王妃の異名
アストラダム王国国王レイモンド二世の王妃は、釧での呼び名であるシュエ・ズーランの発音が難しいことから、古代において東方を指した呼び名、『絹の国』を意味する『セリカ』をそのまま名前とし、セリカ王妃と呼ばれることとなった。国内の正式文書及び歴史書に残る名前もこの名となる。
これは王妃自身どころか国王であるレイモンドの意見さえ聞かずに貴族達が決定した名であり、王妃をとことん馬鹿にするものだった。婚姻式の翌朝、朝餐の席でそれを聞いたレイモンドは静かに激怒した。
しかしそんな夫へと、当の王妃はあっけらかんと告げる。
「別によろしいではないですか。たかが名など、好きに呼ばせておけば良いのです。貴方様の妻が私だという事実さえあれば、私は満足ですわ」
思い掛けず殊勝なことを言い出した王妃に、その意を汲んだレイモンドは貴族達の無礼な決定を黙認することにした。
「……私だけは、そなたを本来の名であるシュリーと呼んで良いだろうか」
気遣わしげなレイモンドの言葉を受けた王妃は、大きな瞳をパチパチと瞬かせた。この国の人間には、王妃の祖国である釧の発音は難しいらしく、レイモンドが呼んでくれるシュリーという名は、本来の発音と異なり少しだけ舌足らずな響きがある。
それでも王妃は、夫が呼んでくれるその名を何よりも気に入った。
「この先、私をその名で呼んで良いのは陛下だけですわ」
嬉しそうに目を細める妻の美麗な微笑を見て、レイモンドは擽ったさに頰を掻いた。
「それと……来て早々すまないが、今宵そなたの披露を兼ねた夜会が開かれる。この宴もまた、公爵の思惑だ。私とそなたを再び貴族達の好奇の目線に晒すのが狙いだろう」
不満な様子のレイモンドへと、『セリカ王妃』となった雪紫蘭、名を雪麗ことシュリーは、楽しげに微笑んだ。
「それは楽しみですわ。その思惑をぶち壊して差し上げましょう」
「なに?」
「完璧な披露を演出し、私の大切な夫を陥れようとする不届き者の鼻をへし折ってやるのです」
堂々とした妻の微笑みに、レイモンドは圧倒される。
「あー、その……私が言うのもなんだが、あまり無理をしなくていい。そなたはこの国に来たばかりなのだ。本来であれば私が守ってやりたいのだが……私の力が足りず、そなたには苦労をかけて申し訳ない」
落ち込んでいく夫を見て、初めて味わう何とも言えないような〝庇護欲〟を体感したシュリーは、弾んでしまいそうな声を抑えながら夫を慰めた。
「陛下。どうかそのような寂しいことを仰らないで。私は陛下の妻として、お役に立ちたいのですわ。その為ならどんな努力も厭いませんわ」
「シュリー……」
夫に熱い眼差しを向ける妻と、感じ入ったように妻の名を呼ぶ夫。無理矢理婚姻させられたとは到底思えない程の甘い空気が二人の間に漂う。
その時ふとレイモンドは、向かいに座る妻シュリーが、何の迷いもなく優雅な仕草でナイフとフォークを使い熟しているのに気付いた。
「釧の食文化はこの国とは違うと聞いたが、そなたはどこでマナーを覚えたのだ?」
動きを止めたシュリーが、レイモンドを見返して当然のように答えた。
「たった今、陛下のお食事の所作を見て覚えたのです」
「……は?」
レイモンドは、聞き間違いかと思った。レイモンドの常識からすると、テーブルマナーは一朝一夕で身につくようなものではない。
レイモンド自身、幼い頃から叩き込まれたことで初めて一人前と認められたのだ。異邦人が見様見真似でどうにかできるものであるはずがないのだ。しかし。
「多少面倒ではございますが、なかなか理に適った食事方法ですわね。拝察するに食材や調理法によって手にする食器を変えてますのでしょう? 供される料理の順に応じて、外側から順に食器を取るのも面白い発想ですわ。予め計算された配置ということですのね」
この短い時間の中で、シュリーは完璧にマナーの意図までも理解していた。
「……その通りだ。本当に、今日初めて見たのか?」
「ええ。この国に到着早々、婚姻式でしたもの。礼儀作法を伴う食事はこれが初めてですわ」
「……それにしては、そなたの所作は優雅だ」
「それは陛下の模倣をしているからですわ。優雅なのは私ではなく、陛下の所作なのでしょう」
クスクス笑う妻の楽しげな顔を見ながら、レイモンドは舌を巻いた。
類い稀な美貌だけでなく、異国語を自在に操る才覚、周囲を見る洞察力、聡明さ、気品、所作の美しさ。どれをとっても、レイモンドの妻は完璧だった。いっそ、出来過ぎな程に。
何か、とんでもないものを手に入れてしまった気がしてきたレイモンドが思考に耽る前に、シュリーがぽんと手を叩いた。
「そうそう、ご紹介しておきますわ。釧から連れて来た侍女のリンリンと、宦官のランシンです。使節団の殆どは釧に帰す予定ですが、二人にはこれからも私の世話役としてこの国に残ってもらおうと思っておりますの」
シュリーが手を向けた先で、両手を前に組んだ控えめな侍女と、整った顔立ちの男が頭を下げる。それを見たレイモンドは眉を寄せた。
「侍女は良いとして、宦官とは何だ? 彼はどう見ても男じゃないか。まさか、男に身の回りの世話をさせるつもりか?」
レイモンドの不機嫌そうな声を聞いたシュリーは、大きな瞳をキョトンと瞬かせた。
「ランシンは……男ではありますが、男ではありませんわ」
戸惑った様子のシュリーを見て、レイモンドもまた戸惑いを浮かべる。
「どういうことだ?」
「ああ、この国には後宮がないのですものね……中東の国々にはハレムがあったのですけれど……そういった男子禁制の場で奉公するのが宦官なのです。彼らはその……何と説明すればよろしいかしら。陛下、お耳をお貸し頂けます?」
レイモンドの側にやって来たシュリーが、レイモンドの耳元で宦官の説明をする。宦官とは男たる大事な部分を切り取った者のことだとやんわりと説明すれば、レイモンドは絶句してランシンを見た。
「な、なんと残虐なっ……」
口元を押さえて悲痛な声を上げたレイモンドの視線が、ランシンの顔と下半身を行き来する。ランシンは涼しい顔でただ黙ってその視線を受け入れていた。
「ですので、ランシンが私の身の回りの世話をすることは特に問題がないのですわ」
「それは……そうなのかもしれないが、やはり複雑だ」
ランシンから目が離せないながらもレイモンドがそう言えば、シュリーは再び目を瞬かせた。
「何がそんなに気になるのです?」
「そなたは私の妻だ。私以外の者がそなたに触れると思うと、嫉妬してしまうのは当然だろう。それも彼は……〝彼〟でいいのか? ……とにかくランシンは見目も麗しいから尚更だ」
「嫉妬……でございますか?」
「そうだ。嫉妬だ」
堂々と頷いた夫を見て、シュリーは急に胸元を押さえた。
「うっ……!」
「シュリー!? どうした?」
「心臓が……」
「心臓が!? 痛むのか? 苦しいのか? 今すぐ侍医を……」
「いいえ、大事ありませんわ! そういうのではありませんの、どうぞお気になさらないで」
慌てるレイモンドを制してよろめきながらも、シュリーは釧の言葉で早口に何やら呟いた。
『なんということ……宦官相手に嫉妬だなんて! 私の夫はなんて可愛い人なの! これがトキメキと言うものなのね? 心臓が締め付けられて死んでしまいそうだわ』
「シュリー? 何と言ったのだ? 本当に大丈夫か?」
わたわたと心配そうにするレイモンドを見て堪らなくなったシュリーは、夫の膝に乗り上げてその首に抱き着いた。
「陛下が……シャオレイがこうしていて下さいましたら、平気ですわ」
自らに身を寄せる羽根のように軽い妻を抱き上げながら、レイモンドは労わるようにシュリーの背を撫でた。
「あまり無理をするな……そなたの身に何かあればどうするのだ」
その優しい声音を聞いて、色んな意味で最強過ぎるが故に他者からの心配など受けたことのなかったシュリーは完全に敗北を悟った。
何か、とんでもない男に嫁いでしまった気がするが、今更この心地好い腕から抜け出すなどできようはずもない。この夫の為ならば、一肌でも二肌でも脱ぎまくってやろうと意気込んだシュリーが顔を上げる。
「それよりも、夜会の準備ですわね。文化が違えど、こういった場で重視されるものはどこの国も同じでしょう。王妃となる淑女を見定める為の基準は即ち、容姿、服飾、礼儀作法。大切なのはこの三つではありませんこと?」
真面目な顔をするシュリーが夫の膝の上でそう言うと、レイモンドもまた真面目に頷いた。
「そうだ。そなたの容姿は言うまでもなく美しい。しかし、ファッションやマナーに関しては難しいだろう。今日は無理をせず、ただ私の隣に座っていればそれでいい」
至極真面目に容姿を褒められたシュリーは身悶えながらも、咳払いで気を取り直して話を続けた。
「コホン。ご心配なさらずとも大丈夫ですわ。私に考えがありましてよ。まずは、この国で指折りのドレス職人を呼んで下さいますか?」
「それは……構わないが、今からドレスを作るのは無理だ」
「勿論、分かっておりますわ。目的はドレスを作らせることではございません」
夫に身を寄せた王妃は、その唇をニンマリと吊り上げて嗤ったのだった。