十五
客間の一室で、寝台を前に置かれた椅子に腰掛け、彩華は一人書籍を読んでいた。
部屋の片隅に置かれた寝台。その上で眠る燼に変化は無い。一応一人は側で見守る事としているが、慣れてしまうと、無為な時間が苦痛となる。
宿では、これと言って暇を潰せるものもなかったが、今いる場所は桜省の桃廉城だ。流石は風家とあって、あちらこちらに書籍が散りばめられている。今滞在している離宮にすら、書棚が幾つも並び、どれから読もうか迷う程だった。
そして、後少しで読み終わる所で、背後の扉が開いた。交代の時間ではない筈だ。それとも、定刻を知らせる鐘の音を聞き逃してしまったのだろうか。そんな事を考えながら顔を上げ振り返ると、目に飛び込んだのは軒轅の隣に小さく佇む少女の姿だった。
「彩華、神子瑤姫様より遣わされた巫だ」
こじんまりとした体格に、少女を際立たせる丸みのある顔。程よく紅色に染まっては、可憐な少女の顔を際立たせる。粒らな瞳は小さく揺れ、彩華の目には、小動物が目を潤ませている様にしか見えていなかった。
言ってしまえば、彩華は愛らしいものが好きだ。純粋なる子供しかり、動物などもそれに値する。悪意のないその姿が、彩華にとっては眼福なのだそうだ。だからか、燼が幼かった頃も、熊の姿を見ると不用意に触れていた。
だからと言って、誰も彼もを触れていい訳でも無いし、もし今それをしようものならば、皇孫殿下の従者としての名が廃る。
欲望のままに生きれたらどれだけ良かったことか。相手は、神子瑤姫の巫だと幾度となく言い聞かせ、抱きしめたい衝動を必死で抑えていた。
「田四飛と申します」
挨拶まで可愛らしい。彩華はこの上なく、上機嫌だった。徐に立ち上がり、四飛の前に屈んだ。
「私は、祝融殿下の従者を務める郭彩華と申します。それで、こちらの眠っているのが、燼です」
そう言って、彩華は久しぶりにはっきりと燼を見た。読書に耽ることで、見ない様にしていたその顔は、浅い呼吸の所為で死体も同然に見える。その顔を見る度に、心苦しくなり、目を逸らした。
「田女士、我々では夢見の事は分からない。現状がどういった見解かを聞かせて欲しい」
軒轅の訴えを聞いてか知らずか、四飛は茫然と燼に近づいた。
それまで彩華が座っていた椅子に腰掛け、燼の手を握る。
「この方は、とても深い眠りにいます。何とか目覚めようと踠いていますが、まだ時間は掛かるでしょう」
「……貴女が目覚めさせる事は可能か?」
「やってみます」
そういうと、四飛は背負っていた荷物を探り始めた。そうして出てきたのは、香炉だ。香料を入れると、四飛はきょろきょろと辺りを見回し何かを探していた。
「何か?」
「あの、火種はありますか?」
「貰ってこよう」
火種は、直ぐそばにいる。彩華も同じ事が浮かんだのか、不謹慎にも二人とも顔を合わせてクスリと笑っていた。軒轅は香炉を一時借りると言うと部屋を出て行った。そして、そう時間も経たないうちにしっかりと焚かれた香炉を抱えて戻ってきたのだ。
独特な香りが、部屋中に満ちていく。よくよく嗅げば、その匂いは軒轅にも、彩華にも覚えのあるものだった。
「これは……神殿の?」
「そうです。神子様達が調合されているものと同じです。出来る限り、部屋の扉は閉めたままでお願いします」
香の匂いを満たしておく必要がある。それだけ言うと、四飛は再び燼の手を両手でしっかり握ると、目を閉じた。
「始めます」
それが、合図だった。
――
――
――
夢の通い路、黄泉への道、常夜。さまざまな呼び名で呼ばれるそこは、いつも夜だ。夜に似ているが、近いだけで似て非なる世界。
星空も月も無く、暗闇が果てまで続いている。
四飛は、目の前に続く光る道を見た。誰の心に反応しているのか、今も名もなき道は揺蕩い四飛を待ち構えている。
どの道を選ぼうか。四飛が道を定めようとした時だった。
『四飛……』
微かに聞き覚えのある声が、耳に届いた。
神子王扈だ。四飛は、そう確信すると、声のした方へと導かれるままに歩いていった。
虚う道を横目に、四飛は歩いた。代わり映えのない景色。付き纏う鬼達。
正直、四飛は常夜が嫌いだった。世界に音は無く、美しく輝く道は、その実、人の夢の残骸だ。美しく見えるのは、何も知らぬ子供達を悪夢へと引き摺り込む手段でしかない。揺蕩う様で、意志を持ち、餌を待っている。
そんな怪物染みた姿をひた隠す。それが、四飛の思う常夜の姿だった。
ふと、また声がする。
此処だ。何も無い暗闇に中、足下に気配が二つ。
気付けば、付き纏っていた鬼達は遠くで口惜しそうに此方を見ていた。此処に何かある。そして、鬼程度では近付けないのだ。
四飛その場に座り込み、二人がいるであろう場所に手を当てた。すると、沼にでも飲まれるかの如く、ズブズブと四飛の手は沈んでいく。
嫌な感触が手に伝わった。水よりももっとドロドロとしたもの。油にも似ているが、もう少しばかり固まりの様な感覚がある。四飛の脳裏には子供の頃に田植えを手伝わされた時の記憶が過ぎっていた。一歩進もうにも、泥に足を取られ思う様に動けない。そんな感覚だった。
それに肘迄浸かった頃、変化があった。
四飛の手に、何かが優しく触れた。温かみのあるそれは、ゴツゴツとした男の手を思わせる。その手は、四飛に何かを握らせると離れていった。
そして、再び声が響いた。
『……まだ、目覚めさせてはいけない』
声は、又も王扈のものだった。
その声に従う様に、四飛は沼から手を引き抜いた。握り締めた手を引き抜けば、玉が二つ手中にある。
暗闇の如く濁ったものと、黒く濁りながらも紺碧の色を残すもの。
四飛は、玉をそれぞれに覗き込んだ。だが、どちらも濁りすぎていて、どんなに良い眼を持ってしても見通すことは出来ない。
二人は無理矢理に目覚めさせる事を拒絶した。
その事に意味はあるのだろう。四飛は、その意味までは読み取れなくとも、自分に為すべき事は決められていた。
立ち上がり、暗闇の果てを見ると、二つを手の上で転がした。
「……さあ、案内して頂戴」
四飛の足下が輝き始めた。四飛の力に呼応して、常夜は道を指し示す。一歩、また一歩とその道を辿っていった。
――
――
――
「どれぐらい掛かると思う?」
四飛が眠りについて暫くすると、暇になった軒轅が口を開いた。何が起こるか分からないから、取り敢えず二人体制で待機しているが、やる事が無い。彩華も暇潰しに二冊目の書籍に手を出して読み耽っている。
「さあ、分からないですよ。それより誰か仮眠取ってます?」
本から目線は上げず、軒轅に言葉を返す。太々しくも見えるが、家柄は軒轅が上だが立場的には彩華は先達だ。丁寧な口調で話してはいるが、それは単純に使い分けるのが面倒だから、と言う太々し過ぎる理由でしかないのだ。
「いや、次は俺の番だったか?」
「そうですよ。夜まで寝ておいて下さい。もし私一人で心配なら、雲景様を呼んできたらどうですか?」
その言葉で、軒轅の脳裏に、雲景が有無を言わさず霍雨に連れ出された情景が浮かんでいた。
「……いや、雲景氏は祖母君に拉致された」
軒轅は、情景そのままを伝えただけだが、それまで軒轅に目もくれなかった彩華も、思わず顔を上げていた。
「新手の冗談ですか?」
「そうじゃない。巫の護衛が朱霍雨という方で、その方が雲景氏の祖母君だったんだ」
成程、と彩華が呟く。と、同時に巫のお遣いの為に態々朱家を遣わしたと言う事実が浮き彫りとなっていた。
「さすが神子様。朱家を顎で使うんですね」
若干の嫌味にも聞こえる。神子瑤姫は皇帝神農の娘であり、姜家の一員である。朱家と関わりがあっても何ら不思議でもない。
「その言い方はどうかと思うが……まあ、神子長は瑤姫様だ。そこら辺はどうとでもなるだろう」
「……で、雲景様は、その方に拉致されたと」
「あぁ、無理矢理引き摺られていった。今頃、説教かもしれないな。中々の剣幕だった」
これは、冗談のつもりだったのか、軒轅はにやりと笑う。だが、彩華の反応はいまいちだった。
「……へぇ」
興味が無いのか、彩華の目線は再び書籍へと向いていた。
「早めに休んでおかないと、後で辛くなりますよ」
「……わかった」
冷めた口調が、その話題を区切りたいと言っている様だった。
今ひとつ、彩華の性格は汲みにくい。普段は明るく軽快な人物なのだが、時々切り替わる様に冷めた面を見せる。燼を弟の様に思っているかと思えば、今は全くと言って心配している様子もない。何が本当なのかが、一番分からない人物でもあった。
「一応、雲景氏に声を掛けておく。後を頼むぞ」
「はいはーい」
軽すぎる返事と共に、彩華は手を振っていた。
「(緩い……)」
祝融には絶対見せない姿を軒轅には惜しげもなく晒してくる。ある意味で、自由な人物であもあるが、その姿は下級とはいえ、貴族を思わせなかった。




