人生で何度か本気で死のうと思うときがある。だけどそれを乗り越えたら……
死。メメント・モリ(死を忘れるな)
大事なものやひとがなくなったとき、自分も死に対して深刻に考え、危ない思想を繰り広げる。
自殺した知り合いのお葬式に出たとき「どうして?」しか言葉がなかったけれど、かなり際どいところまで死を思っていた今なら、わかるような気がする。
通常の思考回路じゃなくなるのだ。
幸い自分は這い上がるための希望があったけれど、もしそれがなかったらあのまま死のうとしていただろう。
死ぬ勇気がなかった?いいや、死ぬのに勇気なんて必要ない。死ぬため、実行に移すだけのことができるかどうかだ。
人生のうち何度かその死のうという思いが訪れる。それでもなにか、この世に未練を残すだけのよすががあれば生きながらえる。
心臓の動脈瘤剥離で亡くなった元夫が、若い頃死のうとしたことがあったと私に最初のデートで語った。だけど死ねなくて、と言っていた。統合失調症でパイロットの夢を断念しなければならなかったと聞いて、妻だった頃の私は自分の生命保険から前借りしたお金で彼を小型機の同好会に入れて空を飛ばせた。いっぱい彼の貯金から贅沢していたから偉そうなことは言えないが、とにかく、希望を持たせたかった。
車の運転に自信がなかった夫をあちこち連れて回った。
今にして思えば、どこかに行きたいという発想力に欠ける私を案内してくれて、二人で楽しんだのだと思う。
贅沢が習慣づいて借金が百万円近くある。返済しつつ仕事をしようとしたが統合失調症の症状でいかんともしがたい。しかし、障害者年金を頂いているおかげで贅沢さえしなければこのまま5年くらいで返済できる。しかしもし入院したら?不安が募る。生命保険は解約していて、余分な金銭はない。生活保護?でも借金があるから自己破産しないと?どっちにしても車は手放すしかないの?……この辺のジレンマが発作のぎゃーっにつながることが多い。
今回は元夫が亡くなったのと父親が吐血してあまり長くないだろう、という思いが死のうという思考回路につながった。
苦しんだ末、小説が私を救った。小説を書きたい。小説家になりたい。たとえ三文の文章しか書けなくても、希望が、そこにある。
鏡を見て、これが今の私。と言い聞かせる。両足で立ってしっかり踏みしめる感覚を呼び起こす。身体の中心に芯をイメージする。多分、ここからまたやっていけるだろう。
折しもテレビで俳優が自殺したニュースが流れている。
他人事じゃない。想いを胸に抱いてまた生きよう。