邪説異端
少し前まで物乞いが徘徊し薄汚れていた路地は、整備されて人々の笑顔に溢れている。それらを見遣りながら、レイモンドは感慨深げに呟いた。
「なかなか賑わっているな。ここがあの貧民街だったとは、誰も想像できないだろう。そなたのお陰だ、シュリー」
「そうですわね。ですけれど、陛下。私は貧民を救うためだけにここを選んだわけではありませんのよ」
レイモンドのエスコートを受けて歩いていたシュリーは、吹き抜ける風に長い袖を翻して微笑んだ。
「彼等の技術が必要だったことも、彼等を救うことが陛下のお望みだったことも、公爵の発案した馬鹿げた議案を潰すためだったことも、勿論ございますけれど。この貧民街を選んだ一番の理由は、ここが陛下の直轄地であるからですわ」
元々王都の一部だった貧民街は、公爵の指図で国王であるレイモンドの直轄地になっていた。生産性がなく、管理ばかりが大変な貧民街を、国費で維持するのは如何なものかと言い張った公爵は、その全てをレイモンドに押しつけたのだ。その代わり救済処置として月に数度の施しを国で実施することになっていたのだが、それすらも無くそうとした公爵はこの街の嫌われ者になっていた。
「つまり、この街で生まれる利益の全てについて、その税収は丸ごと陛下のもの。この街の収益が増えれば増えるほど、陛下の収入が増大するのです」
ニコニコの妻を見ながら、レイモンドは苦笑する他なかった。
「そなたは本当に……」
「あら。大切なことですわ。良き君主とは、是即ち富める者です。富なくして平和な統治など実現致しませんことよ。重要なのは、その富をどう使うか。陛下でしたらきっと上手く使って下さいますでしょう?」
キラキラと輝くシュリーの瞳には、全幅の信頼とこの状況を楽しんでいるような煌めきがあった。それを受けたレイモンドもまた、柔らかく微笑む。
「どうやらそなたのお陰で、私は無能な王ではいられなくなってしまったらしい。精進する必要があるな」
「陛下はそのままでも充分立派な君主ですわ。存在するだけで富を生む私をこんなにも惹き付けて止まないのですもの」
胸を張る妻を見て、レイモンドはとても敵う気がしないと苦笑する。いつだって気高く誇り高く美しく微笑むシュリーは、確かにそこに在るだけでレイモンドを高めてくれる不思議で得難い存在だった。
「国王陛下」
「王妃様!」
あちこちから声を掛けられる度に二人で手を振り歩きながら、レイモンドは改めてシュリーのその細く白い手を一生放さないと心に誓うのだった。
「何故、誰も来ないのだ」
フロランタナ公爵は、がらんとしたテーブルを見下ろしながら呟いた。
つい数ヶ月前まで、貴族派の会合をすると言えばそこそこ広いこのテーブルはギュウギュウに埋まったものだった。それが今は、硬い椅子だけが並ぶばかり。
「……今日はセレスタウンの式典がありますので。皆、そちらに行っているようです」
アルモンドがそう答えると、公爵はいつものように暴れるわけでもなく静かに頭を抱えた。
この場にいるのは、公爵とアルモンドのみ。あの議会での貴族派の裏切り以来、公爵の取り巻きは少しずつ国王の側に寝返っていった。貧民街の改修事業が公になった時、自国産の磁器やシルクが出回った時。孤高の魔塔主ドラド・フィナンシェスが国王に忠誠を誓った時。一人、二人……と。公爵の側にいた者達は、次から次へと国王レイモンドの方へ行ってしまった。
取り巻き達だけでなく、領地に戻ったはずの妻と息子でさえ、ある日忽然と姿を消したと言うのだ。
所詮は金と権力で掻き集めた者達とは言え、誰も彼もが呆気なく裏切っていく。そしてとうとう、誰もいなくなった。手の中にあったはずの権力、自信、名声も同様に。
「何故だ……何故なのだ……何故」
少し前までの威厳など失ってしまったフロランタナ公爵は、憔悴した面持ちで改めてこれまでのことを思い返した。いったい何を間違ったのか。何が駄目で、自分はこんなにも惨めな目に遭っているのか。
一つずつ思い返しては、屈辱に奥歯を噛み締めながらも頭の中で時を遡る。
国王夫妻による貧民街の改修事業、その前の議会でのレイモンドの勝利、王妃のお茶会、侯爵夫人のお茶会、国王夫妻の婚姻を祝う宴、国王と王妃の婚姻式……
「…………そうか。あの王妃だ」
そうして漸く気付いた。全ては、異邦人のあの王妃が来てから狂い出した。まるで、たった一つの小さな歯車のせいで全体が狂い出し崩壊するかのように、王妃の存在が、公爵の順風満帆な人生を狂わせたのだ。
「アルモンド!」
「はい、閣下」
「あの王妃を殺せ! 先王を殺した時のように、確実に抹殺するのだ!」
「ですが……」
躊躇うアルモンドを落ち窪んだ目で睨みながら、公爵はその胸ぐらを掴んだ。
「あの王妃さえ死ねば全てが元通りになるのだ……! 私の栄華を取り戻すためには、あの王妃を始末せねばならん!」
「……分かりました。閣下の仰せのままに」




