41話 希望と信じたから
お昼の混み時を過ぎた酒場は恐ろしく静かだった。
「…………」
一皿だけ余った賄い飯を持って二階の階段を昇る。
廊下を渡り、一番隅っこにある部屋の扉をノックしたナギは、
「……飯」
返事を待たずに扉を開け、部屋の入り口に賄い飯をそっと置いた。
部屋の主は何も言わない。
ただ部屋に一つだけあるベッドの横に座り、毛布にくるまっているだけ。
毛布で真ん丸になった姿が微かに震えているのを見ると、ナギは昨日運んだ手付かずの皿を持って部屋を出た。
「……ずっと、にぎやかだったわね」
酒場の椅子に座って、頬杖をついていたシャルロットがポツリと呟いた。
この時間帯なら、バイト二人がナギの作った料理を食べて、談笑して、夜のバイトの準備を嫌がりながらもやっていた。
昨日も今日も、それがない。
「エイルとエアが入ってから毎日騒がしくて、忙しかったわね。バイトなんて採ったこと無かったもの。……たった数日だったのに、すごく寂しいわ」
「…………」
ナギは何も言わない。
エイルが一口も口をつけなかった料理を一瞥すると、
「……おかきでも作るか」
そんな独り言と共に、エイルの好物を思い出しながら厨房へと姿を消した。
「……ただいま」
「あら、お帰りなさい。雨なのにお使いたのんじゃって悪かったわね、エア」
「いいよ、別に。……少し頭冷やしたかったし」
ずぶ濡れのフードを取り、エアは買ってきた紙袋いっぱいの品物をシャルロットに手渡した。
コートをハンガーに掛け、やけに静まりかえった酒場をぐるりと見渡し、
「エイルは?」
「……まだ、落ち込んでるみたい」
「そっか。…そう簡単に、立ち直れないよな」
シャルロットと同じテーブルの椅子に座り、二階に続く階段をぼんやりと眺める。
レイナはギルドに召集、エイルは部屋に閉じ籠ったまま出てこない。
シュヴァルドラゴとの戦いから二日、なんとなく三人は話すことを躊躇していた。
明日はミッション決行だというのに、三人の間には大きな溝か高い壁ができている。
エイルの魔法が暴走したこと、可能性は十分にあった。
それをエアもレイナも咎めるつもりはない。
彼女を責めているのは、自分自身。
何か声をかけるべきだと分かっているが、中途半端な励ましや庇う言葉なんてエイルには届かない。
「シャルロットは……勇者と長い付き合いなんだろ」
「そうね。もう三年になるかしら…」
「なら、知ってるだろ。マトゥル騎士団団長──ランス王子について」
「……どうして、そんなこと」
「勇者が……俺達と一緒にいたのは、何が目的があったからだろ。それにはマトゥル騎士団と…エイルが関わってる。…そうだろ?」
マトゥル騎士団の崩壊は、あえて話題に出すことをさけていた。
いくら自分に関係ないこととはいえ、軽々しく触れていい話題とは思わなかったからだ。
しかしシュヴァルドラゴの一件で、勇者レイナの行動の根本にマトゥル騎士団が関わっている。
なぜ、オドを酷使して気絶するまで戦うのか。
なぜ、エイルを気にかけるのか。
リンドとの確執にも、おそらく影響している。
ここまでエイルを追い込んだのは、エアも、レイナだって同じだ。
だが、シャルロットは真剣なエアの眼差しから目をそらして、
「……紅茶、入れるわね」
「はぐらかさないでくれ!」
バンッ!感情に任せて机を叩く。
しかしエアの子供じみた癇癪程度では、シャルロットは驚きもしない。
厨房の棚からカップを取り出し、紅茶を注ぐ。
シャルロットの態度に、少しイライラし始めたエアが苛立ちを表すように、机を指先で叩いていると、
「昔ね、噂で王子には姉がいるって話が広まったの」
「…姉?」
「都市伝説みたいなものよ。根も葉もない、群衆が作り出した虚言」
湯気が立ち上る入れたての紅茶をテーブルに二つ。
盛大に大きなため息をつくと、シャルロットは渋々といった表情で語り始める。
「ルナムニル王国初代女王マトゥル。彼女の治世から千四百年……ずっと王家の初子は必ず女性だったの。でも今代はランス王子──つまり男性だった」
「……そんなの、千四百年続いた偶然が終わっただけだろ」
「ええ、長い長い偶然が終わっただけ。でもね、人は変化に意味を見出だしてしまうものなの」
「………………」
紅茶を一口飲む。
でも、味なんて感じない。
すぐにカップを机に置き、シャルロットの言葉を待つ。
「実は王子は双子で、双子の姉は何かの陰謀で存在を隠された。または秘密裏に処刑された……そんなバカみたいな噂が一時期広まったのよ」
「まさかとは思うが、勇者はそれを馬鹿真面目に信じたのか?」
「どうなのかしらね。でも、ランス王子は姉がいるってずっと信じてたみたいだけど」
「……馬鹿じゃないか、そんな理由で──」
エイルという少女はウラム村というド田舎出身で、生意気な弟がいる普通の人間だ。
王家の気高さなんてない、平凡で優しい娘。
なのに。
「──そんな期待を抱いて、俺達と一緒にいたのかよ」
根拠がないなんてものではない。
民衆が盛り上がるためだけに作り上げた確証もない噂にすがって、期待していたのか。
元々、ギルドから命令されて冒険団を組んだのだ。そこに優しさなんてないと分かっていた。
それでも、
「……エイルに、希望を抱いてたのか。極小の可能性にかけて…」
リンドも言っていた、『似てる』と。
なぜ昔の仲間の生き別れの姉にそこまで固執するのかは分からない。
何か思惑があるのか、それともマトゥル騎士団でただ一人生き残ってしまったことへの贖罪のためか。
それを知っているのはレイナだけ。
エアはただショックだった。
エイルに我が儘な願いを押し付けていたこと、利用していたことが。
「きっと、そう思いたかったのよ」
ポツリとシャルロットが呟いた。
「突然、大切な人がいなくなってしまったら……人はそう簡単には受け入れられないものよ。何年経ったとしても、その影を追い求めてしまう」
席を立ち、シャルロットは厨房へと姿を消した。
その背中は、とても寂しそうだった。
「ああ、俺もそうだったな。いつまでも、過去の鎖に囚われてる」
自分もそうだ。過去から一歩も前に進んでいない。
そんな自分にレイナを責める権利も、理由もない。
そして、エイルも過去に囚われたまま、冒険への夢を諦めるだろう。
「……俺ができること。それは、何だ……?」
頭の中の考えがぐちゃぐちゃして、うまくまとまらない。
いや、やらなければならないことは分かる。
行動に移す勇気と覚悟が決まらない。自分の言葉がエイルに届くのか分からないから、踏み出せない。
「俺は、エイルのことをよく知らない」
「──え?」
シャルロットと入れ替わるように、ナギが厨房の外に出ていた。
今まで一言もエアに言葉を発してこなかったナギの声を初めて聞いた。
その驚きでしばらく面食らっていたが、ナギは独り言のように言葉を続ける。
「でも、おまえと一緒に冒険に出掛けたエイルは楽しそうだった。無邪気で、夢を真っ直ぐ見つめていた」
思い返せば、エイルが冒険を語るときの瞳はいつも輝いていた。
臆病で、怖がりで、優しいくせに冒険に憧れていた少女。
きっと、冒険者になれて本当に嬉しかったのだろう。
「おまえはどう思った、エイルと一緒にいて楽しかったか?」
「それは……」
楽しかった、のだろうか。
少年にボコボコにされ、牢屋に入れられ、化け物と戦って、酒場でバイトして、部下に裏切られて、スライムに襲われて、聖水という毒液をかけられて、汚い神殿を掃除して──三人で帰って。
それは楽しいと思える、思い出となったのか。
「…当たり前だろ。あいつが言ってくれたんだ、俺となら楽しめるかもしれないって。怖いことも、不安なことも」
あの時、エイルが言った言葉。
きっとエイルは覚えていないけど、エアは絶対に忘れない。
本当に嬉しかったから、ここにいてもいいと存在を認められたみたいだったから。
「なら、言ってやれ。他でもない、おまえが言うだけで最高の褒め言葉になるんだ」
同情でも、慰めることでもない。
素直にエイルと冒険することが楽しかったと伝えればいいだけ。
不器用な男が、長い遠回りをして道を示した。
だから、ちゃんと言おう。
彼女との冒険譚を褒め称えよう。
「……まだ、俺は──」
エイルと冒険していたい、と。