6 ファクティム
妹ルーミアと共にファクティムにやってきたマヤ・クフールツが、一人前の竜騎兵なるまでには、いくつかの「試練」を乗り越える必要があった。
実際のところ、マヤは山矢健太だったとき一介の高校生でしかなかったわけだし、また、竜騎兵への入隊も、竜の操縦テクニックが生かせそうだという安易な動機と、何となくヤグソフとやらに近づけそうだという漠然とした目的があったからに過ぎない。しかし言うまでもなく、彼女はこれから軍隊に入隊しようとしているのである。アクロバット飛行競技選手だったころは、飛行テクニックを磨きさえすればコーチや周りの人間が「ちやほや」してくれた、という面がないではなかった。そのうえ、彼女はそれまでアルバイトすらやったことがなかった。やや大袈裟な言い方かもしれないが、彼女の前には竜騎兵以前に、軍隊以前に、「世間」という壁が立ちはだかったのだった。それが彼女にとっての第一の試練だった。
上空からファクティム城を見下ろすと、城壁の内側にだだっ広い空き地のような場所があった。マヤはそれがいわば「竜のためのヘリポート」なのだろうと判断し、ピムをそこへ降下させた(後で聞いたことだが、そのような場所のことをこの世界では単に飛行場と言うらしい)。すぐさま背の低い、恐ろしく無愛想な中年男がやってきて、竜を待機させておくスペース──駐竜場──を指さし、ピムを移動するよう命じた。マヤは言われた通りにした後、これから自分はどこへゆけばよいのかとその男に尋ねた。ところが男はあからさまに面倒臭そうな顔をして城の建物の入口を顎で指し示しただけだった。マヤとルーミアは小声で礼を述べてから、不安をうち消し合うようにぴったりとお互いの肩を寄せて入口のほうへ歩いていった。
入口の前に立つ兵士には入口横の詰め所へ行くよう言われ、詰め所では文官と思しき男に入隊書類の提出を求められた。書類を提出した後、今度は椅子以外何もない個室に案内され、しばらく待つよう言われた。一時間近く経ってからやっと、これまた愛想のない中年の女官が現れた。彼女は自分の仕事の忙しさについてぶつぶつと不平をこぼしながら、二人を城のずっと奥のほうにある部屋へ連れてきた。部屋は二段ベッドが一つ置かれただけの粗末な二人部屋だった。女官は「この部屋があんたたちの部屋だ」と言って、しかめっ面のまま足早に去っていた。
マヤは不安で一杯の胸をおさえながらルーミアと顔を見合わせた。するとルーミアはちょっと苦笑いをして肩をすくめて見せた。「世間」ってこんなものよ──マヤは妹のその仕草がそんな意味合いを帯びているような気がした。ルーミアはすでに白魔道師として働いているのだから、たとえ年下でも、社会人としてはマヤより先輩ということになる。マヤはようやく、自分はクラブ活動のためにここに来たわけではないのだということを思い知った。
第二の試練──それを試練と呼ぶべきかどうかは別として──はそのあとすぐに訪れた。先ほどの女官が一抱えほどの大きさの箱を持って戻ってきて「これからすぐに入隊式がある。この箱の中に制服が一着入っているからそれに着替えて中庭へ向かえ」と言ったのである。
マヤは息つく暇さえない慌ただしさを嘆きながらも、受け取った箱を開き、中に入っている服を広げてみた。
「これが制服……」
彼女はしばし絶句した。それは確かに、軍人が公式の場で着るような制服だった。かつてアメリカに住んでいたとき、ニュースや、軍隊を舞台にした映画の中で何度も見たことがある。問題なのはその制服のうち、上半身に着るブレザーの腰の部分がくびれていることと、下半身に穿くものが二股に分かれていない──つまりズボンではない──ということだった。そう、それはれっきとした女物の制服だったのである。当然と言えば当然なのだが。
とはいえ、いつまでも絶句しているわけにはいかなかった。何事も初めが肝心、入隊式に遅刻するなどもってのほかである。女官が「サイズは大丈夫そうだね」と言って部屋を出て行った後、マヤは意を決してその制服を身につけ始めた。
ルーミアの手助けもあって、予想外に手際よく身につけることができたことはできたのだが、いかんせんマヤはスカートを穿き慣れていない。ましてやそれは、以前一度だけ着てみたワンピースと違い、丈が膝上までしかないタイトスカートなのである。そのうえ靴までパンプスとくれば、マヤにしてみれば、わざと自分を歩きにくくさせて面白がっているのではないか、などと思ってみたくもなる。
幸いにして、靴のヒールはそれほど高くなかった。マヤはルーミアに支えられながら部屋を出、足取りを確かめるように一歩一歩、廊下を踏みしめた。タイトスカートに邪魔をされて今までのように大股には歩けなかったものの、歩いているうちに、一歩を小さく取り足を素早く動かして歩くというコツを、すぐにつかむことができた。実際、それまでのマヤは、肉体や言葉遣いの女っぽさとは対照的に、仕草や振舞いはお世辞にも女性的とは言えなかった。しかしいまタイトスカートとパンプスをはいて小股に歩くマヤは、ルーミアが見る限り、ごく普通の、女性らしい女性だった。ちなみにルーミアには制服は与えられなかった。彼女はマヤの従者としてファクティムに来たに過ぎないのだから、正規の兵士と異なる扱いを受けるのはやむをえないことだった。
二人は廊下で人と出会うたびに道案内を乞いつつ、二十分もの時間を費やして、やっとの思いで中庭に辿り着いた。そこに待ち受けていた第三の試練は、マヤも今までに何度か経験したことのある、比較的ありふれた試練──すなわち人間関係──だった。
意外にも、中庭には数名の人間がたたずんでいるだけだった。「入隊式」と聞いて学校の入学式のような規模を想像していたマヤは、拍子抜けすると同時に、心の中にわだかまっていた不安感が少し薄らぐのを覚えた。
中庭の中央に突っ立っていた三名はマヤと同じ制服を着た女性だった。一人は背が高くて肌の浅黒い女、一人は色白でほっそりした女、もう一人はやや背の低い女だった。マヤは彼女たちに見覚えがあった。なぜなら彼女たちは、半月前、マヤがファクティム城から脱出した際にピムを追いかけてきた竜騎兵たちだったからである。一時的にせよ敵だった者たちを同僚としなければならないとは皮肉なものだが、マヤは意を決して彼女たちのほうへ歩み寄り、できるだけ愛想の良い笑顔で話しかけようとした。
しかし、マヤが近づいてくるのに気づいた途端、竜騎兵たちのうちの一人、背の高い女がいきなり
「整列せよーっ!」
と叫んだのだった。ハスキーだがとてもよく通る声だった。
すると、色白の女と背の低い女がマヤのほうを向いて横一列に並び、直立不動の姿勢をとった。一方、いま叫んだ背の高い女はマヤに背を向け、並んだ二名の前に立ってこれまた直立のまま微動だにしなくなった。
突然のことだったので、マヤは驚きのあまり足を止めてしまった。マヤに背を向けている女は、目が後ろについているかのように、振り向くことなくマヤの様子を察知し
「見習い竜騎兵マヤ・クフールツ。直ちに整列せよ」
と言った。今度は静かな口調だった。
マヤは不安で不安で仕方なかったが、取り敢えず言われたとおり、すでに並んでいる二名の横に立って「気をつけ」をした。
「入隊式」はまず隊長──状況から判断して背の高い女が隊長であることは間違いなさそうだった──に対する敬礼で始まった。次に隊長が、本日付けで新たな隊員が着任する旨を、たった二人、マヤを含めても三人しかいない隊員たちに報告した。続いて隊長は新入隊員マヤに自己紹介を命じてきた。マヤはぎこちなく簡単な自己紹介をしたが、隊員たちはみな、とても無愛想だった。
マヤは不安の極致に達していた。もしかしたら東洋人の自分はあまり歓迎されていないのだろうかと思った。それともこの間、ピムに撃墜されたことを恨んでいるのだろうか。中庭の隅で入隊式の様子を見守っているルーミアのほうに目をやると、彼女も心配そうにこちらを見つめている。マヤは、安易に軍隊への入隊を決めてしまったことを、すでに後悔し始めていた。
隊長は最後に「以上で入隊式を終わる」と言った。マヤはその場に居づらかったので、とにかくルーミアのもとへ向かうことにした。彼女なら自分のこの不安を少しでも和らげてくれるだろうと思ったからである。
ところが。
マヤが足を一歩踏み出そうとした途端、三人の竜騎兵たちは声を上げて笑い出した。マヤは自分が何かとんでもない間違いを犯したような気がして、不安げな表情で彼女たちの顔色をうかがった。
するとだしぬけに、隊長が馴れ馴れしくマヤの肩を抱きしめ
「いやあ、すまんすまん」
と言ったのだった。
「新入隊員をこうやって『歓迎』するのがこのファクティム竜騎兵隊のしきたりなんだよ」
「びっくりした?」背の低い竜騎兵が言葉を続けた。「あたしも二年前に入隊したときは不安で不安で泣きそうになったわ」
「心配しなくても大丈夫ですわよ」色白でほっそりした竜騎兵が言い足した。「わたくしたち歳は離れておりますけど、いつも友達みたいに和気あいあいとやっておりますから」
再び隊長が言った。「軍隊って言っても、竜を自由に操れる能力を持った女なんてそうたくさんはいないから、それなりに戦果さえ挙げていれば、軍のお偉いさんたちも、あたしたちに規律だとか秩序だとかそんなものを求めたりはしないのさ。気楽なもんだぜ」
マヤはそこでようやく笑顔を取り戻すことができた。
隊長はマヤの笑顔を確認すると
「あたしはラウラ・アガリカ。ラウラって呼べよ。『隊長』なんて堅っ苦しい呼び方で呼びやがったら承知しねえからな」
と自己紹介し、ガハガハ笑いながらマヤの体をぎゅうぎゅう抱きしめた。彼女はたぶんマヤより十才は年上だろう。姉御肌という言葉がぴったりの女性だった。
次に背の低い女が「あたしはサーラ・フィングステンよ」と、あどけない笑顔で言った。よく見ると彼女は、マヤよりも二つほど年下と思しき、幼い顔立ちをした少女だった。
続いて色白の女が「わたくしはオクタヴィ・アドレアーヌと申します」と言って、こちらは上品で清楚な微笑みをたたえた。口調がおっとりしていたため彼女が何歳ぐらいなのかわかりづらかったが、おそらく二十才前後だろうと思われた。
「さて」隊長は大きな手でマヤの背中をどんと叩き、言った。「こんなしゃっちょこばった制服なんかとっとと脱いじまって、早いとこ飛行服に着替えようぜ。着替え終わったらすぐに飛行訓練だ。この間、あたしたちプロの竜騎兵を撃墜したあの飛行テクニック、さっそく見せてくれよ」
それから一週間、マヤは毎日、竜騎兵としての訓練に明け暮れた。
彼女の飛行技術が他の隊員と比べてもずば抜けいるのは確かだったが、彼女の乗る竜が軍隊の一部として機能するには、やはり習得しなければならないことがいくつもあった──城から上がる狼煙の意味、同僚の竜騎兵が竜の体を使って送る合図の意味、編隊の基本的な陣形、所属不明の竜が飛行している場合どう扱うか、などなど。またラウラ隊長は、マヤに弓や剣術の訓練も課した。竜騎兵は竜を武器として使うだけでなく、自分自身が武器を持って戦わなければならないときもあるのだという。お陰でマヤは朝起きてから夜寝るまでほとんど休む間もなかった。
もっとも、それは彼女も覚悟の上だったので、辛くて耐えられないと思うようなことはなかった。むしろ彼女を悩ませたのは、竜で飛行する時に必ず着用することになっている飛行服だった。なぜなら飛行服は、いわゆる全身レオタードのように、布が体にぴったり張り付くデザインだったからである。最初のうち、男性兵士たちがすれ違いざまに彼女の体のラインをなめまわすように見つめるたびに、彼女はそれこそ顔から火が出そうなほど恥ずかしい思いをしたのだった。とは言え、空中で余分な布が風の抵抗を受けないという意味では、確かに飛行するのに最も適したデザインではあった。
一方、ルーミアはあまりやることがなかった。実戦に出ない限り、彼女の白魔法が威力を発揮することはないのだから無理からぬことではあった。彼女は仕方なく、マヤの身の回りの世話をしたりして過ごした。たまには魔法で他の竜騎兵や城に勤務する者たちの軽い怪我や病気を治療してあげたりすることもあった。
マヤはどの隊員ともうまくつきあっていたが、一番仲良くなれたのは、サーラという名の背の低い竜騎兵だった。彼女に親しみを覚えたのは、やはり彼女がまだ十四才ということで、歳が比較的近かったからであろう。彼女は毎夜、マヤにとって唯一の自由時間と言える就寝直前の時刻に、マヤの部屋におしゃべりをしに来た。そうしているうちに、サーラはマヤだけではなくルーミアとも仲が良くなった。ルーミアも彼女を妹のように可愛がった。
サーラはおしゃべりが大好きな娘だった。本当にいろいろな話をしてくれた。いまエラーニア王国はハバリア帝国竜騎兵隊に制空権を奪われており窮地に立たされている、といった軍事情勢から、自分はもうすぐ二年間の出征義務を終え故郷に帰ることができる、故郷で自分を待っている彼氏と再会できるのが楽しみだ、といったプライベートなことまで、ざっくばらんに話した。
「ねえ、マヤ、ルーミア。あなたたちにも彼氏はいるんでしょ?彼氏とはどこまで進んでいるの?あたしの彼なんか、出征前、キスしかしてくれなかったのよ」
マヤとルーミアはびっくりして異口同音に「それって二年前の話でしょ?」と訊き返した。
「ええ、そうよ。十二才の時の話」
それを聞いて、マヤは相良美玖との関係を、ルーミアはジュートの関係を思い起こし、自分がいかに奥手だったかを反省するはめになった。
マヤにとっての次なる試練は「予兆」と「本番」という二つの部分から成り立っていた。その「予兆」が訪れたのは、入隊してから一週間後の朝のことだった。
いつものようにマヤが訓練のために「飛行場」に顔を出すと、そこには背の高いラウラ隊長と背の低いサーラの姿はあったが、もう一人、色白でほっそりしたオクタヴィという隊員が来ていなかった。
折り目正しく几帳面な性格の彼女が単に寝坊して遅刻するとは思えなかったので、マヤはサーラに
「オクタヴィはどうしたの?」
と尋ねた。
するとサーラは珍しくぶっきらぼうに
「たぶん女の子の日」
と答えた。
そのアウスグ語の意味が全く分からなかったマヤは、しばらく考えた後、サーラにその意味を訊き返そうとした。ところが、その日たまたまマヤと一緒に飛行場に来ていたルーミアが、慌ててマヤとサーラの間に割り込んだ。マヤはますます訳がわからなくなってしまったが、ちょうどそのときラウラ隊長の「訓練を始めるぞ」という声がしたため、ルーミアにもサーラにも説明を求めることはできなかった。
ルーミアのその行動の意味が理解できたのは、その日の夜だった。おしゃべりに来ていたサーラがマヤたちの部屋を去った後、ベッドに潜り込もうとしたマヤをルーミアが、話があると言って呼び止めたのである。
「お姉ちゃん、最近、体の調子がどこかおかしい、なんてことはない?特にお腹のあたりとか……」
マヤはそう言われてやっと、かつて学校の保健の授業で習った、女性特有の現象のことを思い出した。
ルーミアは、マヤは生理についての漠然とした知識を持っているようだと判断し、敢えてやや医学的な側面から説明してあげることにした。
「月経周期は普通、二十八日から三十五日ぐらい、そして周期の長い短いに関係なく、次回月経開始予定日の約二週前に排卵があるの。つまり月経周期が長い人は月経開始日から次の排卵までの期間が長く、短い人はその逆ってことになるわけね。もちろん女の体は機械じゃないから、周期が長くなったり短くなったりすることもあるわ。
それと、何か重要なことが予定されている日と月経日が重ならないように魔法である程度遅らせることはできる。もっともあまりやりすぎると体に良くないけど。
でね、お姉ちゃんは不動の術を解かれてからそろそろ一ヶ月経つでしょ?男の魂から女の体を再生したお姉ちゃんのような場合どうなるのかよくわからないけど……いろいろと精神的なストレスもあったから多少遅れても不思議はないと思う」
マヤはその話を聞いてやるせない気持ちになった。とはいえ、それは女である以上避けることのできない運命なのである。ルーミアだってサーラだってオクタヴィだって、おそらくラウラ隊長だってみんな経験していることなのである。マヤは覚悟を決め、すでに何回も経験しているであろう妹に、実際にそれが起こった場合どうすればよいのか尋ねた。するとルーミアは生理用ナプキンの使い方を懇切丁寧に教えてくれた。もちろんこの世界では吸水性ポリマーなどという化学物質の合成方法は発見されていない。ナプキンは当然、布製であり、それを煮沸消毒して何度も使うのだという。
その次の試練は、先ほどの試練の「本番」と渾然一体となって現れた。マヤがファクティムに着任してからちょうど二週間後に訪れたその試練は、彼女の人生の中で最も重苦しい記憶の一つとして残ることになる、重大な試練だった。
それまでの間、マヤたちファクティム竜騎兵隊は相変わらず訓練の毎日だった。そもそもこの竜騎兵隊は前線から遠く離れたところに駐留する、いわば予備部隊に過ぎない。いくらエラーニアの防空網が弱体化して穴だらけだと言っても、こんな南の地方にまで敵の竜騎兵が飛んでくることはさすがに困難だし、またそんな危険を冒すメリットも通常はなかったのである。
「もっとも」ラウラ隊長は言った。「またヤグソフ四姉妹のニーナがこの間のように防空網を突破してくる可能性はあるな」
彼女をはじめ竜騎兵隊の面々は、先日、ニーナたちがアヴニ村上空に来襲した際、自分たちが駆けつける前に、当時民間人だったマヤが撃退してしまったことも、ニーナたちの目的が男の竜騎兵を見つけることだったということも、マヤからの報告を受けて知っていた。しかしラウラ隊長にも他の竜騎兵隊員にも、マヤが一番知りたいと思っていること──ニーナたちが男の竜騎兵を見つけてどうするつもりなのか──はわからないらしかった。
「試練」が訪れることになるその日の朝、ラウラ隊長は訓練の開始時刻に飛行服姿ではなく、ゆったりとしたズボンをはいて飛行場に現れた。マヤはもうその理由を誰かに尋ねたりはしなかった。全身レオタードのようなあの飛行服の下にナプキンを付けるのは無理がある。仮にできたとしても、激しく体を動かさなければならない飛行訓練に参加するのは困難だろう。
案の定、隊長はその日の訓練では竜に乗らず、地上から指示を与えるだけだった。
空中で、サーラは自分の竜を、マヤの操るピムに寄せ
「なんか訓練に身が入らないわね」
と言って苦笑した。
隊長みずからが陣頭で指揮を執るのと執らないのとでは、士気に差が生じるのもやむをえない、とマヤは思った。
「ラウラあってのファクティム竜騎兵隊だもんね」
マヤがそう応えると、オクタヴィも竜を近づけてきて冗談交じりに
「これが実戦でなく訓練でよかったですわね。もしいま敵が攻めてきたりしたら、なんて思うとぞっとしますわ」
と言った。
ところが、オクタヴィのその悲観的な推測は見事に現実のものになってしまったのである。
「所属不明の竜の編隊を発見!」
物見の塔の頂上で上空を監視していた兵の叫び声と共に、ファクティム城に臨戦態勢がしかれ、ただちに竜騎兵隊にスクランブル指令が下された。
このような非常事態においては、たとえ生理中であってもラウラ隊長が指揮を執らねばならないのだが、そのとき彼女はたまたま飛行場にいなかった。自室のトイレかどこかでナプキンを換えているのかもしれない。そこで竜騎兵隊の指揮は一時的に年長のオクタヴィの手に委ねられることになった。
「いきますわよ」
彼女のかけ声を合図に、ファクティム竜騎兵隊は、所属不明の竜の編隊が発見されたという東の方向へと飛び立った。
ファクティム東方の上空を漂っていたのは、七匹からなる編隊だった。マヤはすぐ、それらの竜が、先日アヴニ村上空で接触した竜と同じ装甲を身にまとっていることに気づいた。操縦する竜騎兵たちもそのときと同じ飛行服を着ている。しかも編隊の指揮官と思しき人物もまた、先日と同様、薄緑色の派手な飛行服に身を包んでいた。ヤグソフ四姉妹の末妹、少女竜騎兵ニーナに間違いなかった。
前回と違っていたのは、マヤが近づいてくるのを察知しても、相手の竜騎兵たちはわざわざ包囲して身分を確かめたりはしなかった、という点である。つまり、いきなり攻撃態勢をとったのだった。今回、マヤの乗るピムはエラーニア王国軍の紋章を首に付けている。しかも同じ紋章を付けた竜を二匹従えている。相手から見ればマヤたちが敵国エラーニアの正規軍であることは一目瞭然だったのである。
空中戦が始まった。とはいえ相手は精鋭装甲竜騎兵、こちらは実戦の機会の少ない予備部隊、数的にも半分以下で、おまけに隊長不在。これでは最初から勝負にならなかった。
臨時指揮官オクタヴィはすぐさま撤退を指示した。こちらは装甲を付けていないぶん身軽なので逃げ切れると踏んだのである。しかし相手の竜たちは重い装甲を背負っているとは思えない速度でマヤたちの編隊に追いつき、一番後方を飛んでいたサーラの乗る竜にいっせいに襲いかかったのだった。
「サーラ!」
マヤは叫び声をあげながら、直ちにピムの体を、サーラの竜に取り付こうとしている敵の竜にぶつけた。ダメージこそ与えられなかったが、サーラを危機から救うのには十分だった。
「ありがとう、マヤ」
サーラは竜の背中でそう叫び、小さく手を振った。
その後もピムは健闘した。敵の放った矢が一本、体に突き刺さったのにもかかわらず、マヤの制御を失わなかったばかりか、敵の竜三匹にダメージを与え、うち二匹を戦闘不能に陥らせた。マヤの活躍に勇気づけられて、サーラとオクタヴィも反撃に転じ、マヤがダメージを与えた一匹を戦闘不能にまで至らしめるという戦果を挙げた。
いまファクティム城からラウラ隊長の竜が遅ればせながら飛び立つのが見えた。これで四対四の互角となる。マヤたちは逃亡をやめて竜の向きを変えた。
相手の装甲竜たちはそれでもひるむことなくマヤたちの前に立ちはだかった。ニーナに至ってはマヤに話しかけるほどの余裕を見せた。
「おまえは、この間アヴニ村上空で我らと戦った女だな。竜騎兵隊に入っていたとはな」
マヤは彼女を睨み付け
「あなたたち、また男の竜騎兵を捜しているのね。男の竜騎兵を見つけて一体どうするつもりなの!?」
と声を張り上げた。
ニーナは応えた。「敵であるおまえにそんなことを喋ってしまうほど我はお人好しではない。が、今日のところはひきあげることとしよう。戦力を失いすぎた。もっとも……」彼女はそこで不敵な笑みを浮かべ、部下の竜騎兵たちに目配せをした。「手ぶらで帰るわけにも行かないので、一つだけ戦果を挙げさせていただく」
その言葉が終わるか終わらないうちに、敵の装甲竜たちはいっせいに散開した。
「しまった!」
マヤがそう思ったときにはもう遅かった。一旦散開した四匹の装甲竜たちはあっという間にサーラの乗った竜を上下左右から取り囲み、同時に攻撃を加えたのだった。
「きゃーっ!」
サーラの口から金属を切り裂いたような声があがった。
その次の瞬間の光景は、マヤの目にはスローモーションのように映った──敵の竜のふるった尻尾がサーラを直撃する。彼女は気を失い、空中に投げ出される。そしてダメージを受けた彼女の竜もろとも、彼女の体は重力に任せて落下を始める──
「サーラ!」
マヤは叫び声をあげたがその声はサーラに届かなかった。
すぐさまピムに、落下するサーラの体を追いかけるよう命じた。とはいえピムにはジェットエンジンがついているわけではない。自由落下以上の速度が出るはずないのである。マヤの視界の中でサーラの体はどんどん小さくなってゆき、やがてファクティム城近くの森の中へと消えた。
そのときには、すでにニーナたちは北の空へ飛び去っており、またラウラ隊長の乗った竜もマヤたちのいた空域に到達していたが、マヤはそんなことには目もくれず、ピムにファクティム城へ帰還するよう命じた。そしてピムから飛び降りるや否や、自室にたたずむルーミアのもとを訪れ、乱暴にその手を引いてファクティムの城門を出、森へ向かい、サーラの落下地点まで彼女を連れてきた。マヤに命じられるまま、ルーミアは冷たくなったサーラの体の前で再生の術の呪文を唱えた。だが彼女の魂はすでにこの世になかった。
マヤはその場でがっくりと膝をついた。悲しいのになぜか涙は出なかった。
その日の昼以降、マヤは自室に閉じこもった。サーラの死にショックを受けたのはもちろんだが、それに追い打ちをかけるように、彼女にとって初めての生理が始まったからである。夜、ルーミアは再生の術で魔力を使いすぎたためいつもより早くベッドに入ってしまった。マヤは同僚を失った心の痛みと生理による下腹部の痛み、その両方に、たった一人で耐えなければならなかった。
マヤが竜騎兵として一人前になるために乗り越えなければならなかった最後の試練、それは先ほどの試練と密接な関連があった。いや、マヤ自身が関連づけた、と言ってもよいかもしれない。
ファクティムに来てから一ヶ月が経っていた。マヤはその日、正式に「竜騎兵」としての辞令を受けた。それまでの「見習い竜騎兵」という身分から昇進したのである。もちろん通常は一ヶ月で正規隊員になるなどということはできない。彼女の飛行技術が桁外れだったことに加え、慢性的な竜騎兵不足を補うための戦時特例措置による、例外的な昇進であった。
エラン文字で書かれた辞令交付書を見つめているうちに、マヤは心がちくちくと痛むのを感じ始めた。本来なら自分が正規の竜騎兵に昇進するのと入れ替えに、サーラが出征義務を解かれ、故郷に帰ることができたのである。その心の痛みは悲しみによる痛みであったが、同時に、同僚を救えなかったことに対する自責の痛みでもあり、同僚を死に追いやった敵に対する、張り裂けそうな憎悪の痛みでもあった。
日々の生活は、相変わらず飛行訓練の繰り返しだった。暇を持て余したルーミアは、二日間だけだったが、アヴニ村に帰省した。ファクティムからアヴニ村までは馬なら六時間、歩いても十二時間ほどの距離でしかない。彼女がマヤへの土産話を持って嬉しそうにファクティムに帰って来たのを見ると、マヤも養父が恋しくなった。アヴニ村へはピムにのってゆけばわずか三十分しかかからない。竜騎兵としての仕事に慣れたらそのうち休みを取って自分も一度帰省しよう、などと考え始めた。
そんなある日、またも所属不明の竜の編隊が、ファクティム城を中心とするアウスゲント地方上空に姿を見せた、という報告が入った。
当然の如く、ファクティム竜騎兵隊にスクランブル命令が下った。今回はラウラ隊長もオクタヴィ隊員もいつでも出撃できる体勢にあった。
「出撃!」
隊長の号令一下、三匹の竜は大空へと舞い上がった。
頬をなでる風が冷たかった。季節は初秋から中秋へと向かおうとしている。マヤはこちらの世界に来て初めて、季節の移り変わりを意識した。エラーニア王国は緯度の高い地域に位置し、しかもこのアウスゲント地方が高原になっているため、夏の間、さほど暑くなかったのである。もちろん、女になってしまったり竜騎兵隊に入隊したりと、矢継ぎ早にいろいろな事件が起こったため季節など感じている暇がなかった、というのが一番大きな理由ではあった。
やがて、前方の空に、握り飯の上にふった黒ゴマのようなものが見えてきた。その数は前回と同じ、七つ。
ラウラはそこでマヤとオクタヴィに一旦、竜の速度を落とすよう命じた。もし相手がこの前と同様、ニーナ率いる精鋭装甲竜騎兵だったとしたら、数的にも質的にもこちらが劣っていることになる。隊長としてしかるべき判断だった。
マヤたちはしばらくの間、相手の出方をうかがった。しかし相手はこちらに向かってくることも、逆に遠ざかろうとすることもなく、マヤたちから見て左から右方向へ、ゆっくりとしたペースで飛行を続けている。目的地に向かっているというよりは、そこを飛行すること自体が目的のように見える。例えば何かを探しているときのように……。
マヤは思った。あれがもしニーナたちだったとして、その目的が「男の竜騎兵」を探すことだったして、彼女たちは上空からどうやって一人の人間を見つけるつもりなのだろう。上空からでも特定の人物が見つけだせる何か特別な方法が彼女たちにはあるのだろうか。
そのとき突然、マヤの視界の中で「黒ゴマ」の動きが慌ただしくなった。
「来るぞ!」
ファクティム竜騎兵隊の中で一番視力のよいラウラが、真っ先に敵の動きの意味を察知し、そう叫んだ。
先程まで黒ゴマほどの大きさだったものがあっという間に碁石ほどになった。大きくなるにつれ、マヤの目にもその一つ一つが、細部にいたるまで認識できるようになった。翼と胴体の一部、それと頭部全体を覆う装甲の形状は、やはり彼女にとって見覚えのあるものだった。そして横一列に並んだ七匹編隊の真ん中に位置する竜の背には、ひときわ目立つ薄緑色の衣装を身にまとった竜騎兵の姿があった。
「ニーナ……」
マヤは歯ぎしりをしながらそう呟いた。たちまち彼女の全身が憎悪ではちきれそうになる。
オクタヴィはマヤの様子にいち早く気づき
「マヤ、冷静にならなくてはいけませんわよ!」
と声を張り上げた。
マヤは何とか自制心を保とうとした。しかし、敵編隊の中央でニーナがにたにたとにやけているのが目に入った途端、彼女の憎悪は遂に爆発してしまったのだった。
「マヤ、よせ!」
ラウラの制止する声は、もう彼女の耳には届かなかった。
ピムは立て続けに三匹の敵を蹴散らした。これには敵だけではなく、味方であるラウラとオクタヴィさえも、驚愕せざるを得なかった。いや、驚愕というより恐怖と言ったほうがよいかもしれない。
勢いづいたマヤは更に、ラウラとオクタヴィと共に、残りの四匹の敵のうち三匹に手傷を負わせた。それでも精鋭装甲竜騎兵たちは、苦痛を訴えもがく竜を巧みに操って、自ら楯となるべく、ニーナ隊長の乗る竜の周りにぴったり貼り付いた。しかしもはや大勢は決していた。
ラウラ隊長の放った矢が敵の二匹の竜の腹に一本ずつ命中した。腹にダメージを喰らった二匹は撤退し、ついに隊長を守る「楯」は一枚となった。
ラウラはマヤとオクタヴィに、残る二匹の敵竜をがっちり包囲させた後、ニーナともう一人の敵竜騎兵に捕虜になるよう勧告した。さすがのニーナも悔しさを表情ににじませた。
と、その途端。
いきなりもう一人の敵竜騎兵が、手負いの竜の背中からピムの背中へと跳び移ってきた。
敵兵がこのような行動に出ることなど予想だにしていなかったマヤは、完全に不意を突かれた。敵兵はハバリア語で何か叫びながら、世にも恐ろしい形相でマヤの体に掴み掛かってきた。マヤは恐怖にかられ、それこそ無我夢中で敵の腕を降りほどこうとした。
マヤが体を激しく揺さぶった拍子に、彼女を組み止めていた敵兵の腕がすぽっと外れた。敵兵はバランスを失ってピムの背中から転がり落ちた。
「あっ」
マヤはそのとき初めて気づいた。敵の竜騎兵が、サーラとそれほど歳の違わない、あどけない少女だということに。
敵兵の体は風にあおられたのか、一瞬ふわっと浮き上がったように見えたが、次の瞬間には自由落下を開始した。数秒後、その体が地面に激しくたたきつけられるのが、上空からでもはっきりと見てとれた。
気が付くと、辺りにはラウラ隊長とオクタヴィの乗った竜と主を失った竜の姿しか見当たらなかった。ニーナはマヤが格闘している間にピムが制御不能になったのを見計らって包囲の輪を抜け、飛び去ったのだった。
今、一陣の秋風が、さっきまで戦闘空域だった空を吹き抜け、激戦で火照ったマヤの体を撫でた。冷たかった。しかしマヤは、その秋風よりももっと冷たい、もっと空虚な何かが、自分の心の中にあるのを感じた。