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ハートを撃ち抜いて

作者: 藤沢悠

久しぶりすぎて書き方を忘れてしまいました。

小説って難しい。

「ちょっと散らかっているのですが」

 

ちょっとなんぞと謙遜するには、僕が住むアパートのワンルームはあまりにも雑然としていた。

ソファやベッドにはワイシャツと白衣、学術書が散乱しているし、電灯の笠に積載された埃は指でなぞれば溶けかけのバターのようにこんもりと掬えるだろう。

ブラインドから闖入する午後の日差しに反射する無数の小さな糸くずがキラキラと輝きながら中空を漂っている。

最近、掃除したのはたしか一か月前だっただろうか。


玄関先で僕の両手にかかえられた先輩は「へえ!」とか「ほおん!」とか感嘆詞を漏らしている。軽蔑されると思ったが、彼女が清潔に頓着のない人でよかった。


「君は見た目と違って物ぐさなのだな!」


前言撤回である。先輩は言葉をオブラートに包めない性格だった。


「あまりじろじろ見ないでください」


僕は少しの苛立ちと恥ずかしさが混じった感情で、抱えている先輩の頭を左右に揺らした。


「わあっ! やめたまえ! 君のずぼらな部屋を私の吐瀉物で汚染することになるぞ!」


「吐ける臓器がないでしょう」


スニーカーを脱いで、散らかった衣服の上ごとソファに座る。

自分の太ももに乗せた先輩の頭は安定せずに転げ落ちてしまいそうだった。

危なっかしいので、机の上に放置したままの卵の黄身がこびりついた皿をどかして天板に先輩を慎重に置く。

生気が失せた青白い顔は美しく精巧な人形のようだと思った。


「なんだか晒し首みたいだな」


「みたいじゃなくて、正真正銘の晒し首ですよ」


現在、先輩は首から下が欠損している。

駅から大学までの道中にある交差点で彼女は不運にも信号無視の暴走トラックに衝突された。

僕もたまたま居合わせていたのだが、はじめて人間の四肢が吹き飛ぶ瞬間を目撃してしまった。

登校中だった多くの学生はもれなくトラウマを抱えて生きねばならない胸中をお察しするばかりである。


「いやはや、運よくキャッチしてくれたのが君でよかった」


「先輩じゃなかったら、放り投げてます」


先輩は「不幸中の幸いだな!」と笑う。

僕は呆れてしまって、自分の額を何度か擦った。


「これから、どうするつもりですか?」


「そうだな。実験は成功のようだから、君が研究を引き継ぐという体で助手になってもらおう。期待しているよ」


「助手、ですか」


僕は視線を外して、枕元に積み上がった学術書を見つめる。

先輩にとってこれまでの僕は研究室のいち後輩で、これからの僕は扱いやすい助手でしかない。

どんなに憧れて、どんなに好意を向けても、それ以上の関係になる望みはない。

先輩の生首が飛んできたとき、彼女を手に入れたと思って嬉しかった。

周囲で轟く絶叫と悲鳴が遠ざかって、ふたりだけの世界が広がっていた。


なぜ、先輩は目覚めてしまったのだ。実験なんか失敗してしまえばよかった。


「むむむ!」


突然、先輩は大きな瞳を見開いて慌てはじめた。ぶつぶつと呟きながら、激しくヘッドバンキングをするせいで、彼女の耳にかかっていた前髪が乱れて顔の上半分を覆い隠す。

実験成果の賜物と知らなければ卒倒しかねないホラーな光景である。


「さすがの僕も震え上がりそうなので落ち着いてください」


「なにを悠長な! 私のハートが天に召されつつあるのだぞ!」


想定外の出来事だったらしく先輩はしばらく喚くと意気消沈して大人しくなった。


おそらくハートとは魂のことで、天に召されるとは成仏することを示唆している。

ならば、今の先輩は意識だけが脳に残留している状態と推察できる。

なるほど、魂は頭部以外に宿るらしい。

学会最大の論争を繰り広げている魂の在処に終止符が打たれるかもしれない。


「こうして会話が成立しているのですから問題はないのでは?」


学術的な好奇心を抑えて先輩に質問をすると、彼女は深いため息を吐いた。


「君は乙女心のなんたるかを理解していないようだな」


「乙女心なんてファンシーな単語が飛び出してきたので心配になってきました」


「失敬なやつだな。君だって研究者の端くれならば、ハートと脳には切り離せない役割分担があるのを知っているはずだ」


「はあ、まあ」


ハート、もとい魂と脳はそれぞれ異なる思考回路が組まれている。

魂には欲望や衝動といった本性的な思考が、一方、脳には倫理や道徳といった理性的な思考をする。

例えば、「今日の昼食はカレーが食べたい」と思う。

これは魂による作用だ。

「でも、最近食べ過ぎてしまっているしサラダだけにしよう」と思い直す。

こちらは脳による作用だ。

魂からのオーダーを脳が精査し、適切な行動を促す仕組みになっている。


「問題は私が超理性的な人格に変貌してしまうことだ」


「僥倖じゃないですか。先輩は食べたいときに食べて、寝たいときに寝てしまう超本性的人格なのですから。滞っている研究も捗るってもんです」


「だから、君は乙女心のなんたるかを理解していないというのだ」


先輩はやれやれと二度目の深いため息を吐いた。


「もったいぶらずに教えてくださいよ」


「いいか、ハートを欲望だの衝動だのと定義するからややこしくなるのだ。ハートとは気持ちだ。感情なのだ。私は気持ちがなくなってしまうのがおそろしい。君を好きで好きでたまらない気持ちを認知しているだけで、ぞんざいに、粗末に扱ってしまうのがおそろしいのだ」


先輩は一息に語り終えると押し黙ってしまった。

午後の日差しは角度を変え、先輩の隣に置いてある牛乳が満たしていた分厚いガラス瓶を透かす。

薄い水色に照らされた彼女の頬を伝った一粒の雫が宝石のように煌いた。


僕の脳は機能不全を起こして、魂だけが目まぐるしい思考を巡らせてオーバーヒートの兆候を示していた。

胸の辺りが熱くなり、妙な高揚感に包まれる。


簡単なことだった。

僕はただハートのオーダー通りに行動をすればよかったのだ。

ときに理性は好機の障害になりうる。

たまには感情に従ってみるのも必要みたいだ。


「僕は先輩の研究は引き継げません」


「そうか……そうだな。勝手に横恋慕されて共に研究を進行できうるはずもない」


毅然としつつも、絞り出すようにか細く先輩は言った。


僕は「いいえ」と首を左右に振って、微笑んでみせる。


「僕のハートを先輩に半分差し上げる研究がしたいのです」


僕は先輩の顔を覆い隠す前髪を暖簾のように片手でかき分けて彼女の耳にかけた。

露わになった彼女の表情はきょとんと固まっていたが、次第に得心がいったのか「ならば、私が優秀な助手となるのもやぶさかではないな」と言って微笑み返した。


生涯の研究テーマが決まったものの、ひとつの杞憂があった。

僕のハートは先輩にあちこち撃ち抜かれてハチの巣状態である。


果たして、僕のハートはまだ半分も残っているのだろうか。


読んで頂きありがとうございました。

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