異国の姫君
「はあ……私は少女相手に何を……」
翌朝、レイモンド二世はベッドの上で苦悩していた。
相手は異国の姫君。それも、この国では野蛮人とされる東方人。更には明らかに幼い顔立ちの少女に、断じて手を出すつもりなどなかったというのに。あからさまに誘われたとはいえ、あの時の彼女の色香は尋常ではなかった。
悶々とするレイモンドは、クスクスと笑う声に身動きを止めた。
「少女だなんて失礼ですわね。私はこう見えても貴方様より歳上でしてよ」
背中の方から聞こえてきたその声に、レイモンドは慌てて振り向く。
「そ、そなた……っ!?」
「うふふ。おはようございます、レイモンド陛下」
そこには、一夜を共にした異国の姫君でありレイモンドの妻となった女が、美しい顔を楽しげに綻ばせてレイモンドを見下ろしていた。
「昨夜はなかなか刺激的でしたわ」
呆気に取られるレイモンドへと甘く香る身を寄せ、夫の肌に黒髪を垂らした花嫁は指先でレイモンドの顎を擽った。乱れた化粧や透ける薄衣が肩から落ちそうになっている様が妙に色っぽく、寝起きのレイモンドの思考は完全に停止する。
そんな夫を見下ろしながら、王妃は満足そうに微笑んでいた。
「つまらない国に来てしまったと思っておりましたけれど、貴方様の妻になるのは悪くありませんわね」
少しずつ思考が戻り、レイモンドは何とか声を絞り出して問い掛けた。
「そなた、この国の言葉を話せたのか……!?」
余らせた袖先で口元を隠しながら、彼女はクスクスと笑う。
「釧からこの国に来るまで、どれ程の時間が掛かると思いますの? 暇だったので、その間に言語を習得したのですわ。夫となるお方と意思疎通も取れなくては、夫婦生活に色々と支障がありますでしょう?」
あまりにも流暢に話す花嫁を見て、レイモンドは頭が痛くなる。
「それではそなたは……昨日のあの婚姻式で、貴族達の心無い言葉を聞いていたのだな」
レイモンドの呟きに、花嫁は大きな目を見開いたかと思うと弾けるように笑い出した。
「あらあら、まあまあ。私の旦那様は、自分を謀った妻に腹を立てるのではなく、心無い言葉に傷付いた妻を心配して下さるのね。なんてお優しいのかしら」
そうして乱れた髪や衣を直すと、ベッドの上に正座し、両手を前に揃える。
「改めまして、私は釧国皇帝雲景帝雪龍峰が三女、朝暘公主の位を賜る雪紫蘭と申します」
「……すまない。なんと?」
妻の名どころかその肩書きすら一つも聞き取れなかったレイモンドが聞き返すと、王妃は楽しげに笑い転げながら夫を見上げた。
「シュエ・ズーランでございますわ」
「シュ……ジュ……ラン?」
全く以って聞き取れる気のしない異国の名前にレイモンドが苦戦していると、王妃はニコリと微笑んだ。
「紫蘭は、私の字でございます。本来の名は、雪麗と申します」
“あざな”が何かは全く分からなかったが、取り敢えずは聞き取れた名前で、今度こそレイモンドは妻に呼び掛けた。
「シュリー?」
「うふふ。まあ、良いでしょう。お好きなようにお呼び下さいませ。シャオレイ」
「シャオ……何だそれは」
「愛称のようなものでございますわ、レイモンド陛下」
悪戯を仕掛けたようにクスクスと笑う彼女は色香を残しつつも、どう見ても少女にしか見えなかった。
「本当にそなたは、私より歳上なのか?」
「ええ。これでも二十になります」
即位前に十九になったばかりのレイモンド。確かに年齢だけで言えば、彼女の方が歳上なのだろう。しかし。
「……信じられない」
愛らしい顔立ちも、小柄で華奢な体躯も。とても自分より歳上には見えない妻を見て、レイモンドは愕然とした。
「西洋の方は発育がとてもよろしいと伺いましたわ。釧では私は引く手数多の立派な淑女でしてよ」
薄衣を翻した王妃は、ベッドの横のサイドテーブルに置かれた小箱を開けた。そこには見事な煙管が入っており、手慣れた仕草で火をつけ燻らせる。
煙を吐き出すその姿は様になっており、妙に色っぽく、レイモンドは妻の美しい横顔に暫し見惚れた。
しかし、どこか億劫そうにも見える気怠げなその様子に、昨夜のことを思い出したレイモンドは気まずく頭を掻いた。
「その……、身体は大丈夫か?」
「あら。生娘に対して無体を働いた自覚がおありですの?」
「うっ……すまない。そんなに辛いのか?」
「ふふ。冗談ですわ。それほど軟弱ではございません。滋養薬入りのこれを一服すれば回復するでしょう」
コン、と軽やかに灰を落とした王妃は、伏せた目を横に流して夫を見た。
「それで。昨日の貴族達の態度を見ますに、陛下は随分と敵が多いようでございますわね」
レイモンドは重い溜息を吐いた。異国から来たばかりの姫に見破られるほど、レイモンドの国王としての権威は薄っぺらいのだ。
「そなたの言う通りだ。今の私には味方がいない。叔父である公爵に無理矢理押し付けられた婚姻を断れない程に。私のような王に嫁いだことを、後悔するか?」
昏い瞳で笑う夫をジッと見て、王妃は煙管を置いた。
「とんでもございませんわ。陛下、私は今、かつてない程の喜びに打ち震え、とてもとても興奮しておりますのよ」
「…………は?」
訳の分からないことを言い出した王妃は、レイモンドに身を寄せてその大きな瞳を真っ直ぐに上げた。黒いはずの瞳は綺羅綺羅と輝き、その美しい顔には満面の喜色が差していた。
「昨夜、陛下はこの私を娶り、私はこの身を捧げましたわ。この国ではどうなのか存じ上げませんが、私の国では操を捧げると言うのはとても意味のあることですの」
「……意味?」
「つまり私と貴方様は、永遠に続く契りを交わしたのです。私の身も心も既に貴方様のもの。一生涯、他の者に渡すつもりなどございません。味方がいない、ですって? 貴方様は昨夜、自らの手で私という最強の味方を手に入れたのですわ」
うっそりと美麗な顔で微笑む王妃は、夫の耳元に囁いた。
「私が、貴方様を名実共にこの国の真の国王にして差し上げます。誰もが貴方様に跪き、何人たりとも貴方様の権威を貶めることなど出来ぬよう、完膚なきまで徹底的に」
その甘言はまるで、悪魔の囁きのようだった。
異国の姫君に、到底そんなことができるわけがない。それでもレイモンドは、差し出された王妃の手を取った。両親も兄も臣下も失い、レイモンドに残されたのは搾取されるだけの人生だった。そんな中で全てを自分に捧げると言う彼女の言葉は蜜よりも甘く、例えそれが口先だけのものだとしても、孤独に蝕まれた心は容易く魅入られてしまったのだ。
そうしてレイモンドは、期待はせずも、妻となった異邦人の王妃を真の意味で妻として受け入れることにした。
「そなたは私の妻だ。私はそなたの全てを受け入れる」
その言葉を聞いた王妃は、嬉しそうに夫を見返す。
「嗚呼。なんて嬉しいのでしょう。何もかもが思い通りになるつまらないこの世の中で、こんなにも刺激的な楽しみができるだなんて。退屈な祖国を飛び出して来て正解でしたわ」
クスクスと笑いながら隣に寝転ぶ妻を見て、レイモンドは改めて思った。鈴の鳴るような声を響かせながらも恍惚とした表情を見せる彼女は確かに、強かで嫋やかな、大人の女であるのだと。