十四
雲景が霍雨に無理やり連れ去られた後、霍雨に置いてかれた四飛の心細さと言ったら、さながら狼の群れに放り込まれた羊の気分だろう。普段接している人物は、雲上人の中でも至高の存在だが、女性であり聖人だ。今、目の前に居る人物は、その人物の甥に当たるわけだが、こじんまりとした小柄な四飛からすると、見上げる程の大男な上に、業魔討伐を平然とする男と耳にしていた。
今にも泣きそうな表情に、助けを求める様な目。
正に、蛇に睨まれた蛙の状態である。
「お前、怯えられてるな」
状況としては、この上なく面白い。先程までの険悪な表情が嘘の様に、鸚史は再び長椅子に腰を下ろすと肩を震わせ笑いを堪えていた。
「はっきり言ってくれるな。軒轅、すまんが彩華を……」
祝融が一番に浮かんだのは、一番適している人物だったが、その人物は今目的の人物と一緒である事も思い出した。
「呼びますか?」
「……いや、直接向かおう。その方が早い」
基本、温厚である事を自負していただけに、こうまで怯えられると祝融の方が泣きたい気分にもなりそうだった。
「……四飛と言ったな、其方に任せたい事案がある。頼めるか?」
「……も……勿論……で御座います……」
不安だ。神子瑤姫信頼の下寄越された人材と言っても、限りない不安が祝融の中に込み上げる。しかも、祝融の背後には今にも腹を抱えて笑い続けそうな程に堪えている人物が、より不安を駆り立てた。
そんな男を間近で見てか、気を使い始めたのは軒轅だった。四飛の前に歩み出て屈むと出来る限り目線を合わせて話しかけていた。
「其方に姓はあるかな?」
「……田です。瑤姫様に付けていただきました」
「では田女士、件の人物は此方だ。案内しよう」
「は……はいっ」
軒轅が微笑みかけ、一介の淑女を相手取る様に態度を示すと、四飛の背筋が少しばかり伸びた。僅かだが緊張もほぐれたのか、青ざめていた頬にも、仄かに赤色が帯びている。
「では、行こう」
朗らかな顔のまま、軒轅は四飛を連れ立って歩き始めたかと思うと、部屋から出る直前に何かを思いついたかの様に振り返った。
「祝融様、鸚史様、何かあればお知らせします。今のうちに、お休みください」
遠回しに邪魔だから来るなとも言われている様で、祝融はその場に留まるしかなかった。
呆然とする祝融を他所に、事をが進む様を黙って眺めていた鸚史が徐に口を開けた。押さえられない笑いが溢れながら。
「なぁ、俺、笑い転げても良いか?」
息も切れ切れに、笑いを含んだまま話し続ける。そんな鸚史の姿に祝融が冷たい目を向けたのは言うまでもない。
「……元気になった様で何よりだ」
恐らく、四飛がその眼差しを見たら卒倒してしまうだろう。が、昔馴染みの鸚史は、そんな姿を一切気にする様子もなく、言葉を続けていた。
「いや、昔、お前に初めて槐を合わせた時を思い出してな」
過去を思い出し、また笑いが込み上げたのか本当に腹を抱えている。
「あー…そんな事もあったな」
祝融としては、笑えない苦い思い出だ。祝融が槐と初めて会ったのは、単純に友人の妹としてだった。
風家邸に遊びに行くと、挨拶ができるようになったからと幼い槐が、祝融の目の前に連れて来られた。当時、祝融は二十三。対して、槐はまだ六つと幼かった。
特に何をしたわけでも無かったのだが、状況は四飛を前にした時よりも悪く、槐は挨拶も儘ならぬまま、泣き崩れ薙琳に震えながらしがみついていたのだった。
槐と夫婦になった今は、笑い話の種とも言えるが、祝融にとっては、とても良い思い出とは言えない。
「思い出し笑いだけで随分と楽しそうだな」
「なに……俺としちゃぁ、悪くない思い出だ」
一頻り笑い続けたかと思ば、表情はまた不穏なものへと変わっている。
「祝融、出来れば俺は薙琳を連れ戻したい」
「……それは本人に言ってくれ。俺は友人として、薙琳を心配しているから此処にいる」
そう言うと、祝融は書籍で埋まっていた椅子から一冊だけ手に取ると、パラパラと頁を捲っていく。
「巫だけじゃ不安か?」
「いや、瑤姫様が遣わした者を疑ってはいない。ただ、気になる事があるだけだ」
「何だ?ユラとやらの動機も動向も知れない事か?」
「あぁ。薙琳はどうやって探るつもりだ?昔の伝手など残ってはいないだろう」
「伝手は残ってなくとも、似た組織は存在するだろう。俺達よりも、そう言った連中を簡単に見つけるさ」
薙琳の過去は単純だったと語った。
村を出た後は、省堺移動の際の用心棒を生業に桜省各地を転々と旅をしていたのだと言う。その実力から、排他的な集団から勧誘を受け、その繋がりを薙琳自ら口にした事はあった。情報筋として使っていただけだったらしいが、実力を見出され風家を主人とした時に、その繋がりも途絶えたと言う。
そう言った連中は表立っては動かない為、見つけるのも困難だ。
「……成る程な」
考え込む祝融を他所に、鸚史はついでにと言葉を続けていた。
「俺も、一つ気になったんだが……」
「何だ?」
「雲景は放っておいて良いのか?」
霍雨によって、無理矢理何処かへと連れ去られた雲景。鸚史は、霍雨の表情からして、何かしら怒られているのだろう程度には予測していた。ただ、今後に支障が出ると少々厄介となる。
「……まぁ、家の事にまで俺は口出し出来んからな」
祝融も、それとなくは何の話か察していた。だからこそ、何も出来ないと判断していた。
――
「それで、雲景……本家に寄り付かない理由を聞かせておくれ。それなりの理由があるのだろう?」
目が笑っていない。そんな言い回しがあるが、雲景は今まさにそれを見ている気分だった。
完全に立腹した状態の祖母を目の前にして怖気付いている。そう思われても仕方がない程に、雲景はおよび腰だ。
雲景は、祖母が苦手だ。当主の姉という厄介な立場でもあるが、元武官というのも相まって高圧的な物言いが多い。更には、祝融の様な皇族相手にも遠慮がないという恐ろしい人物だ。自分が言いたい事を言い放っては、こちらに反撃する余地すら与えない。本当に武官だったのかどうかも怪しい程に口が回るのだ。
そして、今、離宮の一角にある東屋で雲景を眼前に構えている。下手な発言をすれば、今後全てに関わってくるのだろう。
慎重を喫したいが、どうにも雲景の目の前で腕を組み睨みを効かせている人物は、憂慮する時間すら与えてはくれなさそうだった。
「お祖母様、今は、そんな話をしている場合では無いのですが」
忙しいで押し通そうと考えているわけでは無いが、今は、実際に問題を抱えている最中だ。雲景としても、そんな事で時間を割きたくはなかった。が、霍雨が簡単に引き下がる訳もなく、顔は険しさを増すばかりだ。
「ではいつなら問題ない?お前は、ここ数年、帰ってこいと催促した所で一度として本家の敷居すら跨いでいないではないか」
「それは、忙しいと何度も……」
「だが、恋人と過ごす時間はあるのだろう?」
その言葉に、雲景は固まった。主人を除いて、誰にも知られていない筈だ。あまりにも突然で、隠していた事だけに、雲景は言葉に詰まってしまった。
「何だ、当たりか」
今更弁明した所で遅いだろう。雲景に出来る事は、その恋人がすぐそこに居る事を隠し通す事ぐらいだった。
「……出来れば、放っておいて欲しいのですが」
「別に恋人ぐらい問題ない。だが、一度本家に連れて来い。連れてこられる人物ならな」
霍雨の瞳が、鋭く雲景を刺した。
「それは、どういう意味でしょうか」
「……お前が住んでいる部屋に、黒髪の女が入って行く所を見た者がいるらしくてな。それでも意味は分からんか?」
「見間違いでは?」
「祝融殿下の従者に一人……いたなぁ、黒龍族の女が。見たことはないが、噂で相当な腕に持ち主だとか」
確実に、彩華の事を指し示していた。全て知っている。知った上で、霍雨は雲景の口から語らせようとしていた。
龍人族には、『色違い』という言葉がある。それは、同種族同士でも、色が違う場合の連れ合いを意味する。他種族の婚姻や交わりと違って、法的に禁じられている訳でもないが、高位の家々では、良しとしない所が多い。理由としては、生まれる『色』が安定しない上に、母親側に引っ張られる傾向にあるからだ。
古来から、その色こそが、自らの種族の証とされる。だからこそ、『色違い』などと言う言葉が生まれのだった。
「先程は、別件で席を外していただけか?」
「彼女とは、恋人ではありませんよ」
「本当か?本人に聞いても問題はないのか?」
益々鋭さを増す霍雨の瞳に、雲景は逸らす事なく答えた。
「えぇ、問題ありません」
胸の奥底で、チクリと痛みが走った。
嘘は、ついていない。雲景と彩華は、疑似的な恋人関係だ。何年も続いているというのに、殆ど肉体関係だけの繋がりだけ。他の時間の殆どが、同僚でしかない。自分の手中にある様で、幻の様に掴めない。
「ならば、何の障害も無いな。そろそろ本腰を入れて、縁談の事を考えてもらう」
雲景の心情など御構い無しに、霍雨は話を進め続けた。
「私を家に縛り付ける理由が欲しいからですか?」
「お前を時期当主候補に上げるためだ。祝融殿下を支るのは、お前の役目だ。お前に箔が付けば、殿下へと繋がる」
敢えて、雲景の個人を無視した言葉ばばかりだった。利益ばかり並んで、他には目もくれない。
「飛唱がいます。飛唱の弟や従兄弟達も……」
「勿論筆頭候補は本筋の者達だが、どれも少々物足りなくてな。それに関しては、当主も分かっている。どちらにしろ、まだ先の話だが準備は進めておくべきだ」
「私は、その様な事は望んでいません」
「これは、朱家の総意だ。覚悟を決めろ」
覚悟とは、何だろうか。雲景にとっては、命を賭けるものこそ、覚悟だった。だが、今の状況は、雲景の人生を賭けたものだ。そして、心を通わせたい女を諦め、どうでも良い女と通じ合う。
何と、滑稽な人生だろうか。
そう思った瞬間、雲景の口は自然と動いていた。
「……馬鹿馬鹿しい」
「何だと?」
霍雨の顔は険しいどころでは無くなった。明らかな敵意にも似た殺気を纏わせずに雲景を見る。
「もう一度言ってみろ」
「馬鹿馬鹿しいと。縁談は受けません。当主の座も興味はありませんので、そちらで勝手にやって下さい」
「……お前、処罰が無いと思って高を括っているのか?」
青筋立った顔に、雲景は恐れる事は無かった。寧ろ、今まで何を恐れていたのだろうか。
様子を伺い、空気を読み、機嫌を損ねてはいけない。そう教わり生きていたが、それを辞めた途端に口は回り続けた。
「では、勘当でもなんでも好きにしたら良いでは無いですか。今の所、仕事を失う恐れは無いので、これで好きに生きれます。どうぞ、ご自由に」
「……覚悟はあるのだろうな」
冷ややかな声だった。恐らく、霍雨は本気だ。当主に一言言えば、全て終わる。だが、それがなんだと言うのだろう。
雲景の中には、矢張り彩華が映った。下級貴族で大した援助も無く、身を立てている。それを思うと、大きな家柄に支えられる意味など無い様にすら思える。
だから、雲景が告げた覚悟とは、人生で最初の覚悟だった。
「私の覚悟は、祝融様が業魔と対峙した時より有ります。それは今も変わっておりません。ですが、その覚悟の後に、どうでも良い女の顔を伺って生きるなど、御免だ」
言いたい事は全て言った。霍雨から言葉は返ってこず、これ以上の言い合いは不要とだろう。雲景は立ち上がると、霍雨に目もくれず、その場を立ち去った。
霍雨が、悲嘆の顔に暮れているとも知らずに……
何だか、永くなりそうですね。




