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祝炎の英雄  作者:
第六章 宵闇の異形
130/233

三十八

 ポツリ、ポツリと空から雨粒が落ちてくる。しとしとと降り始めたそれは、段々と強くなっていた。

 開け放たれた霊廟の入り口からは、雨音と共に冷気が入り込む。祝融には、あまり寒さは感じられないが、隣に立つ静瑛は白い息を吐いている。春が終わり、暖かさが増す季節だが、今日は一段と寒く感じるのだろう。特に、石造りの霊廟のお陰か、微かな冷気が足元からも伝わっている。

 祝融は、皇宮一角の霊廟で既に白骨となった母を前に、無為な時間を過ごしていた。葬儀の祭壇は無く、中央に小さな台が一つ置かれ、白磁の納骨壺の中に安置されている。

 白磁の壺を前に、兄弟二人で肩を並べ、特に何を語る事も無い。不浄を祓う香が絶える事無く焚かれ、その匂いだけが、母の死を実感させていた。

 自害は、あまり良しとされない。経典に則りではなく、純粋に嫌煙される風潮にある。それは、第二皇子の妻ともなれば、尚更だった。

 遺体が発見され、自害を隠す様に早々に葬儀が執り行われた。誰にも、亡骸を見せる事なく火葬にまでこじ付けるのだが、慌てぶりから大概が自害だと読み取るのだ。まあ、生前にあまり人に見られたがらなかったと付け足しす場合も有り得る話ではあるのだが。

 禹姫も、老いた姿を人に晒すのを嫌がっていた傾向にあるため、信ずるかどうかは五分五分と言った所だろう。

 ただ、息子の帰りを待つ事なく葬儀が執り行われた事に関しては、不審を呼んだ。加えて、玉座の間での第二皇子桂枝の祝融への態度が、全てを物語っていた。

 遂に、父親にも見捨てられたのだと。


「兄上」

「ん?」


 気の無い返事だ。母に何かを語り掛ける様子もなく、ただ壺を見つめている。もう時期それも、皇族として戸籍を得た者達と肩を並べる事になるだろう。


「そろそろ、戻った方が良いでしょう。皆待っています」


 今日は、色々あった。何も出来ず、父に在らぬ嫌疑を掛けられる兄を眼前に捉えても、静瑛は何もできぬ無力さに歯を食いしばる事しか出来なかった。今にも飛び出そうかとすら考えたが、そうなれば、兄を更なる窮地に追いやるだけだともわかっていた。


「そうだな……既に魂は旅立ってしまった。あまり、意味も無いな」


 祝融は辿れない燻された香の煙に先を見た。出口を彷徨い、雨に阻まれ消えて行く。

 その目線の先に、ようやく映った雨の姿。その向こうに何か見えるわけでも無いが、死者に別れを済ませたのなら、今度は生者の顔がちらついていた。


「戻る前に、父上に会いに行かねば……」

「……会えたとして、どうされるつもりですか?」

 

 ポツリと零した祝融に、静瑛はすかさず返した。


「……どうだかな」


 また、気のない返事を返す。

 異母兄弟を殺した息子。父にとっては、どれも同じ子であっただろう。今の父の目に、自分はどう映るのだろうか。

 呆然と、弟の問いに大した返事もせずに、祝融は歩き始めると、霊廟の外で待たせている馬車に乗り込む。

 不意に、乗り込む寸前の祝融が振り返った。

 どうする?と聞いている。静瑛は、特に何も返さず、兄を追って馬車へと乗り込んでいた。


 ――

 ――

 ――


 しとしとと雨が続く。陰鬱な気分には丁度良い。

 無音だと、暗闇が騒ついている様で、()()が、自分に問いかけている様で。

 薄暗いどころか、真っ暗闇の部屋の中。

 桂枝は、主人を亡くした部屋の中央で愕然と椅子に座っていた。深々と育った闇と、染み付いた病人の匂いが立ち込める。

 雨音が部屋の隙間から入り込み、項垂れ続けた思考は、雨音だけに耳を澄ます。でないと、死んだ妻の醜悪な姿ばかりが蘇る。

 美しく精練された所作と、深い夜の様な黒髪、彼女が僅かに動く度、黒髪が緩やかに揺れて輝きが増す。その美しさは、ある日突然に衰え始めた。息子二人の事で心労が絶えないのは分かりきった事だったが、それでも、まだ早過ぎた。

 桂枝は少しづつ老いが始まった妻を前に、態度を変える事は無かった。それは、一度同じ経験をした余裕だったが、それが、禹姫を苦しめているとも知らずに。

 会いにいく度に、衰えが加速する禹姫は、次第に立ってなくなり、部屋に籠り、遂には、顔も見せなくなってしまった。

 見えない筈の顔が、醜悪な言葉を並べると、頭が勝手に顔を作り出す。老いたその顔で、睨めしく怨みを込めた目が此方を見ているのではないのかと。

 そうして、少しづつ足が遠のいた。それは、禹姫が求めたのは息子達というのもあった。

 お前には会いたくない。それよりも、優しい言葉を掛けてくれる息子二人に会いたいのだと。

 精神を患った影響だと理解はしても、愛した筈の女が別人の様で、見舞いに行くというよりは、生きているかどうかを確認するだけの行為になっていた。

 そして――

 

「何故、こうなってしまった……」


 禹姫が首を吊った。

 更には、妻が自害して暫く経った頃、息子の一人から届いた声は、次男の死だった。

 妻の自害だけでも、受け止められないのにも関わらず、阿孫の死は桂枝に更なる追い討ちを掛けていた。

 その阿孫の死に、祝融が関わっているとなれば、殊更、受け止めきれない。


「何故だ……」


 考えても、どれだけ思考を張り巡らせても、何故我が子が殺し合うなどという馬鹿げた事が起こってしまったかが、桂枝には理解できなかった。

 そうならない様に細心の注意を払ってきたはずなのに。

 桂枝が守りたかったのは、家族という形だった。

 一族が一斉に祝融に敵意を向けたあの日、それまで桂枝にとっての幸福な家族の形は崩れた。息子三人が、まだ成人もしていない末の子を敵として見る。

 息子だけではない。兄も、甥も、姪までも。更には、その先の一族迄が、子供一人に憎悪を抱いているではないか。

 桂枝は玉座の背後で、言葉を失った。一体何が起こって、道理の通らぬ事象を前に、横目で父を見た。

 この国頂点たる男は、無情にも、業魔討伐の功績を讃えはしたが、一族に一切の言葉も残さなかったのだ。

 家族を守らなければ。

 時期に、もう一人家族が増える。状況の悪化を食い止めなければ、その子にまで危害は及ぶだろう。

 何よりも、息子を守ってやれるのは、自分だけなのだと、心に決めたのだ。

 そう、自身に誓いを立てたあの日。

 同じ考えの左丞相と手を組み、出来る限りの手を尽くし、祝融の後ろ盾として政治的立場から守ってきた。

 だからと言って、子供達が憎かったかと言えばいいですそうでは無い。一瞬にして芽生えた憎悪には裏がある。何が関わっているかを調べねば。

 無情にも、その後も祝融を業魔と戦わせる皇帝こそ、自分の父親こそが、桂枝には脅威として映っていた。

 桂枝は、せめて祝融に人を付けようとした。侍従だけで無く、熟練の武官が必要だと。護衛ではなく、共に戦う者だ。期待している風家の次子は、まだ十と幼い。

 実兄である、太尉に直談判するしかないと考えていたが、その目論見は見事に崩れ去った。

 その時の憎悪に呑み込まれようとも、それまで可愛がっていた甥に少なからずの情は残っているだろうと、兄を訪ねるも、その顔は、憎しみに満ちる。その憎しみの顔が放った言葉にすら、節々に隠しもしない憎悪が紛れていた。


『お前には、あれが何に見える?』


 その時は、桂枝には兄が何を言っているか分からなかった。桂枝の目には、祝融は愛しい家族であり、息子だ。他に何に見えるというのか。

 だが、今。

 桂枝の目に映る息子は、憎むべき()()へと変わってしまったのだ。

 

「あれは……何だ?」


 姿形は変わっていない。それでも、桂枝の目には祝融が別の……畏怖を纏った何かだった。

 悍ましく、()()の吐く言葉が煩わしい。


―あれは、誰だ?俺の息子はどこへ行った?


 桂枝は俯いたまま、自らの顔を抑えた。

 息子の顔が、思い出せない。五人の息子がいた筈だ。その四番目の顔だけが、頭の中で黒く塗りつぶされている。

 どうやっても、どう記憶を辿っても、妻がその腕に抱く姿を思い出そうとしても、だ。


『お前には、あれが何に見える』


 記憶の中の兄がしつこくも、再び問いかける。


 ――


「父上は、お戻りか」


 第二皇子宮の入り口で、姜道托が雨に濡れながらも父を心配してか宮を訪れていた。

 その姿に安心したのは、宮に務める者達全てだろう。


「道托殿下、桂枝殿下はお戻りですが……その」


 出迎えた家従(かじゅう)はしどろもどろだった。宮に居るのは確かだが、禹姫の部屋に籠ったきり出て来ない。声をかけても、何も返さない上に、締め切られた扉を勝手に開けるわけにもいかないと、頭を悩ませていた。

 それとなく事情を察したか、道托も無理はしないと言う。


「俺が直接声を、お掛けしよう。それで駄目ならば今日は戻る」

「えぇ、助かります。こう言った時、禹姫様が居てくれたらと……」


 余程落ち込んでいるのか、故人の尊大さが今になって身に染みるのだろう。

 

「次の妻君は迎えないだろう、これからはお前達に任せるしかない」


 道托は案内は要らないと、家従を仕事に戻らせると宮の奥へと進んで行った。道托は、皇子宮を訪れなくなってどれくらい経ったかも思い出せなかった。

 実母が亡くなった後だっただろうか。二人目の夫人を迎えてからだっただろうか。()()が生まれてからだったろうか。

 そんなあやふやな記憶を、辿りながらも、母が生きていた頃に使っていた部屋へと向かった。確か、夫人も同じ部屋を使っていた。

 そんな事を考えながら、道托は目的の部屋に辿り着き、扉の前に立つも余りの静けさに部屋の中に父親がいるかも疑わしかった。

 ただ、耳を澄ませばボソボソと声がする。はっきりと何を言っているかは聞き取れないが、気配からも父一人しか部屋には居ない。遂に父も……


「父上、道托です」


 道托は、断られたらそのまま帰るつもりだった。だがどうにも様子は不審だ。道托は、返事を待たずに扉を開いていた。

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