64話 銀の矢で貫いて
「ふん、ふふんふん……」
冷たい夜、少女は楽しげに鼻歌を歌っていた。木にもたれて座り込み、膝に乗せた小動物をいとおしそうに撫でる。
月明かりが空から降り注ぎ、真っ赤に染まった森を照らす。先ほどまで獣のような絶叫と肉を貪る咀嚼音がうるさかったが、今はとても静かで穏やか時間が流れている。
獣達は多く人を食らった。体も大きくなり、力もついた。
でもまだ足りない。もっと冒険者が必要だ。もっともっと、彼らを『消費』して、リビドーを感じたい。
そろそろ冒険者達も獣達の罠に気がつき始める頃だ。ギルドや王宮騎士団も動いている。
ならば、こちらも相応の準備をしなくてはいけない。彼らを誘い出し、胃袋に収める準備を。
「もっと多くの殿方が来てくれるようにしなくちゃね。そうじゃないと、楽しめないわ」
「……化け物め」
「あなたは分かってくれないのね。ワタシはただ、人間を愛しているだけなのに」
「おまえは人間を愛してるんじゃない。人間を使って快楽を満たしているだけだ」
少女の近くで一連の惨劇を見ていた女性は吐き捨てるように言った。女性は少女を止めない、止められない。恐ろしく忌々しいと思いながらも、ただ見ていることしかできない。
返り血を浴びた少女はニッコリと、少女を睨み付けていた女性に微笑みかけた。
「ふふ。ねえ……モンスターって、どうやって生まれるか知ってる?」
※※※※※※※※※※※※※※※※※
骨を噛み砕く鈍い音。モンスターの口から生えている無数の触手が獲物の肉を溶かし、身体に取り込んでいく。
周りにはモンスターが食べ残した肉片が散らばっている。その中には、冒険者が纏うような鎧や武器もある。
――裏クエスト。
――王宮騎士団の介入。
――行方不明となった冒険者。
まさか、裏クエストに挑んだ冒険者達が行き着いた場所とは――。
不吉な考えが頭を支配する。
目の前のモンスターは今までエイル達が討伐してきた雑魚モンスターとは全く違う。
明らかに異質で異端。複数の動物やモンスターを組み合わせて創られたような、不自然な存在。
「シャア?」
マスクから僅かに見える赤い瞳がエイルを捉えた。
逃げなければ。
逃げなければ殺される。
しかしモンスタの瞳に射られたエイルは動くことができない。ただ恐怖で立ち竦み、逃げることも戦うこともできない。
一歩、モンスターが動いた。
「……っ」
上手く呼吸ができない。
足が震え、少しでも力を抜けば崩れ落ちてしまいそうだった。
逃げることもできず、戦うこともできず、戦意を失くした獲物はただ狩られるだけ。
また一歩モンスターがエイルに近づく。
二歩、三歩、四歩……モンスターとエイルの距離があと数歩に迫った、その瞬間。
「――ッ!!」
エイルの髪が風で大きく揺れた。風は刃となり森の枝を切り裂き、そしてモンスターの触手を刈り取った。
エイルを守るようにモンスターの前に飛び出したパナケイアがモンスターを睨み付け、さらに風の魔法を放つ。
「キシャアアアアアアア!!」
耳を引き裂くような悲鳴。
風の刃はモンスターの肉体を抉り、四肢を引き裂いた。
モンスターは倒れたが、瞳に宿ったどす黒い闘志は消えていない。
傷口から赤い光が漏れ、傷が塞がっていく。モンスターに魔法攻撃は有効なのだが、目の前の相手にはあまり効いていないようだ。
「エイル、行くぞッ!」
エアがエイルの手を掴み、森の奥に向かって走り出した。
「行くってどこに……!?」
「あの化け物から距離を取るんだ!よく分かんねぇけど……とにかく、あいつはヤバい!!」
「だ、だったら森の出口に向かったほうがいいんじゃ――」
「あのよく分からねぇモンスターを街に連れていく気か!?とりあえず走れ!追い付かれたら喰われるぞ!」
「は、はい!」
「――っ!!」
逃げる直前、パナケイアがもう一度魔法を放つ。しかし、傷を完全に癒したモンスターは素早く動き攻撃を避けた。
「シャアアアアアアアア!!!」
大きく咆哮を上げたモンスターは翼を大きく広げ、前足で地面を蹴った。
人間の足では逃げきれない、距離はどんどん縮まっていく。
モンスターは口から伸びた無数の触手を乱暴に振り回した。
唾液が撒き散らされ、木や草を溶かす。
「エイルッ!!避けろ!」
「ひッ!?」
ヌメリとした柔らかな触手が頬を掠めた。皮膚が焼けるように熱い、まるで胃酸で溶かされているようだ。
エアは勢いよく振り返ると、
「《トゥプシマティ》――!」
風の剣を握り、モンスターに振るう。剣の刃はモンスターの首を正確に討ち取り、首を吹き飛ばした。
首を無くした身体は力なく崩れ落ちた。
「やった…?」
「いやこれは少し、いやかなりマズイ…!」
安堵したのもつかの間、モンスターの首がこちらを向いた。
そして、口から大量の触手が溢れだし、手足となって再び歩き出す。触手は土や倒木を取り込み、モンスターの肉体はさらに大きくなっていく。
「ひぃッ!?」
「周囲の素材で無理やり肉付けしてるのか。クソッ、何だあの再生能力……いくら何でも異常すぎるぞ……!?」
もはや原型など留めていない、エイル達の後ろにいるのはモンスターではない、化け物だ。
体は大きく膨れ上がり、一口で人間など簡単に飲み込んでしまうだろう。
動きは遅くなったが、触手による一撃が重い。一振で木々を薙ぎ倒し、地を大きく抉る。
ドスン、ドスン。一歩む度に地面が揺れる。化け物は着実にエイル達に近づいていく。
パナケイアの魔法も、エアのトゥプシマティも通じない。このままでは触みんな揃って化け物の餌食だ。
するとエアは覚悟を決めたように、エイルを大木の影に突き飛ばした。
「エアさん!?な、何を――」
「俺が時間を稼ぐ!エイルはその間に例の魔法――禁じられた魔法を使え!」
「例のって……で、でもあれはマスカルウィンの後は全然使えなくて……!」
「魔法は術者の意思に従う!おまえが強く思えば必ず答えるはずだ!よし、あとは任せた!」
「ええ!?は、はい!」
「頼んだぞッ!パナケイア、力を貸してくれ!」
「――ッ!」
やればできると根性論で押された気がするが、残された道はこれしかない。
ポーチから血の入った瓶を取り出す。血の魔法がいつでも使えるよう、毎朝モンスターの血抜きで出た血をこっそり拝借していた。
血の魔法の欠点は血の鮮度が落ち、腐ると魔法が使えなくなること。今は朝、鮮度は大丈夫だろう。
小瓶から血を垂らし、水属性の魔法陣を描く。幼い頃から何度も書いてきた、すぐに魔法陣の準備は終わった。
あとは呪文を唱えるだけ。
――でも、もし魔法が発動しなかったら?
マスカルウィンから帰還してから、一度も発動しなかった血の魔法。恐ろしくて、また誰かを傷つけてしまうのではないかと怖くなる。
小さな不安がエイルを迷わせた。
「……大丈夫。きっとできる。ううん、絶対にやらなくちゃ。エアさんが信じてくれたんだから……!」
絶対にやり遂げなければならない。
エイルを信じて囮になったエア、心を開いくれたパナケイア。
こんなところで冒険を終わらせたくない。
だから、やるんだ。
――私が、あの化け物を倒す!!
「エアさん、準備できました!」
「ああ、いつでもこい!」
「すう、はあ……」
目を閉じ、軽く深呼吸。
そして、静かに唱える。
「《我の指先はアスクレピオスの杖なり。治癒を司る精霊よ、汝の力で穢れを払いたまえ》」
魔法陣に手を当てる。身体から魔力が抜けていき、魔法陣に魔力が流れていく。
そして命が宿ったかのように魔法陣が脈打つ。
――ドクン、ドクン、ドクン。
魔法陣の赤い光に照らされたエイルは、力強い瞳で前を見据えた。
唱えるのは、アクスラピアの癒しの魔法。
「《ウンディート・アクア》――!」
言葉と共に魔法陣から黒刃が打ち出される。黒刃は真っ直ぐ標的へ向かい、触手を吹き飛ばした。
二番目の黒刃は化け物の肉体を貫き、化け物はプツンと意識が途切れたように崩れ落ちた。
魔法陣はさらに輝き、もう一度黒刃を放とうとする。
「もう大丈夫、これ以上はいらない。だから、攻撃をやめて!」
エイルは魔法陣に覆い被さった。もう十分だ、驚異は無くなった。
だから、これ以上黒刃で傷つける必要はない。リンドを傷つけた過ちを繰り返したくない、ただその一心だった。
すると、魔法陣は急速に光を失った。鮮血は茶色に染まり、枯れた草木が風に舞うように、静かに消えていった。
「魔法が止まった……。ちょっとは成長……できたのかな」
一度魔法を暴走させたこと、ウシュムガルと戦ったこと、そして魔法を受け入れたこと。
多くの経験を得て、少しずつだが血の魔法の扱いにも慣れてきた……と思いたい。
「やっと終わったか……何だったコイツ?」
「ギルドに報告した方がいいですね。もしかしたら、魔王軍に関係しているのかもしれないですから」
「だな。……でもその前にちょっと休憩休憩させてくれ。魔力の使いすぎでちょっと疲れた」
「……私も少し力が抜けて……ふにゃあ…」
二人は同時に地面にへたりこんだ。
緊張が抜けて、力が出ない。
ウシュムガルとの戦い以降、Fランクの討伐クエストばかりやっていた冒険団アヌテオラの二人には、今回の戦いは少し激しすぎた。はあはあと荒い息を吐きながら呼吸を整える。
「――ッ!」
「パナケイア?どうしたの?」
「――ッ!――ッ!」
パナケイアか必死にエイルの髪を引っ張る。顔は焦りを浮かべ、口を動かして何かを伝えようとしている。
パナケイアに引かれるまま、横を向く。
「……え?」
触手が、動いた。
切断された触手が顔に集まり、大きな触手の塊を形成していく。
まだ生きている。まだ脅威は去っていない。
「シャア……!シャアアアアア!」
ほとんど原型を失い、顔だけになった化け物は天に向かって咆哮する。
化け物の顔を覆っていたマスクが割れ、モンスターの素顔が晒された。山羊に似た瞳は大きく開き、エイルから目を離さない。
満身創痍、動けるのもやっとの状態の化け物は、憎悪を糧に起き上がった。
ボロボロの触手が座り込んだエイルに向かって伸びる。
「まだ起き上がるのかよ…!チクショウッ、もう一回魔法いけるか!?」
「だ、ダメです!魔法陣が消えかかって――!」
役目を終えた魔法陣はすでにほとんど消えてしまった。
エアが構えるが、触手がエイルの身体を引き裂く方が早い。
「――ッ!」
化け物の触手がエイルに迫る直前、声が聞こえた。
それはエイルに向かって手を伸ばすエアの声ではなかった。
どこかで聞いたことのある懐かしい声。
そして、『それ』は放たれた。
「伏せろ」
エイルに迫った触手が突如、弾けた。
「……え?」
エイルの後ろから放たれた銀色の矢は触手を破壊し、化け物の頭部を貫いた。
化け物の頭はぐちゃぐちゃに破壊され、肉片が辺りに飛び散る。触手は動きを止め、エイルの眼下で力なく落ちた。
今度こそ、化け物は完全に沈黙した。
「無事か」
「あなたは、確か──」
矢を放ったのは一人の騎士だ。白銀の鎧に身を包み、顔を包帯で巻いた男。酒場で一度会ったはずだ。
彼は銀色の弓を仕舞うと、エイルの方を向き、
「名はアポリュオン。王宮騎士団の騎士だ。もう一度問おう、無事か」
「えっと……は、はい」
「そうか」
エイルの返事を聞くと、アポリュオンを手を伸ばした。
「……?」
彼は何をしているのだろう。しばらく呆然としていたが、それがエイルの身体を起こすために差し出されたものだと気がつくと、
「す、すみません。助けて頂いて、本当にありがとうございます!」
「礼には及ばない。貴女が無事で良かった」
彼の手を取り、頭を下げてお礼を言う。アポリュオンがいなかったら今ごろエイルは肉片になっていただろう。感謝しても感謝しきれない。
しかしアポリュオンはエイルの感謝など意にせず、優しく頭を撫でた。まるで安心しろと伝えるように。
見た目は恐ろしいが中身はとても優しい人、なのかもしれない。
するとエアが不満そうに口を尖らせて、
「おい、俺への労いとか心配はないのか騎士さんよ」
「おまえに興味はない。失せろ愚人。我が視界に入るな。目が穢れる」
「勇者以上に冷たいやつだな!?」
エアへの態度は辛辣で、虫を扱うように手で追い払う。アポリュオンの優しさの対象はエイルだけのようだ。
アポリュオンは化け物の亡骸を拾い、担ぎ上げる。鎧に触手の粘液や血がべっとりと付いたが、まるで気にしていない。
「モンスターの弱点はオドだ。オド、またはオドに繋がる魔力の循環回路を破壊すればモンスターは活動を停止する。奇形な姿をしているが、オドを持ち人間に敵意を向ける点はモンスターと大差ない。しかし、これをモンスターと断言するのは些か早急だ」
「私もこの生き物がただのモンスターとは思えません。やっぱり、魔王軍が関係しているんでしょうか…?」
魔王軍。マートティアに進攻し、人間達に恐怖を植え付けた魔の存在。
エイルの脳裏に、ウシュムガルとの戦いが思い出される。
このモンスターはどこかウシュムガルに似ている。高い治癒能力、異形の見た目。
マスカルウィンの一件以降、魔王軍は姿を現さなくなった。新たな魔王も、人間を憎んでリリスも。
しかしまた魔王軍が動き始めたとしたら。
――また、戦わなければならない。血の魔法を使って、相手を滅ぼすまで……。
「その一件も含めてギルドと話し合うべきだろう。ギルド、王宮騎士団の合同会議がもうすぐ開かれる。これと直接対峙し戦闘した貴女にも参加して頂きたい。愚者、おまえもだ」
「愚人とか愚者とか、いちいち気に触る言い方だなこの騎士野郎」
「私たちもですか?構いませんけど、合同会議って一体――」
「現在ラルサ、シッパルの街でもこれと同様の生物が確認されている。ギルド本部レベリオからの緊急招集だ」