48話 絶望の加速
「っはあ……はあっ……!」
背後から感じる殺意。
追い立てられるように廊下を走り、階段を下る。
一階は床が脆く、逃げている最中に足をとられたら終わりだ。
ならばと二階に降り立ち、軽く後ろを振り返るが、
「……あれ?」
ウシュムガルはいない。
ピリピリと背中に迫っていた殺意も感じられず、状況に反した静けさが辺りを漂う。
違和感が気持ち悪く、ネットリと汗がにじむ。
しかし、異質な静寂もすぐに打ち破られた。
──グシャアアアアアアアッッッ!!!
激しい暴音と共にエイルのすぐ後ろの天井が砕けた。
天井から生えた鋼の尾が触手のようにうねり、何かを探すように蠢く。
尻尾は上に引っ込むと、再び──
「っひぃ……ぁ」
──グシャアアアアアアアッッッ!!!
エイルの小さな呼吸音も、耳を引き裂く暴音にかき消される。
襲撃者は上だ。
わざわざエイルを追いかけるより、上からまとめて潰す方が効率的で確実だと判断したのだろう。
エアから借り受けた剣をしっかりと握り、脇目も振らずに走る。
走るエイルを追うように天井から尻尾が生え、残骸が瓦礫となって降り注ぐ。
「──ァァァァァァァァァァァァァ!!!」
天井に空いた穴から、獰猛な肉食獣の鳴き声が響く。
少しの間。
恐怖を煽る一瞬の静寂の後、エイルの背中を何かが掠めた。
固く握られた拳が、巨石のように重い一撃となって振り下ろされる。
周囲に放たれ衝撃波に脚をとられたエイルはバランスを崩し、
「っあ……ぃ…っ」
床に叩きつけられ、ボールのようにバウンドしながら、壁に勢いよく激突したエイルの節々が悲鳴を上げる。
額が割れたのか、血が顔を流れる。
「……っ……は……ぁ」
激痛でうまく息が吸えない。
しかし、脅威は満身創痍のエイルに容赦なく迫る。
「───ァァァァァァァァ……!」
歓喜するような唸り声。
天井に空いた穴から真っ赤な眼がこちらを見つめる。
──逃げなければ。
剣を突き刺し、杖のように使って身体を支えるが、すぐによろけて壁に倒れ込んでしまう。
全身を打撲したためか、思うように身体が動いてくれない。
そして、
「ァァァアアアアアアアアアア!!!!!!」
館全体を震わせる鳴き声を発しながら、ウシュムガルが天井から顔を覗かせる。
ミシリ、木組みが崩れ落ちた。
埃や木屑を撒き散らし、ウシュムガルは三階の廊下を突き破り、エイルの目の前に降り立った。
翼を体にぴったりと張り付け、先程エイルの攻撃によって空いた穴から血を滴らせている。
「ァァァアアアアアアアアアア!!」
「ッ…!?」
動けない。
蛇に睨まれたカエルというのはこんな気持ちなのだろう。
真っ正面から放たれるウシュムガルの眼光。
その冷たさと殺意の前に、逃げようという気持ちすら萎んでいく。
剣で戦おうにも体は鈍痛で立ち上がることすらできない。
そして残念なことにエイルには剣才がまったくない。仮に剣を構えても、一瞬で勝負がつくだろう。
逃げても、戦っても待っているのは死。
──終わるのか。こんな場所で、何も成せずに。
「っうああああ!!!」
痛みを無視して剣を両手で握る。
生まれたての小鹿のように震える足を無理やり立たせ、拙い動作で剣を構える。
その瞬間、身体中の筋肉が悲鳴を上げ、気色の悪い汗が全身を冷やす。
逃げない、逃げたくない。
今この間も、レイナやエアが戦っている。
エイルを信じて戦っている二人を裏切りたくない、ただそれだけの思いでウシュムガルと向き合う。
「ァァァ、アアアアアアアアア!!!!」
口を大きく開けてウシュムガルが絶叫する。
剣を持つ手がカタカタと震え、手汗が大きな滴となって滴る。
「──っ!」
穏やかな瞳を鋭く見据え、ウシュムガルを睨み付ける。
蛇に挑むカエルのように無謀でも愚かでもいい、抗ってやる。
「ァァァアアアアアアアアア!!!」
エイルの覚悟を嘲笑うかのようにウシュムガルは絶叫し、
「───え?」
獰猛な叫びは突然、苦しみの嘆きに変わった。
「ァァァアアアアアアッ!!!??アイァァァアアアアアア!!??」
突如体を壁に打ち付け、口から唾液を撒き散し始めたウシュムガルは完全に正気を失い、自らが傷つくことも厭わず暴れまわる。
「え?…え?」
唖然としたエイルは、切羽詰まった状況であることも忘れて、剣を構えたままウシュムガルを見つめた。
はっと我にかえると、慌ててポーチから小瓶を取りだし、水の魔法陣を血で殴り書く。
高価そうな絨毯を血で染めると、手のひらを魔法陣に当て、
「《ウンディート・アクア》──!!」
エイルの言葉に応えるように、血の模様が淡く光る。
そこまでは今までと変わらなかったが、
「─ぁ……ッ……!」
頭が割れるように痛い。
呪文を唱え終わった途端、脳が締め付けられるような激痛が走る。
この痛みは──。
「ま、魔力……?違う…これはオドの疲弊……?」
魔力の使いすぎで、オドが高速で疲労しているのがわかる。
身体にも影響が出るほど魔力を使っているようには感じなかったが、血の魔法はエイルが思っている以上の魔力を消費するようだ。
今までは一日に一回しか使わなかったが、今日は連続で使っている。
その弊害が表れ始めている、といううことか。
魔法陣に魔力が流れていく。
そして、
「ァァァアアアアアアアア!!?」
「──ぅ…あ…!」
魔法陣から黒刃が打ち出される。
今までより小さく、人差し指くらいの大きさしかないそれは、ウシュムガルの身体を串刺しにし、天井に、壁に、エイルにすら牙を向く。
シュッ、高速で放たれた黒刃がエイルの頬を掠めた。
痛みを感じる前に壁が破壊され、天井が崩れ落ちる。
元々制御できなかったが、魔力不足とオドの疲労のせいか、さらに魔法の軌道が読めない。
このままではウシュムガルと仲良く自滅だ。
「…にげ、なきゃ……」
震える足に鞭をうち、弱々しくもその場を離れようとした、その時。
───パリン、軽い音とともにガラス片が散らばり、絨毯が真っ赤に染まる。
勢いを徐々に増していった黒刃が、ピンポイントでエイルの手にあった小瓶に命中したのだ。
「ぁ…っ…!」
小さなガラスが手に突き刺さり、シュヴァルドラゴとエイルの血が混ざりあう。
たが、止まっている暇なんてない。
「ァガアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
ヒュッ、痛みに悶えるウシュムガルの尾が大きく旋回し、壁を完全に破壊した。
外と館を隔てるものがなくなり、世界に漂う霧が館内に流れ込む。
館全体の骨組みが崩壊していく。
そして、
「アアアアアアアアアアアアアァガアアアアアア!!!」
館全体か大きく揺れ、床がボロボロに崩れ落ちていく。
苦しむウシュムガルは崩壊に飲まれ、引き込まれるように下へ落ちていった。
「──っはあ、はあ……!」
身体を無理やり動かし、エイルは迫りくる崩壊から逃れようと走る。
角を曲がり、左館へ繋がる通路を走り抜ると、
──ズシャアアアアアアアアアアアアン!!!!
エイルが左館へ足を踏み入れるのとほぼ同時に、右館が完全に崩壊した。
「はっ……ぁ……」
目の前の危機が去ると、急に恐怖がじんわりと滲む。
浅い呼吸を繰り返し、力なく膝から崩れ落ちると、
「─ァァァァァァァァァァァァァ」
ビクリと肩が大きく跳ねた。
小さな声だが、確かにはっきりと聞こえた。
建物半壊のダメージをもろに食らったように見えたが、ウシュムガルはまだ健全のようで、何度も叫び声をあげる。
「いか……なきゃ…」
魔法の核である血はもうない。
もうエイルにはあの化け物と戦う術はない。
それでも、
「まだ……まだ、終わってない…」
まだ、戦いは終わっていない。
エアから託された剣を握りしめ、ふらふらとよろめきながら歩く。
しかし、
「──ぁ……ぐぁ……」
三歩もしないうちに、エイルは再び崩れ落ちてしまった。
頭が割れるように痛い。
壊れたレンズのように視界が定まらない。
息苦しい、吐き気がする。
突然押し寄せた症状に困惑するが、原因はすぐに見つかった。
ギルドから支給された紀章、防御魔法が、
「……割れてる…?」