十二
祝融は龍の背に乗ると、その目線は時々皇都を向いた。その瞳に皇都の姿は映っていない。只その方に、皇都がある、それだけだ。
以前よりも思う様に動けないからか、その瞳には哀愁が立ち込める。
決して、その想いが口から零れ落ちる事は無い。
それだけは、矜持が許さないのだろう。
祝融が背負っている物を知っているから、背後にいる者も、背に乗せている者も気付かぬふりをする。
沈黙の時間は永く、その時ばかりは、過ぎ去る風の音に耳を澄ませるのだ。
だが時折、その沈黙を破る者もある。
白い鳥が羽ばたき、祝融へと近づいていた。何の気なしに方に留まると、嘴が勝手に動く。
その僅かな重みと、叔母の声を真似たその声が、祝融を現実へと引き戻すのだ。
『緑省キュウセンに、変容の兆しがあります』
鎮まる時期も近づきつつある中で、一行は雲の高麗山へと向かっているところだった。まさかの逆方向に、祝融は方に留まる志鳥を握り潰してやろうかとすら考えたが、残面ながら言葉と共に志鳥は役目を終えて消えていた。
背後で、志鳥の存在に気付いていた彩華が、祝融に困惑の目を向けている。志鳥の声は聞こえずとも、鳥の羽ばたきぐらは彩華の耳にも届いたのだろう。
志鳥が来たのならば、何かあったら事は一目瞭然なのだ。祝融は龍に転じている雲景の鱗を叩いた。
「雲景、行き先が変わった。緑省に行く」
「……真逆ですね」
「全くだ、もっと早く言ってくれたなら良かったものを」
珍しくも不満が混じる祝融の声、相手はいつも通りの主だったのだろうが、それでも露骨だった。眉間に手を当て、考え込んでしまった祝融に変わり、彩華は隣を飛ぶ軒轅に合図を送る。
行き先が緑に変わったと言うと、矢張り軒轅も真逆だ……とやや不満を溢していた。
既に、雲省には入り、日は高いが既に沈む時刻へと変わっている。何と間の悪い。誰もが思った事だが、仕方がないとも同時に考える。
「仕方が無い、取り敢えず菫省に戻ろう」
高麗山も目前だが、用心に越した事は無い。至急という言葉こそ無かったが、無駄足にも近い距離を再び龍はぐるりと方向を変えていた。
その隙に、と彩華は荷物をゴソゴソと探り地図を取り出す。
「彩華、キュウセンだ」
そう一言、流し目を背後に向け、彩華が指で地図なぞっていると、洛浪が不意に声を上げた。
「キュウセン……湖が有ります」
「湖?」
「ええ、大きな瀑布があるので、身投げする者が後を立たないのですよ」
小綺麗な顔が、辛辣に語る姿に一同無言になる。ふと、祝融は何かを思い出したのか、「あそこか」と小さく相槌をしていた。
「あそこはキュウセンというのか……」
祝融は赤い龍の背から、流れ落ちる瀑布の水音が轟々と音を立てて、その水神にも近い偉大さと威光を垣間見た記憶が確かにあった。
――
――
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その瀑布、遥か昔に男神伏犧神と女神女媧の娘、洛嬪が治めた地という言い伝えが今も残る。
女神女媧は、ある時から信仰がパタリと途絶えている。その存在、その威光を残す記録はなく、ただ、男神伏犧神の妻であったと記録があるのみである。
その記録も、洛嬪の伝説が元で女神女媧の存在が知られたとも言われている。
―女神洛嬪は母を失った悲しみで、日々嘆き祈りを捧げた。水神でもあった洛嬪の嘆きは次第に雨となり、嵐となる。雨が降り続けると、日も隠れ、水が溜まるばかりで作物は腐る。人々は、何とか雨を止めようと、洛嬪が嘆き続ける地で、生贄を捧げた。しかし、洛嬪が求めたのは母だった。もう一度、母に会いたい。
洛嬪の夫であった河伯がどれだけ慰めようとも、洛嬪は耳を貸さず、雨は、降り続けた。
気付けば、その地に湖が出来上がり、街は沈んだ。人々が苦しむ姿を前に、男神伏犧神が娘を諌めようとしたが、洛嬪の涙は止まらなかった。
このまま雨が降り続ければ、国は滅ぶだろう。
遂には男神伏犧神は、洛嬪が更なる罪を重ねる前に洛嬪から神格を奪った。そして、人々を苦しめた罰として人として生きる事を命じたのだった。
祝融は、雲景の背の上で滝壺を眺めながらも、背後に座る洛浪が語る話に耳を傾けた。
「詳しいな」
「此処らでは有名な話です。元々、湖は洛嬪の力でできた物。瀑布は、洛嬪から力を奪った影響で出来たとも、溜まった神威を散らす為に伏犧神が作ったとも言われています」
洛浪は、緑承の生まれだった。皇宮と関わりのない地で生まれ育つも、その腕を磨き続けたのだという。東王父が来る時が来る。ただそれだけを信じ、今、ここに居る。
そして、生まれ故郷にも近いこの地に帰ってきて、特にこれと言って思い入れは無いのか淡々と語っている。
その声は、傍で飛んでいた軒轅と彩華にも届いていたが、洛浪の冷めた表情が何を思っているのかは、掴めそうにも無かった。
祝融はもう一度、滝壺を見下ろした。広大な瀑布が轟々と鳴る。水飛沫は霧の如く視界を奪い、滝壺の真の姿は見えない。
「その後、洛嬪はどうなった」
「平凡に暮らしたとも、神格を奪われた事で父とも会えなくなった悲しみで瀑布から身を投げたとも」
「……神の死んだ土地……か」
「そうとも言えるかもしれませんね」
女神洛嬪は、災いを起こした神として信仰の対象としてはあまり推奨されていない。それ故、知っているのはそういった記録に近い土地の者だろう。
「これも伝説ですが、女神女媧の瞳は紅色だったそうで、その血を継ぐ洛嬪もまた、瞳が紅かったそうです。洛嬪の血を継ぐ女の瞳も……」
「……紅色……か」
「私の母の生まれた村では、昔は赤目がいたそうで、今でも女神洛嬪を信仰しています。水に困らないように、だそうですが」
もしかしたら、誰かが洛嬪の伝説に便乗しただけかもしれませんが、と付け足した。
「だから、詳しいのか」
「ええ、まあ、今回の神子瑤姫の言葉に関係があるかまでは定かではありません」
瀑布を見に来たのは、言葉があったからだが、祝融はその地に別のものを求めていた。
神の威光にも近い、瀑布の姿に鎮守の森の姿を重ね、何か言葉があるのではないか。そんな淡い期待を抱いていた。
女神洛嬪が残した何かがあるのでは、ないか、と。
女神洛嬪の湖、その名を、洛水湖、その先に流れる川を伊川と言った。
神の威を残したその地に果たして――




