異類無礙
「いや、全く心当たりがないのだが……」
馬車の中で妻から問い詰められたレイモンドは、本当に訳がわからないという顔で額を押さえた。
「婚約の話まで出ていて、心当たりがないと仰るのですわね? そんな見え透いた嘘を吐いてまで、私に隠したい過去がおありなのかしら。いい加減に白状なさったら? 何処の何奴ですの、その女は」
「いやいや、本当に嘘ではない。婚約? アカデミーで親交? 全く身に覚えがない。そのような令嬢はいなかった。どうか信じてくれ」
シュリーの圧に冷や汗を掻きながらも、レイモンドの目には隠し事をしているような気配が皆無だった。
「………………本当に?」
急に不安げな顔をした妻に、レイモンドはドキッとした。何だこの可愛い生き物は。他人よりもほんの少しばかり苛烈で嫉妬深過ぎる気がしないでもないが、ヤキモチ妬きでちょっと噂を聞いた程度でぷりぷり怒る妻が可愛くて可愛くて仕方ない。
「神に誓って本当だ」
言い切ったレイモンドは、ぽんぽんと自分の膝を叩いた。これが他の男であれば、そんな言葉を信じる気にはならないが、相手はレイモンド。とてもシュリーに対して隠し事ができるような男ではない。怒り狂っていたはずのシュリーは態度を和らげて、向かい合って座っていた席から立ち上がり夫の膝に座った。
「シャオレイがそこまで仰るのでしたら、特別に今回は信じて差し上げますわ。ですけれど、今後その雌豚……ご令嬢が私の目の前に現れたら、そのご令嬢はどうなるか分かっておりますわよね?」
大人しくレイモンドの腕に収まりながらも、シュリーは再び不穏な空気を発していく。
「どうなるのだ?」
先程の貴婦人達が見れば確実に悲鳴を上げるくらいにシュリーが発するオーラはドス黒かったが、レイモンドの目にはぷりぷり拗ねていて可愛いなぁ程度にしか映っていなかった。寧ろそんな妻の様子を眺めて楽しみ出したレイモンドが問い掛けると、シュリーは夫の体に身を寄せながらスラスラと答えた。
「取り敢えず生まれて来たことを後悔させて差し上げますわ。この世のありとあらゆる拷問を試してみるのも良いかもしれませんわね。精神的にも肉体的にもとことん追い詰め、豚は豚らしく好きなだけ地面を舐めさせて差し上げましてよ」
「そなたは、なかなか過激だな」
レイモンドがシュリーの頭を撫でてやると、シュリーはぷぅっと頰を膨らませた。
「駄目ですの?」
「いや、可愛いと思う」
「かっ……!?」
まさかそう来ると思っていなかったシュリーは、あまりの不意打ちに思わず赤面する。
「わ、私を可愛いと言うのは陛下くらいですわっ」
「そうなのか? こんなに可愛いのに?」
「っ……!」
赤くなった耳に優しくキスをされて、シュリーは完全に撃沈した。これだからこの男には敵う気がしないのだ。両手で顔を覆い夫の膝の上で恥じらうシュリーの姿は、普通の愛らしい少女にしか見えなかった。
不覚にも熱くなった顔を必死で扇ぎながら、シュリーは心の中で唸った。祖国で千年に一人の逸材、女神・嫦媧の生まれ変わりと謳われ、父である皇帝ですら跪かせた不世出の才媛。成し遂げた偉業の数々により数多の民から崇められ、本来は皇帝のみが所持を許される国宝・金玉四獣釧をその細腕に授かる朝暘公主・雪紫蘭。
そんなシュリーを普通の少女のようにしてしまうレイモンドこそ、只者ではないのだ。
シュリーは、異端であるはずの自分を溺愛する夫に身悶えながら、改めて自分の決断を自画自賛した。
本来、アストラダム王国の国王に嫁ぐ予定だったのは、シュリーではなかった。異国行きを強要されていた腹違いの妹には、既に想いを通わせ合う男がいた。泣き暮れる妹を不憫に思ったシュリーは、妹を逃してやることにしたのだ。
いくらでも手はあった。わざわざ国の秘宝とまで謳われるシュリーが入れ替わる必要はなかった。シュリーにとって、妹一人を逃してやることは、大した手間でもなかったのだから。
しかし、シュリーはその時、ふと思ったのだ。
この機会を利用すれば、つまらない祖国から抜け出せるのではないか、と。父や兄の柵から逃れ、自由を手にできるのではないか、と。そして妹の代わりに婚姻の仕来り通り顔を隠し、使節団と共に国を出た。勿論、すぐにバレないよう様々な手筈を整え、異国に渡った際の準備も抜かりなく済ませて。
シュリーのお披露目があった、婚姻初夜の翌日のあの宴。花嫁が被る赤い布、紅蓋頭で顔を隠していたのが本来嫁ぐ予定だった姫ではなく、シュリーだったと知った時の、釧の使節団の泣き顔。釧を出た時からずっと顔を隠し続けていたシュリーの正体に気付かなかった彼等は、『何故貴女様がここに、今すぐ我等と釧にお帰り下さい!』と泣き付いた。そんな彼等に向けて、入れ替わりを仕掛けた張本人であるシュリーは高らかに宣言した。
『妾の純潔は既にこの国の王に捧げた。二度と釧に戻るつもりはない。其方等は釧に戻り皇帝陛下にその旨を告げよ』
使節団慟哭の真相である。
女神が去ってしまう、陛下に処刑される、宝玉を失った釧は終わりだ、と泣き叫ぶ彼等に笑顔で別れを告げたシュリーは、夫となったレイモンドをとても気に入っていた。
婚姻式で手の甲に触れた、優しい唇。他のアストラダムの者達とは違い、異邦人であるシュリーを労るようなその仕草に興味を惹かれた。初めて顔を見た時の、目の冴えるような黄金の髪と真っ直ぐな瞳、その整った顔立ち。
相手が気に入らなければ首を落としてその日のうちに玉座を奪おうと思っていたシュリーは、大人しく抱かれてみるのも一興かとその男に身を委ねたのだった。
言葉が分からぬふりをして男の本性を探ろうと思っていたシュリーは。どこまでも優しい男に戸惑い、次第に荒々しさを見せる姿が愛おしいとすら思った。
結局一晩経っても、男はシュリーを傷付けはしなかった。純潔を奪われ多少激しかったものの、シュリーを抱く男の言葉からも、態度からも、体からも、悪意は一つも感じ取れなかった。
目を覚ました男と言葉を交わし、更に感じたのは男の実直で素直な誠実さと抱えた闇。
その闇を晴らし、この国を手に入れる。それは全てを手に入れ成し遂げたシュリーにとって、退屈を紛らわす新たな娯楽の一つに過ぎぬはずだった。
なのに。いつからこんなに、嵌ってしまったのか。
シュリーにとってレイモンドという男は、抜け出せない底なし沼だった。進めば進む程に、深く深く沈んでしまう。
足掻いても止まっても、変わらずに沈むその沼の中に、とうとうすっぽりと収まってしまったのだと、喰われてしまったのだと自覚したシュリーは、その心地好さに息を吐いた。
「私のシャオレイは、罪な男ですわね」
男を毛嫌いし遠ざけてきた朝暘公主・雪紫蘭を、誰の手にも落ちない高嶺の花を、こんなに骨抜きにしたのだから。
シュリーの独り言を聞いたレイモンドは、妻を抱く腕に力を込めた。
「何を言うのだシュリー、私にはそなただけだと言っているではないか」
また一つ、沼に引き摺り込まれた気がしたシュリーは、夫の腕の中でそっと呟いた。
「私達は比翼連理、異類無礙。例え邪魔する者がいようとも、私のこの手で徹底的に排除してみせますわ」
読んで下さりありがとうございます!
せっかく誤字報告頂いたんですが、嫦媧は女媧と嫦娥を合わせたような釧オリジナルの女神です!




