三
男は小作人だった。日々女房と共に仕事に励み、特に何事も無く一日が終わる。酒はあまり好まず、博打も打たない。楽しみといえば、週に一度、馴染みの店で甘味を買う事ぐらいだ。細々と慎ましく暮らす日々、更には夫婦共に敬虔で、日課は小神殿に祈りを捧げる事だった。
朝一番に、女房と共に小神殿を訪れては、男神や雲省鎮守の森の主である蛇の像や白仙山の主である龍に対して深々と頭を下げる。
今日も、何事も無いように。今日も、健やかである様に。今日も、穏やかな日である様に。何気無い願いだが、男には、それが重要だった。
ふと、女房を見れば、深く深く祈りを捧げている。何を願っているかは、知っていた。結婚して八年が過ぎたが、一向に子供は出来ない。
―子供が欲しい。
彼女のたった一つの願いだったが、男にとっては過去の願いだった。恐らく、子供は望めないだろうと諦めていたのもあったが、女房と二人きりの人生も悪いものでも無いと感じていたのもあった。
何も無い事が、一番だ。子供こそ生まれ無かったが、夫婦二人で仲睦まじく暮らす日々が、男には幸福だった。
ある日、朝、目が覚めると、足に違和感があった。小さな痺れを右足の指に感じたが、仕事をしていると忘れてしまう様な程度で、特に気にもならない。その日は只の不調と気にも留めなかった。だが、足の痺れは日に日に大きくなり、気付けば右足全体が痺れ、持ち上がらなくなり、引きずる様に歩いていた。流石にまずいと、医者にも診せたが、原因は解らないと匙を投げられた。
痺れは徐々に身体中に広まり、思うように足は動かず、体を起こすのも一苦労だ。不幸中の幸いか、右腕だけは痺れが発生せず、体を支える役目を担っているが、右腕すらも動かなくなる日が来るのではないのかと思うと、男は次第に眠ることすら怖くなった。いっその事、眠りから目覚めないければ良いのにと幾度となく願ったが、無情にも目覚めの朝はやって来て、恐怖ばかりが募った。
女房も最初こそ心配しては男に寄り添い献身的に尽くし、毎日神殿に祈りを捧げる為に足繁く通ったが、いつの間にかそれも途絶えた。男の症状は、一向に良くならないどころか、悪くなるばかり。今では、忌々しい物を見る目で男を捉えては、役立たずと罵る。
―死んじまえ
女房の口が語らずとも、仕事と夫の世話で疲れた目がそう言っていた。
動かない身体が忌々しい。好きで病に罹ったわけでもないのに、女房に疎まれ、蔑まれる日々。好きだったはずの女房が、今では憎くて堪らなくなっていた。
そして、ついに右腕すら動かなくなった。身動ぎも寝返りもうてず、最早床の上から自力で逃げ出す事すら出来ない。ここまで来ると、出来ることはごく僅か。声は出るが口は動かないと、女房が仕事で居ない時は鼻歌を歌い、自由に動ける女房を見るのが嫌で、窓から見える雲の流れを目で追った。女房を見ていると、憎悪が増した。自力で動けるうちに、命を絶たなかった事を後悔し、刃物を持っている女房を見ると、何故殺さないのかと、訴えたくなった。
そんなある日、女房は仕事に出たまま帰らなかった。こんこんと日が沈み、家の中が暗闇に包まれる。灯をつける術はない。男は一人では何も出来ず、女房が帰ってきて床の上から起こしてくれるのを待つしか無かった。だが、何日経っても、女房は帰って来なかった。
水もなく、手近に食べるものもない。自分の排泄物の匂いと、その匂いに寄ってきた蝿が煩く辺りを飛び回る。空腹に、喉の渇き、そして死という絶望。
病に罹ってから、半年が経っていた。死がそこまで迫って初めて、男は神を呪った。敬虔だった心は消え、祈りなど無意味だったのだと、心の底から神を呪う事だけを考え続けた。神だけでは無い。男を見捨てた女房も、助けを求めても答えない隣人も、時折顔を合わせていた友人も、仕事に顔を出さないのにも関わらず様子も見に来ない仲間も、全てを呪った。
女房への愛も忘れ、男の心には、憎悪しか残っていなかった。
沸々と湧き上がる怒りにも近い憎悪が、男の心と身体中を真っ黒に染めていく。己の惨たらしい死に様を想像しながら、最後のその一時まで、この世の全てを呪い続けた。
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遠くで、鐘の音が鳴った。寝ぼけ眼で開けた両目は、視界がはっきりせず、未だ微睡の感覚が抜けずに思考が置いてけぼりとなっている。最初は何の音かが分からなかったが、次第に頭が冴え、外門の開門を知らせる音だと気づいて身を起こすと、窓へと向かった。もう一つの寝台の主は未だ寝息が聞こえる。相当疲れているのだろうが、残念ながら時間だ。木戸を開ければ、眩しく差し込む光が部屋を照らし、飛唱が身動ぎ、ゆっくりと身を起こした。
体を伸ばし、立ち上がると昨日に比べれば幾分かましな顔を見せた。
「すまん、朝まで寝てしまった」
「いや、俺もあちらが終わったのを確認して眠りましたから」
そう言って、燼は主人が居るであろう部屋の方角の壁に目線をやった。昨日も特に主人の気配に異常は無い。恐らく、今は眠っているのだろう。それとなく辿ると、二人分の人の気配が隣にはあった。
「そろそろ起こさないとな、燼は下男を探して朝食を持ってくる様に言ってくれ」
「承知しました」
静瑛を起こすのは、飛唱の役目だ。単純に、飛唱の方が付き合いが長く、あしらい方を知っているのもある。特に朝から絡む事は無いのだろうが、隣で女が眠っている事を思うと、近づきたく無いのは確かだった。
朝食の席に着けば、漸くまともな主人の姿が目に入った。いつも通りの優男が大人しく座っている。着崩れも無く、姿勢正しく食事をする姿に燼は安心していた。
「次は何処に行かれますか?」
「……それなんだが、雲省に留まる事になった」
てっきり、違う省へ移動か皇都に戻るかと思っていた飛唱と燼は顔を見合わせた。思わず、浮かんだ疑問がそのまま口に出たのは燼だった。
「何故?」
「瑤姫様から連絡があった。何やら、雲省、省都に不穏な気配があると」
「急ですね」
「あぁ、昨日業魔を討伐したばかりだと言うのに……」
事前の連絡では、雲省は昨日の村だけだと聞いていた。それが、今日になって状況が変わったと言う。これまでに無い事例に、静瑛も訝しんでいる様子だった。
「兎に角、行ってみるしかない」
「直ぐ立ちますか?」
「あぁ、出来れば白家や雲省の連中と極力関わりたくは無い。少し離れた場所に降り、街門から入る」
「承知しました」
静瑛は、食事を終え、白湯を飲みながら静かにため息を吐いた。仰々しく頭を下げる連中を思い出すと、溜息ばかりだ。皇宮を離れたとしても、そういった身分や格差が付いて回る。一夜見知らぬ相手と楽しんでも、結局は文字通り一夜の夢でしかない。現を離れ、全てを忘れ夢に溺れてしまえたなら、どれだけ良かった事か。
皇宮の文官に為らなかったからこそ、そう言った楽しみを覚えたわけだが、結局は使命を一時でも忘れる為の手段でしかない。
「(丹省か……)」
いつだったか、兄が遠い目で厄介者扱いされたいと言っていた。念願の相手と結婚し、そんな後ろ向きな発言はしなくなったが、今では自分の中に、以前の兄と同じ考えがひしひしと募っている。
「静瑛様、そろそろ」
茫然と何も無い場所を見ては、焦点の合わない静瑛の顔を飛唱が覗き込んだ。幼い頃より、静瑛の側で兄弟か友の様に過ごしたが、今では良く出来た従者だ。雲景程、真面目では無いが、よく動く。燼の事も気に掛け、何かと世話を焼いている。
燼も、半年程前から、祝融から静瑛へ鞍替えしたが、今の所大きな問題は起きていない。当初は、反抗的な態度を予測したが、思っていたよりも教育が行き届いており、礼儀作法では叱咤の一つも思いつかない。それでも静瑛にとっては、子供の面が目につき、揶揄うにはもってこいの人材ではあった。
主従関係は上手くいっている。逃げる事ばかり考えていては、それすら瓦解する事もある。気の引き締まった二人の従者の顔を見ると、静瑛は立ち上がった。
「……アコウか、桜が見頃だな」
命芽吹く春。全ての、生命が動き出す。




