聖女様を殺したのは誰ですか?
「拷問だけはお許しください。知っていることなら何でも話します。ですから拷問だけは……拷問だけは」
頭を抱えるように足元にすがりつく女はうわずった声を響かせる。声の調子もこちらの慈悲に訴えかけるような動きがいちいち気に障る女だった。女がいるのは石造りの小部屋で本来あるべき明り取りがない以外はまともな部屋だった。ほんの少し違うことがあるとすれば壁や机に拭き切れなかった血液が残っていることくらいだろう。それだってロウソクの淡い光の下では影なのか血なのか区別が難しいに違いない。
私は地面に這いつくばる女を蹴り飛ばした。女の身体はのけぞるように仰向けに倒れた。ひどい悲鳴が上がる。その声がこちらの癇に障ることぐらいわかればいいのにと思うが、それが分かる人間はわずかしかいない。そのうえわずかな理解者に異端者が多いというのだから困ったものである。
異端者審問官――それが私の仕事である。
神の教えに反する者。神の言葉を曲解する者、そして神の敵を判断することが審問官の仕事である。
「メリッサ・マナウ。それがあなたの名前ですね?」
「はい。そうです。私がメリッサです」
メリッサは自分の名前を答えるとそばかすのあとが残る顔をこちらに向けた。手で粗末な椅子を指さすとメリッサはおそるおそるという様子で私と対面する椅子に座った。はじめて正面から見た彼女は二十代半ばといった年齢に見えた。そばかすとくせのついた長い赤毛よりもひどく卑屈にうかべる笑みが印象的であった。
「王国北部のマナウ村の出身。七年前に同じ村で神祇官によって見出された聖女システィーナ・ルブール様の侍女として王都に同行。聖女様のお付きの一人をしていた」
「そうです。私はシスティーナ様と同じ村の小作農の家に生まれました。神祇官様にシスティーナ様が聖女と認められ、年が近いという理由で、お側仕えとして選ばれました。その幸せを私はずっと神に感謝しております。本当です。私のような小作人の娘が王都に住まわせていただき、聖女様にお仕えできる。これほどの幸せがありましょうか」
神への感謝を述べる彼女はどこまでも必死であった。
確かに王国北部での生活を考えれば、この王都での暮らしは夢のようなものだろう。厳しい冬の寒さに心配はいらず。魔物を防ぐ厚い城壁に囲まれた安全な暮らし。それは北部ではとても考えられないことだ。
「メリッサ。神への感謝を忘れないことは素晴らしいことです」
「ありがとうございます! 私は神を教会を信じております」
「なら、正直に答えてほしい。なぜ、聖女様は自殺されたのか?」
私の問いかけにメリッサの表情はひどくこわばり、さきほどの神への感謝を述べたときのような勢いはなくなった。ただ、震える瞳とこわばった顔だけが彼女が深い悩みを抱えていることを示していた。私はそれを解決する術をいくつか知っている。
長い沈黙がありメリッサの苦しみを私は解決することにした。
「メリッサ。手を出してごらん」
私が机をトントンと小さく叩くと彼女は涙を流しそうな怯えた表情で机の上を確認した。私たちの間に置かれた小さな机の上にはいくつかの羊皮紙と人差し指ほどの太さのペン。そしてインク壷が置かれているだけだ。「早く」と私がうながすと彼女は慌てて右手を差し出した。
彼女の手は長年の水仕事や雑用で荒れてはいたが、骨折をそのまま放置して変形してしまったり、関節が硬くなっているようなことはなかった。私はそれに安心をして彼女の人差し指にペン先を差し込んで斜め上に開いた。二枚貝をこじ開けるそんな乾いた音がして彼女の爪がとれた。
一瞬だけ遅れてメリッサが悲鳴をあげる。手を引き戻そうとするのを力づくで押さえて中指にペンを押し当てる。悲鳴はおさまり「やめてください」という懇願が何度も繰り返されるが、それは私が求めているものではない。仕方ないので私は中指も開いた。パキッと小気味のいい音がして、またメリッサが暴れたので右手ごと引っ張って机の上に倒す。
彼女は机に突っ伏したような姿で右腕だけを伸ばしている。私は薬指にペンを当てるともう一度、彼女に訊ねた。
「なぜ、聖女様は自殺されたのか?」
「話します! 話します。お許しください」
彼女がようやく会話をしてくれたので私は喜んで手を離した。メリッサは一度だけこちらをうかがうように私の顔を見て、はっと目を背けた。私はそのしぐさに少しだけ傷ついたのでもう一枚も開けようか、と考えたがあまり時間がないことを思い出してやめた。
「では、教えてください。神は常にわれらを見ておられます。偽証は神が最も嫌われることであり、私も偽りを好みません。なので、きちんと教えてください。なぜ、聖女様が自殺されたのか?」
「はい。……昨日のことです。昼過ぎのころシスティーナ様の元に王太子であるカルロ殿下がお越しになりました」
「カルロ殿下が?」
怪訝な顔をつくって見せたが私は、カルロが聖女に執着しているという報告をすでに受けていた。聖女が教会によって見いだされ王都にやって来たとき王族や貴族の反応は冷ややかなものだった。癒しの奇跡によって傷ついた兵士や民衆を癒す聖女が活躍してもあがるのは教会の権力であったからである。
しかし、民衆や兵士の中で聖女の人気が高まるにつれてそれを利用することを思いついた者がいた。その一人がカルロである。彼は表向きは教会の従順な信徒を装いながら聖女に近づき言葉巧みに聖女の意向を誘導していった。
貧民救済事業では聖女を前面に押し出して教会から金を出させて王国にとって都合のいい地域に金を使って見せた。結果として王国は身銭を切ることなく民衆を慰撫したのである。カルロは聖女をより王国のためにつかう方法を思いついたのだろう。それは聖女をカルロの妃に迎えることである。
国王の妃が聖女となれば民衆は王国を支持する。
教会は聖女をいままでのように利用できなくなり、権力を失う。聖女を手に入れることは王国にとって良いことしかなかったのである。だが、ただ一つだけ問題があった。カルロにはすでに婚約者がいたことだ。
「殿下はシスティーナ様に何度も愛をささやき。妃になってほしいと迫っておられました。しかし、システィーナ様は聖女は教徒のもの。ひいては神のものとおっしゃられて逆に殿下に婚約者がおられることを非難されました」
「殿下を非難? 聖女様がですか。めずらしいですね」
「はい、それは私も思いました。ですが、システィーナ様は婚約者がおられるのにほかの女性に手を出されようとする殿下にその不義を訴えておられました。そのため、殿下は怒りながら帰られました」
メリッサは指先が痛むらしくじっと指先を左手で押さえている。私はしばらく彼女が口を開くのを待ったがなかなか口を開かないので「それで?」と話を促すと彼女は少しだけ声を潜めた。
「……殿下がおかえりになって夕食を終えたころ。訪問者がありました。それについては審問官様もご存じなのでしょう……」
観念したような顔を見せる彼女に私は微笑んだ。それは私が知りたい話がきちんとでてきたからだ。
「ええ、調べはついています。モンド大公の息女セリス様が来られたのでしょう」
「はい、そうです。とても急な訪問で私たちはひどく驚きました。なにせセリス様は殿下の婚約者です。それがお越しなるということは良くないことだと私でも分かるからです。彼女は屋敷に入るなりシスティーナ様を糾弾なさいました。その言葉はひどく激しく聞いているだけで涙が出るほどでした」
「セリス嬢はどんな言葉を言ったのですか? きちんと教えてください」
メリッサは一、二度逡巡したあと真っ赤に血に染まった指をそっと左手で押さえると口を開いた。
「この泥棒猫。田舎娘が教会と民衆に持ち上げられて人様の男まで横取りするなんて。私が邪魔だと吹き込んで婚約破棄させてなにが聖女よ。ただの売女じゃない。そういっておられました。システィーナ様は必死で弁明されました。自分は殿下に嫁ぐ気はないこと。婚約を守ることを強く勧めたこと。すべてを話されましたが……」
「信じてもらえなかった、と」
「はい……セリス様はシスティーナ様のご実家のことなどあげつらえるだけあげつらうと帰って行かれました。私は彼女を慰めようとしたのですが、言葉を探している間にシスティーナ様は寝所に入られてしまい。私は私でセリス様が罵声を挙げられながら投げたり蹴られた家具などを片付けをしなければいけませんでした」
なるほど、カルロは聖女からの婚約について責められたことを破棄すればよいと思ったのだろう。だが、婚約破棄された大公やその娘にとってはたまったものではなかったに違いない。自分たちには落ち度がないにもかかわらず婚約を無効にされたのでは貴族と言えど面子が立たない。
「片付けがほぼ終わったころ、システィーナ様の寝室から苦悶の声がしました。慌てて駆け付けたところ、銀の短剣を心臓に向けられシスティーナ様は自殺されておりました。そのあとは警護の者も見た通りです」
警備の兵士が彼女の声に駆け付けるとメリッサは聖女様の死体にすがりついて泣いていたという。彼女が自殺につかった短剣は儀礼用で幅が広く切っ先は手のひらほどしかないものだったが、決意の自殺だったのか心臓にしっかりと突き刺さっており柄の根元まで沈み込んでいた。
メリッサは話し終えると、助けてほしいとばかりにこちらを見つめた。
「しかし、不思議な話です。普通、婚約破棄で死ぬのなら破棄された側が自殺するものではないでしょうか? 破棄の原因になったものが自殺するというのはあまり聞いたことがない」
「システィーナ様はお優しい方です。殿下とセリス様の婚約破棄の原因が自分であったと聞かされて、その罪悪感から自殺されたのです。あのとき私がずっと傍にいればこんなことには……」
「婚約破棄の原因が自分だったから自殺をした。しかし、普通に考えてそれで元の二人が元の関係にもどれますかね?」
表面上では納得できないことはない。だが、聖女が自殺するということが私には分からなかった。婚約破棄が彼女に深く自死を決意させるような要因にはとても思えなかったからだ。確かにカルロの婚約破棄は大きな問題になるだろう。だが、そのせいですぐに誰かの命が失われるということはない。つまり、聖女様が命を天秤に乗せるには反対側があまりに軽すぎる。
「システィーナ様はきっとお二人の愛を信じておられたのです。一度は婚約されたお二人です。気の迷いで殿下が他に目移りをしても元通りになる。そう信じておられたのでしょう」
私は能天気な回答に笑いだすところだった。
カルロが聖女様を妃に求めたのは政略的なものだ。さらにカルロとセリスの婚約だって王家と有力貴族の政略の一つに過ぎない。それを愛だとか信じるなどという言葉で表現しようとする輩がいるとは考えたこともなかった。
「では、君は聖女様は二人の愛を信じて自らの命を絶ったというわけだね?」
「……はい、私はそう信じております」
「ならば君の手のひらをこれで突き通してみなさい」
私は持っていたペンを彼女に投げ渡す。メリッサはまったく意味が分からないとばかりに大きな目に絶望の色を輝かせて私とペンを見比べた。
「え、どうして? そんなこと」
「君が言ったじゃないか。聖女様は二人の愛を信じて命を絶った。そして、君は聖女様がそう考えたと信じているといった。なら、君は証明しなければならない。なぁに君にも自死せよというわけじゃない。ただ、自らの手のひらを突き通してくれるだけでいい。それだけで私は君の言葉すべてを信じるよ」
メリッサは爪のめくれ上がった右手ではなく左手で恐る恐るペンを手にすると、私の言葉を信じていいのかとばかりに視線を震わせ、汚れた手を何度も揺れさせた。まったく見ていて嫌になるというのはこのことである。やるのかやらないのかはっきりしないことほど腹立たしいことはない。
私が舌打ちをするとメリッサは小さな悲鳴とともにペンを左手に握りしめた。
「やります。やりますから……。私はシスティーナ様を信じて……」
メリッサは爪のめくりあがった右手を机の上に静かに置くと、寒いのか何度も歯を鳴らした。季節はまだ初夏の前で寒さとは無縁だと考えていたが、そうでもないのかもしれない。だとすれば、今夜の彼女の寝所にはたくさんの火をくべよう。暖炉の中が暖かさで満たされ彼女の心が満たされるように。
そんなことを思い描いていると、彼女はとうとう意を決したのか左手に握られたペンを振り下ろした。だが、その動きはひどく緩慢で右手の甲に小さな穴をあけるほどであった。私は落胆したが同時に一つの確信へといたった。
「メリッサ。君は聖女様を信じていないね。それどころか何かを隠している。これが最後の質問だ。本当に聖女様は自殺されたのですか?」
長い沈黙のあとメリッサは左手で強く握りしめていたペンを落とした。そして、何度も何度も神への謝罪を口にした。
「システィーナ様はセリス様に殺されたのです。ですが、私は私は……」
「では、きちんと教えてください。あのとき何が起きたのか?」
「はい、あの日。カルロ殿下がおいでになったとき、システィーナ様は何度も殿下に愛を囁かれ、自分を妃にするように求めました。殿下も満更ではないらしく、嬉々として婚約破棄をすすめると自慢げに話しておられました」
このところ聖女様が王国寄りの言動を繰り返していた訳が分かり私は納得した。辺境の田舎から才能を見出して人並み以上の生活を与えた教会を裏切り、感情で王国側につくという浅はかさに生まれの悪さはどうしようもないのだとがっかりした。
「その結果、モンド大公家に婚約破棄が伝えられ、セリス嬢が乗り込んできた?」
メリッサはうなずくと口を開いた。
「セリス様は口汚くシスティーナ様を罵ったあとおっしゃいました。教会か男に媚びを売るしかない女は大変ね、と。それを聞いたシスティーナ様は大笑いしました。どちらにも選んでもらえないあなたのほうが大変ね。私にたてつけば教会と王国どちらからも睨まれるのよ。そう言ってシスティーナ様はセリス様の頬を殴りつけ、異端者でも反逆者でも好きなほうになりなさいと言いました」
もし、公式にモンド大公が聖女様を貶めれば、それはそのまま教会への侮蔑となるだろう。さらに聖女を取り込もうとしている王国も大公家の広い領地をかすめ取る機会だとばかりに動くに違いない。そう考えればすでにモンド大公家は完全に打つ手がなかったのだ。
「その言葉に怒ったセリス嬢が聖女様を刺したということですね」
「違います」
メリッサが頭を振って否定した。尋問を始めてから初めて彼女の感情らしい強い言い方だった。
「何が違うのです」
「セリス様はシスティーナ様に言ったのです。王国も教会もあなたを騙している。あなたの故郷はもうない。すでに滅んでどこにもないのよ。でも、誰もあなたには教えない。だってあの村を滅ぼしたのは教会と王国なのですから。この言葉のあとでしたシスティーナ様が銀の剣でセリス様に斬りかかられました。お二人はもみ合いになって剣はシスティーナ様の胸を貫きました」
心臓を貫くほど刺さった剣は信念の自死のせいではなかった。
私は少しの残念さといらぬことを口にしたセリス嬢の浅はかさにため息をついた。
「最後の質問だ。君がセリス嬢を庇い。聖女様を自死としたのはなぜだ?」
「……とても簡単なことです。私はシスティーナ様の侍女になる前は彼女と同じ村の貧しい小作人でした。システィーナ様がいたから私は王都にいられた。死が隣で寝起きしているような故郷から離れられた。でも、システィーナ様が死んでも私はここにおいてもらえるのでしょうか? きっと無理でしょう。だから私はセリス様を庇ったのです」
なんともつまらない理由と言えばつまらないことだった。
聖女様がダメだから次の寄生先を見つける。それだけの理由だった。
「なら、君は最初から選択を誤った。真実を告げていれば教会は君に最低限度の生活を保障した。だが、君は嘘をついてセリス嬢を庇った。教会の恩寵と庇護は君には与えられない。セリス嬢は聖女殺しの火刑になるだろう。それに君も加わると良い」
私が告げるとメリッサは絶望に目を染めて空を仰いだ。だが、この部屋の中から空を見ることはできない。ロウソクに照らし出されるわずかな空間だけが暗闇から浮き上がっているだけなのだ。
「……最後に教えてください」
「どんなことを?」
「本当に私たちの故郷は滅んだのですか? いえ、あなたたちが滅ぼしたのですか?」
彼女が私に向けた言葉で最も面白い問いだった。
「ええ、あなたたちが王都に来てすぐに私たちは君たちの故郷を滅ぼしました。なぜかわかるかな?」
「いいえ、分かりません。私たちは教会を信じていました。少なくともシスティーナ様がカルロ殿下にとりいるようになるまではそうだったはずです」
「君たちの行動など関係ない。問題となったのは聖女の血脈だよ」
聖女の血脈ほど教会を悩ませたものはない。六百年前に初めて現れた魔女は様々な奇跡を示した。傷ついた人々の怪我を癒し、手足を失くした人々でさえ元に戻した。百万の魔物が攻め寄せるのを結界によって押しとどめた。人々は魔女のことをあろうことか聖女と呼んだ。
神ならざるものが奇跡を起こす。それは教会にとって認められることではなかった。だが、魔女は奇跡を起こし続けていく。人々は奇跡を示さない教会の神よりも魔女を敬うようになった。このとき、教会は魔女を正式に聖女として認め、彼女を神からの使者として祀り上げた。こうして教会は人々からの信仰を繋ぎ止めその間にある計画を立てた。
それは魔女との間に子供をつくり、その子供を自分たちに都合のいい奇跡の担い手にするものだった。そのために信仰厚い男が選ばれて魔女とつがいとなった。だが、男は魔女に騙されたのか、情が移ったのか生まれた子供とともにどこかへと消えた。
それからだった。世界のどこかで奇跡を起こす女子が現れるようになった。その血脈をたどれば最初の魔女に行きつく。教会にとってそれは厄介なことだった。奇跡は神のものであり、特定の血脈のものではない。だから教会は決めた。
聖女は祀り上げ、その血脈はことごとく滅ぼそうと。
「血脈を滅ぼすためだけに村を?」
「そうだ。あの村には聖女様の妹もいれば従妹もいた。それらからまた聖女が生まれては面倒だった。なにより小さな村だ。ほぼすべての家が血縁者のようなものだった。だからすべてを消した。確実な方法だ」
メリッサはじっと右手を左手で押さえていた。それは怒りを抑えているようであったが、痛みをこらえているようでもあった。
「では、私の父も弟も……」
「死んだよ。教会は綿密だ。死体を全て調べて生き残りがいないことを確認している。そして、聖女様と君が死ぬことでマナウ村は本当の意味で滅ぶ。まったく厄介な存在だよ。聖女とは」
異端者審問官にとってもっとも裁きたい相手は異端者ではない。
奇跡を我が物顔で使い神を冒涜する聖女――魔女だ。
そういう意味では今回はひどい肩透かしだった。聖女様が王国に肩入れをして教会から離反してくれれば堂々と彼女を裁くことができたのに。彼女はつまらない諍いで殺された。まぁ、いいだろう。一人聖女が消えたのだ。
席を立ち部屋から出ようと歩みを進めると何かにぶつかった。
部屋の暗さでなにかを見落としていたかと前を見つめるがそこには何もない。自分が何に当たったのか首をかしげると背後から声がした。
「村長――システィーナのお父さんはとても彼女を可愛がっていました。村で生活させるのは不憫だといいながらも大きな町に住まわせる財力もなくただ嘆いているだけでした。ある日、村に来た神祇官に自分の娘が聖女のような奇跡を起こせるといいました。しかし、彼の娘にはそんな力ありませんでした。彼女はどこまでも平凡な女の子だったからです。でも小作人の娘には奇跡を起こす力がありました。村長はその娘にいいました。システィーナが聖女に見えるように奇跡を起こし続けろ。そうすればお前の父親や弟には幸せな生活をさせてやる。娘は村長の言うことを疑いもせず受けました。なぜなら、彼女の知る金持ちは村長だけでその上がいるなど考えたこともなかったからです」
メリッサの一人語りに私は頭がついていかなかった。
何を言っているのだ。聖女が別にいたなどそんなはずはない。
「彼女は大好きなお父さんや弟が幸せならどんな生活でも良かったのです。すべての功績を誰かに与えることも、二度と家族に会えなくても。本当に良かったのです。ですが、家族はみんな死んでいた。彼女の我慢はいったいなんだったのでしょうか?」
彼女は問いかけと同時に私を指さした。それは爪の取れた血まみれの右手だった。だが、いまの彼女の指には綺麗に爪が生えており、元からこの姿であったかのようだった。
「……そんなこと」
私は言葉に詰まる。目の前でおきていることは理解できる。だが、それだけだ。どうしようもない。
「私、行きますね。きっとここにはいられないでしょうから。それにこういうことをする人は聖女じゃなく魔女でしょうから」
言葉と一緒に目の前の見えない壁が狭まる。じりじりと背後の壁まで追いつめられるといよいよ自分の最後が分かった。百万の魔物を押しとどめた結界だ。何をしても破れないだろう。だが、それで圧殺されるのはどういうことか。違う。それはそういうものではない。そう思いながら私は声を張り上げた。
「魔女はここにいるぞ!」
メリッサはつぶれていく私を悲しむわけでも喜ぶわけでもなく、ただ雑草を刈り取るような淡々とした表情で見送った。