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祝炎の英雄  作者:
第六章 宵闇の異形
124/233

三十二

 朝日が眩しい。

 陰鬱な気を全て払拭してくれはしないそれは、燼に降り注ぎ、前を歩く影を作り出すだけだった。

 朝の賑わう大通り、市を広げ、仕込みの買い出しや朝食の為に集まった人々の盛況な声が広がる。何気無く店を覗くと、香辛料の赤色が目立って並んでいた。鮮やかで、皇都の大市とは違った光景だ。様々な赤だが、一度、店主に言われるがまま試しに齧ってみて、暫く舌も鼻も効かなくなった事を、苦笑ながらに思い出す。

 雑多な人混みを通りぬけると、一気に人通りが減る。しかし、その減った人々の行き先は大体同じだ。

 小神殿。そこで、皆は朝の祈りを捧げる為か、粛々と中に入っていく。

 昔と変わらず、香が漂うそこで、燼は顔を顰めた。

 苦手なものは、昔から変わりなく、矢張り中に入るのには少々躊躇してしまう。どうにも不審な姿だが、こればかりは致し方無かった。

 その小神殿の前で、若い神官が燼を見つけたのか、神殿の前を彷徨く声を掛けていた。


「どうしました、お体の調子が宜しくないので?」

「いえ、そういうわけでは。紹神官はお見えだろうか」

「お知り合いですか?」

「えぇ、古い友人が訪ねてきたと伝えて下されば」


 その言葉に、若い神官は首を傾げた。燼の見た目を鑑みると、古い友人という言い回しが、腑に落ちなかったのだろう。それでも、若い神官は呼んで参りますとだけ告げて、神殿の中へと戻って行った。

 燼は、朱色の建物を見上げた。目が眩む程の高さがある皇都の神殿とは違ってこじんまりとしているが、変わらないその姿が懐かしいと思える程に、年月が経っているのだと実感させた。

 何年ぶりだろうか。最早年月を数えるのも億劫となったこの頃は、今が何年かは思い出しても、思い出の細かい月日を思い出せなくなっていた。

 記憶の中の人物達は、悉く歳をとらない。

 だから時折、只人の友人と邂逅する機会に出会すと、時間の経過が現実に浮き彫りとなって現れた。

 そんな思考の片隅で、視界に若い神官に手を引かれた老人の姿が映り込んだ。背は曲がり、髪は白髪一色となっている。数えきれない皺の数が、彼の年月を語っていた。


「お久しぶりです」


 老人もまた、燼を見つけると、優しく微笑む。その顔は彼の人柄が、そのままに体現された様だった。

 

「……えぇ、本当に。いつもの部屋にお茶を用意する様に言いました。こちらへ」


 朗らかな笑顔を見せる男は、曲がった背の為か、記憶の中の彼よりも一段と小さく、よろよろと歩く弱々しい足取りが、彼の残りの時間を示している。

 あぁ、これが最後かもしれない。燼の脳裏に不吉な言葉が浮かんでいた。


 通された部屋は、昔、神学の勉強に励んだ場所だった。古い記憶は鮮明に蘇るが、今では苦い記憶で無くなっている。

 向かいに座り、若い神官が運んだお茶の湯気を眺めながら、紹神官はゆっくりと口を開いた。 


「前に来た時は、黒龍の女性と一緒でしたか……」

「そうです。何年前だったかは、はっきり思い出せないのですが」

「確かに、燼君を見ていると、時が止まった様だ」


 視力が衰えたのだろうか。紹神官は、目を細めては燼の顔をじっと見た。


「ある意味で、間違ってはいないかと。俺の時は、止まってしまった」

「不死とて、止まる事は無い。肉体の時が止まったとしても、君の経験は重なり、それが時となって進んでいく」 


 もうすぐ時が止まるのは、私の方だ。そう言った省神官は、湯気に立つそれをゆっくりと口に含んだ。


「此方には、お仕事ですか」

「えぇ。多分、昼には立ちます」

「相も変わらず忙しそうだ」 

「……そうですね」


 忙しない中、会いに来た。懐かしい友人の姿だったが、青年の姿のままの男は、変わらず何かを溜め込んだまま。


「君の悩みは、尽きない様だな」

「……俺の使命は、今も続いています。今、この時も。決断の時が近い」


 燼は濁したまま話し続けた。聞く人が聞けば、戯言にも近い。その言葉にどう意味を見出すかで、内容は違ってくるだろう。

 紹神官も、燼の全てを知っている訳では無かった。

 陰の存在を討ち取るほどの実力を持つ青年。その青年は、自分が老人になる程に歳を取っても、青年のままに目の前にいる。何年かに一度会いに来るが、顔つきは徐々に凛々しくなるが、姿形に大した変化はなかった。

 不死という、身近な様で遠い存在を前に、紹神官は再びお茶を口に含む。

 

「使命か……神の言葉は斯くも重くのしかかる。その言葉は誉と同時に畏怖の念を受け、人を飲み込む」

「経典に一節……英雄の始まりですね」

「どうやら、昔の君とは違う様だ」

「誰にお仕えしているかを、自覚していますから」


 燼は喉を潤わせながら、静かに顔を弛ませる。


「私が、使命に関して口に出来る事はない。所詮、私は只人だ。神にどれだけ尽くそうとも、神の畏怖も威光も知らずに死んでいく」


 皇都の神殿であれば、神子がいる。この世で最も神に程近い存在で、神に使える神官ならば、一度はお目に掛かりたいと夢見る存在である。

 紹神官も、一度だけ目の前にその存在を感じたが、恐れ多く顔は上げられず、緊張で何も感じられなかったのだ。


「神意は計れない。ならば、その神意に意味付けするのは、君自身だ」

「俺が勝手に使命を変えても良いと?」

「同じですよ、その言葉をどう受け取るか。君が考えるしか無いが、その意味を決める事が出来るのも、使命を受けた君だけだ」


 紹神官の言葉に燼は再び、口角が上がっていた。小さく吹き出し、楽し気に笑う。


「おや、真剣に話したつもりでしたが」


 そう言った紹神官も釣られて微笑んでいる。

 

「いえ、矢張り貴方の言葉は面白い」

「神官らしからぬ言葉ですので、私が言っていたとは言わないで頂けると助かりますね。仕事を失います」


 もう既に、何十年と神官を勤め、現在は小神殿の神官長を担う。地方職の長とは言え、大層な役回りだ。年齢も加味され、そろそろ後退する時期も来ている。失ったところで、大した痛手でも無いのか、失うと言いながらも、愉快に笑う。

 

「言いませんよ、特に神様とやらにはね」


 燼も、そんな御仁だからこそ、何度となく紹神官に会いに来た。愉快に笑う老人を前に、燼は静かに笑う。


 ――


 明月城の中、桜の木に囲まれた人工池。桜は終わり、蓮が咲く時期にも早く、大きな青い葉で埋まっている。その真ん中を遮る橋の途中には東屋が池に浮かぶ様に建てられていた。

 朝も早い時間とあって、しんと静まり返ったそこで、鯉が跳ねる水音だけが時折響く。

 良い眺めだ。東屋の一角を占領し、彩華は景色に集中したかったが、横で腕を組んだまま俯き彩華の顔すら見ようとしない夫をどうにかしないと、折角の散歩が台無しだ。


「……祝融様の事が心配ですか?」


 彩華は景色に目をやりながらも、雲景に語りかけていた。

 俯き加減ではあるが、一応話は聞いている様で、それもあると返事する。しかし、重苦しい空気が続くので彩華は少なからず今日何度目になるかもわからない溜息を小さく吐き出した。

 それが聞こえたかどうかは分からないが、後……と言葉を続けていた。

 

「神子という存在をどう信じて良いかが分からなくなった」


 神子と一括りに言ってしまうと、それは弟同然の男も含まれる。神子の不審を口に知るだけでも不届きだが、更には信頼していた男も信じれないという。

 流石に彩華も景色を見ている余裕は無くなっていた。夫に目を向ければ、真剣な眼差しで彩華を見つめている。


「燼は、昔から変わっていませんよ。神子としての自覚と力の目覚めで、あちら側に近くなっているだけです」

「そう、だからだ。日に日に、人から遠くなりつつある」


 雲景が思い出すのは、子どもらしく無い幼い燼の姿だった。彩華の背後で彩華だけが全てと言っていた。

 彩華が手綱を握っていたはずの男は、不思議と執着心が薄れている。


「雲景様は、燼が信頼出来ませんか?」

「信頼したいな。よく出来た男だ」


 信頼したいが、神子瑤姫の存在や、神子華林の姿が、燼の信頼まで鈍らせる。


「時々、神子という存在が、祝融様を害する者にしか……見えなくなるんだ」


 雲景は目を伏せた。信頼の先に、何も見えない。何も見通せはしない、龍の目に、燼の姿が異質に映る。


「彩華、もし、事が起こったとして、お前は燼を殺せるか?」


 雲景の中に、彩華には無い決意があった。それを今、彩華に同じものがあるかを問うている。彩華は、頷く事も、首を横に振る事も、指一つの反応すら、示さなかった。


 ――


「そろそろ行きます」


 半刻、ゆっくりとした時間だった。燼はそれ以上、主人のそばを離れるわけにはいかないと、立ち上がる。

 燼が今にも外に向かって一歩足を踏み出そうとしていた。それを遮った紹神官の目から和やかさは消えている。


「燼君、君が此処に来た理由は……何を求めてだ?」

 

 紹神官は、珍しくも、その親しみのある顔とは程遠い厳しい目つきを見せた。

 此処に来た理由。燼もまた、言葉が欲しかった。


「この命の使い所を間違えない為に」


 自らの命を履き捨てた青年姿の男は、老人の目に別人に映っていた。

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