49話 希望的観測
──キィィィン。
レイナの振るう剣はことごとく打ち返されていく。
「ヴ……ヴアアアア……!!」
病的なほど長く延びた爪で顔を防御したリリスが獣のように唸り、充血した瞳孔を細める。
口からはみ出した犬歯を伝い、涎がポタポタと地に落ちていく。
頭から突き出た二本の螺旋状の角、顔に刻まれた禍々しい模様。
目の前にいるのは、もはや魔族ですらない。
理性を無くした、ただの獣。
「……ヴァ…ァァァァァァァ!!!」
獣は低く唸り、爪を繰り出しながらレイナに飛びかかる。
力任せの攻撃をレイナは容易く受け流し、一歩踏み込んで剣を振るう。
そして、
「────うあ……っううう!!!?」
剣を握っていた右手の前腕、特に手の近くの骨がミシリと悲鳴を上げる。
獣の攻撃は非常に単純、獲物が手を出せば噛みつく。
リリスはレイナの剣を受け止める、なんてことはしなかった。
背を低くし、レイナの腕に噛みついた獣はそのままレイナから腕を奪おうと首を横に振り──
「──レイナっ!!」
腕が身体と分離する前、エアが風の剣──トゥプシマティがそれを遮る。
竜巻のように渦を巻いた刃をレイピアのように刺突し、リリスの心臓を狙う。
「ウアアアアアア───!!!!!」
レイナから歯を引き抜き、圧倒的な脚力でリリスは軽やかなに空を舞う。
同時にレイナは素早く後ろに後退し、噛まれた腕を健常な方の手で庇うように止血する。
しかし傷はかなり深く、圧迫しても血は止まらない。
「ついに、獣にまで堕ちたか」
チラリと無造作に放置されたままを槍を一瞥し、エアが呟く。
ただ寂しそうに、哀れむように。
かつての同胞の成れの果てを目に焼き付けて、
「……っ!」
素早く剣を構え、空から落ちてくるリリスに向かって風を振るう。
風は荒々しく暴れ、小さな嵐のようだ。
しかし、
「ウラァァァァァァァァァッ!!!!!」
リリスは風に臆することなく、渦巻く風を掴んだ。
リリスの手からこぼれた風が二人の髪を乱し、皮膚に傷をつける。
リリスの力にエアが押され、ミシリと足元の床が僅かにへこむ。
そして、
「──ウガァァァァァァァ!!」
獣のような咆哮を上げ、頬の模様を赤く光らせたリリスの腕の筋力が急激に強化される。
もはや呪文すら必要としない稚拙な魔法による筋力強化、その威力は、
「──マジ、かよッ!?」
グシャッ!!木の枝を握り潰すように、リリスの手が閉じられた。
エアが握っていた風は割れた窓のガラス片のように粉々に砕け、部屋の中の空気に溶けていく。
別の武器を取り出す前に、リリスがエアに迫り──。
「───っ!!」
館全体が大きく揺れる。
世界そのものを揺らすような、大きな地震。
直後、鼓膜を引き裂くほどの爆音が部屋を襲う。
最初はリリスの策略かと思ったが、驚いたように動きを一瞬だけ止めたリリスを見ると、
「はは、やってくれるじゃねぇか!!」
きっと、エイルの仕業だ。
あの弱々しくも強き冒険者の少女が戦っている──そう思うと、不思議と力が沸き上がる。
リリスが見せた一瞬の隙を、エアは見逃さない。
咄嗟に右足を浮かせ、リリスの脇腹目掛けて前蹴りを繰り出す。
「ウルガァァァァァァ!!!」
蹴られたリリスは転がり、獣のように四足歩行で地を這う。
だが、大した威力にはならない。
常に魔力を消費し、筋力や皮膚を強化したリリスに格闘術なんて通じる訳がない。
しかし、勇者が行動を起こす時間は十分に稼げた。
───ガシャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!
レイナが投げたナイフがステンドグラスの中央に打ち込まれ、繊細な模様が一気に崩れ落ちた。
キラキラ、ガラス片が僅かな光に反射して美しく輝く。
それは幻想的な──死の雨だというのに。
「───っ!レイナ、行くぞ!」
「ええ!」
エアとレイナは同時に駆け出し、降り注ぐガラス片から背を向ける。
シュッ、頬をガラス片が掠めた。
防御魔法は高濃度の魔力しか防がない、小さなガラス片一つでさえ天敵だ。
僅かに反応が遅れたリリスの頭上に、容赦なくガラス片が突き刺さっていく。
しかし、やはり大したダメージにはならず、少し怯ませることぐらいしかできなかった。
「──シャアアアアアァァァァァァ!!!!!」
喉を引き裂き、腕だったものを足代わりにして走る。
理性を無くした少女の舌は真っ赤に染め上がり、蛇のように細くなっていた。
自らが傷つくことすら厭わずに、獣は皮膚に突き刺さった色鮮やかなガラス片を無視して迫る。
リリスの鋭い牙が二人を捉えかけた、その瞬間。
「《シャマス・ツァオベライ》───!!!」
上半身だけを後ろにひねり、呪文と共にレイナが大剣を横凪ぎに振るう。
すると、剣の軌跡をなぞるようにギロチンのような形状をした、光の刃が放たれる。
白く神聖な輝きを放ち、大きさは大剣と同じくらいであろう。
迫り来る光の刃をリリスは猫にも似た俊敏な動きでかわし、レイナに迫る。
「シャアアアアアァァァァァァァァ!!」
口から撒き散らされた唾液と小さな傷からこぼれた血が混じり、リリスの顔が怪物の形相に変わる。
いや、頬から鼻にかけて不気味な鱗が肌を覆い、獅子のような体毛を生やした手足や雄羊をとさせる角を持つ姿は、怪物と呼ぶに十分すぎる。
きっと、神話に出てくる怪物──フワワにだって引けをとらないだろうと、場違いなことをレイナは思った。
そして、
───ドシャアアアアアアアアアア!!!
砕けた天井の一辺が三人の身体を潰すように落ちてきた。
「──────あ」
気の抜けた声。
それは誰の声だったのかはわからない。
痛いほどの強さで腕を引っ張られた、それを認識したと同時に、眼前にいたリリスが天井から落ちた瓦礫に押し潰されて見えなくなった。
先ほどレイナが放った攻撃が天井に当たり、一帯を破壊した、といったところだろうか。
「走れッ!」
エアがレイナの腕を引っ張り、目の前で起きた惨劇を無視して走る。
もしエアがレイナを引き寄せていなかったら、頭の片隅に沸いた恐ろしい考えを無理やり追い出し、崩れていく天井から逃げるように駆け出す。
部屋を出て、長い廊下を走り抜け、ようやくたどり着いたロビーに二人はへたり込み、荒い呼吸を繰り返しながら、
「……魔力…あとどんくらい残ってる……?」
「……あの怪物の魔力の浪費に付き合ってたら、いくら魔力があっても足りないわよ……少なくとも、あと一回魔法を使うぐらいね……」
一応、無理やり魔力を精製しようと思えばできなくはないが、それはオドを傷つける。
ここまで休みなく戦い、魔力をずっと精製してた──オドはかなり疲弊しているだろう。
レイナは患側の腕を健側の腕で庇うように押さえて、
「少なくとも、痛手は与えたわ。後は瓦礫に潰されていれば───」
壁を突き破り、『何かが』レイナの頬を掠めた。
超高速で飛んできた『何か』は反対側の壁にぶち当たり、無残に破壊された。
残骸をよく見ると、それは礼拝堂にあった椅子だ。
「ァァァァァァ……!ガァァァァァァァァァ……!」
希望的観測も空しく、獣の唸り声が壁の隙間から漏れている。
重たい足を引きずるような、ズサリッという音も付け加えて。
「……一応聞いておくけど、すっごい必殺技とかないよな…?さすがに、これ以上はキツいぜ……」
「……あったとしても、魔力は足りないわよ…」
レイナは腕を負傷、エアのトゥプシマティは通じない。
状況は絶望的で無慈悲、完全に詰み状態だ。
仮にレイナが残っている全ての魔力を回復にまわし、腕を治しても、大剣の力を完全には引き出せない。
この剣はレイナのものではないため、剣の実力を半分すらだせていないのだ。
本気の一撃を放つためにはより多くの魔力が必要だが、そんな魔力は残っていない。
攻撃と回復、どちらをとっても道はない。
「ァァァァァァァァ……!!」
──ドカアアアアンッ!!!
風をまとい、巨石のような瓦礫が壁に穴を開けて突撃してきた。
残り少ない体力を振り絞り、よろめきながら立ち上がるレイナ。
エアは何か考えるようにうつむき、そして急に顔を上げて、
「ありたっけの魔力を回復に回せ。俺がリリスを引き付ける」
「──は?本気?」
エアの言葉はレイナを困らせるのに十分で、思わず問い返してしまった。
しかし、エアは真っ直ぐと音のする方向を見つめて、
「ああ、ちょっとばかしやりたいことがあってな……少し付き合ってくれないか」
いたずらっ子のような不敵な笑みを浮かべた。