終幕
皇宮を小さな足が駆け回っていた。とことこと、幼い足取りは迷う事なく見知った道を進んでいく。
その幼い姿が横を過ぎ去るたびに、若きも老いも官吏達は道を開け仰々しく首を垂れる。
まだ、足がもつれそうに成りそうな姿で、僅か六歳程度の子供。その幼い子供が着る衣は、そこらの官吏よりも上等な絹で仕立て上げられたものだ。
誰も声を掛けず、ただその存在が眼前を通り過ぎるのを、首を垂れて待ち続けるだけ。
その子供にとっても、それが日常であり当たり前だった。
子供が向かう先は、本来であれば容易に罷り通る事はない。
手順を要し、面会にも時間がかかる相手だが、子供はそれをまだ理解してはいなかった。
というより、必要としていなかった。
この国の最高権威を前にして、手順を必要としない数少ない者。
それが、子供に生まれながらに与えられた特権だった。
そして、その子供が目指す最高権威が座す場所はへと辿り着くと子供は躊躇いもなく、その扉を開けた。
「伯父上!」
潤沢に金をあしらった机にへばりつき、何やら一人机の上に溜まった書簡に峻厳な目を向ける袞衣を纏う男。
赤帝祝融。
祝融は、子供の声で書簡へと向けていた顔を上げた。強張っていた顔は緩み、子供の言葉通り伯父としての和らいだ表情へと変わる。
「蚩尤、また彩華と隠れ鬼をしているのか?」
祝融が手を止めた事で、蚩尤と呼ばれた子供は満面の笑みで祝融が座る机へと近づいた。こなれた様子で蚩尤を抱き上げ膝に乗せると、共に机の上に散らばる書簡に向かう。
「そうです、彩華がいつまでたっても剣も矛も教えてくれないので仕方なくです」
口達者な口振りには祝融は思わず吹き出し、喉を鳴らして笑った。
蚩尤の護衛である彩華だが、日々振り回されている姿が何とも可笑しい。
「それで此処に来るのか。だが、毎度此処に来てはすぐに見つかってしまうぞ」
「彩華は伯父上の言葉には逆らいません。だから――」
「成程、俺がお前は此処にいないと言えば良いのか」
ある意味知恵を使った隠れ鬼だと今度は盛大に笑った。
彩華どころか、この国では赤帝を前にして逆らう者などいない。蚩尤は幼児でありながら、それを理解していた。
「お前は静瑛に似て利口だな」
祝融は蚩尤を抱き抱えたまま立ち上がった。
楼閣の上層にある皇帝の為の執務室からは、皇宮の敷地、そして、その向こうにある煌びやかな洗朱色の都がよく見渡せる。
美しくも創り上げられた街並みは、洗朱色が華美を彩り一つの作品の様だ。
「これは、お前の曽祖父様の功績だ」
腕に抱く甥に語りかける様で、自身に言い聞かせる様に祝融は神妙な顔付きで言い放った。
「すごく綺麗です」
「ああ、実に優美だ」
既に、十八年の時が過ぎていた。
様になった袞衣に袖を通すことが当たり前となっていたその頃。祝融は忙しさに明け暮れても、壮年の若さを保ったまま玉座にあった。
未だ子はなく、代わりに甥である蚩尤を我が子の様に可愛がった。時折、遊びついでに訪れる甥の姿に未来を見る。
祝融は、神農の首を落としたその時から決意していた事がある。
己の皇帝としての役目は国の回復と、次へと担う者達へと引導を渡す為に要する準備だ。
もう、凡そに整いは終わり、あとは時を待つだけ。
「暫くすれば、この景色も見納めだ」
祝融の言葉の真意は幼児には理解できず、蚩尤は首を傾げる。
蚩尤がその意味を知るのは、数年の時が経った後の事になるだろう。
赤帝の御代は二十一年と短い。
治世は確かで、無事都は華々しい姿を取り戻したが、赤帝は心を患い黄家へと皇位を禅譲した。皇后であった妻と弟夫妻と弟の子蚩尤、そして信頼する家臣と共に姜家は完全に丹省へと身を引いたとされている。
だが実際は、祝融は玉座を離れた後。新たなる皇帝黄軒轅と共に、六仙に代わる元老院なる組織を発足する。
八つの省から代表を集め、他省の一角を皇都で重鎮として関わらせる事で国全体を繁栄させる事が目的とされた。
その八つの内、最初の椅子に座ったのが姜祝融だった。
姜家と同時期に風家も皇都から身を引いていた風家当主風鷹賢が二番目に座す。が、そう時を経たずして風鷹賢の老いが始まり、早々に息子の風鸚史へと席を譲った。
新たな体制であったが、姜家と風家が揃って名を連ねれば他も続かないわけにはいかなかった。
その後、元老院の地位は確固たるものへと変わっていく。
◆
黄帝の代になり、焔皇国は陽皇国へと国名を改めた。
閉ざされたその国の名を知る者はなく、民に新たな国が始まったのだと知らしめる為のものだ。
焔皇国は終わりを告げた。
だが、焔は終わっても赤帝の英雄譚は後の世にも様々な書物に記された。嘘か本当かも分からぬ物語調で語られる話は、民衆の中でも人気は高い。
赤帝――蔑称を祝炎の英雄として今も尚、語り継がれている物語。
奇しくも、神農が祝融へ与えた呪いにも等しい『英雄』たる言葉は、焔歴が陽歴に変わっても消える事はなかった。
彼の物語は、後の世も続いていく――
終




