三十六
『雲景様』
雲景の瞼の裏には、隣に立つ彩華がにこりと微笑んでいた。
彩華の声が鮮明に雲景の耳に届き、雲景にとって天上の果実も同然に甘く脳を溶かす。
彼女を手に入れた時の絵も言われぬ至福を思い起こさせる声で、雲景はその手を取って微笑み返す。
『彩華』
雲景よりも、少しばかり小さい女の手。けれども、掌を撫でると、ゴツゴツとした感覚に女らしさは程遠い。幾年も矛を構えて、その掌は硬く分厚い皮で覆われているが、彼女の努力、強さ、勇猛さの全てを表している。
雲景はその手触りが好きだった。女らしさと猛々しさを兼ね備え、それが彩華らしさだと言える程に。
雲景はその掌に口付ける。そうすると、くすぐったいのか彩華の頬は紅が差し口角は少し緩む。それを悟られまいと、唇をきゅっと結ぶのだ。
向かい合い彩華はお返しと言わんばかりに雲景の頬をさらりと撫でる。その手は優しく、ゆっくりと想いを滑らせ、さらりさらりと雲景の髪を梳く。
人間関係に不器用で、人に想いを伝える事が苦手だった彩華は雲景を真似てその想いを示した。
――ああ、愛おしい。
人生に後悔はない。自分はきっと此処までだったのだ。
最後まで友人として主人の傍にいる事が出来なかったことだけを悔い、自らの心を埋め尽くす妻への想いを胸に抱いたまま、雲景の意識は途絶えた。
――
――
――
祝融と洛浪は、扉を潜ったその瞬間から不穏な気配に足を早めた。
それは、奥に進めば進む程に強くなる。
またも、陰の気配だ。人造物である火葬場でその様な事が有り得るだろうか。
祝融は晴れぬ疑問を抱え焦燥が募る。その焦燥は、何も陰の気配がするというだけではなかった。
――この気配……
祝融の中で、覚えのある気配が糸で目的地まで引っ張っているかの様だった。その糸は奥へ奥へと導く。
奥に進むにつれ、どんよりとした空気と共に影の気配が増す、更には熱気も増していた。
――熱いな……
その言葉が浮かんだ瞬間、祝融は焦った。
――熱い?俺が?
ジリジリと皮膚に熱気が纏わりつくと同時に、汗が滲む。
「祝融様、どうされましたか」
洛浪も祝融の様子に横に並ぶ。顔を覗けば洛浪もその暑さに不愉快な表情を晒している。
滲む汗は祝融と同じだ。その熱気が、幻覚でなく本物であると証明している。
祝融は熱気に滴る汗を拭った。その不快感は紛れも無く本物だった。
だとすれば、これは――
「洛浪!急ぐぞ!!」
祝融は地を蹴る脚に更に力が入る。
速く、更に速くと気が急く。
どんどんと奥へ進むと、熱気は更に増した。此処まで来ると、祝融は感じた事の無い熱量に目眩すら覚えた。それは、洛浪も同じだった。
向かい来るその熱量は異常だ。炎の渦中にでもいるかの様な熱さ。そして、主人までもがその熱量に侵されて顔を強張らせている。
神から齎された炎をその身に宿した者を侵すなど、主人も考えもしなかっただろう。
あるとすればそれは――
洛浪は、夢の中で感じ取った気配を思い出す。火葬場の中で、何か蠢くものが確かにあった。
もし、それがこの異常な暑さの原因なのでは、と勘ぐる。ただ、今はそれらしい気配は感じられず、代わりに別の気配が熱と共に近づいていた。
――これは何だ?
同じくその気配に気づいているであろう主人は、それに対して何一つ言及が無いのも洛浪にとっては気掛かりの一つだった。
そして、その部屋らしき場所が二人の視界に映った。頑丈な扉が開いたまま、そこから廊下に突き出す灯りは薄闇だった廊下そのものを燃やしている様。入り口に近づくだけで熱気は増す。
本来であれば炎の赤は魔を祓う色だ。だが異様なまでの熱気と陰の気配、そして畏怖すら感じる何かが織り混ざり、その赤が禍々しさを放っていた。
本当に伏魔殿だったのやもしれない。祝融は、畏怖は感じても引き下がる事無く一歩、部屋へと踏み込んだ。
炉が、轟々と燃える。烈火の如く燃え盛るその色に、祝融は息を呑んだ。炎など、その身と同じ。そう思っていただけに、炎が異物の様で気味が悪かった。
炎が炉の入り口から今にも飛び出しそうなまでに、勢いづいて腹を空かせ地肉を探している。
そんな中、炉の近く、炎の色に紛れた赤髪が女にもたれ掛かる形で力無くだらりと腕を下ろしていた。
髪色、背格好、服装、その全てが自身の友人でもある従者と寸分と違わない。
「雲景……?」
見間違う事の無い、その姿。見慣れたその姿は、ピクリとも動かない。
「雲景!!」
祝融は、取り乱した叫んだ。そんな筈はない。思い違いだと。
祝融が名前を口にすると同時に女は雲景を胸に抱いたまま顔だけを祝融に向けた。
口角が三日月型に吊り上がり目を細めて不気味に笑う。
「遅かったね、あんたの腹心……食べちゃった」
祝融は女の言葉など聞いていなかった。その身が女への殺意と憎悪で埋尽くした瞬間に剣を抜いて、女に向かっていた。
だが、祝融の剣は届かなかった。
炉から炎が吹き出し、祝融の剣が届くよりも前に女も雲景も飲み込んだ。
「祝融様!」
遅れた洛浪が祝融を後ろに引っ張り引き留める。祝融すらもその炎に飲み込まれてしまいそうで、洛浪は自身よりも大柄で体格の良い祝融を必死になって止めた。
「雲景がっ!」
「もう手遅れです!!!」
雲景が、行ってしまう。
祝融は洛浪を引き摺ってでも前に出た。炎の熱気などお構いなしに前に出る。
駄目だ、雲景が死んでしまう。取り乱したその姿に、元より体格の違いの差が顕著に出た。どれだけ抑えようにも、洛浪では物足りない。洛浪はただ、「祝融様!」と名前を呼び続けた。
そうして、炎に手が届いた。が、祝融は止まった。
――あつい
祝融は痛みと肉が焼ける匂いで、その手を引いた。
黒く、焦げついたその色に、ジクジクとした痛みが生まれる。
それこそが、己が力を上回る存在が此処に顕現したのだと証明していた。
そして、時は来た――




