50話 枝分かれの先に
「……割れてる…?」
霧がかかるように、意識が混濁していく。
脳を揺さぶるような頭痛が身体を支配し、痛みで気が狂いそうだ。
虚ろな瞳を必死に動かし、原因を探ると、
「……ぁ……うそ……?」
首からさげていた紀章が縦に割れかかっている。
ヒビは中心にまで達しており、あとわずかな衝撃で完全に真っ二つだろう。
この紀章はギルドから渡された防御魔法を構築するもの、要は魔法陣そのものだ。
それが壊れかけている、ということは魔法が消えかかっていることと同義であり、この世界では死を意味する。
おそらく壁に激突した際、衝撃に耐えられなかったのだろう。
「こ、これじゃ……ぁ……っう…」
首を締めてられているような息苦しさ。
気持ち悪い汗が身体を冷やし、体温が急激に下がっていく。
浅い呼吸を繰り返すが、全身を襲う疲労感は消えそうにない。
防御魔法の効果が薄れ、大気中を漂う高濃度の魔力の影響がエイルに現れ始めている。
一瞬で魔力に汚染され、絶命してもおかしくないほどの魔力濃度だが、なんとか意識は保てている。
しかし、それも長くは持たないだろう。
ここでは生き物は住めない。
もう既にマスカルウィンという世界は終わっているのだ。再興の希望なんてない、全ての命はなす術なく殺される。
「(────じゃあ、ウシュムガルは?)」
なぜ、ウシュムガルは無事なのだろう。
ウシュムガルは巨体だ。レイナやエアすら窮地に追い込み、ベテラン冒険団と互角以上に戦った。
少なくとも人間より発達したオドを持っていることは確かなのだが、
「(……なら、こんなにも高濃度の魔力の影響を受けないはずがない。シュヴァルドラゴみたいに、大きな体全てに魔力を行き渡らせるためには体外にオドを露出させなきゃいけない)」
単純に考えれば、エイル達のように防御魔法を張っているのだろう。
しかし、あんなにも大きな巨体に魔力を巡らせ、尚且つ防御魔法を展開するとなると、かなりの量の魔力を必要とするはずだ。
──モンスターは巨大になればなるほどオドも発達し肥大化していく。
──それでも巨体全体にオドで精製した魔力を行き渡らせることは不可能。
──だから体外から魔力を取り入れるためにオドの一部が外に露出している
シフォカだって言っていたはずだ、足りない魔力を補うために、魔力を外から取り込むと。
考える。過去二回の遭遇の記憶を辿り、ヒントを探す。
ティトーとシフォカが推測したオドの位置は、魔法陣が浮かび上がった翼。
「(違う──翼がオドなら、ティトーの攻撃を受けて無事でいられるわけがない。それに仮に翼がオドなら、大気中の魔力を直接取り込んでいることになる…)」
オドはモンスターの超重要器官。
あの時、ティトーが翼をウシュムガルから切り離した時。
負傷した翼を難なく再生させ、何事もなかったかのようにアイツは動き出した。
オドを本当に傷つけられたなら、傷を修復することなんてできない。
何より、マスカルウィンでオドの大部分を直接大気に露出させるなんて自殺行為だ。
なら、本物のオドはどこに。
思い出せ、ここで気づかなければ、ウシュムガルに勝てない。
なるべく外界と接触し、大気に多く接しない場所。
記憶を丁寧に解きほぐしていくと、何故かティトーとウシュムガルが戦った時の記憶が呼び起こされた。
それは、
「──そうだ、ウシュムガルを初めて本気にさせたのは私じゃない──ティトーだった!!」
捨て身の無謀な攻撃。
血の魔法ではない、無名の剣の攻撃がウシュムガルに痛みを与えた。
その時、ティトーはどこを攻撃したか───それは。
「まさか──」
右手を上にあげ、自身の喉に触れる。
突然苦しみだしたウシュムガル。
思い返せば、ウシュムガルは血だらけだった。
それは、エイルの攻撃によって出来た傷口が塞がっていないからだ。
切断された翼を治癒するほどの魔力を持つウシュムガルが何故───。
これまでの戦いで得たピースが組合わさり、一つの像を組み上げていく。
鋼鉄の鎧、隠されたオド。
その秘密の糸口を掴みかけた時、
「──っ!?」
館全体が大きく揺れた。
幸い揺れはすぐに収まったが、ミシリと木が軋んでいる。
度重なる戦闘の影響は戦場であるこの館にも出ているようで、決着がつく前に館自体が倒壊、なんてこともありえそうだ。
「いか……なくちゃ……」
剣を支えにして立ち上がると、おぼつかない足取りで前に進む。
まだ防御魔法は動いている。
なら、戦えるはずだ。
「終わってない……まだ、何も終わってない……!」
ウシュムガルと対決する前に、館が壊れる前に、エイルが朽ち果てる方が早いかもしれない。
だが、それがどうした。
服はウシュムガルと己の血て汚れ、脛から血が流れて、身体中に無数の切り傷をつくり、目に見えてボロボロだというのに、エイルの心は折れていなかった。
ゆっくり、ゆっくりと。
前を見つめて、歩き始めた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※
その獣は毛で覆われていた。
手足の鉤爪を隠すようにびっしりと生えた茶色の体毛。
長く艶やかな薄紅色の髪を引きずり、一歩一歩を踏みしめながら獣は進む。
威圧感を出そうとしているのではない、単純に身体が重いのだ。
腰のあたりから生えた太い、ゴツゴツとした鱗に覆われた尾。
身体の中で一番重い部位を煩わしそうに引きずり、手を無気力にだらけさせて歩く。
長い歩みの果て、大きな広間に獣はたどり着いた。
瓦礫だらけの室内、天井や床の破片が山のように積み重なっているため、見通しはあまりよくない。
人間離れした嗅覚が『匂い』を捉える──その前に、充血した瞳がギョロりと動き、
「よお」
突然投げ掛けられた明るい声。
首を横に捻り、声の主である青年を見た。
憎悪、歓喜。
二つの相容れぬ感情が獣の中で交わり、低い唸り声となって外界へ放出される。
「……ァァァギィィィィィィ……!!」
涎が滴り、小さな池が出来上がる。
その表情に理性はなく、狂った笑みを浮かべながらエアと対決する。
「……獣にまで墜ちたか。その妄執、さすがだよリリス」
かつての同胞を一瞬だけ哀れむように、悲しい笑み浮かべるエア。
すぐに真剣な眼差しを作り、懐から一丁のナイフを取り出す。
装飾もない簡素な刃物で、刃が少し湾曲しているのが特徴だ。
ナイフを構え、静かに一歩踏み出すと、
「──はぁっ!!」
一気にリリスとの距離をつめ、横から一直線にナイフを振るう。
風を纏い、空間すら切断させたと錯覚してしまうほどの一撃だ。
しかしリリスはそれを爪で防ぎ、
「ァァァァギィィィアアアアアシャャャャャャ……!!!!」
もう片方の手でエアに襲いかかり、エアがナイフで受け止める。
──ヒュンッ!!
リリスが軽く後ろに身体を仰け反らせ、空をナイフが切り裂く。
鳴り止まぬ刃と刃がぶつかる金属音。
エアとリリスが互いに攻撃を繰り出し、防御する。
永遠に続くかのように思われた闘諍は、
「っはああああ──!!!」
何度目かの攻撃。
一歩踏み込み、突き刺すようにナイフをリリスへ向ける。
リリスは首を軽く横に振り、攻撃をいとも容易く避けた──ように思えた。
「──トゥプシマティッ!!」
ナイフの刃に緑色の幾何学模様が雷のように走る。
その瞬間、部屋中の空気がエアの手先に集まり、一瞬で風の膜がナイフを覆う。
ミルフィーユのように何層も風は重なり、一本の剣のような形状を作り上げ、
──ヒュンッ!!
クルクルと雄牛のような角が宙を舞う。
切断されたリリスの角はカランと音を立て、無惨に床に転がって、
「──ゥアアアアアアアッッ!!」
リリスが目を見開く。
血は出ていなかったが、身体から切り離された角は重々しいオーラを纏っていた。
──ズシン。地が揺れた。
もちろん、都合よく地震が起こった訳ではない。
リリスの足元の床がひび割れる。
右足を力強く踏み出し、身を出したままの無防備なエアに向かって手を伸ばし、
「──ゥガアアァァァァァァ!!!」
拳を固く握り、そのままエアの武器を破壊した。
ナイフは氷が砕けるように粉々になり、跡形もなく霧散する。
「──ッ!トゥプシマ──」
咄嗟に呪文を唱えるが、言い終わるより先に、頬に熱を感じた。
チリチリと前髪が焼ける匂い。
呪文を中断し、赤い炎を避けるために横に飛ぶ。
あまりにも突然のことだったため、体勢を崩して地に転がってしまったが、結果的にそれは正解だった。
リリスが吐き出した炎。
周囲に炎がばらまかれ、エアが先程までいたところは一瞬で灰になってしまったからだ。
「火を吹くとか、本当に化けもんじゃねぇか……!!」
炎竜のように火を吐くなんて馬鹿げている。
馬鹿みたいに強くて、立ち向かうことすら無謀に感じる。
「ああくそッ!!」
やけくそ気味に予備のナイフ全てを投擲するが、リリスは容易くハエを追い払うように弾く。
炎は酸素を取り込んで赤々と燃えている、しかし床や壁といった構造物が焼けていない。
「(なんだ……この炎……?いやこれはまさか──) 」
エアが何かを掴みかけるより先にリリスは再び炎を撒き散らす。
炎を避けようと身を曲げた──その瞬間、炎に気をとられていたエアにリリスが急接近し、
「──ぁ、かはっ…」
ギリギリと首が醜悪な手で絞められる。
力が急激に抜けていく。
足をばたつかせて必死に抵抗するが、リリスはさらに力を加える。
足が宙に浮く感覚。
視界にリリスが映る、人の顔を完全になくした獣が。
「は───」
口から空気がこぼれた。
乾いた笑みを寂しげな表情に張り付けながら、かつての同胞を見つめる。
すっかり変わり果てた友(リリスの方はそう思っていないだろうが)を少しだけ悲しんで、ゆっくりと苦しみながらも言葉を紡ぐ。
「─────ば」
残念なことに、エアの言葉は大きな衝撃に消し飛ばされた。
それは一本の剣から放たれた光の刃。
瓦礫の影から煌めく大剣の剣先が僅かに見えた。
艶やかな紫の髪が風に揺れている。
それは、王様の形見とやらの剣が風を纏っているからだ──まるでエアが扱う風の剣トゥプシマティのように。
驚いたようにリリスが目を見開く。
僅かに腕の力が緩み、
「──レイナッ!!」
「分かってる!!」
大剣を携えたレイナが瓦礫の頂上から素早く飛び降り、リリスの真上に陣取る。
両手で剣を上から叩きつけるようにして降り下げた全力の一撃。
避けるのは不可能と判断したのか、リリスはエアを放り投げ、両手で大剣をつかむ。
ミシリッ、剣から金属が軋む嫌な音が響く。
「ッ!!?」
リリスが息をのみ、咄嗟に手を離す。
その瞬間、部屋中の空気がレイナの大剣に集まり、
「──トゥプシマティッ!!」
集まった空気が一気に放出され、つむじ風となる。
ゴウッ!!と風が床を抉り、部屋全体が大きく揺れた。
レイナが振るった風の剣──トゥプシマティの威力の方がエアの時より明らかに上がっている。
その証拠に、天井には大きな穴があいており、今にも部屋自体が倒壊しかけている。
宙を舞うように、ヒョウのように軽やかにジャンプして攻撃を避けたリリスは四肢を床につけて着地し、威嚇にも似た唸り声をあげ、
「ヴヴヴァァァ……!!!」
「『何で?』って言いたそうな顔だな、リリス。……さすがにトゥプシマティを譲歩するなんて、思い付かなかっただろ。ま、正確には俺の魔力を使って無理やりトゥプシマティの権能を発現させているにすぎないけどな……!」
トゥプシマティ──それ自体が風を作り出しているわけではなく、世界を絶えず流れ続けている風を集め、剣を形作る。
当然、世界を循環する風にも魔力は宿っているため、風を制御し己の武器とするのは並みの芸当ではない。
風を従え、自在に操ることができるのは最高峰の『風』属性の魔力をもつ者だけだ。
エアが持つ魔力がトゥプシマティの源──であるならば、
「ポンコツでもエセでも、魔王だったやつの魔力を貰うなんて死んでも嫌だけど……まあ、背に腹は代えられないないわね」
レイナを回復に専念させ、万全な状態で戦わせる。
そして、エアの魔力をレイナ──正確にはレイナの持つ大剣に注ぐ。
エアの魔力を帯びた剣は風を集め、トゥプシマティの能力を魔力が無くなるまでという制限付きで発現させる。
剣はオドを持たない無機物であるため、空気中の高濃度の魔力をどれだけ取り込んでもレイナ自身に害がでることはない。そのため、存分に大量の魔力を使うことができる。
賭に近い作戦だったが、思った以上にランスとやらの剣は魔法と相性がいいみたいだ。
もちろん、作戦の前にひと悶着あった。高出力を維持できる時間は長くない、あくまで一か八かの短期決戦用なので、リリスに少しでも予兆を気づかれたら終わりだ。
何より友朋の形見に全くの部外者の魔力を使うのだから暴走を起こして木っ端微塵、なんてことも十分にあり得る。
その危険を犯してまでレイナが承諾してくれたのは、
「……ランスの剣に対する屈辱も甚だしいけど………ま、少しくらいなら信じてあげなくもないわ」
「素直に『信じるわ頑張って(ハート)』と言えなあああああああ嘘です嘘嘘だからその剣先をこっちに向けないでください死にます本当にマジで!!!」
「……ふん。黙ってなさい、本当に死ぬわよ」
一瞬本気でエアにトゥプシマティを振るおうとしたが、すぐに思い直した。
大切な剣に魔族関係者の痕跡なんて少しも残したくないのが本音だが、この場限りではそうも言ってられない。
いや、本来なら命に関わる状況でも絶対に剣を危険にさらすなんてことしないだろう。
魔族は嫌い、魔王は憎い。
それでも、今この瞬間だけは───。
「ァガアアアアアアアッ──!!!!!」
リリスの咆哮を真っ直ぐに受け止て、レイナは静かに剣を構えた。
一瞬で空気が別世界のようにキンッと静まり返り、膨大な魔力が剣に流れ込む。
「──主よ、天命をあなたにゆだねます」
目を閉じ、神に祈る。
剣が光輝き、部屋全体が光に包まれた。
そして─────。