気な空気の中で交わされる夫婦の会話。
しかし、その一部が耳に入った皇太子紫鷹は、アストラダムの言語を理解できずとも、とある部分に怒り狂い声を荒げた。
『なんと無礼な! 貴様ッ! たかだか小国の王の分際で我が妹の名を気安く呼ぶとは! 釧を愚弄するつもりか!? 朝暘公主・雪紫蘭の名を呼ぶことは父上ですら許されぬ禁忌だと言うのにッ!』
それまでの取り澄ました態度をかなぐり捨てて怒鳴る皇太子は、レイモンドが妻に呼び掛ける〝シュリー〟という単語が、妹の姓名である雪麗のことであると思い至り激昂したのだ。その様子にレイモンドは目をパチパチと瞬かせた。
「……そうなのか?」
驚いたレイモンドが隣に座る妻に問うと、シュリーは悪戯が成功した子供のようにクスクスと笑いながら頷いた。
「そうですわね。私は釧では三公主、朝暘公主、若しくは名の代わりの通称となる字、紫蘭と呼ばれておりますわ。名を呼ぶというのは相手の魂を支配していることと同義でして、大変な無礼ですのよ。高貴な者であればある程、その名を呼べるのは主君や親といった限られた者だけなのですわ。まあ、私は父である皇帝にさえ名呼びを許したことはございませんのですけれど」
「それをそなたは、出逢ったばかりの私に許したのか? 何故……」
「当然でございましょう。私の全ては陛下のものと申し上げたではございませんか。私の魂を来世まで縛り付けておいて、今更何を仰るのかしら、私のシャオレイは」
楽しげに笑う妻を見て、レイモンドは頰を掻いた。妻の名を呼ぶことが自分だけに許された特権だと知って、言いようのない愛おしさが込み上げてくる。
ケラケラと笑うその顔も声も可愛くて可愛くて仕方ない。今すぐにでも抱き締めたいが、鋭い義兄の視線が突き刺さり、ここが玉座の間であることを思い出す。
皇太子は、イチャイチャと桃色の空気を飛ばす二人を見て怒りに身を震わせていた。
『いい加減にしろッ! 紫蘭、これはいったい何の真似だ!? まさか本気でこんな小国の王如きに心を許したわけではあるまいな!? いつものくだらないお遊びで私を揶揄っているのか!?』
早口の釧語で捲し立てながら、皇太子はここに来るまでの父とのあれやこれも相まって、とうとう感情を爆発させた。
『そもそも先程から目に入るその巫山戯た書は何だ!? 目障りにも程がある! 馬鹿げたことをデカデカと書きおって!』
一度は飲み込み、見なかったことにしたはずの書が、イチャイチャする二人の背後に見えてどうにも我慢できず。紫鷹は指を差して国王の背後に飾られた書を睨み付けた。
「……? シュリー、義兄上殿は、あの書の何に怒っているのだ?」
息を切らす勢いの皇太子に首を傾げたレイモンドが問うと、可笑しさを隠し切れない様子でシュリーはクスクスと笑い出した。
「陛下は、釧の言葉を話せるようにはなりましたけれど、文字はまだ勉強しておりませんものね」
「ああ。しかし、あの書には何やら崇高な格言が記されているのではなかったか?」
書を贈られた時のことを思い出してレイモンドが目を瞬かせると、シュリーの笑みが更に美しく深まった。
「今の陛下でしたら、あの書を読み上げればその意味がお分かりになりますでしょうね」
そう言ってシュリーは、周囲の目など気にも留めず。隣に座る夫の肩に手を置き、その耳元で囁くように。背後に掲げられた書の文言を読み上げたのだった。




