三十九
道托は、静かに扉を開いた。
その向こうに、懐かしさは一切感じられなかった。暗闇と、病人が臥していたであろう臭いが充満したそこで、微かに動く影がある。
「父上」
道托は、もう一度呼び掛けた。扉は開いたのだから、息子の存在には気づいているだろう。それでも、桂枝は中央に無造作に置かれた一脚の椅子に座り、黙ったまま俯いていた。
死人の如く動かない。老いが進んだその姿に、道托の目には父が別の誰かにも見えたが、その頭がゆっくりと道托へと向き虚な目と目が合うと、老いはしたが確かに父の顔だった。
「あまり、御気分が宜しくないと伺いました。阿孫の葬儀に関しては、私が主体となって執り行いたく」
軍人ならでは、軍命の最中に命を落としたのならと、軍部の意向を伝えると共に、父の様子を伺う為でもあった。傷心の父にこれ以上の負担は掛けられないと考えたのもあったのだが、父の目は依然、道托を捉えるがその口は何も語らない。
「父上」
これで、三度だ。老いが始まったとはいえ、こうも人が変わるだろうか。
もう一歩、部屋へと踏み込んだ。廊下の蝋燭だけの心許ない灯りが遠のき、薄らと父の顔を照らしていたそれが、ふっと揺らめく。桂枝の目がそれに合わせて動き、道托を捉え続けていた。
「道托、お前には、あれが何に見える?」
漸く口を開いたが、道托には、父が語るあれなる存在が理解できなかった。
「父上、あれとは?」
曖昧な言葉を嫌う父が、珍しくも意味深な言葉で何かを隠匿して話ていた。
「……俺の息子は、何に殺された」
そこで道托は、あれが指す意味を悟った。
あぁ、父も遂に理解したのだと。
「父上、言っていた筈です。あれは、我々の敵だと。神が作り出した化け物です」
「……そうか、神威も時に間違えるのだな」
権威ある父が、同じ考えに至ったとなれば、あれの失墜も近いだろう。今迄どれだけ説得しようとも、平行線を辿っていた話題なだけに多少の不信感こそ抱いたが、太尉と右丞相が手を組めば自ずと結果は出るだろう。
「……道托、阿孫の葬儀に関してはお前に任せる」
桂枝はふらりと立ち上がった。力無く、今にも倒れてしまいそうだったが、一歩、二歩、三歩と歩くうちに、次第に足取りはしっかりと地に足ついていた。道托の目の前を通り過ぎ、部屋を出ようとしている。
「こんな時刻にどこへ?」
「仕事だ。暫く腑抜けだったからな、溜まっている」
これ以上、左丞相の手は煩わせる事も無いだろうと、薄暗い廊下を進み始めた姿は確かに右丞相だったが、道托には更なる闇底へと足を進め始めた姿に見えていた。
――
――
――
馬車がゆっくりと、水を跳ねる音を転がして夜道を進む。
人定の鐘の音を聴きながら、祝融は帰路へと着いていた。
入れ違いか宮には父の姿は無く、溜まった仕事を片付ける為に丞相府へと行ってしまったというのだ。様子はどうだったと出迎えた家従に訊くと、道托と話をして落ち着きを取り戻した様だったとだけ語った。
それから丞相府へと向かう事も出来たが、何となしに、そこまで追いかけるのは憚られた。
帰るか、とポツリと呟き馬車は向きを変えたのだった。
「……どうされますか」
「どうって?」
気の抜けた会話だ。静瑛は祝融の立場が揺れているというのに、一切の危機感を見せない。下手をすれば、燼も皇帝の手に堕ちるかもしれない。左丞相も今後も後ろ盾となるかどうかも分からない。父親に関しては、今日、見た通りなのだろう。
なのに、気の抜けた返事に心ここに在らずと言った様子ばかりで流石の静瑛も、兄だからと言って遠慮するのを止めた。
自分ばかりが焦っているのが、尚、気に食わなかった。
「今後ですよ。本当に御自身の事を考えねば……」
「既に手遅れか?」
「分かっているならば、動くべきです」
「俺は友人が少ないんだ」
両の手で事足りる程度だと、自傷気味に笑う。
「では、その少ない友人を頼って下さい」
「左丞相は入ってないぞ」
その息子は、友人だが。まだ、後を継ぐ時期でもない。
「やはり、雲景を当主候補のままにしておくべきでした。彩華も……」
「終わった話だ」
まただ。またそうやって、自分の事を蔑ろにしている。
軽薄にも程がある。
「何か策は考えておられますか!?右丞相が敵に回ったと知られているのですよ?姜家は本格的に兄上を排斥する可能性だってある!」
そうなれば、どうなるか。静瑛は、兄を案じた。怒っているのも、兄が自分の行く末よりも、他人の事ばかり考えているからだ。ただ業魔討伐に駆り出されるだけで、その手柄はその時の褒章で功績として残らない。武官としても、文官としても立場が無い存在は、今後どう扱われるのだろうか。
「危機感を持ってください!」
「……持ってるさ」
静瑛から目を逸らした祝融は、静瑛の言葉を流してはいなかった。その目の奥底に、強い意志を持ち、再度静瑛を捉えた。
「明日、左丞相の所に行く……友人では無いがな」
祝融は、左丞相と直接の繋がりがあるわけでは無い。右丞相からの単純なつながり、絶える事のないと甘く見ていた関係は、いとも簡単に崩れ去ろうとしている。
「父上の所にも、明日行ってみる。追い返されるやもしれんが」
「私も行きます。父上も母上と阿孫兄上の事で疲れているだけでしょう。明日になれば……」
「いや、何も変わらん……多分な」
何かを悟った祝融は、静瑛から目を逸らしたままだった。囲われた馬車の中で、遠くを見る目は過去でも映しているのか。
「あの時と同じだ。俺が、初めて業魔を討伐して戻ってきたとき……あの場にいた、父上以外の姜家の血が俺に殺意を抱いた」
祝融は、まだ十四歳だった。成人もしていない。不死としても未熟なその姿に、降り注ぐ視線は、敵意と殺意に満ちていた。
「今回は、父上も……ですか?」
「……多分な……お前は、何も変わってなくて良かった」
祝融は、静瑛と目線を合わせない。安堵の表情からも本音を話しているが、何かを隠している様にも見えた。
「今日は、疲れたな……」
そう言って、木窓を押し上げて、隙間から外を見る。しとしと降る雨は、続いていた。じっとりとした空は一向に晴れず、陰鬱とした空気をより重くする。
雨雲の所為で、外は暗闇だ。
まるで、何もかもを飲み込もうと迫ってくる。祝融が、木窓から手を離すと、カタンと言って窓は閉じた。雨音も遠くなり、また馬車には静寂が蘇る。
「兄上、何があろうと私は兄上のお力になります。それが、父上の意向に反したとしても」
力強い決意の言葉に、祝融は漸く静瑛を見た。弟の厳しい顔つきに、思わず笑みが溢れる。
「……お前も人の事は言えないな」
祝融に身を案じろと言いながら、静瑛は自分の身を案じていない。可笑しな兄弟だ、と祝融は静かに笑っていた。




