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祝炎の英雄  作者:
第七章 祝炎の英雄 前編
175/233

三十五

 じわじわと迫る熱気の中、雲景の面持ちは熱さも、身体の不調も忘れ、女への不徳な感情ばかりが募っていた。

 女の不度(ふど)、そして湧き出る陰の気配。

 身体が不調でなければどんなに良かったか。


 沸々と、腹の底から感情が生まれる。

 黒黒とした、畏怖にも似たその感情。

 腹の内が騒めく。雲景はその腹に手を伸ばしたくもなったが、女から目を離せず、僅かな無駄な行動も出来なかった。

 女にへばりついた笑みが、雲景の視野を奪ったと言っても過言ではないだろう。

 雲景にとって、女は未だ謎の存在だ。思わせぶりな発言こそあるが、恐らく自分を此処まで連れてきた何者かも知れぬ女。なのに、此処まで心がざわつくのは何故なのだろうか。


 その騒めきが心身にも影響した。

 余裕のある女と違って、雲景の足はジリジリと女の様子を伺うばかり。


 ――何故、近寄る気になれない


 女と面と向き合うまあった筈の威勢へどこかへと消えていた。吹き出す汗が炉の熱から起こるものでなく、恐怖から起こっている気がしてならない。

 そして、それが覚えのある気配である事も――


 ――これは、燼の()()()


 雲景の脳裏に、異形とも言える燼の姿が映っていた。


 ――何故、重なる


 燼の内に宿る陰の気配。似ているが、違う。


 ――私では、その程度しか読み取れないと言うことか?それとも恐怖でしか、感じ取れないとでも言うのか?


 湧き上がっていた不徳すら消え、己が内は恐怖一色だった。

 こんなに恐怖を感じるのは、いつぶりだろうか。そんな微かな事すら雲景の思考には浮かばず、己が内は恐怖に染まる。

 

 雲景の実力は、祝融の従者となって格段に上がっている。その剣で業魔と対峙し陰なる存在を断つ。

 それでも雲景は同志たちの中で、最弱と自覚している。

 剣の腕前が妻よりも下と言うことに関しては、恥とは思ってもいない。仕方がない、彼女とは努力ではどうにもならない才能と言う名の壁がある。

 常に鍛え、研鑽を重ね、経験を積む。それでも、生まれ持った才能というものだけは、どうにもならなかった。


 所詮自分はこの程度だ。主人と同じ年月を共にしてきたが、どうやっても差は開くばかり。

 だからと言って、自分を卑下した事は一度も無い。

 いつか報われる、なんて由無(よしな)い事は考えてもいない。

 この道を決意したその日から、今、此処にいる事も覚悟の上だからだ。


 そして、経験に優るもの無しという言葉通り、経験だけは積んできた筈だ。

 ()()()など、恐れる筈もない。


 なのに何故、腹の底から恐怖が湧き上がってくるのだろうか。


「ねえ、かかって来るんじゃなかったの?後ろに下がってるけど?」


 女は微笑い続ける。今度は、愛らしい笑みを浮かべて和かに雲景を見つめる。その笑顔にすら、雲景は背筋に寒気を感じた。


 ――寒気?これだけの熱気で?


 熱い。なのに、寒い。

 相反する感覚が肌を粟立たせる。いや、女に対してだろうか。

 きっと通常であれば、女の整った顔立ちでゆったりと微笑まれれば空気も和やかしくなるだろう。だが、この異様な状況でその様な笑みは、意味深だ。

 雲景は、ゴクリと唾を呑む。

 その様な行為は緊張の現れだが、今の雲景には無自覚だった。その間も雲景は、女から一寸づつ距離を取る。

 

「最後にさ、」


 女の立て続けの言葉に雲景は翻弄されていた。最後、と意味深な言葉にそれ以上に女を注視する。瞳孔が開く程に、その緊張が身体中を駆け巡る。


「龍を足すのも悪く無いと思うんだよね」


 足す、とは。雲景の喉から出掛かった言葉は、女が続けた。


「実はさ、龍人族って元々、不可視なる者達の創造物って知ってた?黄龍の壮麗な姿を見て、自らの手の中にも欲しくなったんだってさ。だから、龍人族は自らを高貴な存在として自負している」

「……何が言いたい」

「神血は、龍人族の中で特異とされる黄龍にしか持ち得ないものだけど、その魂は龍の誰しもが特別だ」


 それまで、一定の距離を保つ為に後ろに下がっていた雲景の足が止まった。

 止まってしまった。


「黄龍でも良かったんだけど、神血持ってると厄介だったみたいでさ。あんたと違って私を喰い殺そうとしてきたよ。凄いよね、さすが黄龍の血って所かな。どこぞの馬とは大違いだ」


 あはは、と腹抱えて笑うその姿は、自分も死にそうだった事すら笑っている。いや、もしかしたら、最初から喰い殺され無いと判っていたからなのかもしれない。

 高らかに、無邪気に笑う。

 さて、と女は固まったままの雲景を尻目に、雲景の眼前まで近づく。今から好物でも()むかの様にうっとりとした表情で女の指の背が、つつつ――と雲景の輪郭をなぞった。だが、うっとりとしながらも、その目は獲物を捕らえた獣同然だ。


「大丈夫、痛くないよ」


 女の手は、更に下に下がっていく。頬から首へ、首から鎖骨を伝い心の臓でくるくると円を描く。そしてまたすすうと真上に指を滑らせ首へと戻った。ねっとりとしたその行為は喉仏の上でピタリと止まると、女は雲景の耳元まで顔を近づけた。


「今、何考えてる?ご主人様?それとも、大事な奥様?」


 雲景は唯一動く目を横に流す。


「可哀想にね、未亡人になっちゃうね」


 雲景からも女の表情ははっきりと見えていた。ニタリと笑い、雲景の反応を見て愉しんでいるのだ。

 狂っている。この女は危険だ。

 夢の中で、女に剣を向けられた時でも感じなかった死への恐怖。

 女に感じていた畏怖が、雲景を突き刺す剣へと変わった瞬間でもあった。


 ――ああ、終わりだ


 雲景が動けぬまま思考が一つにまとまる。同時に、喉を何かが貫いた感覚が襲った。

 雲景の首に、女の指が横に線を描いてみせ、そのまま首に齧り付く。しっかりと雲景の頭と肩を掴み抑えてじゅるじゅると音を立てる。

 女は雲景の魂を、命を啜っていた。

 

 女の言う通り、雲景は呻き声一つ上げなかった。

 只、自らの命が枯れていく。そう実感しながら、雲景はゆっくりと瞼を閉じたのだった。

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