表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

daynight

作者: 泉樹

 第十六回電撃小説大賞一次選考落選作のため、面白さなどの保障は一切出来ません。

 読んでいただく側としてたいへん厚かましいですが、時間の無駄になる可能性が大変高い点についてはご了承願います。

 ああ、耳障りな音がする。

 餓えにまかせて肉を裂き、滴る血を飲む音だ。

 全く吐き気がする。

 周囲にはひとかけらの明かりもない。だが、目前の捕食の様子は良く見える。俺にとっても、前方に倒れている女に覆いかぶさって血肉の味を楽しんでいるあいつにとっても、闇こそが世界だからだ。……厳密に言うと、俺にとっては昼だって世界なのだが。

「……おいおい」

 そいつの気を逸らすために、声をかける。

「いくら餓えてるからって、行儀が悪いんじゃねぇの? 喰われる方も浮かばれねぇだろうなぁ」

 そいつが反応する。俺は常に足元に居る愛刀へと手を伸ばし――

 ない。

 いくら手を彷徨わせても、刀もないのに空を切るシャレてる場合じゃねぇよ! どうしようどこかにおいてきた? ヤバイ先生に殺される。

「……ぁ」

 先生に殺される前に、目の前まで迫っていたそいつに殺されそうだった。

「――餓えている、だと?」

 背の低い俺より頭三つ分も高い男は、覗き込むように眼下の俺に顔を寄せる。赤い目、牙の隙間から見える血、執拗な狩りのせいで満足に食事もできず、こけた頬。

「餓えているのは、貴様だろう?」

いつもなら大した苦労もなく斬り捨てているはずの吸血鬼に対して、完全な丸腰。捕食関係が逆転したことで、俺は胃袋を乱暴につかまれてる気分になる。

「母の愛に。だから我らを追い、その中に母を捜すのだろう?」

 それでもそこから先を聞きたくなくて、拳を握って男の頬を打つ。

「斬って捨てた屍の中に、母の姿があればいいなぁ?」

 ずぶり、と足が埋まる。コンクリートのはずの地面は俺の体を支えてくれず、バランスを崩す程の速さで俺の靴を、脚を、倒れて受身を取ろうとした両腕を飲み込んでいく。

「昼にも夜にも溶けきれぬ、混ざり物が」

 足掻こうとしても、コンクリートは本来の硬さを思い出したかのように自由を奪って放さない。なのに俺の体はもう頭を僅かに浮かべるだけだ。けど、

「好きでなったんじゃねぇよ! じゃあてめぇは、自分の生まれを選べたの――」

 せめてもの反論も最後まで言えず、頭のてっぺんまで浸かる。肺にコンクリートが流れ込んでくる。吐き出せない。苦しい。空気を求めて足掻くことも出来ない。なのに思考ばかりがはっきりとしていて、諦めることも出来ない。

 そうやってずぶずぶとどこまでもどこまでもどこまでも沈んで――



 どごんどん。

 落ちた。

 ご、で頭が。どん、で背中が。ごん、でかかとが、フローリングの床に。

「いってぇ……」

 なんかもういろいろなところが。

 頭と背中をさすりながら体を起こす。

 八畳の部屋の隅には二段ベッドの下段を勉強机にしたシステムベッド。墜落地点はそこから約一メートル。ベッドを囲む落下防止柵の高さを考慮すると、

「どんだけダイナミックな寝相だ……」

 もう寝相とかそういうレベルじゃないと思う。

 時間を確認する。起床時刻五分前。もう一度布団にもぐってノンレム睡眠も楽しめない。睡眠時間が五分縮んだだけなので肉体に問題はないが、気分は最悪だ。

 あの男。今までに狩った奴の中に混じっていたのが化けて出たのか、それとも俺の空想の産物か。

 判らないしどっちだっていい。

「……夢の中ぐらい、カンベンしてくれ……」

 誰にでもなくつぶやいて、俺は落ちかけている掛け布団をベッドに放り込み、部屋を出た。



 人間だってどこにでもいるのだから奇怪なものだってそこらじゅうに転がっていてしかるべきだ。逆を言えば自身を"普通"という基準からかけ離れた怪異を排除しようとする人間がいなければ吸血鬼や人狼だって異端扱いされず狩るとか払うとかの弾圧対象にもならず、ただ人間を捕食する生物として食物連鎖の一部に受け入れられていただろう。人間の力を超越している彼らと折り合いをつけていく法律でも出来てるかもしれない。

 だが世の中それほど甘くなく、人間も怪異も存在するし怪異が人間の生活を脅かす場合もあるし、人間が執拗に怪異を迫害する場合もある。

 一方で人間に与する怪異だってしっかりと存在するし、座敷童子だってそうだとか言い出せば水掛け論になってしまう。

 そんな歪な共存関係を調整するために、俺達がいたりする。

"太陽と月の天秤"

 例えばただ快楽のためだけに必要以上に捕食する吸血鬼や、怪異に執拗に近づこうとする人間……要するに、人間を昼、怪異を夜の住人と勝手に大別し、各々の境界線を大きく越えようとする者に対し調整、救出、抹殺などの処理をする、人間と怪異の共存を願う者達で構成される秘密結社。人間と怪異の調和――と言えば聞こえはいいが、構成員のほぼ全員が人間のため、その判断は人間に対して甘く怪異に対して厳しいのは否めない。怪異全般に対して人間の対抗手段は銀の弾丸など非常に限られているので、人間と怪異のハーフなんかは混血の割合次第で戦力になるため、手段を問わず懐柔しようとする。

 例えば俺とか。

 ダムピール。

 吸血鬼と人間のハーフ。前述の通り、どちらの血を強くひいているかで太陽に焼かれる、ずば抜けた身体能力、鏡に映らないし影も出来ない、血を飲まなければ生きていけないなどの特性をどう受け継いでいるかが決まる。

俺――赤川粋の場合、その特性が少し、いやかなり矛盾している。

吸血鬼並みの身体能力を持つのに生きるために血を必要とせず、太陽の下でも力は制限されるものの、焼かれて灰になるということはない。だけど肉体は人間のものなのに影も出来ず、鏡にも映らない。

だから人間社会で生きるには障害が大きいし、だからといって怪異の社会――実在するのかは知らない――に溶け込もうとすれば、少なからず流れている人間の血が邪魔になる。その上俺は孤児。両親の保護はない。"太陽と月の天秤"にとってこれほど扱いやすく恩を売りやすいコマはない。

というわけで俺は人間社会に溶け込む支援を受ける代わりに"太陽と月の天秤"の名の下に二者の関係の調整に従事することを代価として行っている。

要するに、半分の同族を生贄に、太陽の下で生きることを許されている。

あてがわれた教官の下、実戦で戦い方を必死に学んでいた幼少の頃は、それがどういうことか考えてる余裕はなかった。体格も技も経験も、何もかもが誰にも及ばなかった俺は一瞬でも気を抜けば命はなかったし、気を抜いていなかったとしてもこの歳まで生き抜けたのはかなり出来すぎだと思っている。相手に殺される前に教官に頭を撃ち抜かれて死んでいただろう。訓練の一環だとかほざいて戦闘中こっちも狙ってくるしな。

だが今は違う。俺は強くなった。教官の手を離れ、今は上司と部下に近い関係で組んで動いている。その教官から不意討ちされても、全力で動けば避けきれると思う。その気になれば、人間の血が足枷になろうとも、夜の世界で生きていけるだろうとこっそり自負している。

だからこそ思う。

半分とはいえ同族の命を差し出してまで、昼の住民として生きる意味はあるのか、と。

日の光は暖かい。高校生活もそれなりに楽しく過ごしている。だが、他のみんなは当たり前のように享受しているこの日常を、俺は生贄を捧げないと得られない。なぜ? 俺は吸血鬼の血が半分ぐらい混じっているだけなのに? ……人間にとってはそれだけで十分脅威なのだ。だから目に付く位置に首輪をつけておいておきたい。

月の光も暖かい。それに、俺の生い立ちを知り、憐れんだ半分の同族が俺を夜の世界へと誘い込んだこともある。何か目的があるのか、始末しやすくするためか、あるいは本当に救いの手を差し伸べようとしたのかはわからない。とにかく、その手を全て払って斬り捨ててきたから、俺はこっちにいる。

昼と夜。

俺はどちらにいるべきなんだ?

……父さん、母さん。

あんた達は何で俺を産んだ? 俺を捨てた?

ダムピールのほとんどがこうして苦しんでるの、知ってるだろ?

「……じゃあここ、赤川」

「わかりません」

「別に何も訊いていないぞ?」

「…………」

 はいはいそーですね、立てばいいんだろ、立てば。

俺は教室中央付近の自分の席から立ち上がる。軽く教室を見渡せば、腹の満たされる五時限目に一日で一番の日光と英国仕様の読経の無限コンボに力尽き、目ざとい教師に見つかり立たされた奴が結構いる。俺もその一人に加わったわけだが。

教師が授業という名を騙る読経に戻り、俺は特に聞くでもなく目線を真っ白に輝くノートに落とす。英語は国境を越えて活動する"太陽と月の天秤"に物心つく頃からいたため、どちらかというと英語が第一言語だ。日本語は教官が日本語を好んで使っていたから話せるに過ぎない。なので関係代名詞とか講義されてもこの上なく今更だ。英語圏の留学生が英語の授業を受けてもこんな気分になるんだろうか?

……そんなどうでもいいことを考えていると、俺も段々と瞼が降りてくる。誰も答えてくれない、そもそも質問すら出来ない問いかけにもうんざりしてる上に、豊富なバラエティーで毎晩俺の眠りを浅くする悪夢のおかげで精神的にも参ってる。立ちっぱでも寝れそうなので少し寝ることにした。

…………。

「知りたいの?」

 話しかけられた。それも変な切り出し方で。なにこのタイミング。人がせっかく寝ようとしたときに。

「……うるせぇ」

 ぼそりとつぶやく。

 それでも、

「あなたが聞いたんじゃない。どうして僕を産んだの、って」

 瞼をこじ開けて声のしたほうを見る。

 女だった。薄気味悪さすら感じるくらいの、きれいな女。ウェーブのかかった明るい茶髪に、ルビーをはめ込んだのかを思うくらい濁りのない赤眼。体のラインを強調するドレスとハイヒールを身につけた女が、クラスメイトの一人が座っているはずの席につき、机にひじをついてこっちに微笑んでいる。

 俺は、この女を知っている。ほんの少しだけ覚えている。女に抱かれて泣いていた記憶。何で泣いてたのかまでは覚えていない。ただその人は泣いちゃダメと俺をあやしてくれた。そのことを教官に話すと、その女の特徴からある友人の名前を挙げた。

「……クレア・ブラッディリバー……」

「お母さんのことをフルネームで呼ぶなんて、随分とよそよそしいじゃない?」

 クレア――母さんは身を寄せる。

「今日はね、あなたの質問に答えてあげようと思ってきたの」

 母さんの顔がどんどん近づく。俺は一歩離れようとして、自分の体が指一本動かないことに気付いた。

「来るな……っ!」

 喉と顎と舌だけは動いて拒絶しようとする。

「どうして? 私達は親子なのよ?」

 母さんの手が俺の頬に触れて、

「私があなたを産んだのはね……」

 耳元で囁かれる母さんの言葉は、

「あなたのお父さんを、愛していたから」

「殺して食べちゃいたかったぐらいに、ね」

「でも、出来なかった」


「だからね、あなたを産んだの」


「あの人の血を半分継いだ、あなたをね」

「私の血も半分混じっちゃったけど、自分のだからいいわ」

「最初は自分で育ててたんだけどね、育ちきる前にガマン出来なくなっちゃいそうだったから」

「……やっと満足できる大きさになったわ……」

 首筋に激痛。体から何かが流れ出ていく感覚。

「やめろ……っ!」

 やめてくれるわけがない。

「やめてくれ……っ!」

 引き剥がそうとしても体が動かない。

 それでも自分の血液が奪い取られていくのに抗おうとして、力の限り叫んだ。

「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ


 おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……お?」

 あれ?

 動かないはずだった俺の体はいつの間にか床に尻餅をついている。母さんの座っていた席を見ると、いつものようにクラスメイトの一人が座っていてこっちに何か変なものを見るかのような視線を向けている。

「あれ?」

 俺の声は授業中のそれとは違う、どこかさめた静寂に消えていった。

 ぱきり。

 だからそんなラムネを噛み砕いたような音もよく通った。

「ほう? 私の授業がそんなに聞くに耐えないと?」

 ぱらぱらとチョークの欠片が落ちて乾いた音を立てる。チョークはその性質上折れることはよくあるが、砕こうと思ったらどれくらいの握力がいるのだろう。とか考えている場合じゃない。

「あ、いや、これは……」

「廊下に立ってろ」

「……はい」

 大人しく引き下がった。この空気では何を言ってもだめな気がする。とっとと周囲の痛い視線から逃れたい一心で、俺は素早く立ち上がる。その瞬間、くらりと眩暈がしてバランスを崩しかけた。これが貧血ってやつか。いや血を吸われたのは夢の中なんだからそんなわけねぇだろと強引に持ち直して教室から出た。

「放課後、職員室まで来い」

 そんな追撃を背に後ろ手でドアを閉め、首筋に手を当てる。

 夢の出来事のはずなのに、首筋は牙の痕をなぞるように熱と痛みを持っていた。



 クレア・ブラッディリバーが俺の生みの親ならさっきまで英語の授業をしていて授業中突如奇声をあげた俺を廊下に立たせてこうして放課後に職員室へ呼び出した赤のスーツが似合いそうだが実際着ているのはベージュで眼鏡の奥にあるのは綺麗だけどキツい目と性格の長谷川キリエ――たぶん偽名。日系が外国人顔負けの艶やかな金髪を持っているか?――は俺の育ての親ということになる。幼い頃は戦いのいろはを叩き込む教官として、一人前と認められてからは共に戦う相棒兼監視役として、体の成長が遅い俺が高校生と名乗っても違和感がなくなる約五十年の間一緒に暮らしたが、全く老いた様子の見えない彼女はたぶん人間ではない。

「最近多いのか?」

 言いつけを守って放課後のこのことやってきた俺への第一声は、叱咤の類ではなかった。

「……ここ最近、毎日っスね」

 この場では教師と生徒の関係なので、形ばかりの敬語で小声を交わす。

一蓮托生の仲間かつ上司という位置づけの彼女には、念のために心身の不調を逐一伝えておく義務がある。

「まぁ、悪夢というのは罪悪感から自分を責めるために見るものだからな。悪い傾向ではない」

「悪夢が、ですか?」

「形はどうあれ、死と向き合っているということだ。狂信的に従事するよりましさ。上からの命令に対して自分の意見を持ち、疑いを持てる」

 それって、

「……反逆を認める、ということですか」

「お前に何か考えがあるなら、止めはしないさ。その時は立場上、敵になるがな」

 しかし、と先生は一人ごちた。

「母親に食い殺される夢とは、また穏やかじゃないな」

「そりゃあ悪夢ですから」

「茶化すな」

 そんなつもりはないはずだったのだが、先生の小声に険しさが含まれる。

「お前の母親は、自分の愛欲を満たすために子を産むような、狂った女じゃない」

「…………」

 この五十年で硬化した疑念をこんな公の場所での言葉で溶かせるはずがないと先生もわかっているのか、ところで、と今度は話を変えた。

「お前が大声で授業妨害をしたのは事実だからな」

 先生は机の引き出しからプリントを一枚取り出して差し出す。

「罰として特別課題だ」

受け取ると、手書きの中途半端に短い長文問題だった。ご丁寧に設問も英語で書かれている。

「またまどろっこしい……」

「うるさい。さっさと帰れ」

「へーい」

 職員室を追い出され、教室に戻って鞄をひっかけ帰り道をぶらぶらと歩きながら、さっき渡されたプリントを取り出す。

 大問一、次の英文を読み以下略。

 概要、昨夜より貴殿らの担当区域内において怪異の進入を確認。追跡したところ都市近郊の廃屋となった教会に侵入、その後未明時点で人間や怪異との接触は確認されず。これらの行動の意図不明につき長谷川キリエ、赤川粋、両名はこれと接触したのち適切な判断を下せ。

 これは何かというと指令書だったりする。"太陽と月の天秤"はまず上司の先生に指令を伝え、そこから俺に見せるべきではない国政とかが絡む情報を先生が削除した上で俺に回ってくる。そんな面倒な方法なので俺が高校入学を機に先生の許を離れて一人暮らしを始めると、急ぎの指令、例えば今日の晩が実行日時の場合、指令書をまわすのが間に合わなくなる場合があるので稀にこうして学校で課題プリントなどに加工されて渡されるのだ。主に英語だがネイティブな言い回しや暗号が多用されているのでそこらの高校生に解読されることはまずない。ちなみに自動的に消滅もしない。規制される情報に命を張れるかと反抗した時期もあったが今はもう諦めた。ダムピールの人権なんてそんなもんだ。

「適切な判断、ねぇ……」

 要するに無害ならお帰り願って有害なら殺せということだろう。実働部隊に判断を任せるということはそれだけ見た目や行動から危険性が感じとれないのだろう。ということは人型の類か。

 身体的特徴から推測される種族、人狼吸血鬼その他諸々。

 更に人間社会と何らかの形で関わりを持っている場合、類似していると推測される人物。

「……っ!」

 クレア・ブラッディリバー。



 教会に聖なる力に弱い吸血鬼というのもどこまでも皮肉な話だ。もしかしたら母さんらしきヤツもそんな笑えないブラックジョークのつもりで教会に潜んでたりするのだろうか? なんてくだらない考えをあえて廻らせて落ち着こうとする。

 この時季は日が沈むと急に冷え込むらしいが、寒暖の変化には強いのでよくわからない。次第に暗くなっていくにつれて、神を崇める教会は何か出そうな雰囲気を醸し出す。実際に何か潜んでるんだけど。

 教会。

「…………」

 来ちゃった。

 そりゃあまあ、全く理性がなかったわけでもない。感情に身を任せるなと先生に叩き込まれていたし、もし理性が吹き飛んでたら今頃あの両開きのドアを蹴破って「母さんどこにいる出てきやがれ!」とでも叫んでるだろう。

 それに、

「……俺がまっすぐここに向かうこともお見通しだったってか? 先生」

「何年お前と一緒にいると思っている」

 教会の前では、すでに先生が待ち構えていた。……あれ? 俺あのプリント見てから結構なスピードで駆けてきたのになんで先越されてるんだ?

「お前の気持もわかるからな。今回はそれに合わせてやるだけだ」

「……ありがたいね、全く」

 また錯覚のはずの眩暈と嘔吐感にいらいらしてそんな受け答えをしてしまうが、先生は意に介さない。

「こっちとしても夜になる前に片付けたいからな。いくぞ」

 言うなり先生はドアを開けて中に入ってしまう。

 俺は軽く見回して、街灯の方向を確認する。鞄を持っていない右手をその逆の方向に向けると、指先が何かに触れた。

 つかむ。

 手を戻し、握っているものを確認する。

 柄も鍔も、刀身の刀紋や鎬、切っ先までぬらりと黒い、抜き身の刀。

 当然だ。影の役割を果たすために作られたのだから。

 影牙。

 太陽の下を歩けるのに影を持たない俺の補助として作られた、人工の影。

 影というのは光を物体が遮って出来るが、俺の場合、肉体はあるのに光は遮らないという変な体だ。だから影は出来ないし、同じ理由で鏡にも映らない。

 そこで怪異に対抗するために色々と怪しい技術に手を出している"太陽と月の天秤"の出番だ。

 詳しい原理はわからないが、卑金属を貴金属に変える錬金術を応用したものらしい。言ってしまえば影や鏡像というのは光源と遮蔽物があって初めて成り立つので、例えば影を作るには光源と遮蔽物という存在するための証拠、拠り所がいる。肉体はきちんとあるので遮蔽物を俺と設定すれば、二つの要素が揃った場合のみ、自然に出来る影と同じように現れる人口の影を生み出せる、という寸法らしい。

 そして錬金術たぶんで作られたこの影に、製作者達はある仕様をプレゼントしてくれた。

 必要に応じて物質として具現化し、武器となる能力。

 硬度重量その他は全て遮蔽物である俺に依存している。俺がムキムキマッチョになればそれに応じた変化を遂げるだろうし、逆の場合も使えるかどうかは別としてそれに合わせるだろう。要するに今の体の都合にあった武器になってくれるのだ。

 今の形態は日本刀。小柄な俺に合わせてか、教科書や時代劇で見るものより少し短い。幼い頃にもらった時はナイフの形状だったので、その頃の俺は何の恥も躊躇いもなく"影牙"と名付けた。別に「いくぜ影牙!」とか叫びながら取り出すわけじゃないが、そろそろ呼び方を変えようと思っている。

 とにかくその影牙を右手に、教会へと消えた先生を追う。

 ふと足元を見下ろす。

 街灯が点きはじめて周りの影が濃くなるなか、どこにも影を伸ばさない自分の体がひどく頼りなく見えた。


 ステンドグラスは下方、人の手が届く範囲は全て削り取られていて、そこから上は所々に周囲にヒビの入った穴がいくつか空いている。長椅子の類は全て撤去されたらしく、ゴミがあちらこちらに点々と。あとは埃が厚く積もっているのに目をつむれば、そこそこすっきりしていた。

 さて先生はどこだ? 捜そうとして、俺は積もっている埃に足跡が見当たらないことに気がついた。

 パタン、カチャリ、と背後で音がした。

 何の音かは解りきっていたので振り返らなかった。

「なんとまぁ……」

 ベッタベタだな。

 別に蹴破ろうと思えば出来るしステンドグラスの隙間や穴からも脱出可能なので、特に危機感は感じない。探索を続行する。

「…………」

 ステンドグラスを通して差し込む月の光。

 空気中の埃が全て床に積もっているかのように澄んだ空気。

 静寂。

「全く……」

 ベッタベタだな、俺も。

 この教会、前にも来たことがあるような気がしてならない。

「デジャヴでも感じてるの? 意外と覚えてるものなのね、小さな頃の記憶って」と背後で声がした。

 誰の声かは解りきっていたので、振り返った。

 ウェーブのかかった明るい茶髪。

ルビーの赤眼。

花嫁のようなドレスとハイヒール。

夢の中で見た時と全く同じ姿で、クレア――母さんは、そこにいなかった。

「…………」

 いない。

 幻聴か? だが半分混じってる吸血鬼の血のおかげか、今までにそういう類にかかった覚えはない。

 俺は影牙を構えた。

「ここはね、あなたが私に捨てられた場所。私があなたを捨てた場所」

 全身の感覚を研ぎ澄ませる。細胞一つ一つが臨戦状態に入っていく。どこだ、どこにいる。

「ずっと気になってたみたいだから、教えてあげようと思って来たの。あなたが生まれた理由」

 相手の場所を突き止めようと澄ませる耳が、否応なしに母さんの声を通す。……違う、そんなのは建前だ。本当は、

「不思議に思ったことはない? どうして太陽の下を動けるのにこんな力を持って、影もなく鏡にも映らないのか」

 本当は、知りたいから。最近悩まされる悪夢。それはこの苦しみの答えを探しているから。

「あなたはね、実験体なの」

 例えそれが、今まで以上の苦しみをもたらすものだとしても。


 あなたの人間と吸血鬼の割合。それがわかれば、全ての人間が吸血鬼と同等の力を持って、吸血鬼は太陽を恐れる必要がなくなるの。人間と吸血鬼の垣根はなくなるわ。吸血鬼だけじゃない。応用すれば全ての怪異が人間に近づいて、二つを分ける境界線がなくなるの。

 でも、そんなすばらしい計画を否定するものもいてね、まだ赤ん坊だったあなたを殺して計画を止めようとするの。

 私達だけじゃ護りきれない。もっと大きな保護が必要。そう思った私は、あなたを"太陽と月の天秤"に所属しているキリエに預けたの。この場所でね。いつか大きくなったら、あなたを迎えに来ようって。

 わかる? あなたのその体はね、あなたのものじゃないの。


「……嘘だ」

 影牙の剣先が震える。手が震える。腕が震える。体が震える。

「俺の体を人間と怪異の垣根をなくすために使うだと? ふざけんな」

 怒り? 哀しみ? 驚き?

 色々だ。色々な感情が俺の中を駆け巡ってせめぎあって、体の中から震え上がってくる。

「ふざけんな!」

 ぐらり。

 視界がぶれる。足元がふらつく。研ぎ澄ませていたはずの五感がふいに遠のいた。知らないうちに後退りする。バランスを崩す。支えようとそばの柱に手をつく。力が強すぎたのかヒビが入る。そのまま抉り取ってしまう。また体勢が崩れる。今度は立て直せずに、尻餅をついた。

 頭がはっきりしないこの感覚。まるで貧血だ。

 首筋が焼いた鉄を押し当てられたように熱い。

 ふふ、と含み笑いが聞こえた。

「やっとこたえてきたみたいね。もう随分飲んだものね」

 どうやって現れたのか全くわからない。そもそもこんな状況でどう現れたのか把握できるとも思えないし、万全の体調で登場を見切ったところでそれがどうした程度の差だ。だから意識の隙間から母さんが見えたとしても、立ち上がろうとして失敗しただけだった。

 茶髪、赤眼、ドレスにハイヒール。

 今度こそ、母さんだった。……いや、今目の前にいるのも幻か何かかもしれない。

「ひどいわ。五十年ぶりの再会なのに、そんな目で見るなんて。……ま、その前に少し会ったけど」

 カツカツと白のヒールが音を立て、母さんが近づいてくる。

「嘘だ……夢の中で……?」

「現実で起きることが全てじゃないのよ、スイ」

 母さんが俺の名を呼ぶ。

 こんな形で、呼ばれたくなかった。

「――近づくな!」

 力加減の上手くいかない右腕を振り上げ、影牙を突きつける。震えて剣先が定まらない。怯えているのを隠して威嚇してるような、惨めな気持ちを押し殺す。

 そんな俺を嘲るように、母さんは切っ先の寸前で止まった。

「……なんでだよ……っ!」

 ずっと考えていた。

 どうして俺は生まれたんだろう。どうして母さんは俺を捨てたんだろう。どうして俺は他の子供と同じように生きることが許されないのだろう。

 それは人間と怪異の境界をなくすため。俺は人間と吸血鬼の血を互いの利害を埋めるような割合を持って生まれた変異種。俺の体を実験材料にすれば、全ての人間が怪異の食い物にされなくなる。全ての吸血鬼が人間の血を必要としなくなり、太陽の下に出られる。応用すれば、全ての怪異が。

 境界を越え、人間と怪異が共存する世界。

 そこに、俺はいないのか。

「なんで俺は自分のために生きちゃいけない!」


「それはあなたのせいよ、スイ」


「あなたがそんな体で生まれてこなければ、あなたは苦しい思いをせず、こんな計画が持ち上がることもなかった」

 色が。

 色が落ちる。

 熱が。

 熱が消える。

 形が。

 形が歪んでとけていく。

「もう大丈夫と思うけど、また暴れられても困るし、もう少し飲んでおこうかしら。痛くて苦しいと思うけど、我慢してね?」

 影牙を払いのけて、母さんが近づく。顔を首筋に寄せる。

 どずん。

 鋭い何かが皮を破り肉を裂き骨を砕き――母さんは教会の奥へ吹っ飛んだ。

 ずどんずどんずどんずどんずどん。

 轟音が響くたびに母さんの体が跳ねる。それが静まると、今度はハイヒールとは質の違う、革靴のような乾いた音がコツコツと響く。

 上げた金髪。眼鏡の奥には鋭い眼光、ベージュのスーツの上に似た色合いのコートを着て、左手には銀に光るリボルバー。

 長谷川キリエ。

 先生は俺の胸倉を右手一本で掴むと、大きく振りかぶって頭から――

「――いっ」

 てぇ……っ!

 頭から壁に叩き付けた。

「しっかりしろ」

 頭を抱える俺の胸倉から手を離し、先生は言う。

「母親に命を否定されたからどうした。お前はもう自分の意思で生きているじゃないか。自分の身の振り方ぐらい、自分で決めろ」

 先生はそれだけ言うと、倒れたままの母さんに向き直った。

「久しぶりだな、クレア。どうした? しばらく見ない間に、随分穴だらけじゃないか」

 ぴくり、と母さんの体が動く。

「……そうね、久しぶり。あなたは相変わらずね、キリエ」

 そのままゆらりと、母さんは体を起こした。撃ち抜かれた頬の辺りは何もなかったかのように滑らかで、ドレスにもどこにも穴なんて空いていなかったことに俺は驚く。体が治っている。先生に撃ち抜かれて?

「……いえ、少し変わったかしら?」

 母さんの手から金属製の何かが、月の光を鈍く返して床に跳ねる。

「慈悲のつもりかしら? ただの鉛弾で撃つなんて」

「私が殺して、それで終わりならそうしていたさ。……分かっているのだろ? それでは終わらない問題があることを」

 ふふ、と母さんははぐらかすように笑う。

「なぁんだ。じゃあ"銀弾の魔女"の看板は降ろしたわけじゃないのね」

「ああ、」

 先生はリボルバーを握っていない右手をかざす。

 その指の隙間には、銀色のコイン。ここからは見えないが、おそらくは十字架が刻まれているコインが、計四枚。

 先生は手首を返してコインを握りこみ、再び開いた。

 指の間のコインは消え、代わりに挟まっているのは尻の切れた流線型。

 銀の弾丸。

「おかげさまでな」

 母さんの姿が消える。

 瞬時に反応した先生は腕の残像が見えるほどのスピードで親指と人差し指の間の弾丸をリボルバーのスリット――左利きの先生用六連リボルバーはシリンダーが左回転、シリンダーをスライドさせリロードする普通のそれとは違い、銃身から右上の薬室にかけて彫られているスリットに弾丸を滑らせて装填する――に流し込み、ハンマーを上げながら中空に銃口を向け、引き金を引く。

 ぎいん。

 まさにその場所にいた母さんはいつの間にか握っていたレイピアで銀弾を弾き、足場のない空中で再び消える。先生も再びリロード。今度は腕を水平にして発砲。ぎいん。だいたい同じことの繰り返し。それがもう二度繰り返され、先生の右手から弾丸が尽きた。先生は右手をおもむろに下ろすと、服の裾から今度は自動式拳銃が滑り落ち、手に収まる。腕を振りながら立て続けに八発。ぎぎぎぎぎぎぎぎいん。最初の一発は銃口の寸前という至近距離、残りは渦を描いて離れるように。

 かきん。

「……残念、腕も鈍ってないのね」

 母さんは刀身の中ほどで折れたレイピアを手放す。放り捨てられたレイピアは、床に落ちる前に霧のようなものになって掻き消えた。

「あなたの銀弾対策にと思ってたんだけどね。やっぱり慣れないことはするものじゃないわ」

「そこでレイピア、という選択肢がおかしいと思わんか? 弾を防ぎたいなら鎧なり盾なり、持ってくればいい」

「それこそナンセンスね。砕けるまで撃たれて終わりじゃない。重いし」

 そんな会話を交わしながら、先生は自動式拳銃を放棄、リボルバーのシリンダーをスライド、手の中の弾丸をまとめて装填する。

 "銀弾の魔女"。

 まるで手品のように握った手のひら、ポケット、裾、総じて人目の届かない様々な場所から最初からそこにあったかのように銀のリボルバーや自動式拳銃、弾丸などを取り出す能力。そんな種も仕掛けも解らない(本人にも解ってないらしい)、空薬莢も出さずに連射してしまう銃の構造を真正面から否定するような奇妙な能力を臆することなく使い、微塵の躊躇いも無く抹殺対象を無慈悲に屠る様は、彼女とその二つ名を結びつけるのにそう時間はかからなかった。

 このまま俺が休んでいても、先生は一人で母さんを倒してしまうだろう。

 それでいいのか?

「……それでは終わらない問題、ね」

 駄目に決まってるだろ。

 やっと巡ってきた最初でたぶん最後のチャンスなんだ。ずっと抱えてきた疑問に答えを出せるかもしれないんだ。立てよ。待つな。自分でつかめ。

「……くそっ」

 そう必死に言い聞かせても、体は動かない。血が足りない。その場しのぎでもいいから動く方法。どこかから血を補給する方法――、

 俺は自分の左腕を持ち上げて袖をめくり、

「これしかねぇよな……」

 思いっきり噛み付いた。

「!」

 マズッ! 自分の血がこんなに不味いものだとは思わなかった。ガマンして一口飲み込む。二口。少し迷って三口。

 ぼんやりとしていた視界が晴れる。俺は跳ね起きて、再び影牙を手に取り、全力で先生のもとへ駆ける。前に出していた左足を軸に反転。その勢いを利用して影牙を逆袈裟に振り抜いた。いつの間にかまた握られているレイピアと金属音を立てる。

「まだ動けたの?」

 呟いた母さんの残像をいくつもの銀弾が貫く。

「いけそうか?」

 周囲を警戒しながら、先生が声を掛けてくる。

「かなりきつい」

 俺は生きる分には血を必要としない。だが吸血鬼の血が混じっている以上、血を摂取することで一時的に身体能力を増強することは出来たし、実際にしたこともある。ただ、自分の血でやったことはないのでそこは賭けだった。

 リミットは平均して約五分。今の状態を考えると三分保てば御の字か。

 二度目はもう出来そうにない。

「けど、こればっかりは他人任せにはできねぇよ」

 俺は影牙を構え直す。

「クレア・ブラッディリバー。俺は世界の犠牲になんてならない。実験体にしたいなら、力ずくでやってみやがれ」

「――そうさせてもらうわ」

 影牙を体の前面に立て、鳩尾を狙った突きを右に流す。ノーガードになったクレアの右側を狙い、掲げるようにしていた影牙を更に振り上げた。

 そんな体勢だったので、俺はクレアの体の陰から突きこまれたもう一本のレイピアへの対応が遅れた。

 慌てて影牙を垂直に振りおろす。間に合わない。体をねじって強引にかわす。

 距離をとろうとバックステップする俺に合わせるようにクレアはターン。ドレスの裾が舞い、二本のレイピアが今度は水平に薙がれ、俺を逃がさない。今度は間に合った影牙で二本とも受ける。体を捻ってステップしたことでクレアが見えたのか、先生のリボルバーが火を噴き、クレアの姿が消える。

 息をつく暇も無く、左目の端で刃を捉える。首を刎ねる軌道。だがあからさますぎる。たぶんこれはおとり。だがほっとけば首を落とされる――、

 俺は手首を返し、影牙の柄の先端、柄頭を前に向け、親指ほどの面積もないそこでレイピアの刃を受け止める。そして振り向き、時間差で背後から襲いかかる二本目を見据える。腰を落とし、柄頭を支点に影牙を下へ。互いの刃を打ち合わせ、レイピアは斜めとなった影牙の刃を滑る。俺がしゃがんだため射線ができ、先生が撃ったが、銀弾は壁をうがっただけだった。

「くそ……」

 強い。というか速すぎる。単純にスピードと得物の数で圧倒されてる。一本にかまってる間にもう一本にやられる。おまけに血を得るために思いっきり左手に噛み付いたから、左手に力が入らなくて影牙を両手で握れないから力押しもできない。常に先生の射線に俺を挟むように動くため、攻めてくる方向がある程度判るのがせめてもの救いか。

 どうする。

 考えている間にも戦闘は続く。こっちの推測を嘲笑うように今度は右側、先生に対し全身を晒すようにこっちに刺突。影牙で受けずにしゃがんでいた体勢から脚のバネを一気に伸ばし全力ダッシュ。クレアが避ければ俺に飛んでくることなど全く構わずに放たれた銀弾がスタート地点の床を抉る。

 銃声が続く。フェイントで先生に狙いを移したのか?

 俺は先生の援護をするために方向転換。

 目の前に先生と戦っているはずのクレアの姿とレイピアの切っ先が立ちふさがる。

「くっ!」

 止まれない。ギリギリ間に合った影牙で苦し紛れに捌く。

 もう一本は。

 左斜め上から首を狙って突きこまれるもう一本のレイピアは。

 遮るようにかざした手のひらを、易々と貫く。

「くぉぉぉぉぉぉぉ――!」

 肉を破り骨を割り筋を裂く、どの感覚も激しい痛みになって意識を揺さぶる。

 それでも俺は、まだ動く自分で噛み付いた部分以外の左腕の筋肉に有らん限りの力を込め、左手を払う。

 刃でなく腹の方に力が加えられたレイピアは僅かに軌道を逸らし、首を深く抉りながらも致命傷には至らずに通過していく。

 その間も手のひらは刃を滑ってまんべんなく血を塗り、ついには鍔にまで到達した。

 これで左手は完全に使い物にならなくなった。けど――

「ふさいだぜ? 左手」

 影牙を放り捨てる。手から離れた影牙は自分の本来の位置、俺の足元へ潜り込む。空いた左手でクレアの左腕をつかむ。これで引き抜けないし、距離が近すぎて刺突、斬撃も十分な威力が出ない。引き剥がすのに手間取っている間に先生が撃ち抜いてくれる。

「らぁっ!」

 そして俺は、走る勢いをそのままにクレアに頭から突っ込んだ。受身なんて知ったこっちゃない、捨て身のタックル。それをクレアはそんな華奢な体のどこにしまっていたのか不思議なほどの力で受け止めた。ハイヒールが床と擦れて嫌な音を立てる。俺はクレアの体勢を崩そうと、つかんだ左腕にぶら下がるように全体重をかけた。前のめりに倒れる格好になる。クレアは体勢を崩したのか、引きずられることなく俺の体はクレアの右腕と共に倒れていく。こうして崩してみると案外すんなりと引っ張れる。踏ん張ろうとする様子も全くない。まるで、

 まるで、右腕以外何もないかのように。

 どうして。

 こんな絶好の機会を作ったのに、どうして先生は撃ってこない。

 次の瞬間には肩が床にぶつかる。衝撃が肺から空気を追い出す。酸素を確保する前に顔を上げ、状況を確認する。

 右腕。

 クレアの右腕は肩までしかなくて、その先にあるはずのクレアの体はそこにはなくて、ただ惰性で流れ出たといった風な血が床を少しずつ染めていた。

 先生。

 先生はこっちには全く気に留めず、リボルバーを左、俺から見て右方向に向けていた。

 クレア。

 リボルバーの先を目で追うと、その射線上にクレアが立っていた。右肩から先がなく、そこからリズミカルに血が噴き出ている。右腕がなくなっているのに、相変わらず笑みを浮かべたままだった。

 俺は立ち上がり、痛みをこらえてレイピアを引き抜き、放り捨てた。

 まさか。

 俺を引き剥がす時間はないと判断したクレアは、自分の右腕を斬り落としたのか?

 自分の体を取り返しのつかないレベルまで傷つけるのに微塵の躊躇いもなかった?

 そんなことをした直後でなぜ笑っていられる?

「……ずいぶんと強くしてくれたのね。おかげで生け捕りにできないじゃない」

「私に預けるというのは、そういうことだろう?」

 唐突にクレアの右肩、血のポンプが止まる。床に落ちた血が、まるで水が蒸発するように赤い蒸気になって舞い上がっていく。ふと視界の端を似たようなものが通る。斬り落とされた右腕を見ると、こっちも似たような蒸気状になってクレアの方へと風もないのに流れていく。

 クレアのもとへ集まった蒸気は肩口に次々とくっついてどんどん伸びる。二の腕、肘、手。爪先まで元通りになった右腕を、クレアは確かめるように軽く振った。レイピアは持っていない。

 先生の目に僅かに驚きが混じる。友人があそこまでの再生力を持っていることを知らなかったらしい。

 その右腕を口に押し当て、クレアはおかしそうに笑った。

「ま、いいわ。もう少し本気を出せばいいだけだから」

 そう言ってクレアは、今度は全身が蒸気の固まりになり、次の瞬間には輪郭を崩し、その場から散った。

「――先生!」

 俺は反射的に先生の前に立つ。

 霧になられるとかなりやっかいだ。こっちの攻撃はほぼ全て通用しなくなる一方、相手はこっちを取り囲むことで四方八方から攻撃を仕掛けられる。

 ほぼ全て。

 そこに、影牙は含まれていない。

「頼むぞ」

「任せろ、とは言い切れねぇなぁ」

 再び取り出した影牙はいつもより重く感じる。眩暈の感覚も少しずつ戻ってきた。リミットの前兆。思ったより早い。それだけ体が消耗してるってことか。

「やるしかねぇから、やるけどな」

 腰を浅く落とし、影牙を体の左側へまわす。脇構えと居合い斬りを折衷したような、影牙を地面と水平に寝かせた変則的な構え。

 五感の全てを俺達を囲おうと流れる霧の一粒一粒にかき集める。脳内の麻薬が目眩や体の重み諸々その他の余計な感覚を排除する。世界が零と一、霧の粒が間合いの外か内かの二つだけになる。

 零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零一。

 閃。

 剣筋の後を追うように霧に溝が生まれる。風圧で周囲の霧が散る。振り抜いた影牙を引き戻し、その風圧につかまった一部の霧を強引に間合いの中へ引きずり込む。一。閃。俺のしていることに気づいたクレアが間合いから逃げようとする。逃がすか。届く範囲の霧を片っ端から引き寄せて斬る。

 閃。一。閃。一。閃。一。閃。零。間合いから霧が全て退き、次第に視界が晴れていく。構えを解くと思い出したように眩暈や体の重みが戻ってきて、俺は自分の体すら支えきれずに膝をついた。

「それだけボロボロの体でよくやったよ。及第点だ」

 労いを込めて肩を叩く先生の手さえ今は重い。

「……クレアは?」

 呟いてみて初めて、自分の喉がカラカラに渇いていることに気づいた。

 先生の指差した先。俺の前方。

「……そんな、嘘よ……」

 今まで笑みしか見せなかった顔は苦悶に歪み、俺と同じように膝をつき、痛みに震える体を両腕で抱きながら、クレアは全身をあちこちからとめどなく流れる血で汚していた。

「私の鍛えた剣術だ。霧ぐらい斬れなくてどうする」

 先生はリボルバーをゆっくりと構える。あれだけのダメージを負ったクレアに対し決して警戒を解かず、自分のレンジを保つ。

「おまけに体も治らないだろう? こいつの刀は特別製でな、人工の影を具現化したものだ。影は光、ひいては太陽の象徴」

 だから今のクレアは体の所々を日光に晒したのと同じ状態だ。本物の太陽程の絶対的な浄化力はないが、相手の戦闘意志を削ぐ目的で使えば十分に機能する。

「……さて、こっちの種は明かしたんだ。そっちも色々と吐いてもらわないとな」

「……待ってくれ、先生」

 おかしい。

 クレアは「現実で起こることが全てじゃない」と言った。夢の中で実際に血を奪われたことから、「俺を産んだのは惚れた男の血を半分でも継いだ子供の血でその男への愛欲を少しでも満たすため」と言ったのは本物のクレアということになる。だが教会で会ったクレアは「俺は実験体として生まれた」と言った。

 まるででたらめだ。どういうことだ?

「……ふ」

 クレアは笑う。

「ふふ、ははは、は」

 全身を斬り刻まれ治らぬ傷から血を流し、銀弾で狙われる絶体絶命の状態で、それでもクレアは笑う。

「ぅ」

 いつもならこの辺りで不審に思う前に撃ち殺しているはずの先生が、代わりに呻き声のようなものを上げた。

 振り返ると、レイピアの剣先から滴り落ちた血が、俺の頬に落ちた。

「え?」

 レイピアは先生のコートの胸元、ちょうど心臓の辺りから生えていて、先生は苦しそうに口元を押さえていて、手の隙間から血が零れ落ちて。握力のなくなった左手からリボルバーがゴトンと重々しい音を立てて、

「アッハハハハハハハハハハ」

 先生の背中に手を突っ込んでレイピアの柄を引きずり出して、凄惨な、とても凄惨な、この上なく凄惨な顔で笑った。

「ねぇ、気づかなかった? あなたが折ったレイピア、霧になってちょっとずつあなたに染みこんでたのよ? 私が右腕を再生したとき、レイピアはどこに行ったのか気にならなかった?」

 クレアは俺の方を向いた。

「あれはね、あなたに仕込もうとしたの。結局あんなことをされて、それどころじゃなくなったけどね」

 そこまで楽しそうに言って、クレアは少し苦しそうに顔をしかめ、手のひらにべっとり付いた先生の血を舐めた。

「ふうん。"銀弾の魔女"も血は意外と普通なのね。ちょうどいいわ」

 ざくっ。そんな耳を覆いたくなるような生理的嫌悪をかきたてる音を立て、クレアは先生のコートから僅かに覗く肌に噛み付いた。

 心臓を貫かれた先生に抵抗する術があるはずもなく、力なくクレアに支えられ、なすがままにされていた。

 ただ、目だけが鋭いままで、俺を見据えていた。

 まるで、まるで自分ごとクレアを貫けと言わんばかりに。

 今のクレアは満身創痍だ。失った血を補給するのに必死で、先生の陰から斬りかかれば対応できそうにない。

 だが俺も似たようなもので、先生を回りこむ余裕はない。例え出来ても気付かれて避けられて終わりだろう。

 モタモタしている間にクレアが補給を終えれば、先生は犬死に。

 だったら。

「――!」

 声が嗄れていたのは幸いだった。

 最期に、弟子の情けない叫び声を聞かせずに済んだから。


 銀の銃や弾を無尽蔵に取り出し相手に絶対的な死を与え、怪異の間で恐怖の代名詞として語り継がれている"銀弾の魔女"の最期は、弟子の母親との殺し合いの末その弟子に刺し貫かれるという、どうにもあっけないものだった。少なくとも両胸に穴を開けて生きているとは思えないし、クレアと折り重なるようにうつ伏せに倒れてしまったのでどうにも確認しづらい。でも確認はクレアをどかせば出来るので要するに自分の師匠を手にかけたという事実を受け入れたくないだけだ。だから倒れてる先生の横顔がどこか微笑んでいて「お前にはまだやるべきことがあるだろう?」と言われている気がしたのも罪の意識を少しでも和らげようとしているのだろう。ただ、先生が命を投げ出してまで作ってくれたこの時間をただ現実逃避に費やすもの失礼だ。

「……クレア・ブラッディリバー」

 掠れて自分でもよく聞き取れないが、どうにか声は出た。

「……なぁに?」

 瀕死のクレアにも届いたらしく、眠りから覚めるようにパチリと目を開けた。

「話せよ、本当の理由」

 返事がない。先を促しているのだろう。

「俺を産んだ理由、夢の中で言った理由と、ここで言った理由、どっちが本当だとしても、辻褄が合わないんだよ」

 子供はクローンじゃない。惚れた男の子供だからと言って血の味までその男と同じはずがない。

 人間と怪異の境界をなくしたところで調和するはずがない。少なくとも人間は未知なる存在には恐怖を抱く。それまで怪異の存在を空想だと思っていた人間達が怪異の存在を急に目の当たりにすれば、恐怖心と自分達の生活を守るために怪異を圧服しようとするだろう。怪異もそれに抵抗するうちに互いの不信感を募らせれば、起こるのは全面戦争。

「そもそも、矛盾させる意味がない。強いて理由付けるなら、夢の中ではその非現実性を利用して、さも息子の血を飲むのは当然だ、という理由を吹き込んで、俺に不信感を植え付けるため。教会では秤に世界、なんて大層なものを載せ、世界を取るか自分の命を取るか、ってスケールのでかさで圧倒させて混乱させるため。ってところか?」

 途切れ途切れになるのはしゃべるのが辛い上に自分でも何を言っているのかわからなくなってきたからだ。前提そのものが矛盾しているので何を言ってもこじつけているように聞こえる。

「……ふふ」

 そんな俺の心中を見透かしたように、クレアは笑みを漏らした。口の端からも血が漏れる。肺を太陽の象徴で貫かれ、侵食が始まっているのだろう。侵食が心臓まで達するのも時間の問題だ。

「難しく考えすぎよ。どっちも半分ずつ、本当なだけなんだから」

 それからクレアは少しだけ、悲しそうな顔をした。

「散々ひどいことをしたんだもの、今更、信じなくていいわ。これは私の、死に際の戯言」

 クレアはそう前置きした。

「私があなたのお父さんを愛していたのは本当。でもね、あなたはお父さんの代わりじゃない、ちゃんと愛されて生まれてきたの」

「その息子を、なんで食い殺そうとしたんだよ」

 俺は首筋を押さえた。

「……生まれてきたあなたがそんな体だったのは、本当に偶然。でもね、あなたの体を使えば、太陽の下に出られる可能性があるのも事実」

 質問に答えろよ。そう声を荒げようとしたが、もうそんなに声も出ないし、前振りかもしれないので黙っていた。

「力は制限されるでしょうけど、それでも太陽の下に出たい怪異はたくさんいる。私も、出られるなら、出たい。でも、それと自分の子供を差し出すのとは話が別。私とあなたのお父さんは、あなたを狙う怪異達から逃げ続けた」

 お父さんはすぐに殺されちゃったけどね。クレアは悲しげにそう付け加えた。

「助けてくれる怪異もいたけど、相手の勢力の方が圧倒的に大きかった。段々と一人では守りきれなくなりつつあった私は、もっと大きな庇護を求めてあなたをここでキリエに託し」

 そこまで言ってクレアは大きくせきをした。口から血の泡が吐き出されて床で弾けた。

「託して、一人で逃げ続けたの。でもね、もし私が捕まって、預け先を吐かずに死んだとしても、誰かがあなたがそうだと突き止めない保証がどこにあるの? あなた自身やキリエがそんな刺客からあなたを守り抜けると誰が言いきれるの? もし守りきれなかった時、息子の体は人間と怪異のバランスを崩してしまうのよ?」

 もう一度大きくむせこんで、クレアは続けた。

「わかる? この五十年、そんな苦悩を抱えながら逃げ続けた辛さが」

「…………」

 俺はわかるともわからないとも言えなかった。ただ、俺が必死に生き自分の生まれた理由について悩んでいる間に、クレアも、……母さんも、俺の身を案じ、頭をかすめる不安と五十年も戦ってきたのだということは痛いほど伝わった。

「私はいつしか思うようになった。もし私に殺されるようなら、私があなたの体を全て喰い尽して、その上で死んでやるって。それが怪異を惑わせる子供を産んだ母親の責任だって。狂ってるってわかってた。でも私は、その暗い考えを、あなたを見つけても振り切ることが出来なかった」

 つう、と母さんの頬を涙が伝った。

「でも、そんな必要はなかった。あなたは血を半分なくした状態でも、私に勝てた」

 とめどなく流れる涙が、先生の上へ落ちていく。

「キリエまで巻き込んだ上に殺しちゃったんだもの、許してくれなんて言わないわ。でも、ごめんなさい、スイ。私が人間に恋をしなければ、全ては始まらなかった。あなたにこんな人生を歩ませることもなかった」

「……母さん」

 生まれて初めて面と向かって呼んだ母さんという響きは、とても暖かかった。

「確かに、俺は何で、他を殺してまで生きてるんだろう、って悩んできた。先生にとどめを刺したのも、結局は俺だ。けど」

 涙なんてものは血が半分なくても出るらしい。自分はちゃんと愛されて生まれてきたという嬉しさとか、こんなめちゃくちゃな運命に弄ばれて先生を殺し母さんも殺そうとしている悲しさとかそういう感情を越えた何かが、ありきたりだが胸からこみ上げて目尻から押し出されていた。

「辛くて苦しいけど、生まれなければ、そう感じることすら出来なかった。それに、母さんがそう言ってくれて、少しだけど気が楽になった。生まれてきて、良かった。ありがとう、母さん」

 母さんがおそらく最後の力を振り絞って右腕を上げたので、俺はその手を握った。

「なら、生きて、スイ。生きて、この世の喜びも悲しみも、全て味わって。そして誰かと恋に落ちて結ばれて、生まれた子供があなたのようだったとしても、私みたいなことはしないで。あなたなら」

 そこから先を聞くことは出来なかった。腕がずしりと重くなり、流れる涙か途切れた。母さんの体がどこからでもなく霧のような灰のようなさらさらした何かになって、ステンドグラスの穴から流れる空気に乗って目の前から、そして手の中から消えた。

 その夜、俺は自分の生きてきた意味を知り。

 二人の大切な人を、亡くした。



「なぁ、あんた絶対不老不死か何かだろ?」

「くどい。何度も言わせるな、私は人間だ」

 全てが終わった後。俺は"太陽と月の天秤"の後方支援要員と連絡を取ってここまで出張ってもらい、左手と首の処置に輸血、先生の遺体の引き取りを任せた後一日学校をズル休みしたので要するに二日後。親類の話を聞いたことのない先生の遺体はどうするんだろうとか考えながら担当の急な訃報で自習になると思っていた英語の授業に当然のように教室に現れ、何事もなかったかのように授業を始めた先生を見ておったまげたのが四時限目。その後じりじりとその時間を立たされて過ごし、昼休みと同時に先生を捕まえると、先生は人目立て耳を気にせず話せる場所として英語科準備室という使われているところを見たことのない部屋の鍵を無断で持ってきた。

 埃臭くて英語と全然関係のなさそうな資料の転がる物置のような部屋で、この五十年で何度もした問答を繰り返した後、先生はこれ見よがしに長いため息をついた。

「まったく、私の傷とクレアの傷が重なっていたから、クレアの血が私の傷口に流れることを見越してクレアを私の上からどかさなかったと思っていたのだがな」

 吸血鬼の血には強力な治癒能力がある。他人の傷口に対してもそれは有効で、俺が先生もろとも母さんを刺し貫き、二人は重なって倒れたため母さんの血が下の先生の傷口に流れ込み、瀕死の先生を救ったらしい。今ではすっかり元気で、呼吸器系にも循環器系にも異常はないそうだ。

「お前は私が人間だとそんなに信じられないか?」

 まぁぶっちゃけ。

「……とにかく」

 何も言っていない俺の頭にどでかいたんこぶを一つこしらえて、先生は切り出した。

「これでわかっただろう。お前はちゃんと愛されて生まれて、その生い立ちは生き延びさせるためには仕方なかったことだと」

「そのことなんだけどさ」

 俺は埃臭くてしょうがない準備室の奥の窓を開けた。暖房機能ももともとないので寒さは大して変わらないし、三階なので立ち聞きされる心配もない。

「出来レースだったのか?」

 おまけに南向きなので先生からは逆光で、振り向いた俺の表情もわかりづらい。

「どういう意味だ?」

「一日頭を冷やして考えてみると、色々とおかしいんだよ。俺が母さんの悪夢を見たら、計ったようなタイミングで昨日の指令書だ。それも母さんが俺を先生に預けた場所っていう、なんともおあつらえ向きの場所で。なにより」

 握り締めた左手に僅かに痛みが走り、治りかけの傷が再び開き、包帯に血がにじむ。

「いつもの先生なら、俺が襲われてる時点で銀弾で撃ち殺してるはずだ。その後の戦いでも、どこか手を抜いてたようにしか思えないんだよ。あの指令書は先生のでっち上げで、自分の生まれについて悩む俺を見かねた先生が母さんと連絡をとってあの戦いを仕組んだのだとしたら、俺はそんな戦いに命を懸け、母さんを殺したのか?」

 くだらない。先生はそんな悪趣味じゃない。でもそれだとつじつまが合わない。

 だったら、正面から疑ってみる。怒りを買ってでも、真意を聞き出す。

「……お前を預かる時、一つだけ、約束をした」

 先生は資料棚の柱に背を預け腕を組みながら、淡々と続けた。

「自分がこの先の見えない逃亡劇に耐え切れなくなって我を忘れ、息子に手をかけようとするなら、まず夢の中から奇襲をかけるはずだ。息子が私に喰い殺される夢を見たなら、それは私が乱心を起こしたサインだろう。もしその夢から息子が目覚められたなら、息子の手助けをして欲しい、と」

「…………」

「お前の母親は、私に託す時にはこうなることを予見していたのかもな」

「…………」

「五十年、そんな恐怖を押し殺して逃げ続けたんだ。お前は自分の母親をもっと誇るべきだよ」

「……先生」

「なんだ?」

「先生は、その約束を五十年、ずっと覚え続けてたのか?」

 ふ、と先生は珍しく、本当に珍しく笑った。

「女の友情なんてな、切れる時はあっさり切れるが、そうでないと不思議といつまでも続くものだよ」

 そんな微妙に答えになってないような答えを返し、先生は真顔に戻った。

「せっかくそんな体を持ったんだ。どちらの世界で生きていくべきかなど、ゆっくり考えていけばいい。お前はどちらでも、生きていけるのだから」

「……そうだな」

 一昨日まであんなに悩んでいたのに、終わってみると意外とあっけない。俺は愛されて生まれてきた。この体は偶然だった。答えがこんなにも単純明快だからだろうか。始まりと道程がどんなに辛くても、終わってみると肩透かしにも似た開放感とすがすがしさが訪れてくれるものなのかもしれなかった。

 学校中に始まりと終わりを告げるチャイムのように。

「む、もうこんな時間か。お前はもう戻れ」

 壁時計が止まっているので腕時計で時間を確認した先生に追い出された。

 各々の教室へ戻る人の波に乗りながら、俺はこれからのことを少しだけ考えてみる。

 どうしても気持ちの悪い言い方になるが俺の体を狙う連中はまだ俺を見つけられていないらしい。だが今までバレてないのが奇跡な上にこっちからも怪異側にコンタクトをとるのでバレるのも時間の問題だろう。

 いいぜ。やってやる。

 もう俺には迷いなんてないんだよ。


 その前に、俺は午後の授業を空腹と戦い抜かないといけないようだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ