番外編 神々の計略
六つの席が埋まった。
清白の間、六仙と呼ばれる者達が一堂に腰を下ろして何やら物々しい雰囲気だ。
円卓を囲う六人は、お互いの顔を見合わせる事ができる距離であるにも関わらず、視線を交わす事なく、しじまの中に居る。
神農も見渡す事もなくその沈黙の波に身を任せた。どっしりと座り黒漆の光沢独特な質感の肘掛けに触れると、その感触を確かめる様に指を滑らせる。
持て余した時間が無為に思えるも、張り詰めた空気の中、誰も目の前に出された茶器にすら手をつけない。お陰で上等な茶はすっかり湯気を無くし冷め切っている。
昔馴染みというには時が経ち過ぎた面々。もうかれこれ……と、時を数えるのも億劫でいつから顔を見合わせているのかも、思い出すのも面倒でもある。
しかし、今この場にいる者達が口を閉ざすのには訳があった。
キュウセンで起こった事象。
即ち、紛い神の出現である。
神々の御代が現世にあった時代は遥か遠く、その時生きた神の一人が肉体を得て現世に顕現したとなれば最早事態は一刻を争う。剰え、その根源は男神伏犧神ともなれば、事は甚大と言える。
六人が、その男神の眷属神である事を鑑みれば、殊更事態は重い。
誰かが、一言でも発するのを待っているのだが、誰もが口を噤み沈黙に徹していた。
男神伏犧神が根源である事は、六人が既に知り得ていた事でもある。勿論、幻夢の彼方より姿を現さぬ神々もだろう。
その神々は、既に手を打たんが為に計略を企て現世に託している。……いや託したと言えば、聞こえは良いだけか。
彼らは見ているのだと言って、ある程度の手段をよこしただけとも言える。
実際に手を出す事は不可能なのだ。
その神々の計略は既に六人の頭の中にあるが、問題は六人全員がその計略に乗るかどうかだろうか。
神農は、目線だけを右二つ先に座る西王母に向けた。
その女こそ、今一番信用ならない人物でもある。仙女、天女と違わぬ美しさと称される女の腹の中は真っ黒であると専らの噂でもあるが、そんな当人は至って余裕と言った様子で肘掛けに頬杖突いて薄ら笑っている。丁度間に座る美丈夫と揶揄される東王父は、腕を組み目を伏せたまま動かない。
神農の左には、相変わらず好々爺然とした道徳天尊が座す。東王父と同じく、椅子の前に杖を突いて身を委ね目を瞑る。白く太い眉が垂れ下がり表情は雲隠れしている上に、微動だにしないものだから眠っているのかと見間違えそうになる。その隣は、元始天尊だが険しい顔で西王母を睨め付け、薄ら笑いに物申す勢いで口を開きそうではあった。
そして、神農の正面。元始天尊と変わらぬ程度の中年姿の男……霊宝天尊は神農を物言いたげに真っ直ぐ捉えていた。厳かな顔つきは元より生まれつきなのだそうだが、眉を吊り上げ一層に厳めしい顔を晒す。
誰も彼もが懐疑的な面持ちと真意を隠したまま、清白の間へとやってきた。そして、出方を伺っているのだろう。
はて、どうしたものか。
神農も口を開く気にはなれなかった。現状、沈黙こそが場が荒れない方法でもあったのだ。
しかし沈黙に飽きたのか、頃合いを見計らって西王母は手にしていた扇子を開くと口元を隠した。
「陰気臭い事。いつまで腹の探り合いをする気だ?」
戯け調子で話始めた西王母だったが、元始天尊はその様子が気に食わなかったのか鼻で笑って返した。
「探っているのはお前も同じだろう。それで、お前の算段の目処はついたのか?」
西王母の眉がピクリと動き、「さてな」と溢し元始天尊を睨める。
「お前が何を考えているかは、全員がそれとなく察している。神子瑤姫にも見放されたか?」
「……」
西王母は、不満を残したまま元始天尊から顔を逸らした。隠す必要も無いのか、それも策略の内か。どれだけの時間を共有しようとも人である事から遠ざかりつつある年月を前に、お互いの些細な機微も身抜けなくなって久しい。
特に西王母は、悪意に表情を作り出す。彼女の顔が指し示す意味を考えるだけ無駄でもある。
そうやって、また時が過ぎる。
もしかしたら、それこそがその内の誰かの狙いだったのかもしれない。
変調をきたし始めたのは、神農だった。
恐らく、顔を見合わせてから半刻の時が過ぎようとした頃合いか。それまでどっしりと構えていた神農だったが、その額に汗が伝う。
手持ち無沙汰だった手の内にあった黒漆の感触はいつしか汗ばんで、もう滑りは何処にもない。
気を紛らわす為、両方の肘掛けを強く握っては、身の内にある昂りを抑える事だけに集中するしかなかった。
その様子に気がついたのか、霊宝天尊の視線がより厳しくなった。
「神農……如何した」
重々しく、わざとらしい口調に誰もが一度霊宝天尊を見やった後に、神農へと目線を移す。
「……急ぎの要件が無いのであれば、私は政務に戻る」
「私は如何したと聞いているのだ」
霊宝天尊は神農を椅子に留まる様にと睨みをきかせる。それまで、これと言って無為に過ごしていた神農も、その表情に焦りが出る。
出来る限り、現状を知られたく無いのもあった。
自らの中に何が居るか。それ自体は問題では無い。それこそ、六人が共有している情報の一つでもあるからだ。
「矢張り……始まっていたのか」
霊宝天尊は重暗く言い放つ。分かりきっていた事だったが、その目で確かめたかったのだと、さもありなんと姿勢を崩して、椅子にもたれる。
その余裕を神農に見せつける事が、自らは余裕でありとでも言い放つ様で、神農はより憂鬱になった。
「分かっているのなら……私は戻る」
「それを神子燼に抑えてもらっているのか」
「……」
「神農、沈黙は肯定と見做すぞ」
神農は、その言葉にすら何も言葉は発しなかった。
その言葉すら肯定するのだと立ち上がりかけた腰をまた椅子に沈める。顔色は悪く 、目を閉じて言葉にだけ集中している様だった。
「神農、キュウセンであった地鳴りと紛い神の出現。皇都では不審死が未だ続いているな。神子燼の様子はどうだ」
「……彼方も、私の中身の陰を受け入れ……更には元よりある種が成長していると言える」
「親族は如何だ」
「今の所、変調を訴える者がいるとは届いていない」
「だが、一人。第八皇孫殿下が御不調と聞き及びましたが?」
神農は僅かに首を左に向ける。それまで、起きているのか如何かも怪しかった道徳天尊の眉が上がって、神農を訝しむ目が現れる。
「紛い神を殺しただけで、既にひと月眠りの中にいるとか」
「祝融には護衛付いている問題無い」
「いつ目覚めるか神子にも見当つかんと聞く。間に合うのか?」
普段好々爺にしか見えないその姿が、途端に発した口調は厳しくも怪しい老人へと早変わりさせる。
「既に動き始めた。東王父と元始天尊が手を貸した事など知られておる。はっきり言っておこう。西王母お前が企んでいた件は不可能であろう。当初の予定通りだ」
道徳天尊が吐き捨てた言葉に扇子の向こうにあった涼しげな顔に暗雲が立ち込める。
「…………天命は違えたと言うのか」
「天命に期日はない。今ではないと言うだけだ、して臆病風に吹かれておるのか?」
「私などもう幾許の時も生きた。如何なろうが構わん。しかし、その手段に異論を唱える理由は後世に遺恨が残るからだ」
西王母の瞳は真剣だった。
其れ迄の沈黙が嘘だったのかとすら思える程に、堰を切って次から次へと口開く。
東王父も西王母と同じく、その血が未だ残るものでもある。しかし、隣に座る西王母へと目を向ける事なく、俯き加減のまま、冷然なまま口を開いた。
「仕方あるまい。神々の刻を思えば人の生など刹那にも等しい」
悟ったと言わんばかりの口調に、西王母は舌打ちする。お前は昔から反りが合わないと、西と東の名前所以の嫌味を添えてギロリと睨む。
己らも、それに近い時は生きた。しかし、近づいたとは思っても、神格たる存在になり得たと思った事は一度もないのだ。
未だ、神の思想など理解できない。
「……神農、次の予兆。それが全てだと思え」
霊宝天尊は神農の現状を見て満足したのか、そそくさと立ち上がる。
「して、何が起こるやら」
不穏な発言を残し、霊宝天尊はその場を去っていった。
次々にその場から去り行く者達を神農は見送った。一人残され、神農はゆっくりと立ち上がる。
何が起こるか。
何が起こるにせよ、神農は既に自らの一族の行方は決めていた。それを脳裏に浮かべると、腹の底からぞわぞわとした嫌な感覚に襲われる。腹の底から、身体中を這う様に何かが纏わりつくのだ。
神農はそれを抑え込む手段を持ってはいた。ゆっくりとだが、呼吸を繰り返し神血を巡らせる。すると、僅かばかりだが楽になる。
苦心する顔など側仕えにすら見せられず、呼吸を整えると神農もまた、清白の間を後にしたのだった。




