十六
香の香りが廊下まで漂っていた。
雲景は、神殿の情景が浮かんできそうな程馴染みのある匂いの先へと迎えば、そのまま目指していた部屋へと辿り着いていた。
偶々、軒轅とすれ違い状況を聞いたが、正直彩華一人でも問題無い様にも思えた。そもそも、護衛役である朱霍雨がそばに居ないと言う事は問題は起こらないと想定されているか、起こったとしても現では対処できないと言う事だ。そうと分かっていながらも、雲景は足を止めなかった。部屋へと戻って、軒轅と共に休むと言う選択肢もあったが、一目、会いたかった。
本人に言ったら、恐らく呆れるだろう。
基本、毎日顔を合わせているのに、と。
浮ついた精神は、仕事を疎かにする。よって仕事との関係は切り離したものでなければならない。
それが、彩華と関係を持つ上での約束事だった。
彩華は仕事には愚直にも真面目だ。そうは見せない所が、彩華らしい一面でもある。
その姿を想像すればする程、向かう足はより一層早く動くと言うものだ。
そして、今、その目的の部屋にたどり着いたのだが――
『彼女とは、恋人ではありませんよ』
自分で言い放った言葉に、雲景自ら傷ついていた。そして、それが真実なだけに余計に辛いのか、隙間から溢れる香の香りと静寂で満ちた部屋の前に、怖気付いている。扉に手をかけた状態で固まって、ほんの少しの力が、扉に引っかかった指先に入らない。
彩華に聞かれていないからだとしても、祖母を黙らせる為とは言え、その様な言葉を言いたくは無かった。自己嫌悪に陥り、まるで迷宮の様に抜け出せない。
そうやって暫く悶々としていると、扉が知らぬ間に音を立てて開いていた。軽く乗せていた手が外れ、開いた扉の先には彩華が首を傾げて雲景を見つめている。
「……雲景様、そんな所で何をされているんですか?」
扉に掛けていた手は宙に浮き、突然現れた彩華にどんな顔をしていいのか分からず、間の抜けた顔を晒している。
恐らく、彩華は扉の前に雲景が立っている事に気配で気付いたのだろう。そして、その気配はいつまで経っても扉を開けない。不審に思われて当然だ。
「様子を見に来たんだ」
「巫にあまり扉を開けない様にと言われているんです。入るなら、入ってください」
間髪入れず、答える姿は何とも素気ないが、間抜けな様を晒した手前、雲景は言われるがままに従い中へと入るしかなかった。
中は、視界に燻された煙が目に映る程に香が焚かれている。咽せ返る匂いに、雲景は堪らず顔を顰め、手で口元を押さえた。
「凄いな……」
「暫くしたら慣れますよ」
その言葉通り彩華は何とも無いのか平然とした顔を見せ、長椅子に乱雑に積まれた書籍に手を伸ばしている。だが、読み始めるのかと思えば、書籍を雑に退け、自身と雲景が座る場所を空けていた。二人座るには十分な空間が出来上がると、彩華は腰を下ろしていた。
雲景は空いた彩華の左側を呆然と眺めた。実際のところ、既に一目見たのだから、目的は達成されている。
どうしたものかと、椅子を見つめ続けていると、一向に座らない雲景にを再び不審がる彩華が首を傾げていた。
「あ、すぐ戻られますか?」
一目、顔を見たら、雲景も戻るつもりだった。
が、首を傾げて、その目に見つめられた瞬間、雲景の口からは真逆の言葉が出ていた。
「……いや、暫くいる」
多分、彩華は特に何も考えずに言っている。その言葉に含みなど無いと分かっていても、抗えない何かがある。言ってしまえば、惚れた弱みというやつなのだろう。大人しく空いた椅子に座ると、書籍に目を落とした女に右手を伸ばしていた。
そうすると、途端に彩華の顔の雲行きが怪しくなる。
「仕事中は、只の同僚の筈では?」
後ちょっとの所で、不貞腐れた顔の女に手は遮られていた。
「それに、直ぐそこに巫が燼を見ている最中ですので、ご遠慮下さい」
そう言って、彩華が向ける目線と同じ方を見れば、香で満たされた視界の向こうに、確かに気配の薄い少女の姿があった。居ると言われなければ、その存在は薄い。座っている様にも見えるが、眠っている燼同様に、その姿は小揺るぎもしない。
だが、彼女が重責を担っているのは違いない。雲景は彩華の言う通り、少々沸いた邪な考えに蓋をした。
「……わかった」
そうは言っても、多少は許されるだろうと雲景は掴まれた手をそのまま握り返し放さなかった。
「読めないのですが……」
ただ握るだけ。それでも、片手で書籍を熟読するのは、少々鬱陶しい。
「手伝おうか?」
「結構です」
手を降り払われないのを良い事に、雲景はその手を指で摩り、手の甲に口づけを落とす。
そうしていると、諦めを見せたのは彩華の方だった。されるがままの左手を差し出して、雲景の様子を伺っている。
彩華の前は、雲景が燼の様子見番だった。その時を思い出すも、特に変わった様子は無い。何かあったとすれば、軒轅の言っていた祖母の存在なのだろうか。
「……何かあったんですか?」
一瞬、雲景が動きを止めたが、行為は止め処なく続いた。
絶縁宣言をした、などと言える訳も無い。心配を掛けるか、呆れられるか。どちらにしても、どうでも良い事だった。
問題は、自身が口にした言葉だった。自分で言い放った言葉を消し去りたいが為に、甘ったるい行為を続け、静かに
「何でもない」
そう答えると、身を乗り上げ、彩華の唇を奪っていた。
矢張り、拒絶はされない。雲景は、唇が離れ、元いた場所に落ち着くと、再び彩華の手を取った。
「これ以上は、許しませんよ」
「わかっている」
そう言って、再び彩華の左手を握ると、惜しげもなく唇を落としていた。
甘い




