空飛ぶ豚
その豚を見るといいことがある。
そしてもし触ることができたなら……
連休明けの月曜日。天気は快晴。気分は曇天。仕事モードのスイッチがうまく入りきらないまま、私は地下鉄の改札を抜けて地上に顔を出した。
久しぶりの三連休。初日は少し実家に顔を出したもののそれ以外はずっと家に引きこもって映画を観ていた。もちろんワインとつまみを片手に。
そんな不規則な生活を二日間したからだろうか。今朝は化粧ののりが悪かった。もうすぐ四十路。ああ、私はもう若くないんだなあと改めて思い知らされる。
今日起きてから5回目のため息をつきながら歩いていると頭上からミントの香りがした。見上げると高層ビルの間を所狭しとたくさんの豚が飛んでいた。
「ああ、今日は豚日和だったんだ」
私はふがふが言いながら飛び交う豚たちを見て思い出した。
豚日和。
文字通り豚がどこからともなく現れる日。初夏のよく晴れた日にたまに起こる気象現象のようなものらしい。国営放送のニュースキャスターが私が子どもの頃に解説していた。
豚たちは何処からともなく現れて、気ままに空を飛び回る。そしていつの間にか何処かへ消えていく。
豚と言っても本物の豚ではないらしい。主成分は水蒸気で全身からミントの香りを放つ。残念ながら食べられないし、捕まえても時間が経てば消えてしまう。
私は豚日和が好きだ。豚とミントの香りが苦手な人にとっては辛い日だろう。でも、私は別に豚もミントも嫌いじゃない。
ふがふが言いながら空を飛び回る彼らを見ているとなんだか自由でいいなあと思う。まあ、五月蝿いという意見は否めないけれどそれさえ我慢すれば他に迷惑なことはない。
私の頭上10メートルほどの高さに、オフィスビルの窓に映る自分たちの姿を不思議そうに見つめる豚たちがいた。そんな彼らを眺めながら私は職場へ向かった。
「成美、聞いた? 豚日和に黒豚が飛んでいるのを見るといいことがあるんだって」
昼休み、社員食堂で日替わりランチを食べていると一つ先輩の彩香が缶コーヒー片手にやってきた。
「黒豚?」
「そう、黒豚! 半世紀に一回現れるかどうかの珍しい豚なんだって」
豚日和に現れる豚はみんな薄いピンク色をしている。例外はないと聞いていた。聞いていたけどいたんだな、例外。
「私絶対黒豚を見つけてやる。それで写メ撮ってスマホの待ち受けにして幸せを手に入れるの」
ぺこっと軽い音がした。
音がした方を見ると彩香が右手でコーヒーの入っていた缶を軽く凹ませていた。彩香さん、それアルミ缶ですよ?
私より先に四十路になった彩香。つい先週結婚を考えていた男に浮気をされていたことが発覚。男の家に殴り込み、鍛え抜かれた拳で相手の顔を汚い果実に仕立て上げて別れたところだった。
そんなことがあったからだろうか。黒豚を見つけると言った時の彩香の顔は狩人の顔だった。ああ、きっと彼女は黒豚を狩る気なんだ。
「頑張ってね。応援してる」
私にはそれ以上何も言えなかった。
「うん、ありがとう」
彩香はそう言うと颯爽と去っていった。彼女の後ろ姿には謎の迫力があった。
17時30分。
定時になると同時に「お先に失礼します!」と、大きな声がフロアに響いた。そしてまるで獲物を追いかける肉食獣のようにすごい勢いで彩香が帰っていった。狩猟に向かう彼女を見ているとモンスターを狩る有名なゲームのBGMが頭に浮かんだ。
今日は連休明けでしんどいし私も早く終わろうかな。そんなことを考えていると突然部長に名前を呼ばれた。
「すまん白石、これ明日までの書類なんだがお願いできないか?」
部長のデスクに行くと白髪オールバックのイケメン部長から書類の束を手渡された。
「明日までの仕事なんですか?」
「ああ、そうなんだ。本当なら上田の仕事なんだが上田はついさっき帰ってしまった。これ今日までだぞと15時頃に念押ししたんだがそしたらこれが」
そう言うと部長は書類の上に貼られた一枚の付箋を指差した。私は、部長の指は長くて相変わらず綺麗だなあと思いながら付箋に目をやった。
『ごめん成美。あとよろしく!』
綺麗な字で書かれたメッセージを見て私は今日8回目のため息をついた。
「申し訳ないがよろしく頼むよ」
白髪オールバックはそう言って煙草を片手に席を立った。私はやり場のないもやもやを感じながら心の中で舌打ちをした。
そりゃ結婚したいという彩香の気持ちはわかる。もう痛いほどよくわかる。私だって早く結婚したい。子どもも欲しい。でも、だからといってこれはないだろう。明日絶対ランチを奢らせてやる。
彩香から押し付けられた仕事を終えて時計を見ると21時を過ぎていた。今度こそ帰ってやる。私はデスクの上を簡単に片付けるとオフィスを後にした。
ビルを出て空を見上げるともう豚はほとんど飛んでいなかった。たまに楽しそうに飛び跳ねながらビルとビルの間を駆け抜ける豚がいたがどの豚も薄いピンク色だった。
「本当に黒豚なんて飛んでいるのかしら?」
そんなことを呟きながら私は地下鉄の駅に向かうため地下に潜った。
25分ほど電車に揺られながら晩御飯のことを考えていた。考えた結果自炊はやめてお惣菜を買うことにした。家の最寄駅に着く頃、私は黒豚のことなどすっかり忘れていた。
駅前のスーパーで安くなったお惣菜と赤ワインのボトルを買った。本当は今日は休肝日の予定だった。しかし、半額のローストビーフの前にその予定はあっさりと破棄された。
思わぬ戦利品に嬉しくなり軽い足取りで家に帰る。古い小さなアパートの2階にある我が家。階段を登りきり鍵を出そうとしたところで私は思わず足を止めた。我が家のドアの前に一頭の豚がいた。黒豚だった。
ドアノブの前でふよふよと浮く黒豚。どうやら寝ているようだ。目を閉じていてたまに「ふがっ」と寝息を立てている。いい夢でも見ているのだろう。とても気持ちよさそうな顔をしている。
私は鞄からそっとスマートフォンを取り出してカメラを起動する。音を立てないように慎重にピントを合わせ、そしてそーっとシャッターボタンを……
押さなかった。私はそっとスマートフォンをスカートのポケットにしまう。寝顔を見ず知らずの人間に撮影されるなんて私なら嫌だなあと思ったからだ。私はそっと黒豚に近づく。
「こんばんは、豚さん。そこ私の家なんだけど起きてもらえませんか?」
黒豚まであと3歩ほどの距離に近づいた時、私は声をかけてみた。
ふががっ
黒豚ははっと目を覚まして左右をきょろきょろと確認した。そして声の主が私だと認識すると申し訳なさそうにドアから離れてくれた。
「ありがとう」
私は笑顔でお礼を言うと鍵を取り出した。ドアを開けて家に入ろうとした時、後ろから視線を感じた。振り返ると黒豚は去ることもなくドアから2メートルほど離れたところでふよふよ浮きながら私を見ていた。よく見ると黒豚は何かを訴えるような目をしている。
なんだろう。少し考えてみる。考えてみたけれど私にはよくわからなかった。
「あのよかったら一緒に飲む?」
思いつきでさっき買った赤ワインをレジ袋から取り出して黒豚に見せてみた。
ふがっ
黒豚は嬉しそうに寄ってきた。どうやら赤ワインが飲みたかったようだ。私は想定外の飲み相手を獲得した。
「どうぞ、家の中散らかってるけど」
私は黒豚を招き入れるとドアを閉めた。
豚は家に入るとふがふがいいながらリビングまですいーっと飛んでいった。豚を家に招くなんて、不思議なこともあるもんだ。私は豚に続いてリビングへ向かう。
キッチンで手を洗いグラスを一つ、スープ皿を一枚取り出してリビングテーブルに置く。ワイングラスは私の席に、スープ皿はもちろん向かいの席に。
少し悩んだけれど私は冷凍庫から氷を6個取り出すと3個ずつワイングラスとスープ皿に入れた。そしてそれからさっき買ったばかりの赤ワインを私はなみなみと注いだ。ぬるいワインよりも冷たいのが飲みたいなと思って。
豚は最初はリビングの中をふよふよと漂っていたが、窓の側を通った時にちゃんとカーテンを閉めてくれた。気が利く豚である。
レジ袋からローストビーフを取り出す。そして連休中に食べきれなかったバケットが入ったバスケットの横に並べると私は椅子に腰掛けた。
「用意ができたわよ」
私が声をかけると豚は嬉しそうに飛んできた。
「乾杯」
私はグラスをスープ皿に軽く当てた。
カチン
軽い音が部屋に響く。
豚は浮いたまま嬉しそうにふがふがとワインを飲んだ。どうしているのかわからないけれど豚は一滴も溢すことなくワインを綺麗に飲んでいる。よく見るとかわいい豚だ。
「あなたはどこから来たの?」
私はグラスを片手に聞いてみた。
ふがっ
豚はワインを飲みながら何かを言った。でも何を言っているかはわからない。そりゃそうか。こればかりは仕方がない
豚はワインを飲み干すと満足そうに顔を上げた。そしてふよふよとテーブルを迂回して私の前まで来ると頭を下げた。
「お礼? そんなの気にしないで。こちらこそ楽しい時間が過ごせたわ。ありがとう」
私はそう言って豚の頭を優しく撫でた。別に撫でようと思った訳ではない。気がついたら撫でていた。
ぶっ、ぶっ
豚は嬉しそうに尻尾を左右に振りながら鳴いた。どうやら気持ちがいいみたいだ。2分ほどそのまま豚を撫でていると豚はゆっくりと透けていきそのまま消えた。
夢でも見ていたのだろうか。そんな気もしたけれど私の前の席には溶けかけの氷が残ったスープ皿が置いてあった。それから部屋の中には微かにミントの香りが漂っている。
翌日からだ、私の人生が変わったのは。
豚に出会った翌日、仕事帰りに駅前のスーパーで素敵な男性と出会った。5つ年下の彼。彼と過ごす時間はとても楽しくすぐに私たちは付き合うことになった。
付き合ってからも特に何の問題もなかった私たち。付き合って2ヶ月後には結婚することを決めた。そして出会ってからちょうど一年後に私たちは入籍した。
結婚式にはもちろん彩香を招待した。なんだかんだ言っても会社で一番仲がいい彩香。彼女には友人代表としてスピーチを頼んだ。彼女は快諾してくれて披露宴では素敵なスピーチをしてくれた。
彩香はまだ結婚していない。素敵な相手も見つかっていないそうだ。彩香はあの日定時で帰ったものの黒豚には出会えなかったらしい。一年前のあの日の翌日、そのことは出社してきた彩香の顔を見てすぐに分かった。
黒豚を見たことは彩香には言っていない。いや、彩香だけでなく誰にも言っていない。一緒にワインを飲んだことは私だけの大切な思い出にしようと思っている。
そうだ。ブーケトスでは彩香が花束をキャッチしてくれた。花束をキャッチする時、彼女の顔が狩人の顔に見えたのは私だけではない気がする。