異風の音色
「まあ……そんなことが。道理でお疲れなのですわね」
妻の膝に寝転びながら、レイモンドは存分に癒やされていた。柔らかくて温かくていい匂いがして、おまけに頭まで撫でてくれる。何だここは天国か。
デレッとした夫の顔を見下ろしたシュリーは、その目の下に広がる隈を見つけてふと手を止めた。
「そうですわ、良い物がありましてよ。リンリン、持って来て頂戴」
リンリンが出て行った室内で、レイモンドは思い切り妻の腹に顔を埋めて甘え出した。
「うふふ、あらあら。今日のシャオレイは甘えん坊ですこと。そんなに疲れていらっしゃるのね、お可哀想に。どうぞお好きなだけ甘えて下さいまし」
「……うん」
好きなだけ、と許しを得て。よじよじと妻の体をよじ登ったレイモンドは、シュリーの細い首元に顔を埋めてスンスンと匂いを嗅いだ。この甘くて花のように芳しい香りが何処から漂ってくるのか、知りたくなって探るように妻の体のあちこちに鼻先を埋めるレイモンド。
疲れ切った夫の変態じみた奇行を平然と受け入れながら、シュリーはボサボサに乱れるまで夫の柔らかい金髪を撫で回した。
優秀なリンリンは何かを察したのか暫く戻って来ず、妻の匂いを堪能しまくったレイモンドが正気に戻って気まずそうに頬を掻いたあたりで漸く扉がノックされた。
「これは……?」
リンリンが持って来たのは、ヴァイオリンのような形をした楽器だった。ボサボサの夫の頭を手櫛で整えてやりながら、シュリーが説明する。
「これは釧の楽器、二胡でございます。私、楽にも多少の心得がございますのよ。ですので琴や横笛、琵琶、何でもできますけれど。特にこの二胡は私の父、釧の皇帝陛下がお気に召し、よくご所望頂きましたの。お疲れの陛下を二胡の音で癒して差し上げますわ」
「そなたは楽器まで弾けるのか。楽しみだ。是非聴かせてくれ」
微笑んだシュリーは、その名の通り二本の弦がスッと通った二胡を縦に構えて、弦と弦の間に通した弓を弾き音を奏で始めた。
たった二本の弦から奏でられているとは思えないような、奥深く甘い音色。何より二胡を弾くシュリーの優雅な指の動きにすっかり魅了されたレイモンドは、一曲目が終わると無意識に拍手を贈っていた。
「素晴らしい、シュリー。そなたは本当に……できないことなどあるのか?」
夫からの純粋な質問に、シュリーは思わず吹き出していた。
「さあ、どうでございましょうね。今まで生きてきた中で、できずに困ったものも、成し遂げられなかったことも、手に入れられなかったものもございませんわ」
クスクスと一頻り笑ったシュリーは、改めて弓を構えるとレイモンドに向けて微笑んだ。
「陛下。今の曲は肩慣らしにございましてよ。次に弾くのが癒しの曲でございます。どうぞ目を閉じてお聴き下さいませ」
「ああ、分かった」
素直に目を閉じた夫を見て、シュリーは再び演奏を始めた。先程よりも緩やかでゆったりとした曲調が、柔らかくレイモンドの耳に響く。
二胡の音に酔い痴れながら、議会の疲れも相まってレイモンドは目を閉じたまま、やがて寝息を立て始めた。
レイモンドが眠りに就いても暫く二胡を奏で続けたシュリーは、夫が充分に熟睡したのを見極めてから演奏を止めた。
夫のあどけない寝顔に手を滑らせて、横にさせてあげながら。顔を上げたシュリーは、目をギラつかせていた。
「私の大事な旦那様をコケにしようだなんて、舐めた真似をしてくれるじゃない。愚か者には自分が誰を相手にしているか、きちんと分からせる必要があるわね」
セリカ王妃が初めてのお茶会を開くと言う噂が、瞬く間に王都を駆け巡ると、高位貴族の貴婦人達は招待状を今か今かと待ち侘びた。
一番最初に招待状を受け取ったガレッティ侯爵夫人を皮切りに、貴婦人達の元に次々と招待状が届く中で。筆頭貴族であるはずのフロランタナ公爵夫人の元には一向に招待状が届く気配すら無かった。
「まだ招待状は来ないのか」
すっかり社交界で話題になっているセリカ王妃の招待状について、気を揉んだ公爵が苛立ちながら妻に詰め寄ると、夫人は夫人で目を血走らせて夫を睨んだ。
「昨日は貴方の腹心、マドリーヌ伯爵の夫人に招待状が届いたそうですわ」
完全に格下だと思っていた相手から、まだ招待状が届いてないのかと小馬鹿にされた夫人は、殺気立っていた。この前のお茶会の失態が原因じゃないか……と陰口を叩かれていることも大きかった。
そんな妻へと、公爵は火に油を注ぐ。
「まったく。ガレッティ侯爵夫人は上手くやっていると言うのに。お前はあんな小娘一人も手懐けられないのか。この前も王妃の邪魔をしろと言ったのに失敗しおって。筆頭公爵家の夫人として恥ずかしくないのか」
公爵のこの言葉に、夫人は完全に我慢の限界を迎えた。
「いい加減にしてっ! そもそも! 貴方が! あからさまに国王陛下を蔑ろになさるのが原因ではなくて!?」
突然の妻の絶叫に飛び上がった公爵は、ワナワナと震えて妻を怒鳴り付けた。
「何だその言い草はっ!? 私はアイツの叔父だ! 何故私がレイモンドなんぞに気を遣わねばならんのだ!? この国の真の支配者は私だ! いずれ失脚する男に権限を与えてなるものかっ!」
「貴方のその邪な考えに私を巻き込まないで頂戴!」
公爵夫人は泣き叫んだ。王妃気取りの公爵夫人が真の王妃にやり込められた前回のお茶会の噂は、セリカ王妃の賛美と共に社交界中に広まっていた。それもこれも、そうするよう自分に指示をした夫のせいだと屈辱に震える夫人は何もかもが限界だった。
いくら夫が国王の叔父で、現政権を支配し王位継承権を持っていようとも。現国王に対する夫の態度はあまりにも露骨過ぎた。政治の場ではまだいいかもしれないが、序列を重んじる社交界では下品だと取られかねない行き過ぎた行動。
特に貴婦人達が集まる女の社交の場では、王妃がいなかったこれまでは誰も公爵夫人に物申したりはしなかったが、セリカ王妃がデビューし、何より一筋縄ではいかない強者だと知れた今、王妃を貶めようとした公爵夫人は浮いていた。
今回のお茶会の招待状が、それを如実に表していた。王妃は選ばれる立場ではなく、選ぶ立場であるのだと。絶対的な方法で、それを公言しているのだ。そのことにこの夫は気付いていない。
「だったら私がレイモンドを脅してでも王妃の招待状を手に入れてやる!」
公爵のその言葉に、公爵夫人は全てを諦めた。異邦人だと馬鹿にしているセリカ王妃がどんなに危険な人物か。訴えた夫人の言葉は夫に少しも届いていなかったのだ。それどころかこの男は、政治の場と同じように社交界も簡単に支配できて当然だと考えている。
「そんなことをすれば、卑怯な手で招待状を手に入れた私は社交界の笑われ者になりますわ。私はもう疲れました。体調も優れませんし、領地に戻って療養することに致します。そうすれば、お茶会に出られない名分にもなるでしょうから」
「何を言っている! おい、何処に行く気だ!? 話はまだ終わっていないぞ!」
夫の罵声を背に部屋に引き篭もった夫人は、ずっと考えないようにしていたことが頭を過る。
王座を奪うつもりの夫には、本当に国王としての器量があるのだろうか……と。




