40話 遅すぎる恐怖
朝からニップルに雨が降り注いでいた。
冷たい雨のせいで気温は下がり、一枚羽織っても寒さはしのげない。
雨風がギルドの窓を叩く。
もう昼過ぎだというのに、外は夜のように薄暗い。
「……ここにきて、エイル・ジェンナーが不調か」
レイナから提出された報告書を険しい目でレベリオが見つめる。
碧の瞳が文字を追うごとに額のシワが増え、目付きも険しくなる。
「シュヴァルドラゴと勝手に戦った上、血の魔法が暴走…。何か、言いたいことはあるかい?」
「…全て、私の監督が行き届かなかったせいです。エイルは何も……」
「エイル・ジェンナーには何の非もないと、言いたいのかね」
「………」
蝋燭の明かりが一つ灯っただけの暗い部屋の中、机に両肘をついたままレベリオがレイナを睨むように見つめる。
ギルドの長であるレベリオの威圧感に、レイナは返事もできずに俯いた。
「精神と肉体、この二つは不思議なバランスを保っていてね。どちらか一つでも劣れば、身体を害する」
小さくため息をつき、こめかみを指先で叩きながら、
「オドは精神の影響をよく受ける。敵意、不安、恐怖……負のエネルギーは特にだ。エイル君の中にあった、魔法に対する恐怖が何かの弾みで爆発してしまったと考えるのが妥当だろう」
「…はい」
「魔法の反動を考えていなかったわけではないが……まさか肉体的な疲労だけではなく、精神にまで干渉する魔法だとはね」
「……知っていたのですか?血の魔法を使うことが……何らかの副作用をもたらすことを」
レベリオの口振りは、いずれ血の魔法を使い続けたエイルに何かよくないことが起こることを予知していたように聞こえた。
「血の魔法を発動させたエイル君は、魔力の減りとオドの疲労が著しかった──君の報告を元に推測するなら、血の魔法は多くの魔力を消費する」
「……ええ」
レイナの脳裏に銭湯での出来事が浮かぶ。
魔法を使った後のエイルの様子。
細かくギルドに報告するために、銭湯での洗いっこを利用してエイルのオドの様子を調べたことは悪いと思っている。
しかし、これはレイナがエイルを監督するために提示された条件の一つだ。
魔法を徹底的に調べあげる、これはギルドの重大な任務であり、レイナが望んだことでもあった。
「精神の面まで考慮していなかったのは我々の落ち度だが…彼女の魔法は、術者の精神を確実に蝕む。そう遠くないうちに、魔力を暴走させるのは確定事項だった」
「っ!?だったら!」
書斎の机を思い切り叩き、レイナは声を張り上げた。
らしくないのはわかっている。
それでも、ギルドの対応はエイルには酷だ。
「明日のミッションを……取り消してください。今のエイルには…魔王軍と戦うなんて不可能です…!」
できるだけ冷静を装い、ミッションの取り消しを要求する。
気を失っていたレイナはよく知らないが、魔法の暴走があったことはエアとシフォカから聞かされていた。
ギルドの医務室のベッドで寝ていた自分の横で、真っ赤に染まった包帯に巻かれたリンド。
なぜリンドが標的になったのかは分からない。
分かるのは、リンドを傷つけたことがエイルの精神を破壊したこと。
もう、エイルには冒険に憧れていた時の面影なんて残っていない。
ただ、部屋の隅で己の魔法に怯えるだけ。
シャルロットの呼び掛けにも、エアやレイナのことすら拒絶してしまったエイルの姿は、暗闇に怯える子供のように弱々しかった。
そんな彼女を戦地に駆り出すなんて、誰にもできない。
目の前の男以外は。
「ここで諦めるなら、彼女の冒険心はその程度だった。それだけだ」
「───っ!!」
奥歯を必死に噛み、レベリオに吐きかけた暴言を飲み込む。
ギルドは絶対にエイルの後退を認めない。
何がなんでも彼女を復帰させるだろう。
その証拠に、
「エイル・ジェンナーの『故障』が酷いようなら、私が対応いたしますが」
レイナの後ろにギルドの赤毛の受付嬢クラーピスが立っていた。
完全に気配に気づけなかった。
ギルドの受付で振り撒いていた笑顔を消した無の表情は、人形のように冷たかった。
「……いらないわ。あなたの魔法はただの洗脳と拷問じゃない」
「私の専門は精神干渉魔法ですから」
レイナの皮肉にも反応せず、クラーピスは淡々とした態度で言葉を返した。
これがギルドの裏の顔。
魔王軍に抵抗するためなら、どんな手段も厭わない。
彼らは一人の少女の心と人間の未来なら、迷いなく人間の未来をとる。
その選択自体は間違っていない。
だが、簡単にはレイナだって納得できないのだ。
敵意を秘めた瞳でレベリオを睨み付けると、
「彼女の魔法に一般的な魔法の法則を当てはめていいのかは不明だ。そもそも、古代の魔法は現代の人間では発動させることは不可能な代物。彼女が使えることはおかしい」
「それが一体、今何の意味が──」
「先程、彼女の出身地のウラム村で有益な情報が見つかった」
「情報?」
「ああ。本当は極秘だが……君は血の魔法を誰よりも知りたがっている。それに、誰よりもその恐ろしさを知っている」
一瞬で敵対を解き、レベリオの言葉を食い入るように聞く。
そんなレイナの変わりように、レベリオは意味ありげに笑って、
「僕は君にこそ知る権利があると思っている。王家やディオネ教の連中よりも、ね」
「…………」
「ただし、知れば君はもう戻れない。エイル君を今までと同じようには見れなくなってしまう」
ずっと、知りたかった。
エイルと一緒にいたのだって、魔法を調べるためだった。
これまでの日々は、冒険は───所詮子供騙しのお遊びだったのだから。
迷う必要なんてない、エイルへの見方が変わっても、そんなの別にどうってことないのだ。
でも。
「君は、どうする?」