懐才不遇
釧の皇太子、雪紫鷹は父である皇帝の呼び出しに溜息を吐いた。
「この忙しい時に……」
酒に溺れ女に溺れ、政務を疎かにする父。そんな皇帝の下で国が正常に回っているのは、何を措いても皇太子である自分の功績が大きい。紫鷹はそう自負していた。
しかし、紫鷹の思いとは裏腹に、父も世間も、この国の繁栄の立役者は紫鷹の腹違いの妹、朝暘公主・雪紫蘭だと思っている。
自分の才に誇りのある紫鷹にとって、妹の活躍は腹立たしく、それどころか妹を崇めるような噂の数々が耳に入る度に、ズタボロにしてやりたいと思うほど妬ましく恨めしくて仕方がなかった。
いつか必ず。自分が皇帝の座を手に入れた暁には、憎らしい妹をあの高みから引き摺り下ろしてやる。それが紫鷹の密やかな野望の一つだった。
そんな紫鷹は、父である皇帝の前に跪くなり父から平手打ちをされた。
「この、親不孝者がっ!!!」
「ッ……!」
「お前の才が、せめて紫蘭の半分でもあれば、朕がここまで気苦労をすることもなかったと言うに! 若しくは紫蘭が男であればっ! お前のような出来損ないを世継ぎに指名せずとも済んだのだッ!!」
発狂したような父のその発言は、紫鷹が幼い頃から言われ続けて来た言葉だった。
いつも妹と自分を比べて罵倒する父。紫鷹は妹と同じだけ、この父のことも憎らしかった。
「……恐れながら。何をそんなにお怒りなのですか」
拱手しながら問えば、皇帝は皇太子の前に書状を投げ付けた。
「それを読め!」
拾い上げた書状を広げた紫鷹は、その内容に目を瞠る。
「これは……まさか」
そこには驚愕の内容が書かれていた。
妹の紫蘭から皇帝へ書かれたその書状には、卑しい生まれの七公主に代わり紫蘭が西洋のアストラダム王国国王に嫁ぐ旨と、ここ一年近く、紫蘭が赴いていると思われていた北方の騎馬民族討伐についての真相が書かれていた。
「戦況を見越し、事前に千通りの戦術を弟子の軍師達に指示していたと? 毎月陛下へ届いていた書状も、この書状も、予め用意していたものを弟子達に送らせていたと……」
そして文の最後は、自分が去った今、釧の国家を支え太平の世を維持する軍師は自分の弟子達の他にいないので、絶対に彼等を罰してはならないと、父である皇帝に向けた不敬極まりない〝命令〟で結ばれていた。
「なんと無礼な……父上を欺いた上に、このような無礼な書状を送り付けてくるとは。一刻も早く朝暘公主とその弟子達を罰するべきです!」
拱手して奏上した紫鷹の言葉は、皇帝の逆鱗に触れた。
「これだからお前は、いつまで経っても屑なのだ!」
「……ッ!?」
皇帝は、実の息子の皇太子を足蹴にした。
「よいか、その足りない頭でよくよく考えろ。紫蘭はその場におらずとも、事前の指示のみで厄介な騎馬民族の匈古を討伐してみせたのだ。そしてアストラダムから使者が戻る時期を見計らいこの書状を送り付けて来よった。これ程の才。驚嘆に値する知略。そこに目を付けるのが最初であろうが!」
「うっ……!」
更に一蹴りを入れて、皇帝は無様に床を這いつくばる皇太子を見下ろした。
「アストラダムとの取引には、我が国にも多少の利があった。しかしそれは、嫁ぐのが役立たずの七公主であったからだ! それをよりにもよって、紫蘭が身代わりになろうとは……我が国の至宝、不世出の才媛にして最強の軍師、その能力、霊力の高さから一騎当千、いや一騎当万の力を持つ朝暘公主を、みすみす国外に嫁がせるなど愚の骨頂。こんなことは絶対にあってはならぬ……!」
皇太子の髪を掴み引き起こした皇帝は、その血走らせた目で息子を睨み付けた。
「急ぎ西洋へ向かい、紫蘭を連れ戻して来い!」
その言葉に、紫鷹は目を瞠る。
「な……父上。偉大なる皇帝陛下。お言葉ですが、皇太子である私が長期間国を離れれば、政務に支障が……」
「お前がおらずとも、いくらでもこの国は回る! しかし、紫蘭がいなければこの国は終わりだ! 見よ!」
皇帝が皇太子の前に叩き付けたのは、釧の地図だった。
「ほんの十年前まで、釧の周辺には釧に成り代わり天下を狙わんとする蛮族が蠢いていた。それを紫蘭は女でありながらあの若さで全て征服してみせたのだ。今紫蘭がいなくなれば、誰がこれらの蛮族を抑える? そなたのような机に齧り付くばかりの腑抜けに、太平の世を維持し繋ぐだけの力があると思うのか!?」
「ぐ……」
武に関して言われてしまえば、剣を持つのも苦手な紫鷹には何も言い返すことができなかった。
「お前のような屑でも皇太子は皇太子。役立たずの使者達のように無碍に送り返されることもなかろう。何としても紫蘭を連れて戻るのだ!」
「し、しかし政務が……」
尚も言い募る情けない息子に、皇帝は怒りを露わにした。
「いつまで勘違いしておるのだ!? 朕がお前に政務を任せているのは、お前を信用しているからではないっ! 朝廷に仕える文官達を信用しているからだ。彼等は科挙試験に合格した優秀な者達であり、揃いも揃って紫蘭の教えを受けた弟子達である。お前が言う政務はせいぜい彼等に指示することくらいであろう? お前なんぞがおらずとも何の支障もない。お前自身に能力があると、本気で思っていたのか? 何と愚かな!」
「…………」
放心した紫鷹は、これまで信じてきた自分の手腕を全否定されて目の前が真っ暗になった。
「藍海よ」
絶望する息子に目もくれず、皇帝は控える藍海に声を掛けた。
「は、陛下」
丁寧に頭を下げた忠臣に、皇帝は問い掛ける。
「藍芯は何処に?」
ギクリと固まった藍海は、言い淀みながらも答えた。
「そ、それが……アストラダムから戻った使者達の話ですと、アストラダムに残り朝暘公主殿下のお側におるようでして……」
「ほう。それは好都合ではないか」
怒りをぶつけられると思っていた藍海は、皇帝の思わぬ言葉に顔を上げた。
「陛下……?」
「この国の武官も文官も、後宮の妃嬪から果ては市井の商人達までもが紫蘭に傾倒しているが、宦官だけは今以て朕の管轄だ。朕の命令とあれば、藍芯も動こうぞ」
「は……!」
「朕自ら藍芯に朝暘公主を引き戻すよう書状を認めようではないか。皇太子よ、それを持ち直ちに西洋へ向かえ」
「……承知致しました」
「それと、丁度いい。金公子を連れて行け」
皇帝の言葉に、紫鷹は眉間に皺を寄せた。
「……金家の跡取り、金黙犀でございますか?」
「紫蘭の夫になる男だ。お前だけでは心許ないからな。鬼才と名高い金黙犀がおれば朕も多少は安心できよう」
「……ッ」
それはまるで、お前一人では安心できない、信用できないと言い付けられているのと同義だった。紫鷹にとって、これ程の屈辱はない。握り締めた拳が震え、腕に通した皇太子の証、銀玉瑞祥釧がその存在を主張する。
「……必ずや。朝暘公主を連れ戻してみせましょう。ですのでどうか、その暁には私の働きを少しは認めて頂けませぬでしょうか、父上」
紫鷹の切なる嘆願に、酒を煽った皇帝が返事をすることはなかった。




