42話 それは風に揺れる花
カーテンが揺れて、窓から光が差し込む。
泣き腫らした目を開けると、少し部屋が明るくなったことに気がついた。
短時間、こうして部屋に閉じ籠っていたのだろう。
誰も責めなかった。
シフォカはリンドの治療のためにすぐに森を離れ、エアもレイナを連れてギルドに事情を説明することに忙しかった。
リンドでさえ、 エイルの魔法について触れなかった。
気を使われることがどうしようものく辛くて、責められないことが嫌だった。
だって、全部エイルのせいなのだから。
魔法を暴走させたのも、リンドを傷つけたのも何もかもエイルが悪い。
エイルを責めているのは、他ならぬ自分自身。
エアやレイナに何と声をかければいいのかわからない。だから拒絶してしまう。
もう三人で冒険していた日々には戻れない。
この力はどうあがいても厄災を呼び込む。だったら使わなければいい。
冒険できなくたっていい、二人に嫌われて傷つけるより何倍もマシだ。
こうして、ずっと一人で──。
「俺が魔王軍に誘われた時、リリスに言われたんだ」
毛布で全身をくるみ、身を隠していたエイルの肩が小さく跳ねた。
少しの間会えなかっただけなのに、とても久しぶりに感じる。
ウラム村で冒険に憧れていたあの日から、ずっと一緒だったから。
「……………エアさん」
名前を呼んだときに込み上げてきたのは恐怖だった。
会わなかった空白の二日のうちに、どうしようもなく溝が深まっていたら。
部屋に入ってきたエアは、顔を毛布で隠したエイルの隣に座って、
「『神が人間を創造したのは友として共に生きるためでなく、面倒な労働を肩代わりさせるための奴隷として作ったのだ。人間は神々に縛られ、モンスターや神の怒りに怯えて自由などない』ってな」
「…………」
「リリス達魔王軍は神々の治世を終わらせるために戦うと言った。それは人間を解放させることも含まれている。たとえ神々の僕である人間と敵対しようと、神々を倒せば人間は支配から解放され、自由を得られる……リリスは大衆に演説するみたいに言った」
エアが魔王になった理由。
人間の天敵と評される魔王となりながら、その目的は人間を神々から解放するという限りない大義。
なぜ、今そんなことを話すのか。
エイルよりギルドに話した方が、有益な情報になるのに。
「今まで俺はずっと傲っていた。助けてやる、解放してやるぞっていう偉そうな気持ちで魔王軍に入った」
初めて禁じられた魔法を使った日。
エアと出会った時、魔王と言われてもそんな気がしなかった。
今でさえ、魔王であったことは何かの間違いだったのではないかと思う。
傲慢でありながらお人好しで、誰よりも優しい。
そっと、エアがエイルに肩を寄せる。
「でも…エイルとニップルに来て分かったんだ。人間は神の奴隷なんかじゃなかったって」
人間は神によって作られた。
創世神話には血と土を塗り固めて人間は創造されたと書かれている。
確かに、人間は神に従属する種族。
けれど、奴隷だなんて一度も思ったことはなかった。
「いけ好かないガキは自分より何倍も強い化け物に立ち向かった。仲間がいなくなってもその意思を引き継いで戦い続けるやつもいる。魔王軍に勇ましく立ち向かう勇者だって、人間を守護する聖女様だって、みんな戦ってる。……人間のことを何も知らないで、俺は救おうとしていたんだ」
なんとなく、エアが言っている人達のことが分かった気がする。
ウラム村とニップルの生活、わずか数日のうちにエアの心境に大きな変化が訪れた。
無知では誰も救えない。
知ろうと、歩みよらなければ。
「エイルが教えてくれたんだ。人間の逞しさ、力強さ、モンスターに立ち向かう勇気を。おまえと冒険しなかったら、俺は何も知らないままだった」
そんなものはエアの勘違いだ。
エイルは何もしていない。エアが自分一人で視野を広げ、人と関わっただけなのだから。
何も教えていない。人間の逞しさも、力強さも、勇気だってエイルには足りてない。
唇が震える。
口を開こうとしているのに、何かが邪魔をする。
「エイルと冒険した時……すごい胸が踊った。勇気に盾にされたのは今でも許せないけど……本当に楽しかった」
「そ、そんなの…………!」
──私には関係ない。
ようやく口を開いて出てきた言葉は、醜い拒絶だった。
エアが信頼するほど、自分は聖人でもなければ勇ましき人でもない。
近づいて、近づいて。魔法を暴走させたくない。
その結果、傷つくのがレイナやエアになってしまったら。
「…俺は冒険者をよく知らないけど、エイルが好きな冒険をもっと知りたい──だから、エイル」
真っ直ぐに、エアがエイルの瞳を見つめた。
深い青色の、宝石みたいな瞳。
その美しさに目が離せない。
「俺とまた一緒に、冒険に行ってくれないか?」
その言葉は風のように吹き抜けた。
窓にかかるカーテンが大きくなびく。
風はエイルの心を揺さぶり、瞳から大粒の涙がこぼれた。
「私……また魔法を暴走させて……エアさんやレイナさんを傷つけて──」
「エイルと一緒がいい。エイルじゃなきゃ駄目だ。…うまく言えないけど……おまえとなら、楽しめる気がするんだ」
弱気なエイルの言葉に被さるように、エアが言葉を紡ぐ。
その言葉は、レイナと出会った日にエイルが言った言葉にそっくりだ。
二人が向き合う。
そっと、エイルの手が温もりに包まれる。
エアが手を握っていた。
優しくて温かい手。
そして、
「だろ、勇者?」
開きっぱなしの扉に隠れるように、レイナが立っていた。
腕を組み、少し照れ臭そうに目をそらす。
何時から居たのかは分からない。
そんなの関係ない、また三人が揃った。
どんなに拒絶しても、本当はずっと会いたかった。
だって、三人の冒険したことに勝る思い出なんてないのだから。
「……レイナさん」
「あなたの瞳は本当にランスそっくり。王子のくせに、誰よりも冒険に焦がれていたあの綺麗な瞳に。だから、姿を重ねてしまった」
レイナの告白を、エイルは黙って聞く。
王子の瞳に似ているなんて、少し光栄だ。
レイナは跪くようにエイルの正面に座り、
「エイル、力を貸して。魔王軍を討つために、あなたとまた冒険するために」
三人の手が重なる。
すごく温かくて、安心する。
「私、すごく怖いんです」
胸に秘めていた真っ黒な、モヤモヤした気持ちが溶けて溢れ出す。
言葉として、涙となって。
「また暴走したら、誰かを傷つけたら……大好きな冒険者の人生を壊してしまったら…」
リンドを傷つけた。
今度は身近なエアやレイナかもしれない。
だから、冒険を諦めようとした。
二人が呆れて、見捨ててくれればいいと思った。
でも本当はもっと冒険したい。
まだ三人で一緒にいたい。
「でも、また二人と冒険できるなら──」
レイナとエアが握っている手に力を込めた。
二人も、応じるように握り返してくれた。
「もう一度だけ、やり直してもいいですか?」
「いいに決まってるだろ!ここは冒険者の街、冒険を拒むやつなんていないぜ!」
すごく怖い。怖くて怖くてたまらない。
まるで、自分の中にいつ爆発するかも分からない爆弾を抱えているみたいだ。
勇気が萎んでいる。うまく身体に力が入らない。
でも、ゆっくりと立ち上がる。
ゆっくりと深呼吸して、前を見た。
笑顔のレイナとエア。
二人が居てくれる。それだけで安心できる。
「──ありがとう」
小さな感謝の言葉とともに、少女は再び歩き始めた。
何の変哲もない、ただ禁じられた魔法に愛されただけの少女。
誰のためでもない、己のための物語。
これは、そんな無名の英雄譚だ。