党同伐異
「……本当に行くのか?」
眉を下げる心配そうな夫を見て、シュリーはクスクスと笑った。
「あらあら。どうしたのです? シャオレイはそんなに私と離れたくないのかしら」
「そうだと言ったら、行かないでくれるか?」
思いの外強い力で手を握られて、シュリーは目を瞠った。
「……本当にどうしましたの? 何かありまして?」
旅装姿のシュリーは、マクロン領で発見された磁器の材料、カオリンの鉱脈を視察する為に旅立つところだった。
最後まで一緒に行くと言い張っていたレイモンドは、結局議会や政務の関係で同行が叶わず、王宮に残る予定だったが、出立のこの時になってもシュリーの手を離したがらなかった。
その様子に、シュリーは準備の整った馬車を見遣ってから夫の手を引いた。
「陛下?」
「嫌な予感がするのだ……」
「まぁ……心配性ですこと。私を心配するだなんて、世界広しと言えど陛下ただお一人です。私はそれほど軟弱ではございませんわ」
「分かっている。分かってはいるのだが……」
レイモンドは、胸に広がるモヤモヤとした不安に顔を顰めた。万が一、シュリーの身に何かあったとしても、彼女ならその全てを蹴散らして無傷で生還するくらいには強い。それを分かっていても、レイモンドの不安と心配は尽きなかった。
「陛下も仰いましたでしょう? 私は例え地獄に堕ちようとも、這い上がって陛下の元に戻って参りますわ。だからどうぞ、心配なさらないで」
「…………」
それでも、どうしても行って欲しくない。しかし、己やシュリーの立場を考えてグッと言葉を飲み込んだレイモンドは、無理矢理妻から手を離した。
「無理はしないように。できるだけ早く帰って来なさい。そなたがいないと、私は満足に食べることも眠ることもできそうにない」
「シャオレイ……」
可愛らしいことを言い出した夫に無事に心臓を撃ち抜かれながら、シュリーは大きく頷いた。
「勿論ですわ。なるべく早く戻りましてよ。私の代わりにランシンを置いて行きますので存分に使って下さい。ですからどうか、私の帰りを良い子で待っていて下さいませね」
爪先立ちになったシュリーはレイモンドにキスをすると、惚けた夫に笑みを漏らしながら馬車へと乗り込んだ。
遠ざかる馬車を見て、レイモンドの胸は再び言い知れぬ不安に襲われた。どうにも、嫌な汗と動悸が止まらない。
レイモンドはトラウマになっていた。
あの日もレイモンドは、こんなふうに家族を見送った。そうして何事もなく過ごしていたら、突然の両親と兄の訃報が届いたのだ。
悲しみと言うよりも、何が起きたのか分からず茫然と立ち尽くしている間に、レイモンドの周囲は何もかもが変わってしまった。
当時を思い出し、レイモンドは眩暈がする。
レイモンドにとって、何よりも大切な存在であるシュリーの乗った馬車を見送るのは、耐え難い苦痛だった。
やはり今からでも……と思ったところで、政務の時間が迫っていると自分を呼ぶ声に、レイモンドは拳を握り締めてその場を後にした。
シュリーはきっと、笑顔で戻って来る。押し潰されそうな不安を吐き出して、レイモンドは国王の顔になり政務へと向かった。
「陛下、王妃様の磁器やシルクについての評判はとても良好です。本場である釧の品質を凌駕していると、周辺諸国からも輸入を望む声が後を絶ちません。我が国の新たな特産品として、事業を拡大すべきです」
「うむ。王妃はシルクの製造に関しては、いずれ技術を公表する用意がある。そうなればセレスタウンだけでなく、国中で生産が拡大するだろう。しかし、磁器に関しては王妃が技術を伝授したマイスン工房に任せると言っている。……他国に技術を横取りされない為にも、磁器の生産は王国の庇護の下でマイスンだけに一任するつもりだ」
レイモンドの意見を聞いたマドリーヌ伯爵は、満足げに頷いた。
「流石陛下です。賢明なご判断かと。それにしても、王妃様の手腕には脱帽致します。王妃様の開業された釧料理のレストランも大変人気で予約が取れぬと話題です。他にも社交界では貴婦人達を纏め上げたり、市井に降りれば分け隔てなく庶民に接する。その姿は正しく理想の王妃。異邦人であることなど、最早誰も気にも留めておりません。それどころか、王妃様はアストラダムを救う為に舞い降りた女神とまで言われております」
それを聞いて、レイモンドは思わず笑ってしまった。
「ふ。女神か。王妃にピッタリだな」
「本日も視察に出られたとか。先日王妃が調合された胃腸薬は効き目があり過ぎると商品化が決まりましたし、更には魔塔主と共同で新たな魔道具を開発中との噂まで。美貌だけでなく、莫大な知識と能力を有し精力的に国家に献身して下さるお姿には、我々も畏敬の念を抱いております」
妻を絶賛されて悪い気のしないレイモンドはしかし、今朝見送った馬車を思い出して再び漠然とした不安に駆られた。
「…………伯爵、フロランタナ公爵の最近の動向は?」
「公爵ですか? すっかり大人しくしております。議会で議案を棄却されてからと言うもの、貴族派は減りに減り続けて今では公爵の側にいるのはアルモンド卿一人。できることなど限られましょう」
「…………アルモンド卿、アルモンド小侯爵か。彼は確か、公爵夫人の弟君だったな」
「ええ。そして剣の腕が立つことでも知られております。姉想いな彼が公爵を裏切ることはないでしょうな。そう言えば先日、アルモンド卿が王都の薬屋に出入りしているのを見掛けたことがあります」
「何……?」
「陛下? 如何なさいましたか?」
「…………いや」
考えれば考えるほど、レイモンドは嫌な予感がした。
「伯爵。……午後の公務を任せても良いだろうか」
「は…………?」
「ガレッティ侯爵にも伝えてくれ。明日には戻る」
「へ、陛下!? どうされたのです!? 何方へ!?」
ただの胸騒ぎならそれでいい。しかし、レイモンドにとって、再び家族を失う恐怖は耐えられるものではなかった。もしこれで何もしないままシュリーの身に何かあったら、レイモンドはきっと自分を呪ってしまう。
「ランシン……」
執務室を出て控えていたランシンに声を掛けたレイモンドは思わず目を見開いた。
寡黙な妻の従者は、レイモンドの意図を汲み取り旅装の用意をしていたのだ。
「……そなたも来てくれるか?」
「是」
レイモンドは護衛数人とランシンを引き連れて馬を駆った。今朝方に馬車で出発したシュリーに追い付くため、休むことなく街道を駆け抜ける。
夕方近く、マクロン領の手前にある峠を過ぎた山道で漸く妻の馬車を捉えたレイモンドがホッと息を吐いたのも束の間。
殺気を感じたレイモンドが身を固くしたのと同時に、シュリーの乗る馬車を引く馬が暴れ出した。どうやら矢を射られたらしい馬は暴れ、隣の馬とぶつかり合って大きく揺れた車体の車輪が外れる。
「シュリー!!!」
必死な叫びも間に合わず、レイモンドの目の前でシュリーの乗った馬車は道を外れ崖下に落ちていった。




