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祝炎の英雄  作者:
第四章 白き山と永遠の冬
44/233

 森は生きとし生けるもの、全てを拒んでいた。

 季節外れに鬱蒼と茂る木々の隙間から、決して森の全貌は見えてこない。

 禍々しい、狂気に満ちている。そんな言葉では言い表せないものが、そこにはある。

 入ってはいけない。そう言われている気がして、全身が森を拒んでいた。

 祝融は、何度か鎮守の森の近くまで行った事はあったが、用があるのは大抵、その近くにある獣人族の村だ。無闇に入ろうと考えたり、神を冒涜する言葉が浮かんだ事は一度として無い。

 何故、今日になって入ろうと考えたのか、正直な所、自分でも理解は出来ていなかった。

 今、目に映る森の姿は、僅か一端だ。その向こうに、更なる広大な森林が、白仙山の麓まで広がっている。


「やっぱり止めとく?」


 少女の声で、祝融は我に返った。何かに捉われて、周りが見えなくなるなど初めての事だった。神域を目の前に怖気付いたとでも言うのか。

 恐らく、ナギの目にも、そう映っていたのだろう。心配する様に、祝融の顔を覗き込んでいた。


「いや、行こう」


 祝融の言葉で、ナギは小さく、「そう」とだけ返すと森に向かって歩き始めた。


「じゃあ、着いてきて」


 そう言って、声を掛ける間も無く、ナギは生い茂った木々に向かって突っ込んで行った。姿は木々の中に消え、同時にナギの気配も曖昧になっている。

 神の領域に踏み込んだのだ。そう考えると、一瞬躊躇するも、祝融と燼は後に続いた。


 音のない森。それが、最初の印象だった。霞みがかった景色が視界を鈍らせている。澄んだ空気という印象よりも生気が濃く漂っている様な感覚が、祝融にはあった。不思議な事に、それを感じているのは自分だけという事も、確かだった。足取りの重い祝融とは裏腹に、前を行く二人は軽快に進んでいく。

 それが、許された者と思い知らしめる様に。

 だが、行く手を妨害されているのか、間近にいる筈の二人は妙に遠くに感じていた。


「(森に入ると神罰が下ると噂もあったが……)」


 祝融は先に進む二人に意識を集中しながらも、辺りを物珍しそうに目を配り続けた。

 森の中に冬は存在していない。雪も無く、枯れ枝一つ落ちていないのどころか、花々が咲き乱れ、まるで春だ。花の香りか、甘い匂いが漂い、より異界を思わせる。

 これが神域の影響であるなら、森は力を一つ所に留めておく結界の役目なのだろうか。

 花の香りの所為か、祝融の思考が途切れ始めた。意識を向けていた筈の二人の姿は、段々と距離が開きつつある。


「(いつの間に……)」


 追い付こうと歩速を速めても、一向に追い付くどころか遠ざかって行くばかり。このままでは、二人は霞の向こうへ行ってしまいそうだった。

 

「燼」


 燼の耳の良さは、祝融もよく知る所だ。だが、名を呼んだ所で燼は反応を示さない。それどころか主である祝融と距離を保とうとせず、一度として振り返るそぶりすら見せないのだ。

 何か異常が起こっている。

 祝融は足を止めた。そもそも、この森に入ってから、燼は一度として立ち止まる事なく歩き続けている。ナギも気にかける素振りも無く、森の深潭へと導くだけだ。


「(鎮守の森に入ってから、二人の顔を見ていない)」


 あれは、燼では無い。脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。

 祝融が立ち止まっても、二人は歩き続け、遂には霞の向こうに消えていった。あれらは信頼する従者で無い事は確かだ。祝融には確信があった。若いが気配に誰よりも過敏であり、主人を蔑ろにする様な男でもない。そして、本当の信頼すべき従者は、神の領分に入る事を許された者だ。神に惑わされる事は無いだろう。だとすれば、惑わされているのは、自分自身だ。


「……雲景の言う通り、何かが起こってしまったみたいだな」


 一人になった祝融に、神に抗う術はない。そもそも、自ら神の領分に侵入し、神罰が無いなどとたかを括っていたのだから、当然の結果とも言えた。そう考え全てを受け入れたなら、冷静にもなれる。

 だが、現状できる事は無いというのも事実だ。既に、方向感覚は失われていると考えた方が良いだろう。下手に動き回るよりも、燼とナギを待つほかない。祝融は、適当な木を背に座り込み、再度森を見渡した。


「不死でも辛い……か。何がと、聞いておくべきだったか」


 稀に、不用意に森に入る者がいる。ナギの言葉通り迷い込んだ者や、恐れを知らぬ者。殆どが出れないと聞くが、運が良ければナギの様な選ばれた者の手によって連れ出される事もあるのだろう。

 入ってみれば良いと、軽口に言ったという事は、多少であれば害は無いが、時が経てば経つ程に影響が出るのだろうか。祝融には、文字通り身を以って経験する他に答えを見出す術は無い。


「問題は、いつ影響が出るのか……はたまた、既に影響が出ているか……だ」


 ぶつぶつと考えを口に出しては、今、自分自身が正常であるかを確認し続けるしかなかった。


 ――

 ――

 ――


「簡単に入れるんだな」


 燼は、森に一歩入った瞬間に、夢と似た感覚を覚えていた。まるで、幻夢だ。

 雪は消え、生命漲る深い、深い、春。季節外れの花々に、山の恵みともいえる山菜や木の実、果実。そして、温暖な気候。ナギが、軽装で良いと言った理由は、此処が春そのものだからだ。

 それまで燼が見てきた幻夢や夢は、現実に近いものばかりだったが、鎮守の森は、正しく夢の世だ。幻とも思える目の前の世界に引き込まれていた。

 だが、それも一人の少女の声に呼び戻される。


「……ねぇ、姜家の方は?」


 その言葉で、燼は慌てて首を横へと向けた。目を向けた先に主人の姿も気配も無い。燼は完全に動揺していた。

 確かに隣に居て、同時に入った筈だ。燼は、もしかしたら入れなかっただけかもしれないと、再度森を出ようとしたが、ナギは燼を引き留める為か、慌てる燼の腕を掴んだ。


「……あの方は森に入ったよ」

「何で判る」

「普通、鎮守の森に入ろうだなんて口が裂けても言わないもんだよ。呼ばれたのは、燼さんだけじゃ無いって事」


 掴まれた腕を振り払う事は簡単だが、ナギの落ち着き払った様子を見ていると、自然と燼も冷静さを取り戻していた。


「お前は、何かあると最初からわかっていたのか?」

「何か起こるとまでは考えてなかったよ。あたしは仕事柄、神の導きを信じてるってだけ。燼さんは?」


 答えるまでも無い。燼は白神の言葉で、わざわざ最北端の地に赴いたのだ。


「……目的が読めない」

「何が目的かなんて、それこそ神のみぞ知る事だよ」


 そう言ったナギの体が、波打ち、揺らいだ。元々小柄だった身体は更に縮んでいき、大きな羽ばたきと共に、鋭い目つきの鳥の姿へと変化していった。


「……梟か」

「こっちの姿の方が、感覚的にね」


 灰色掛かった梟は、羽を広げるとより大きな存在となっていた。梟は警戒心が強く獣人族前にすら、滅多に姿を現さない。

 燼の肩を止まり木代わりに乗り上げる姿は、野生のそれと変わりないが、姿は一回り程大きく、脚の爪は肉に食い込んでいる。

  

「痛かったらゴメン」

「別に良いさ。主人を見つける為に俺の肉が削げ落ちるぐらいで済むなら、安いもんだ」


 ――

 ――

 ――


 時間の流れが、今一つ掴めなかった。霞は濃くなり続け、視界の全てを埋め尽くす勢いだ。光は届かず、昼か夜かの判別も出来ない。光も導く者も無い状況で動けば更に迷うだけ。その場から、一歩として動く事は無かった。どの道、既に肉体に異変は始まっていて、それどころでは無かったのもあった。

 神域は人には毒だ。

 何が毒かまでは、どの書物にも記されていない。神の息吹か、はたまた影響力か。ただ、人には住めぬ場所としか記されていないのだ。

 不死も又、人である。只人よりも強い肉体で生まれくるが、死は存在する。神の威光を前にすれば、只人と何ら変わりない矮小な存在でしかないのだ。

 

 息苦しさを感じながらも、祝融は思考を止めなかった。思考を止めると大いなる存在に飲まれ、精神が引き摺り込まれそうになる感覚が、絶えず祝融を襲っていた。


『祝融、不貞腐れているのか』

 

 何処からともなく、声が響いていた。霞の中に囚われていると言うのに、そこに居る筈の無い気配は、良く知る人物だ。目を閉じた所で、幻覚は頭の中まで追いかけて来る。それも、()()()()|に語りかけて来るではないか。ここ最近の姿からは、想像も出来ない様相の道托。

 子供の頃は大きく見えた姿が、直ぐそばにあった。


『先の負けが、余程悔しいと見える』

『まだ剣を持ち始めて、一年だ。お前なら、今に俺達よりも良い武官になるだろう』


 神の嫌がらせか、情を含む声色が子供の頃、まだ兄達が優しかった頃を思い出させてくれる。

 

『兄上、神学の授業を抜け出してきたのですよ、少しは叱っていただかないと』

『俺は弟に甘い。叱咤の役目は父上に任せるとしよう』


 道托と阿孫は、剣の持ち方を。父と利閣は、知識を。母は、愛情と慈しみを。

 嘘偽りない家族の形が、確かにあった。生きた時間に比べれば遥かに短く、そして、今はもう失われたものだ。


『また、異母兄上達の所に行っていたの?御迷惑はお掛けしなかった?』

『禹姫、気にする事は無い。あれらも、楽しんでいる。問題あるまい』


 祝融は、繰り広げられる情景に、思わず腹をかきむしられる様な苛立ちを覚え拳を握り締めていた。何の意味があって、過去を掘り起こしているのか。


「何が目的か、教えて頂けないだろうか」


 気分も肉体も気怠さが増す中、何処に向けてでも無く問いかけるが、返事をするのは幻覚だった。


『お前に、覚悟はあるか?』


 過去の幻想とは違い、淡々と言葉を吐く。


「……何のだ?俺は自分の使命すら知らない」


 喧嘩腰とも言える返事を向けるが、言葉は返っては来ない。それどころか、限界は近くなっている。祝融の視界は擦れ、霞の向こうの声も段々と遠くなっていた。


「(俺の使命が、燼を導く事ならば、此処で命運は尽きるだろう。だが、もし――)」

 

 自らの命を失う覚悟なら、いつでもある。だが、使命は?

 体を支える力さえ抜けそうになり、思考は途切れ始めていた。時間は、差し迫っている。


『祝融、英雄たる人物であれ。それが、お前が祝炎の力を持って生まれた意味でもある』


 深く、低い声が、響いた。重々しい空気に、玉座から見下ろす男が、祖父として語りかけた最後の言葉だった。

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