二十九
「燼、大丈夫か!?」
出血は無いが身体は木にめり込み気を失っている。浪壽を楓杏へと預け戻ってきた雲景が声をかけると、燼は僅かに呻く声を上げた。
「うっ……」
薄らと瞼を開け、暫し意識がはっきりとしない様子も見せたが、辺りが夥しい数の業魔の気配で満たされていると気付くと、その目は完全に見開いた。その様子に雲景が再び大丈夫かと聞くと、頭を抑えてよろめき乍も、雲景の手を借りて立ち上がっていた。
「……俺、どれぐらい気を失ってましたか」
「ほんの僅かだ。動けるか」
「問題ありません」
「我々の相手は業魔だ。良いな」
燼は思わず祝融の方を見る。異母兄だった何かと対峙するも、剣を抜くだけで炎は見えない。
「……祝融様は大丈夫でしょうか」
「分からない。だが、命令だ」
燼がよろめかないかを確認すると、雲景は剣を抜いていた。燼も、気を失って手から落ちた偃月刀を拾い上げると、前に出る。
「無理はするなよ」
「雲景様も」
信頼しているからこそ、無駄な心配はしない。二人は、それぞれの標的を見つけると、その目を殺意で満たし向かって行った。
――
祝融は次々と繰り出される剣撃を避け続けていた。両の手に構えた棍棒かと思えるほどの重量の剣は、燼が偃月刀を振るうよりも重く早く振り下ろされる。右を受け流そうものなら、左から胴を真っ二つにでもされる事だろう。
余裕は無かった。その筈なのに、祝融は未だ炎を出せないでいる。
ただ避けるばかりで反撃に出ない。
何を今更迷う事があるのか。
過去の記憶など、とうの昔に捨てた筈だ。
何よりも、目の前の異形に異母兄の姿は微塵も残っていない。
「(……決断、しなければ)」
祝融は、それの殺意を受け、攻撃を避けながらも、ひたすらに思考を繰り返した。
繰り返した所で、目の前の存在が人に戻れる方法は無い。
だから、鸚史は薙琳を一思いに殺したのだ。
ほんの一年前の出来事が脳裏に浮かんだ。鸚史は自ら、師であり友でもあった女を手に掛けた。
祝融は何故、自分に任せなかったのか、ふとした拍子に聞いたことがあった。
『誰も、恨みたく無かったからさ』
答えは、あっさりしたものだった。誰が殺しても、恨み続けて生きる事になる。ならばいっそ、自責の念の苛まれて生きる方が良いと答えたのだ。
「偉そうなこと言って、決断出来てないのは俺か……」
その瞬間に祝融の手に炎が宿った。
剣撃を避け続けていた祝融は立ち止まると、炎が球体となって、祝融を守る盾となり眩しく辺りを照らす。
それは、祝融の炎に更なる怒りを見せた。まるで、本来の怒りをむける相手を見つけたとでも言うように、雄叫びを上げ、両の手を高く振り翳した。しかし、それの剣は炎の盾に当たった瞬間、どろりと溶けた。黒い影でしか無い姿だったが、球体に沿う様に黒いそれは流れ落ちる。
剣を失ったそれは一歩下がると、再び、その手には新たな剣が握られていた。
今度は安易には近づかないだろう。
祝融と距離を取り、その距離を保つが、手合わせでもしているかの如く、思案している様に祝融の隙を狙っている。
動いたのは、祝融だった。身を低くしながら、走り出る。構えた剣は炎は纏い、それへと向かっていった。
祝融がそれの懐へと入り込もうとすると、それが見逃すはずもなく、再びそれの右手が祝融に剣撃を振り下ろしていた。
祝融は転がり避ける。そうすると、今度は左手の剣撃が祝融へと向かう。だが、少々雑に打ち込まれた剣撃を、祝融は既の所で避けると左腕に登っていた。走る勢いと同じに駆け上がり、それの首目がけ剣を振る。
しかし、剣が首に当たるより早く、右の剣が祝融を狙った。自らが負傷する事など厭わない、それの勢いに、祝融は炎の盾で受け止めようとした。が、当たる直前に、それの頭が、ぐるりと祝融を向いた。大口を開け、口から複数の黒い蝙蝠が祝融目がけて飛び出した。それは、視界を覆うどころにとどまらず、祝融の身体全てを覆い、炎へと向かうも、焼け爛れ溶けて落ちて行く。
避けることの出来ないそれらは死角となって、祝融の視界を遮っていた。
それが繰り出した剣撃を避けるのが遅れた。
幾重にも及ぶ蝙蝠の影響か、僅かに炎が弱くなったのだ。その弱くなった部分を剣が貫いた。
祝融は剣で受け止めるも、その剣の重さに背後に飛ばされていた。飛ばされた先の木々を蹴り、体制を整える為に、再び地に足をつく。
距離ができた事で、祝融の瞳には、炎で照らされても尚、黒い陰の異形と化した異母兄が映る。
鈍く光る紅色の瞳が、人でないと言っていた。人の言葉を忘れた姿が、元に戻れないと言っていた。
祝融は、今一度目を閉じた。再び、祝融の周りを炎が舞う。轟々と燃え盛るそれは、決意の現れだ。
祝融は再び、前に出た。
大地を蹴り、一心不乱にそれへと向かう。兄二人に憧れ武官になると夢見ていた幼き日、阿孫と剣を交わした日、兄弟として過ごした思い出が炎の中に掻き消えた。
再び、祝融が攻へと転じると、それの猛攻が始まった。
素早い剣が祝融を狙い続ける。異形だが、その動きは武人そのものだ。
それに加え、巨体となっても素早さを失わない。祝融は、再びその猛攻を避け続けた。迷いの無い目は、避けながらも殺意を抱き続け、それから目を逸らさない。
そうして、幾重もの攻撃を避け続け、剣を大きく振りかざした隙に、足の下を潜って背後へと回る。僅かに屈んだ姿勢となったそれの背を蹴り、駆け上がった。
剣の炎が大きくなった。祝融は、迷う事なく、炎の剣をそれの首へと落としたのだった。
ごとんと、大きな音を立てて、首が落ちた。
ごろごろ転がるそれに釣られてか、大きな巨体がゆっくりと体勢を崩して地面へと向かっていく。そして、土埃を巻き起こしながら、その場に倒れ込んでいた。
黒い陰となったその巨体を、祝融は静かに見届けた。
「……これが、望みか?」
祝融は、誰でもない何かへと言葉を向けた。答える者はいない。
――
――
――
同刻、皇帝宮
神農は、私室の中央で椅子に腰掛けていた。
空を見つめる。そんな様子の男の下へ、白い鳥が舞い込んだ。寝台横に置かれた神具である白玉の上で、志鳥は羽を休めて言葉を受け取る者を待っている。
神農は、何となく、その言葉を送った主が誰か分かっていた。結果がどうであれ、事は終わったのだと。
ゆっくりと立ち上がり、志鳥の目の前に立つも、それを手にする事を躊躇する。
しかし、聞かねば。
神農は、目を伏せながらも、白玉に手を伸ばした。すると、白玉の上に乗っていた志鳥は、神農の手の上へと移動していく。嘴を動かし始め、言葉が始まった。
『阿孫が異形へと変じ、これを祝融が討ちました』
孫の死を伝える女の声は、辛辣なまでに淡白だった。その僅かな言葉だけで、志鳥は消え何事もなく、静寂に戻っていく。
神農は、そのまま寝台へと腰掛けると、白玉を見つめたまま動かなかった。
「ついに、来てしまったか」
始まりは、祝融が初めて業魔討伐を成功させてしまった事だろうか。それとも、もっと前から、種は植えられていたのだろうか。
一族全てが、一人を殺す為に呪われたのは、果たしていつだろうか。
その瞬間は、例え神子だろうと知り得ないのだろう。
「貴方の望みは、この国の平和ではなかったのですか?」
神農は、白玉に向けて問う。遥か昔に、自身が仕えた男を思い出すも、白玉から志鳥は姿を表さない。
神農と、六仙に国を託して消えた男、太昊。神農が唯一屈し、膝を突いた相手でもあった。
誰よりも平和を願い、誰よりも国の繁栄を望む。単純だが、それ以外何も望んでいなかったのだ。その頃の神農は、自身が皇帝になるなど考えてもおらず、ただ、国と一人の男に命を捧げると誓っていた。
その男は、時折、白仙山を寂しげな目で見ては、誰かを思い出しているかの様子だった。そして、国として整い始めた矢先、男は自らの血を持つ末裔達ではなく、神農を皇帝へと押し上げ、消えたのだった。




