十二
十二
燼に迷いは消えていた。
恐れなど打ち消し、異形に向かう。
それの腕が伸び、燼の腹に刺さった。だが、最早気にもとめない。一体のそれの懐に入り込むと、頭を狙った。
嫌な叫び声をあげ、もう一体のそれが燼の体に棘に変化させた腕を幾重にも振り翳して、燼を遠ざけようとするも、燼はそのままに剛腕を振るい続けた。
それの頭がへしゃげた。そのまま地面に叩きつけて、これでもかと、頭を潰し続ける。肉が潰れる音、頭蓋が砕ける音、それの悲鳴にも似た音。手に残る肉を抉る感触、骨を砕く感触。五感が生々しい感覚で埋め尽くされていく。
燼の背は血まみれだった。痛みなど、今はどうでも良い。もう一体のそれが、ゆらりと近づき、燼もまた、潰し続けたそれから顔を上げた。
原型は留めていない。どこからが頭かもわからないほどに潰れてしまったそれへの殺意を、もう一体に移した。
しかし、それは燼を通り過ぎ、動かなくなった一体に近寄った。
縋り付き、涙でも流すのか。殺したのは、確かに女と娘を取り込んだ方だった。そう思うと、今目の前に居るのが、異形である事も忘れ、燼は一瞬気を緩めていた。
奇怪な声を上げながら、それが亡骸の前に跪いた。そして、燼は自分の考えが甘く愚かな人間的な思想だったのだと後悔した。
それの頭に再び大きな口が現れたかと思うと、動かなくなった肉を骨を、大きな音を立てて貪り始めたのだ。
凄惨たる光景に、燼は言葉を失くした。
異形の共喰い。何の為の行為かなど、考える間は無かった。自身に背を向けている今が最大の好機と大きく腕を振るうも、その腕が振り下ろされる事は無かった。
燼は思わず、自分の腕を見た。幾重にも渡り、それの背から棘が出ては、腕を貫いている。
腕だけでは無い。肩も、腹も、足も貫かれている。思わず叫びたくなる程の痛みが、全身に広がっていた。
最早身動き叶わず、それの食事を、ただ見ている事しか出来なかった。
そして、それがふらりと立ち上がった。形に変化は無い。だが、大口は開けたまま。
「(あぁ、今度こそ喰われる)」
痛みに襲われても尚、思考も視界もはっきりとした中、それがゆっくりと近づいて来ると言うのに、妙に冷静だった。
今正に、死に直面し、その恐怖を味わう時だろうか。
燼は、何も感じなかった。死の直前は、多くの事が思い浮かび、走馬灯なるものがあると聞いた事が有ったが、何一つとして浮かばなかった。喰われたら、肉の一片も残らないだろう。寧ろ清々しい位だ。
「(これで、終わるのか……)」
それの手が、燼の頭に差し迫った。
だが、不思議な事にその時は、いつまで待っても来ない。世界がしんと静まり返り、それの動きも止まっていた。
「燼、まだ、その時では無い」
あの男の声だった。背後から聞こえるそれに、痛みで振り返る事も出来ない。いつの間に現れたのか、それとも、また夢を見ているのか。
血を流し過ぎて、意識が朦朧と、し始めている。
「……あんたの、仕業……なのか?」
男は、くくっと喉の奥を鳴らして笑う。
姿は見えずとも、その声だけで、夢の中で見えた楽しげな表情が頭に浮かぶ。
この男だ。燼の中で、確信が芽生えた。
何者かも分からない。一体どうやって、異形を生み出しているのかも理解出来ない。それでも、この男だと、燼の頭の中で警鐘が鳴った。
同時に、この男の気配がより恐ろしいものに変わった。
異形など、目でもない。凍る様な気配と、悍ましい殺気。矛先こそ、燼では無かったが、今にも命が立ち消えそうな程な恐怖が燼を襲っていた。
祝融や静瑛とも、また違う。あれは、神には近い種族だが、人だ。ならば、この男は何だと言うのだろうか。
そして、掌の上で命を転がすかの如く、男は呟いた。
「少しばかり、手伝ってやろう」
トンと軽く背を押される感覚と共に、地の底に落とされた気がした。
痛みが消え、視界に闇が降りてくる。
「(あの感覚だ……)」
どろどろと闇に飲み込まれる感覚の中、燼の意識は途絶えた。
止まっていた時が動き始めた。
燼の瞳は紅色に染まり、自分の身体を貫いていた棘を無理矢理に力を込め破壊していく。その身は貫かれたまま、自由になった手を大きく振り上げると、それの首を力任せに掴み、捻り潰した。そのまま首を引きちぎり、雄叫びを上げる。その様は、知性を失った獣物そのもの。
首を失ったそれの胴は動きを止め、そのまま横たえてしまった。
燼は、それが横たえる様を、呆然と見続けていた。
――
「殿下!あそこに誰かが……!」
魏校尉の声で、静瑛は身を乗り出した。近くには、目で確認できるほどの巨大な陰の根源。毒々しく一帯を闇で染め上げ、地の底から唸り声を上げている。
突如、根源が動き始めた。生きる沼の如く、呼吸を繰り返しては、陰の存在が生まれている。
そして、その中心には、燼の姿。
「馮校尉は根源から湧いた妖魔等を任せる」
「承知致しました」
「魏校尉は我々を降ろした後、散った妖魔を追ってくれ。もし、私の従者が手間取っていたら助けてやって欲しい」
「承知しました」
静瑛は、今にも飛び降りんと、龍の背に立ち上がった。
魏校尉が根源付近迄寄ると、静瑛は飛び降り、馮校尉もそれに続いた。魏校尉は、二人が無事地上に降りたのを見ると、そのまま飛び去った。
「燼!」
名を呼ぶも燼に反応は無く、ただ呆然と立ち尽くし、その目には何も映してはいない。
静瑛が根源に一歩足を踏み入れると、燼の腕が微かに動いた。
「燼、何があった」
一歩、また一歩と近づく。ただならぬ気配が漂う中、鼻につく血の匂い。燼が怪我を負うことは滅多に無いが、状況が分からない中、確かめなければならないというのに、燼は一向に静瑛を見ようとしない。
「怪我をしたのか?」
そう言って、燼の腕に触れると、生々しい血の感覚がそこにはあった。怪我どころでは無い。生きているのも不思議な程、燼は身体中から血を流していた。
「燼、今すぐ手当を……」
そう言って、燼を動かそうと腕を引くが、重たい身体が動く事は無い。矢張り、何かがおかしい。静瑛は、燼の顔を覗き込むも、覇気の無い顔があるだけで、気を失っている訳では無さそうだ。せめて、人の姿だったなら、引きずる事も出来たが、熊の姿となると静瑛一人では五百斤近くある体重に重すぎて動かす事もままならない。
「燼!!」
再度、呼びかけると頭がゆっくりと動き、燼の目が漸く静瑛を映した。
深く紅い瞳が、そこにあった。目が妖しく光るのは、感情が昂った時だ。だが今の燼は、覇気も無いが、生気も、殺意も無い。静かな、魂の抜け殻の様な存在が、そこに居た。
「……燼、静まれ」
静瑛は、距離を取った。ゆらりと動く燼は、完全に静瑛を認識していたが、明らかに敵意を向けている。そして、燼に呼応する様に、また黒い沼が、動き始めた。表面が波打ち燼に向かっては、纏まり付いて飲み込んでいく。
「(違う。燼が、飲み込んでいるんだ……)」
全てを飲み尽くし、燼が動いた。それまでに無かった、殺意が静瑛に向けられ、静瑛は剣を抜いた。
「燼、私に首を斬る真似をさせないでくれっ!」
勝てるだろうか。悍ましい気配に満ち満ちた燼の姿は、獣では無い何かだ。
元々、ただの獣人族では無い事は分かっていた。
だが、それが何かは分からない。今までに、陰の気配を飲み込む存在が居ただろうか。
静瑛は、苦しくも剣の切っ先を燼に向けた。
正気に戻らないのなら、斬らなければ。その為に、共に居た。
ゆっくりと燼が近づき、静瑛は燼の喉元に剣を当てた。すると、燼が止まった。そして、剣を掴み自ら喉に押し当てんとしている。
「……燼?」
「……静……えい……様、ころ……して下さい。自分……で、でき……ない」
手から血が流れるほどに力を籠めて握り締めた剣の刃は、カタカタと震えている。喉に切っ先を押し当てようと、踠いていては、何かに阻まれている様だった。
その途端、静瑛に怒りが湧き上がった。何故、人を救うべく命を賭けんとする者が、こんな目に遭わねばならないのか。使命など願い下げと言っても、勝手について回るくせに、命運を勝手に奪っていく。
「お前は、良いのか?力に振り回されたまま死ぬのか!?使命などと言うくだらないものの為に、お前の命が握られていて良いのか!?」
燼は答えなかった。もう既に、人知れぬ存在に命は握られている。抗う事の出来ない力に、どう対抗すれば、誰も傷つけずに済むのか。
鈍く巡る思考に、彩華が映った。まだ、子供だった頃に優しく微笑みながら、手を弾く姿。頭を撫でては、彩華も無邪気に笑うのだ。その顔が、何よりも好きだった。ずっと一緒にいたいと思い、決意した日でもある。
せめて、許されるなら、限りある時間を彼女の為に捧げよう、と。
皇族に仕えたいと思ったわけじゃ無い。彩華と一緒に居る手段が、彼等に仕えるだっただけだ。
その性根を知っても尚、祝融は何も言わなかった。
―力を制御し、利用しろ
ふと、祝融の言葉が蘇った。
燼は、剣の切っ先を喉元から外すと、掌に押し当て貫いた。身体中の痛みで感覚が麻痺しそうな中、新たな痛みが燼の思考を現へと引き戻していた。
「(俺の身体だ!俺は、彩華の為に生きると決めているんだ!!)」
心の叫びは、人知れない存在へ向けたものだった。聞こえたかどうかなど、燼には分からない。ただ、言わねば気が済まなかった。
「(お前なんかに屈しない!)」
貫かれた掌を見つめていると、途端に目が回り始めた。視界が歪み、足元も覚束ない。
「あれ?」
ドスンと大きな音を立てては、そのまま地べたに座り込み、立ち上がる事すら出来なくなった。
「燼、人に戻れるか?」
声する方を向こうにも、視界は歪んだままで、更には何処から声がしているかも判別できなくなっていた。燼に目線を合わせ顔を覗き込んで、漸く声を認識できると言った具合だった。
「血を流しすぎだ。そのままでは、誰もお前を運べん。人に戻っておかないと、野晒しで眠る事になるぞ」
ぼんやりと映る目には、穏やかな顔つきを見せる静瑛が、確かに居た。
「はは……俺を運ぶなら、牛用の荷車を使わないといけませんね」
痛みからか、顔を歪ませながらも笑って見せる燼。
「私の従者が家畜同然で運ばれるなど、間抜けは許さん」
そう言いながらも、静瑛は胸を撫で下ろしていた。
「その前に、これ抜いて貰っても良いですか?自分じゃうまく抜けそうに無くて……」
燼は、掌に刺さったままの剣を見せた。静瑛は溜め息を吐きながらも、剣を握り力を籠めた。勢いよく引き抜くと、燼が苦悶の顔を見せたが、それもすぐ戻り、掌をじっと見つめていた。
「燼」
「あ、はい……」
静瑛の静かな声に諭されて、燼は人の姿に戻った。それと同時に、それまで耐えられた痛みが、身体中を襲った。痛く無かったわけでも無いが、緊張が解けた今、堪える必要が無くなってしまったのもあるだろう。
「いてぇ……」
「悪い事では無いな。生きている証拠だ」
痛くて、礼儀なんてものはどうでも良くなった。ごろんと寝転び、天を見上げる燼を、静瑛は叱る事なく、ただ、同じ空を見上げていた。




