愛才と愛妻
「…………ハッ!」
アストラダム王国国王レイモンド二世は、夜明け前の寝室で飛び起きた。
「んぅ……陛下? 如何なさいましたの?」
隣で寝ていたレイモンドの妻、セリカ王妃……釧の皇帝の三女にして朝暘公主の位を賜る雪紫蘭、名を雪麗ことシュリーは、眠そうに目を擦りながらその身を起こして夫に手を伸ばした。
「私のシャオレイは恐い夢でも見たのかしら?」
妻が頭を撫でてくれるのはそのままに、レイモンドはドクンドクンと煩い鼓動を落ち着かせようと息を吐いた。
「いや……。悪夢を見たわけではない。だが、何か途轍もなく嫌な予感がする」
ぶるりと震えた夫を見て、シュリーは目をパチパチと瞬かせた。
「まあ。陛下の嫌な予感は当たりますものね」
ふむふむと顎に手をやったシュリーは、思い付いたかのように笑みを見せた。
「シュリー、何処に行くのだ?」
するりとベッドを降りた妻の袖を引くレイモンド。その子犬のような様子に心臓を撃ち抜かれながら、シュリーは愛する夫からするりと袖を離す。
「すぐに戻りますわ。少々お待ち下さいまし」
「これは?」
すぐに戻って来たシュリーの手には、何やら細い棒の束があった。
「筮ですわ。私、占術にも多少の心得がございますの」
刺繍に舞に書に推拿に養蚕に陶芸に楽に料理に魔術に漢方に武術に仙術に医術に、と様々なものに〝多少の心得〟があるシュリーは、数多ある特技のうちの一つを夫に披露しようと準備を始めた。
「占術?」
「簡単な占いですわ。これは卜占の類になりますけれど、そうそう外れたことがございませんのよ」
白く細い手で器用に数十本の棒の束を操り始めたシュリーを見て、レイモンドは感心するように息を吐いた。
「そなたの所作の美しさはいつ見ても惚れ惚れしてしまうな」
息をするように吐き出される夫の褒め言葉にピクッとシュリーの手元が反応する。
「コホン。……陛下。優秀な私が手元を狂わせることは絶対にありませんが、陛下は時々思っていることを素直に話し過ぎですわ。あまりにも唐突なお言葉ばかりですと、完璧な私でも少々動揺してしまうことがございますのよ」
「そうなのか? すまない。そなたを見ているとつい賛辞が止まなくなってしまう」
ジャラ、っと再び手元を反応させた妻に構わず、レイモンドは真面目な顔で話を続けた。
「というか、最近気が付いたのだが。私はどうやら、そなたが何をやっても全てが好ましく見えてしまうようなのだ。どんな姿も麗しい、美しい、愛おしい、可愛い、慕わしい、愛くるしい、としか思えない。可能な限りの時間を費やしてそなたを見ていたい。これが惚れた弱みというやつなのだろうか?」
「……んんッ!」
とうとう手元を狂わせたシュリーは、バラバラと筮が散らばるのもそのままに、両手で顔を覆った。
「シュリー?」
「……お願いですから見ないで下さいまし」
顔を隠したまま体ごと外を向いた妻を、レイモンドは無慈悲に引き戻す。
「どうした? 大丈夫か?」
蝋燭の薄明かりにもハッキリと見て取れる程に赤くなったシュリーは、両手の間から小さく声を漏らした。
『……本当に質が悪いわ。この男は私を殺す気なのかしら』
このままでは心臓発作と呼吸困難で死んでしまう。本気でそう思ったシュリーが遥か異邦の母国語で唸れば、同じ言語が夫の口から返って来た。
『何を言うのだ。私を置いて死なないでくれ、親愛的』
「…………」
愛する妻の祖国の言葉だからとシュリーに隠れて釧の言葉を勉強していたレイモンド。その手解きをしたというシュリーの従者ランシンにまで嫉妬し、最近ではシュリーが自ら夫に釧語を教えていた。
教えることにさえ異常な才能のあるシュリーの助けもあり、元々勤勉なレイモンドは日常会話を問題なく話せる程度には釧の言葉を覚えてしまっていた。
つまり、シュリーの心の叫びが漏れ出た先程の独り言は、夫にバッチリ聞かれてしまったというわけだ。その上で甘い殺し文句がシュリーを襲う。
更に縮まったシュリーは、心配する夫を他所にシーツの中へと潜り込んだのだった。
「あらあら、まあまあ。面倒なことが起こりそうですわね」
気を取り直したシュリーが、再開した占いの結果を見てクスクス笑うと、レイモンドは興味深そうに妻の手元を覗き込んだ。
「どうだったのだ?」
楽しげな目をしたシュリーが顔を上げる。
「東方から招かれざる客がやって来るようですわ」
「……東方か。東方と言えば……」
「私の祖国、釧でございましょうね。そろそろ来る頃かと思っておりましたのよ」
さらりと言ってのけた妻の表情に何かを察したレイモンドは頬杖を突いて苦笑を漏らした。
「シュリー。そなた、祖国で何をやらかして来たのだ?」
何もかもお見通しな夫に微笑み返しながら、シュリーは胸を張った。
「大したことではございませんわ。ただ……そうですわね。これ程までに大切なものができると分かっていれば、もう少し穏便な方法を取っておりましたのに」
そう言ってシュリーは、夫の肩に頰を寄せる。
「……と言うことは、何やら穏便ではないことが起こるということか」
艶やかなシュリーの黒髪を指先に絡めたレイモンドは、妻の不吉な言葉に今更不安がることもなく。呆れたように笑うのみだった。




