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ずっと君を見ていた

作者: 御霊前みうら

 この時間を待ちわびていた。

 矢澤澪、小学四年生、遊び盛り。

 彼はズボンのポケットを覗き込む。暗闇の中で光る、ギラギラしたカードのラミネーションが、少年の胸を高鳴らせた。


「最近忙しかったけど、やっとアイツと遊べる……!」


 未だ麗らかな午後の昼下がり。太陽は天高く、初夏のぬるい風が教室を充満している。いつもより早い下校時刻に、生徒たちの気分は最高潮に高まっていた。

 それでも喧噪は耳に入らない。

 友、鳴海弓彦は静かに頬をついていた。切り取られた絵のようである。彼の纏う温度は、少し低い。未だ子どもの周囲にとって、弓彦は怖気づく類の人間であった。今年、三年ぶりの同じクラスになってから、澪は特にそう思うようになった。

 ぼんやりとメダカの揺蕩う水槽を眺めていた弓彦は、澪の視線を敏感に感じ取ると、眠気の残る瞳で澪を凝視したのち、ニタァと口角を上げた。


『も・っ・て・き・た・よ』


 はくはく。水面で酸素を取り込むメダカのように、顔全体を使って相棒に伝える。弓彦は喜色に溢れた澪につられて、フハと噴き出した。それがおかしくて、澪もまた笑った。


『う・ら・に・わ・な』


「みーーーーーおっ」


 突如、視界が九十度ほど変わる。どさりと、覆いかぶさられた背中の質量に驚愕した。脳が変化に追いつけず、軽い耳鳴りとめまいに襲われてしまう。「うあ!」と声が漏れた。

 顔にかかるさらりとした長髪。シャンプーの匂い。


「みおー、一緒に帰ろっ」

「ちょっと、びっくりした。危ないからやめなよ」

「えーいいじゃん別に?」


 澪の首元に腕を巻き付け、少女がじゃれつく。印象そのままに快活な性格で、スポーツ万能。容姿にも華があるクラスの人気者だ。

 彼女は昨年から通い始めたダンス教室で仲良くなった。人懐っこい者同士、同じ学校の同じ学年なのもあって、仲良くなるのは早かった。仲良くなるを通り越して、気に入られたに近いのかもしれないと、最近は思い始めている。

 きゃきゃと、楽し気に笑う少女。澪が苦悶の表情で首に回された手を叩くと、「しっかりしなさいよねぇ」と口を尖らせた。

 澪の、現在最高ランクの悩みの種は、正にこの向日葵のような彼女である。

 太陽のような少女の周りには、常に人で溢れているから。


「なあ、皆で一緒に帰ろうぜ!お前らも来いよ、アイス買って公園でサッカーするんだ」


 彼女の幼馴染の少年が声をかけた。活発な彼もクラスの中心人物であり、新学期が始まってすぐに同じグループに入れてもらえた。このクラスが男女問わず仲が良いのは、彼ら二人の影響が色濃い。なのに。


「え、だめ。みおと二人で帰るの」


『なのにこれだからなぁ……!』


 「ねーみおっ!」と、少女が両手で澪の両手を包んだ。距離の近さにドギマギしてしまうというよりも……。

 ちらりと、少年の方を見やる。少年はいかにも不服といった面持ちで、ふーんと、澪を値踏みじみた視線で一瞥した。


「ま別にいいけど」


 最近、冷ややかな態度を取られている気がするのは、澪の気のせいではなく、確信だ。そして、彼女は彼の幼気な恋心に無頓着だ。勘弁してくれと、心の中で悪態をつく。


「いや、ちが、今日は!今日はそもそもオレ学校残んないといけないから!二人で帰んなよ、ね」


 あたふたと弁解する。目の前の彼が眉を少し持ち上げた。


「振られたな」


 少年がニマニマと揶揄いの笑みを浮かべた。少女は癇に障ったようで、長い睫毛を震わせながら、よく通る声で澪に向き直る。


「澪。もう大会まで時間がないの、遊んでる場合じゃないのよ。ウチらのグループで絶対絶対優勝するんだから!レッスンの時間まで一緒に自主練っ!いいねっ!?」


 少女が懇意にしているグループが近づき、「ほんとに仲良しだよねえ」と二人に話しかけてきた。「ふつうじゃん?」とどこか得意げな様子の彼女の、つんと通った鼻筋が美しい。

 薄桃色の頬をした少女たちの中、澪は不安気に立っていた。

 昔から人の機微には敏感なのだ。少年が平静を装っていることが澪には理解できてしまう。おずおずと上目遣いに彼を見た。

 そして嫌なことに、澪はまた察してしまう。澪の気遣いもまた少年には悟られている。彼はそれがまた、腹立たしいのだ。


「あっそ。勝手にすれば」


 少年が苛立ちを滲ませて吐き捨てた。近くにいる、共にサッカーをするであろう少年たちの輪に、大声で参入していった。

 はぁ。胃がキリキリする。呼吸が浅くなった気がして、親友へと助けを乞う視線を投げた。

 弓彦は何も見えず、何も聞こえなかったかのように振舞っていた。穏やかに水槽を見つめているのに、垂れ目がちな瞳は誰よりもぎらつく光を湛えている。弓彦の眼が何を捉えているのか分からなくて、澪の胸がきゅうと縮んだ。

 ややあって弓彦は澪と目を合わすと、嫌々と手を振った。虫でも払うかのようだ。


 <本日も密会中止>


『ほんっとうに申し訳ない……!』


 合掌して力の限り詫びる。弓彦は心底鬱陶しそうにため息をついた。後ろの席の、絵を描いていた小柄な少女がびくりと肩を震わせて、こわごわ弓彦を窺う。

 

『せっかく同じクラスなのにな』


 思わず小さく嘆息すると、女子たちに目ざとく見つけられてしまった。長い睫毛を物憂げに伏せ、じっと澪と弓彦を交互に見つめた少女が「みお」と、低い声で囁いた。


「あんまり鳴海くんと話したらだめよ」

「な……!」

「鳴海くん、怖いよねぇ」

「ね、ウチこないだ体育で舌打ちされたし」

「なんで澪ちゃんあんなのと仲いいのぉ?」


 澪には反論の余地を与えず、何人かの女子生徒が少女に肯定の意を示す。真剣な面持ちで澪に向き合い、まるで姉か母のような語り口だ。澪はいつも、そんな彼女の雰囲気に呑まれてしまうのである。


「あのね、澪、鳴海君はほんとにだめ。去年三組の人たち、三人くらい転校しちゃったでしょ。あれ鳴海君のせいなんだよ」

「……」


 女子たちが驚きの声を上げる。澪は何も言えず、うつむいてしまった。


「あ、その反応。澪知ってんじゃん」

「知らないよ!でもこういうの、本人以外の口から聞きたくなくて……」

「一人だけになっちゃった友達失くしたくないんでしょ。皆も気を付けた方がいいよ。あいつ去年同じクラスだった委員長をグループ絡みで虐めててさ、大問題になったの。女の子を集団で男子が虐めまくってたんだよ」


 悲鳴に近い声が漏れた。少女がシイーと、指を立てる。


「絶対誰にも言わないでよ。これが問題なんじゃなくてさ、そのあとが超重要なんだって。結局虐めはバレちゃったのね。んで、委員長の親が激怒したの。当たり前だよね。娘を虐めてた連中全員転校させないと、先生たちまで訴えるぞ!って言ったわけ。関係者の親も集めて何回も会議したみたい。でもね、今学校に残ってるのは鳴海くんだけでしょ。」


 なるほど、澪には話の流れが読めてきた。


「鳴海くんのお父さんがお金で解決したの。うちのお父さんに鳴海くんのお父さんこと話したらびっくりしてた。ここら辺に長く住んでて知らない人はいないくらい、すっごく怖い人なんだって。自分の息子が不祥事で転校させられるっていうのが許せなかったんだね。色んな所に手を回して、噂も揉み消して、一番の被害者までこの学校から消しちゃった。やばい奴なの、鳴海弓彦って」


 澪に驚きはなかったが、狼狽は隠せなかった。弓彦の口から聞きたかったことを、こんな形で聞いてしまったのが不服だったからだ。彼が何を思い、何を感じたのか、語ってくれる日を待っていたのに。

 昨年ダンスを習い始めてから、二人で過ごす時間が減った。軽い気持ちで始めて、楽しんで踊っている。リズムに身体を預けるのは心地よい。だが、これほど時間を取られるとは想像だにしていなかった。徐々に徐々に、放課後、顔を合わす機会が減っていった。

 彼が何を考えているのか、分からない。

 三年ぶりに同じクラスになって、澪はすごく嬉しかったのだ。隙あらば弓彦に話しかけた。教師の「ペアになって下さい」という言葉を待ちわびた。

 しかし、弓彦は澪の新しいコミュニティを明らかに嫌っていた。二人が談笑している最中、第三者がその輪に加わろうとすると生返事になって、いつの間にか会話の主導権を放棄している。気づけばなんでもないところに一人、つまらなそうにしていた。

 今年、弓彦と同じクラスになったことを母親に報告したとき、その様子を澪はよく覚えている。若く美しい母。澪とよく似た瞳を細め、澪を優しく抱きしめて言った。


「あなたが信じたい人を信じなさい」


 少女が「みお?」と顔を覗き込む。澪は困ったようにふと、笑みを浮かべて首を傾げた。彼女は少しあたふたとして、何事かを呻いた。


「あんまり弓彦のこと責めないでやって。ね?」

「もうっ!こんなに注意してあげてるのに、意外に頑固なんだから。何かあっても知らないんだからね!」


 少女は急に澪の頬を両手で掴んで、むにむにと揉んだ。


「な、や、やめてよぉ」

「わ、お肌すべすべ。気持ちい!」


 少女の手は更に澪に伸びる。興奮気味に頭髪を触り始めた。


「髪の毛もふわふわ、ね、澪、他の男子とはやっぱ違うって!」


 少女の様子に、幾人かの女子生徒が顔を合わせてクスクスと笑い出した。密やかな笑みが伝播する。


「ねえやっぱり……」

「ばか、言っちゃだめだよお」


 澪は少女の顔色を窺った。所在なさげにしている仕草から、どうにも話の要領を掴んでいないことが分かる。

 少々申し訳なさそうな表情になった一人が、少女に尋ねた。


「うん。あのね……あんまり仲良しだからさ!好き同士なのかなぁって」

「そうそう、いつも一緒に帰ってるし」


 きゃあきゃあ笑う女子たちに、少女が唖然と口を開ける。怒りとも驚きともつかない不可思議な表情で、声を震わせて反論した。


「違うもん!澪は男子だけど、あたしの中では女のコと一緒なの!!」

『別に女子じゃないんだけどな……』


 彼女の向けるこの眼差しは、女子と同じものだろうか。頬を染め、期待するかのような、この視線はなんだろう。澪はなんだか気分が重たくなってしまって、気まずそうに笑った。


「てかさ、来月の夏祭り一緒に行かない?浴衣着てさ!」

「えー!めっちゃいい、それ!」


 女子生徒たちが口々に賛同の声を上げる。


「夏祭り」

『毎年あいつと行ってたけど、去年は行けなかったんだよな……』


 ぽつりと呟いたのを興味があると捉えた子どもたちが、表情を明るくして澪に話しかける。声が徐々に弾んでいくのが可愛らしく、微笑ましい。


「そうだ!澪くんも来る?ウチら澪くんなら一緒でも全然いいよ!」

「うん、他の男子はちょっと嫌だけど澪ちゃんなら大丈夫よねー」

「あダメ。その日アタシたち大会なの」


 かたどられつつあった柔らかな雰囲気を、一刀両断に切り裂いたのは少女であった。周囲は何も言えなくなってしまい、すっかり呆気に取られた。何とはなしに白けた空間が、澪には居心地が悪い。


「そ、そう……ざんねーん……」

「ねっみお!」


 澪に向かって満面、笑顔の花を咲かせて言った。


『……前は何も考えなくても楽しかったのに、嫌だな。最近、気づかなくてもいいことまで気づいちゃう』

 

 澪がため息をつき、少女は艶やかな髪を指先で巻き付け「そろそろ時間ね」なんて呑気に呟いた。

 部屋を満たしたぬるい空気の中。六月の風が、嘲笑を運んだ。


「ねっみお!ねっねっ!」

「みーーお、ちゃんっ」


 少年たちがこちらを見ている。彼らの視線に気づいたときには、既に冷ややかな汗が背中を伝っていた。自分の名前が呼ばれているのを理解し、澪の鼓動は徐々に早くなっていく。

 

「……なによアンタたち。なんか文句あんの」


 少女が少年を鋭く睨みつけた。少年は幾人かの友人を背後に付き従えて、ゆったりとこちらに近づいてくる。澪がかつてドキュメンタリーで見た、獲物を狩る肉食獣の仕草に似ていた。


「べっつにー。ただちょっとさァ、お前の声でかすぎんだよね。ここ皆の教室じゃん?静かにしてくんないかなあって思ったんだわ」

「ねーーみおちゃんっ」


 少年の背後から野次が飛んでくる。澪は不快感を隠しきれず、眉を顰めた。以前から何かと張り合ってきていたクラスメイトである。意識されていることは分かっていたものの、こんな形で攻撃してくるとは思っていなかった。姑息な奴だと、心の中で悪態をついた。


「ちょっと、澪に変な風に絡むのやめて。大体アンタらの方がよっぽどいつも大きな声出してるでしょ。皆の教室なんだからアタシが大声出して何が悪いの?言ってみな」


 少年が舌打ちして、一瞬醜悪に表情が歪む。澪に侮蔑の視線が突き刺さった。

 澪は、この表情をどこかで見た覚えがあった。必死に記憶を探るもこの表情をどこで見たのか、誰のものなのか分からなかった。こんなことしている場合ではないのに。ガツンと反抗してやらないと、これから一年ずっと舐められ続けることになる。それなのに身体は硬直し、口は開かない。

 傍観することしかできない、そんな自分が嫌いだと澪は思った。


「うるせえなー……ばア!!!」

「「きゃああああああ」」


 突如、巨大な黒い影が投げ入れられた。


「いやっ、いや!ゴキブリいや!」

「ぎゃはははははは!」


 女子たちの甲高い叫び声の中で、澪もひと際大きな声を上げてしまう。あれだけは無理なのだ、澪は。六つ脚の黒い塊はよく見えなかったが、あの虫の名が聞こえてしまえば、条件反射的に脳内が真っ白になってしまう。

 一人、少女だけが仁王立ちしている。少年が面白くなさそうに鼻で笑った。


「皆落ち着いて!こんなのおもちゃだよ」


 ひょいと少女が虫の玩具を持ち上げると、女子の「ひい……」という声が漏れた。腰の引けた彼女たちを情けないものを見る目で一瞥し、よく見せてやる。澪も覗き込んだ。

 ゴムでできた精巧な模造品である。


「こんなつまんないもんでよくまだ遊べるね、マジでガキ。全然面白くないからね」


 少女が玩具を力いっぱい、苛立ちを込めて廊下へ投げた。隣のクラスからの悲鳴が聞こえた。


「お前が特殊なんだよ男オンナ、他の女子を見習えよな。面白くないのはお前だっつの」

「はぁ?」


 途端、少年が突如噴き出した。そして、心から見下した目で澪を指さした。


「でも、マジで傑作!みおちゃんやっぱお前男じゃないわー。あの悲鳴お前らも聞いたよな!」


 笑い声がぐわんと脳内で響く。カッと体中が熱くなって、羞恥と激怒が澪の腹を充たしていった。


『最悪だ、よりによって迂闊だった!こいつら、初めからこれが狙いだったんだ!』


「そんなにかわいい顔で睨むなよぉ、女オトコくん?あれ、それとも女オトコちゃん?わっかんねー!」


 野卑な笑いがさざ波のように広がっていく。男子だけではなく女子の声も、教室の隅からも、嘲笑は聞こえた。

 恥ずかしい、悔しい。

 澪は彼らを睨みつけることしかできない。


「ま、でも?そう考えるとお前らお似合いなんじゃねーの!男オンナと女オトコ同士でさあ。いっつもベタベタベタベタ……」


 少年の雰囲気が変わった。澪は息を呑んだ。

 彼は本来こんな子だっただろうか。澪の中の少年の姿は少女と変わらない。明るくて開放的で、物怖じしなくて……。

 澪は少年の心の機微に思いを馳せる。多分、本来オレと君はどこか近しい。だから何となく、分かってしまう。


『彼女の傍にいたいんだ……』


 少年の瞳の奥、虹彩の中に憎悪の炎が立ち昇っている。蓋をされていた地獄の業火が胸をせり上がり、剥き出しになって、少女に放たれた。


「お前さあ実は本気で矢澤のこと好きだろ」

「「すーき!すーき!すーき!」」


 取り巻きの少年たちが甲高く囃し立てる。周囲の人間は目を丸くし、わざとらしく大仰な仕草で愉快そうに笑った。

 少女の顔がみるみる赤くなっていった。口の端を泡立て、興奮し捲し立て始めた。


「ち、ちっがう!本当に、澪は女の子みたいなもんなの!かわいいし、優しいし、あんたみたいに意地悪なこと、絶対絶対しないもん!」


 少女の切実な嘆きに少年がはっとしたように静止した、その時だった。瞬きの間訪れた静寂に、舞台上の役者陣は体を硬直させた。。

 誰の声だったのか、今思い返しても結局分からない(澪は悪魔の囁きと後述している)。男とも女ともつかない幼い口調の、魅惑的な響きであった。張り詰めた湖面にひと匙の水滴を垂らすように、その発言は投下された。

 水面が揺れる。波紋が広がり、時が動き出す。


「どっちがちんこ生えてんのかなあ」


 ”確認しようぜ”


 地獄の窯の底の、揉みあいと圧し合い。少女のスカートと、澪のズボンに数多の手がかけられる。絶叫と悲鳴、誰かの吐息でうなじが溶けそうだった。。

 息が苦しい。目頭が熱く滲んで、口の中は血の味がした。子ども達の細く焼けた腕が、四方八方に伸ばされ、幾重にも絡み合っていく。蜘蛛の糸に手を伸ばすカンダタもかくやあらん。


『ああ、思い出した……』


 遠のいていく意識の中、澪が一つ思い出せたことがあった。

 あの醜悪な表情、人が人を蔑むときの顔。幼い澪が、初めてぶつけられた侮辱の眼差し。


『どうして忘れてたんだろう……あれは……弓彦の親父さんで……』


「あなたが信じたい人を信じなさい」


 耳鳴りの彼方から柔らかな母の声が聞こえる。ゆりかごのような、甘美な心地に身を委ねそうになった、瞬間。


「どけよ」


 よく通る低い声にゆらりと重力を感じさせない佇まい。

 鳴海弓彦がそこに立っていた。


「邪魔なんだよ、どけ」


 小学生にしては大人びた低い声に怒号が止む。皆がポカンと口を開けた。さして張り上げていないのにも関わらず弓彦の声はよく通る。

 弓彦は組み敷かれた澪と少女を無表情で眺めたのち、顎を引いて群衆を見つめる。その仕草は不思議な威圧感を滲ませる。子ども達は咎められた表情になって、気まずそうに立ち上がり顔を背けた。

 少年はまず、周囲の怖気づいた様子に驚いた。瞬発的に怒気を露わにしかけたものの、無理に笑顔を作って弓彦に向き直る。


「ここからじゃなくてもさ、後ろにも出口あるだろ。鳴海?」

 

 意味が分からないという顔をして、年下の子に諭すように努めて穏やかに告げた。


「ふむ……」


 弓彦はきょとんとしたあどけない表情をした。

 猫のように大きく伸びをする。なんてことのない、自然な仕草であった。弓彦は傍にあったメダカの水槽に手を引っ掛けると、躊躇なくひっくり返した。


「うわああああああああああああああああああ」

「きゃああああああああああああああああああ」


 頭から水を被ってしまい、澪は誰よりも叫んだ。同じく絶叫しているのは熱心に教室中の水槽の世話をしていた生き物係の男子生徒で、顔面蒼白メダカを回収している。

 弓彦は水槽を抱え、絶句している少年にすたすたと歩み寄る。三割ほど残った水を垂直に、豪快にざっぱりとかけた。


「な……!おま……!」

「いやあああああああメダカちゃああああん」


 少年には理解が追い付かなかった。その上生き物係の勢いが凄まじいく、怒りすらも飛び越えてしまう。少年は肩で息を切らしながら、周囲の友人たちに向かって声にならない声を上げた。


「あはは。澪、前髪ワカメみてえ。大丈夫か」


 弓彦の顔が良く見える。喉を鳴らして、ずっと愉快痛快といった調子で笑っている。

 尻もちをついた澪に目線を合わせるなんてお優しいことを、弓彦がした試はない。でも目の前には、しっかりとこちらに伸ばされた乾いた手がある。澪は濡れそぼった手で弓彦の手を掴み、立ち上がった。


「お前ぇ……なんてことを……!」

「あ、肩にメダカ」

「メダカちゃああああああああああああああん」


 生き物係にケラケラと笑いながらメダカを差し出す様子を見て、少年がはたと正気に戻る。勢いよく弓彦に掴みかかった。


「テメエなにすんだよ…ッ!やっぱりいかれてやがんのか……ッ!」


 ばちん!

 弓彦が間髪入れず、ビンタをお見舞いした。肌と水がぶつかった音が響く。少年は左頬を押さえ、あんぐりと口を開けた。


『うわ痛そう』


「は!いい加減にしろよ性犯罪者。イカレてんのはどう考えてもお前だろうが。クラス変わってもやること変わんねえ野郎だな。救いようがないわ」


 ”やること変わんねえ”


 皆が不審げな表情になった。少年の顔色がさっと青ざめる。弓彦が意地悪気にニヤリと笑った。付き合いの長い澪には分かるが、この嫌味な笑顔は彼が「勝ち」を確信した時の表情だ。

 弓彦は大きく息を吸い、朗々とした声を張り上げた。固唾を飲んで様子を窺がっていた子ども達が、これから起こる「面白いこと」の予感に瞬きを繰り返した。


「お前らさあ、裏でこいつが何してるか知らねえの!」

「おいやめろ!」


 少年が噛みつくように声を荒げる。落ち着きを失った様子が、彼が仄暗いものを隠蔽していることを明らかにしていた。

 ざわめきが大きくなる。


「ぎゃーぎゃー発情期の雌猫みてえに吠えてたあんたのことだよ」


 未だ尻もちをついたままの少女に弓彦が視線をやった。少女は涙の跡が残る小さな顔に、こぼれそうなほど目を見開いて、呆然としていた。少しして自分に言及されていると理解し、「へ」と小さな呟きをこぼした。

 

「あんた去年水泳の授業中にパンツ盗まれたって騒いでたよな。あれ、やったのアイツだぜ」


 弓彦が指した先には少年がいる。野次馬は色めき立ち、ざわめきは狂騒へと変わった。


「馬鹿言うなよ……あの日は風邪で休んでたんだ」

「そうよ、だからこいつはありえないんだから……」


 少年が歯をぎりぎりと食いしばりながら言う。少女は今にも泣きだしそうな目で少年を見つめ、か細い声で彼を庇った。

 弓彦は冷酷なほど乾いた声で「あーなるほどねっ」と、感嘆した。当事者二名はその声に体を震わす。


「俺、ずっと不思議だったんだよね!なんでこんなド変態野郎が伸び伸び楽しそうにしてんだ、気色悪いなあって思ってたんだけど、そうか。誰も知らなかったんだわ。あー面白い。なるほどなるほど、そういうことね!」


 舞台上でのスポットライトが切り替わる。役者はただ一人、弓彦だけを煌々と照らしている。主役から皆が目を離せないでいた。


「いやあ、完全犯罪だったのに残念だねぇ。俺ね、お前のこと見てんの。お前が女子更衣室から後生大事にパンツ握りしめて出てくるところ、ちゃんとしっかりこの目で!」

「そ、そんなの嘘だ!!お前のでたらめに決まってるだろ!!第一なんで他クラスのお前がそんなこと見て知ってんだよ!!ありえないだろうが!!!」


 少年が激昂しながら唾を飛ばした。弓彦は軽蔑の表情を隠さない。逃がさないという意思を込め、言動で、身体で、じりじりと追い詰めていく。


「いやぁ?でたらめじゃないことはテメエが一番理解してんだろ。ほんっと馬鹿は悲しいね……ま、一応言っとくとあの日、親父が学校に呼び出されてさ。ボコボコに殴られて、あの辺逃げてただけだけどね。でもそんな俺より哀れなゴキブリ、一回顔見たら忘れないけど」

 

 少女が苦し気に弓彦に噛みつく。


「あ、あの辺いたってことは……実は盗んだのあ、あんたなんでしょ……そうでしょ……!!」

「だーれがアンタみたいな自己主張の強い自己中オンナの下着を欲しがるって?臭そうで勘弁だわ。別にそう思うならいいけど、俺とアンタ、絡みなんて今の今まで全然なかったじゃん」


 弓彦が嘲りの笑みを浮かべ、一喝した。少女はまたも打ちひしがれ、悲愴な面持ちを浮かべる。


「まあ証拠もないしなぁ……半年以上経ってるし、流石にもう捨てるなり処分してるんだろうけど……この石頭のハゲ馬鹿野郎のことだから意外と持ってたりしてねぇ!そうだ!毎日持ち歩いてるかも!俺はお前のパンツを持ってるんだぞーっつってな!そんな優越感に浸りながら、アンタと毎日顔を突き合わせてるなんて線も……全然あるよなぁ!」


 心浮き立つ弓彦が歌うように紡いだ言葉たちに、群衆は魔法にかかったように耳を傾ける。

 少年は直立不動のまま、動かなくなってしまった。一点、床を見つめ続けた彼の顔がみるみるうちに赤くなっていく。深紅に染まりゆく少年の耳。

 少女が、うわごとのように語り掛けた。


「う、う……う、そ、よね」

「そうだなぁ、俺だったらどこに隠すかなぁ」


 弓彦が喉を鳴らす。


「教室のロッカー……いや、結構人目につく場所だからな。体操着入れ!うん、お前が乱暴に振り回しているのを見ると、それもなさそうなんだよな」


 そうして遂に、首を傾けて言い放った。


「……靴箱?」

「あ、あァぁあ……あああああああ!!!!」


 少年が絶叫した。空虚な身体をぶるぶると震わせている。彼の姿は、まるで心を失った怪物のようであった。尋常でないその様子に、子ども達が息を呑んで身を引いた。

 少年は筋肉質な両腕で人の壁を押しのけると、息も絶え絶えに駆け出した。足をもつらせ、手は空を掴み、凄まじい速さで階段を下っていく。あっという間に小さくなった背中を見て数人の友人達が我に返り、少年の名前を鋭く叫ぶと後を追った。

 張り詰めた空気の中、群衆の視線が一人の人物に突き刺さった。共感、憐憫、同情、期待、驚愕と興奮……。無遠慮で剥き出しの感情が、へたりこんだ少女にどっぷりと注がれる。


「いやああああああああ」


 宙を見つめ、呆けていた表情がみるみるうちに苦悶に歪む。高く、透き通る声は伸びやかで、校舎の隅々まで轟いた。

 少女は頭を抱え、うずくまってしまった。小さく小さく身体を畳み、いやいやと駄々をこねる幼児のようだった。悲鳴は聞く者の心を痛ませた。


「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……!」


 幾人かの女子生徒が少女の肩をさする。

 遥か遠く、廊下の端から男性教諭の怒号が近づいていた。


「澪……みお……、助けて……みお……」


 澪に縋った。白く細い腕が、腰に絡みついていく。少女の声は子猫が母親を呼ぶ声に似ていた。


「■■ちゃん」


 澪は跪いて、優しく彼女の名を呼ぶ。そうした彼らの様子を弓彦は静かに見つめた。

 明るく温かい陽射しが差し込んでいる。弓彦は眩しそうに目を細めた。視線を外し、後ろを向いた彼の背中は、どこか寂し気な影を負っている。誰も、俯いた彼の顔を見ようとはしなかった。乾いた風が吹きすさぶ、冬の木立のように静かな足取りで、弓彦はその場を後にした。


「ごめん、本当に」

「へ……」


 少女は目を見開いた。ぼろりと、大きな雫が一つ流れ落ちた。

 澪はすっくと立ちあがると、真っすぐ先を見つめた。瞳の中に弓彦がいることを少女だけが理解して、火が付いたように泣き始めた。


「いやだあ……!みお……」


 澪は風を切って走る。追いかけたい背中はもう、すぐそこだ。少女の声はすぐに掻き消えて、何も聞こえなくなった。


「弓彦ーぉ!」

 

 弓彦は驚いて振り返った。付き合いの長い澪には分かる。これはポーカーフェイスを装っているけれど、心から嬉しいと思っているときの顔だ。

 抑えられない可笑しさがこみ上げてくる。とにかく面白くてたまらない。何もかもどうでもよくなって、ひぃひぃと絞り出すような笑い声を漏らし、弓彦の肩を叩いた。


「え、こわ」


 どうしてだろう。息は上がっているのに、あんなに苦しかった呼吸が楽になっている。

 大きく息を吸いこむ。カーテンのなびく高い窓から、目の覚める様な青空が広がっていた。

 何やら騒がしい。廊下の角を曲がる間際、うっすらと見やった背後でジャージを着た大人達が激しく小学生を問いただしていた。少女がうずくまっている隣で幾人かが、澪と弓彦を指さしているのが見えた。


「弓彦!走るぞ!」

「わっちょっ」


 澪は弓彦の手を引いて走り出す。ぐんと手を引かれ、初めは驚いていた弓彦も、澪の晴れやかな顔を見るとすぐさま破顔した。

 階段を落下するかの如く駆け下りる。靴を履き替え、校庭に飛び出した。輝く太陽が少年たち二人を照らす。濡れた髪がゆるくたなびいて、澪は気持ちよさげに首を振った。


「なあ!今年は一緒に夏祭り行こうぜ!」

「は!?お前ダンスの大会あるんじゃなかったのかよ!」

 

 やっぱり、何も聞こえないふりしてコイツは全部聞いてる。澪は弓彦を覗き込み、もう一度声を上げた。


「な、なに笑ってんだこの……!」


 弓彦は顔を赤らめ、澪を小突いた。


「澪くん、弓彦くん、待ちなさい!」


 校舎の二階、窓から中年女性教諭が身を乗り出していた。彼らが静止する素振りを見せないのを察知すると、目を吊り上げて、憎々し気な表情を浮かべる。「ちょっとそこで待っていなさい!」と叫ぶと窓から離れ、どたどたと重たげな足音を響かせた。

 愚かにも彼女は、二人を捕まえるつもりなのだ。


「「もっと速く走るぞ!!」」


 ぶはっと噴き出し、顔を見合わせた。校門を潜り抜ける足は恐ろしいほど軽い。


「オレ!もうダンス教室やめっから!な!いいだろ一緒に!」

「……いいのかよお前……!?」


 弓彦が澪の顔を窺う。澪は吹っ切れた表情で、にっこりと弓彦に笑いかけた。弓彦の目が分かりやすく輝いた。


「いいんだな!んじゃぁ、決まりな!絶対絶対絶対約束だから、破ったら罰ゲームだかんな!」


 弓彦は澪の頬をぐいーっと伸ばした。「あひぇひぇひぇひぇ」と澪は気味の悪い笑いを飛ばす。弓彦はひと際大きな声で爆笑した。

 どこまでもこの足で駆けていけそうな予感で、二人の胸が膨らんでいく。

 今年初めての、蝉の声が聞こえてくる。南の空にそびえ立つ山には薄く霞がかっていた。空気に雨の匂いが漂い始めた。

 木々の緑は色濃く、空へ、太陽へ、もっともっとと上へ伸びていく。夏へ向かって、持ちうる限りの生命力を燃やしている。

 

「うん、約束!絶対絶対ぜったい、ぜったい約束!」


 空がゴロゴロと鳴り、暗雲が空を侵食し始めた。

 何も怖いものはない。無敵の小さな少年たちは手を引き、手を引かれ、笑顔で駆けていく。

 夏は、始まったばかりである。

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