2 マキナスの森
その日、アヴニ村近郊のその地点から見上げた空は、真っ青に晴れ渡っていた。
いつもはやや霞がかって見えるその空も、近隣の山々から流れてくる湿気が、真冬の再来かと思われる冷気によって流されてしまったせいか、その青色の鮮やかさだけが強調されて見えた。まさに「春爛漫」などという使い古された言葉を実感せざるを得ない、そんな空模様だった。
とは言え、その日の空は魔道学で言うところのいわゆる快晴ではなかった。なぜなら、ほんの2つ、3つではあったが、白い綿雲が空の片隅から中央へと、時ならぬ寒風に吹かれて漂っていたからである。
その場所の周囲には、あまり樹木が立て込んでいない。立っていたとしてもまだほとんど葉を付けていない。だからひとたび空を見上げれば、その視界には、吸い込まれそうな青空と、雄大な白い雲の見事な競演しか目に入らなくなる。
また、川のせせらぎからも離れているため、水が岩の間を流れ落ちる音や、村の女たちが洗濯がてら発する陽気な話し声に聴覚を邪魔されることもなかった。耳に聞こえてくるのは、カッコーの巣で小鳥たちがたてる、かすかなさえずり声だけだった。
いや、違う。
よく耳を澄ますと、ごく小さくだが、どこからか低い唸り声のような音が聞こえてくる。
しかも、だんだん大きくなってゆく。
大きくなるにつれ、その音がどこから発されたものであるか、明瞭に知覚されるようになった。それは、西の方向、しかもやや上方から聞こえてくる音であった。
ふと西の空に目をやると、先程まで白い綿雲が陣取っていた空を、一筋の赤い矢のようなものが切り裂いていた。
もちろん、本物の矢ではなかった。なぜならその赤い一筋は弓から放たれたかのようにまっすぐ的をめがけて飛んでいるわけではなく、むしろ、親鳥から飛び方を教わったばかりの小鳥のように、ふらふらと危なっかしい軌跡を描いていたからである。
「あれは……?」
言葉を発したのは、白魔道士と思しき少女だった。
「竜騎兵……」
問いに答えたのは、少女自身だった。と言うより、その場には彼女一人しかいなかった。
「こんな田舎に竜騎兵が現れるなんて……珍しいわね……」彼女は独り言を続けた。「ここもそのうち戦場になるのかしら……」
やがてその危なっかしい赤い一筋は、ぐにゃりとぎこちなく向きを変え、少女の立っている場所へ向かって降下を始めた。
「こっちへ来る……。アヴニ村に用があるのかしら」
その途端。
「あっ」
その赤い物体から黒い煙が上がった。よく見ると、その物体は頭と思しき部分を下に向けていないばかりか、むちゃくちゃに回転しながら高度を下げつつあったのである。
「降下じゃない。墜落しているんだわ!」
そう叫ぶや否や、彼女は脱兎の如く走り出した。
彼女の推測によれば、その物体はおそらく村の向こう側、マキナスの森の辺りに落ちるはずだった。
彼女は一目散に村へ駆け戻った。
村ではすでに、異常事態を察知した村人たちが多数、広場や街路に出て西の方向を仰ぎ見ていた。
「お父さん!」
少女は、村人の群の中に自分の父親を見つけ、そう叫んだ。
「ルーミア!」父親はそう言って少女に一瞥をくれたが、すぐに赤い物体のほうへ目を戻した。
ルーミアと呼ばれた少女は「竜騎兵の乗った竜が墜落するわ」と言い残して駆け足のまま父のそばを通過した。
「わかった、お父さんもすぐ行く。おい、ルーミア、待て、危ないぞ……」ルーミアが足を止めなかったため、父親の声は背後でフェードアウトしていった。
彼女が反対側の村の出口を出、マキナスの森の入口に達したとき、地響きと共にどーんと大きな音がした。
「泉の近くに落ちたみたいだわ」
アヴニ村の村民にとって、マキナスの森は食糧の供給源であり、憩いの場であり、子供の遊び場でもあった。自分の家の裏庭と同じくらいマキナスの森を知っていた。ルーミアの足は、ルーミア自身が知覚するよりも前に泉への最短進路をとっていた。
しかし彼女は、泉があったはずの場所に彼女の知っている光景を発見することができなかった。
「すごい火……」
彼女の足は、山のように巨大な炎の前で、すくんで動かなくなってしまった。
火の周りでは、彼女に先んじていた勇気ある若者たちが、すでに消火活動を開始していた。ある者は人手の不足を、ある者は泉の水を汲み出す桶の不足を、ある者は森の樹木へ引火することの危険性を叫びながら、まさに決死の覚悟で炎と格闘していた。
そこへ、数人の男たちと共にルーミアの父親が追いついてきた。
「ルーミア!」父は、身をこわばらせているルーミアの肩を抱き、火から遠ざけようとした。「危ないからルーミアは村へ戻れ」
「お父さん」
「あの火は油が燃えている火だ。きっと敵の城に火をかけるつもりで油をたくさん積んでいたのだろう」
「油?」
「そうだ。油の中には爆発する種類のものもある。そうなったら辺り一帯は火の海だ。早く戻れ、ルーミア」
そう言っているうちにもルーミアの父は2歩3歩とルーミアを火から遠ざけていた。
そのときルーミアは見た。炎の中で人の形をした物が、ばさっと崩れ落ちるのを。
「お父さん、人!」
父は炎には一瞥もくれず、更に5歩6歩と我が娘を後退させた。「あの竜騎兵には可哀想だがあれだけ炎が強くては骨の髄まで黒焦げになるだろう。もはやおまえが『再生の術』を用いたとしても助からん」
突然、ルーミアは
「だめ!」
と叫んだ。
「あたしが助ける!」
父は文字通りびっくり仰天してしまった。「何を言い出すんだ、ルーミア。爆発するかもしれないんだぞ。火の海になるんだぞ。向こうを助けるとか言う前にこっちが助からないかもしれないんだぞ」
ルーミアは激しく首を振った。「あたし、お母さんの命を病気から救ってあげることができなかった。ずっと悩んでいたの。これじゃ何のために白魔道士になったのかわからないって。お願い、お父さん、助けに行かせて。あたしこれ以上人が死ぬのを見たくない」
「ルーミア……」父親はこれ以上止めても無駄であることを悟った。「わかった、ルーミア。一緒に火を消そう。1分でも1秒でも早く火を消せば、残った魂のかけらからあの竜騎兵の肉体を再生できるかもしれない」
「ありがとう、お父さん」ルーミアは父親の腕をふりほどき燃えさかる炎へ向かって駆けだしていった。
父もそのあとに続いた。
魔法が使える彼ら父娘の仕事は、念動力で複数の桶をいっぺんに操って泉から水をすくい、その一部を若者が腕力で運ぶのに委ね、残りをそのまま念動力で炎にぶちまけることだった。
父は思った。我が娘はいつの間にこんなに責任感の強い人間になったのだろう。ついこの間まで、人見知りする、気の弱い小さな子供にすぎないと思っていたのに。それに引き替え、人の命を救うという本来の仕事を放棄して真っ先に逃げようとした自分は白魔道士失格だ。もし万が一のことがあったらこの命に代えても娘のことを守ってやろう、と。
その後数時間に渡って、アヴニの村民たちは炎との死闘を繰り広げた。
夢には2種類ある。
一つは現実に起こったことを回想する夢、ないしありふれた日常の光景を見る夢。
もう一つは全く起こりそうにない、非現実的な光景を映す夢である。
山矢健太がそのとき見ていた夢は前者、それも現実に起こったことをVTRのように忠実に再生する夢であった。
夢の中で、彼は愛機である真っ赤な複葉機の操縦席に座っていた。目の前にはコーチの顔、次に誰かが出発の合図をする光景が映し出された。
──そうだ。俺はいまアクロバット飛行競技会の演技を始めるところなんだ──
彼がペダルを踏み操縦桿を引くと、彼の愛機は軽やかに大空へ舞い上がった。
機体のコンディションは完璧、体調も万全だった。程良い緊張感が集中力を高める役割を果たしていた。
そしてその精神の真ん中には闘志が、静かに激しく燃えていた。
更にその奥、彼の本能が存在する部分に、もっと根元的な、別の感情が陣取っていた。もちろんその感情が集中力や闘志を邪魔することはなかった。むしろ彼の心身にエネルギーを注ぎ込んでいるようにすら感じられた。
彼は不思議だった。今までこんな気分になったことはなかった。と言うより、このような感情は肉体的にも精神的にも妨げにしかならないだろうと想像していた。
ふと、彼は胸に何かがぶら下がっていることに気づいた。
──ペンダント──
そう、複葉機に乗る前に誰かに言われて首に掛けたのだった。誰に言われたのか今は思い出せない。
彼は演技のための十分な高度を確保するために愛機をどんどん上昇させていった。もちろん上昇と言っても、地上にいる観客や審査員が演技を見られる高度までである。その程度の高さでは、空気が薄くなって息苦しくなるなどということもないはずである。
なのにどういう訳か、彼は息苦しさを覚えていた。
──どうしてこんなに息苦しいのだろう──
すると彼の心の奥底から、聞き覚えのあるようなないような声が囁きかけた。
《ペンダントを外して》
──そうか、息苦しさの原因はこのペンダントか──彼は声の命ずるまま、ペンダントを右手でひっ掴み、首から取り去った。
と、突然。
右手の中でペンダントが紫色の光を強烈に放ち始めた。
──なんだこれは?!──
次の瞬間、彼の目の前の青空が裂け、どす黒い割れ目が現れた。
彼は身の危険を感じ、その得体の知れない割れ目を避けるため操縦桿を右へ倒そうとした。
──操縦桿が動かない!──
彼の愛機はすでに前方に進むことさえやめていた。右とも左とも上とも下ともわからない方向へ、とてつもなく強大な力で引っ張られていたのである。
──ぐわああああぁぁぁぁっ──
割れ目から噴出した真っ黒いもやのような物が彼の体を包み込んだ。やがて彼の肉体から徐々に感覚が失われていった。
もやのような物は、次に彼の精神を浸食し始めた。だんだん意識が遠のいて行く。
彼の脳裏からすべての感覚とすべての記憶とすべての感情が消えつつあった。
意識を完全に失う直前、精神の中に最後に残されていたものが実体となって見えた。それは見覚えのある顔だった。
──相良……美玖……──
そこで彼の意識はすっぽりと黒いもやの中に埋没してしまった。
山矢が意識を取り戻したとき、彼はまだ暗闇の中にいた。
一瞬、まだあの黒いもやの中にいるのか思い、叫びだしそうになった。彼をパニックに陥る一歩手前で引き戻したのは、遠くから聞こえてくる、朗らかなカッコーの鳴き声だった。
聴覚によって、取り敢えず自分があの忌まわしい黒いもやの中にいるわけではないことを理解すると、彼の関心は視覚のほうへ移った。
しかし、目を覆っていると思われる何かを取り払うために本能的に手を動かそうとした瞬間、彼の精神は新たなパニックを引き起こしそうになった。
──手が動かない──
手だけではなかった。腕も肩も、膝も足も、首も唇も、いやうめき声を上げるために喉や舌を動かすことも息を送り込むこともできなかったのである。
彼は心の中で声にならない叫び声をあげてわめいた。しかし、心をどんなに大きく揺さぶってみたところで、彼の肉体は1ミリの100分の1すら動かなかった。ショックのあまり彼の精神は崩壊寸前かと思われるところまで興奮の高みに上り詰めた。
ふと、そのとき。
彼は、鈴を鳴らしたような優しい柔らかい音色を聞いた。
最初それが何の音なのかわからなかった。やがて落ち着きを取り戻すと、それがどうやら人の声──恐らくは若い女の声──だと理解できるようになった。
次に女が声を発したとき、山矢はその声が何と言っているのか理解しようと耳を澄ませた。
彼は小さい頃から言葉に苦労させられていた。両親の仕事の関係でアメリカに移り住んだときは英語に悩まされ、帰国してからは日本語に悩まされた。そう言う経験があったから、彼は相手の言っていることが理解できない場合、それは相手のしゃべり方の問題ではなく、自分の聞き取り能力の欠如によるものだと考える癖がついていたのだった。
ところが女の発した音声は、彼の脳裏にあるいかなる単語とも──英単語とも日本語の単語とも──符合しなかったのである。
声のほうはわからなかったが、彼女の発した足音が彼のすぐそばまで近づいてきたことはわかった。続いて、彼女が彼に覆い被さるような体勢を取り、体のあちこちをいじっているらしいことも理解できた。幸いにして、感覚神経のほうは手や足の先を除けばほとんど問題ないらしかった。
女がまた何か言った。改めて聴覚を研ぎ澄ませてみたが、やはり理解できなかった。
そのうち女は彼の目の辺りをさわり始めた。目の周りの皮膚感覚から判断すると、どうやら目の周りに包帯が巻かれているらしかった。いや、目の周りだけではなかった。全身の皮膚感覚を最大限に動員して感知したところによれば、彼は頭のてっぺんから足の先まで包帯でぐるぐる巻きにされているようだった。
そこで女の足音は一旦、彼のそばを離れた。そのときにも2言3言喋ったようだったがもちろん山矢に理解はできなかった。
山矢はふと考えた。女の話す言葉、よく聞くとポリネシア系の人たちが話す言葉に似ていなこともない。両親と共にハワイを訪れたとき聞いたことがある。もしかしたら自分は何かの事故に巻き込まれて太平洋に墜落し、そのまま南の島にまで流されてしまったのではないだろうか。
その次に聞こえてきた音はカーテンを閉めるような音と、再び女が近づいてくる音だった。引き続き、女の手が彼の目の周りをまさぐる感覚が伝わる。彼女が目を覆う包帯をほどこうとしているのは間違いなかった。
遂に包帯は解かれた。瞼が周囲のひんやりした空気に触れた。しかし山矢はそれで見えるようになるとは考えていなかった。瞼も眼球も自分の思い通りに動いてくれないことは、先ほど嫌と言うほど思い知らされたからである。
ところが、女が手のひらを彼の目に当て、口の中で経文のようなものをぶつぶつ呟くと、だんだん目の周りが温かくなり、こわばっていた神経が、ピザの上のチーズのように、柔らかく溶け出していったのである。
女が何か言った。恐らく目を開けて見ろ、という意味なのだろう。言葉ではなく彼女の心が伝わってきた。そんな気がした。
山矢はゆっくり目を開けた。目の前には、ヨーロッパ人ふうの顔をした少女が自分を見つめながら微笑んでいる光景が映し出された。
ルーミアが墜落現場で助けた竜騎兵と思しき人物は、順調に回復しているようだった。
ほとんど完全に肉体が焼け焦げてしまった状態からわずか1ヶ月後に意識が回復するまでになったのは、ひとえにルーミアの父の白魔道治療のたまものだった。少なくともルーミアはそう考えていた。父は、ルーミアのかけた再生の術が素晴らしかったからだと珍しくルーミアを褒めた。でもルーミア自身は自分など亡き母の足下にも及ばないと思っていた。
肉体的な回復の順調さとは裏腹に、医術に携わる者のもう一つの務めである患者の精神的なケアのほうは、あまり芳しいとは言えなかった。なぜならその患者には言葉が全く通じなかったからである。
ルーミアは、地元のアウスグ語と、魔道学校に通うために3年ほど王都エランに滞在していたとき覚えたエラン語は問題なく理解でき、あと魔道書を読むために習ったガング語と古代ヒルバニア語なら何とか理解できた。しかしそのいずれの言語で話しかけても、その患者は反応してくれなかった。もっとも、古代ヒルバニア語などという、とっくの昔に使われなくなった言葉が通じるとは、最初から思っていなかったが。
患者が竜騎兵であるとすれば、ルーミアたちと同じエラーニア王国民の兵士か、さもなければその敵対国であるハバリア人の兵士である可能性が高い。エラーニアのいわば「標準語」であるエラン語が全く通じない以上、患者はハバリア人と考えるのが筋だろう。
ルーミアは父に、ハバリア語ができる人が知り合いの中にいないか、さもなければハバリア語の辞書を手に入れる方法はないか尋ねた。
しかし父はルーミアの推論に異を唱えた。回復状況を確かめるために何度か包帯を解いてみたが、顔の皮膚が再生するにつれて、患者の顔立ちが東洋系のものであることがはっきりしてきた。なぜ東洋人がこんなところを竜で飛行していたのかはわからないが、もしかしたらハバリア帝国では戦力を補うために東洋人の傭兵を雇うこともあるのかもしれない、と。
ルーミアは考えた。意思を疎通させるには、自分が相手の言葉を覚えるか相手に自分の言葉を覚えさせるしかない。自分が相手の言葉を覚えるためには相手に主導権を握ってもらわなければならないが、あの患者はいまそういうことができる状態ではない。とすれば、こちらの言葉を相手に覚えてもらうほうがよいということになる。たとえ寝たきりでも自分や父の話す声、窓の外で誰かが会話している言葉を漏れ聞いているうちに覚えるということもあるだろうから、きっとそっちのほうが早いはず。
そう思い立つと、ルーミアはすぐさま身の回りのものを手当たり次第かき集めて例の患者の病室に持ち込み、それらを床に並べた。患者はまだほとんど体を動かすことができなかったが、ルーミアが何か騒々しい音を立てているのを聞き取って、目と瞼だけで怪訝そうな表情をした。
ルーミアはまず「これ」「あれ」という最も基本的な単語から始めた。患者は最初戸惑っていた様子だったが、すぐにルーミアの意図を察し、積極的に反応してくれるようになった。とは言え、相手はまだ声が出せない。反応といっても、ルーミアが身振り手振りで「わかった?」と尋ねるのに対し、「YES」の合図として瞼を一回閉じる、ということしかできないのである。
ルーミアの父はその話を娘から聞いて、できるだけ早く患者の喉を再生して、声を出せるように努力しよう、と申し出た。ルーミアはその日が一刻も早く来ることを祈った。
父の努力の甲斐あって、それからわずか5日後に患者の声が出るようになった。ただその声は、白魔法の力によって無理矢理繋げた声帯が不安定なため、かすれていると言うよりは、カエルを踏みつぶしたような奇妙きわまりない音声だった。あまりの奇妙さに、ルーミアは思わず腹を抱えて大笑いしてしまった。ルーミアの父でさえ笑いをこらえるのに必死だった。患者はせっかく出せるようになった声を使わずに目の動きだけで気分を害したことを表現した。父は、声帯を酷使しなければすぐに元通りの声が出せるようになるから、ということを身振り手振りで伝えた。患者はやっと機嫌を直し、最後には、ルーミアを笑わせるためにわざとゲコゲコ鳴いてあげるほどの余裕を見せるようなった。結局のところ患者の精神的ケアに一番有効なのは意志疎通なのである。ルーミアの父は改めてそう思った。
その翌日から、アウスグ語のレッスンは急速にはかどり始めた。やはり、反応をすぐに見ることができるのとできないのでは雲泥の差だった。
ルーミアの生徒はかなり優秀な生徒だった。レッスン1日目から床に並べてあった日用品の類を彼女が指さすと、患者は次々とその名をカエル声で呼び上げた。3日後には家の中にあるものと病室の窓から見えるものはすべてその名を言えるようになっていた。ルーミアは家の中にまだ何か覚えていない単語はないかとぐるりと見渡してみた。
そのとき彼女はふと、本来最も早く覚えさせるべき単語をまだ教えていないことに気づいた。彼女は自分の愚かさを呪わずにはいられなかった。
ルーミアは患者から見えやすい位置に立ち、自らを指さして
「わたしはルーミア・クフールツです」
と言った。
すると患者はたどたどしく、しかしはっきりした口調で
「ヤマヤ・ケンタ」
と応えた。
開け放たれた病室の窓から見える青空を、今日も1匹の竜が横切っていった。
自分を看護してくれている少女──確かルーミアと名乗った──の説明によると、あの竜は1週間に2度、近隣の町から遠くの町へ定期的に郵便物を運ぶために往復しているのだという。
あれがヘリコプターでも飛行船でもなく、本当に生きている竜だと知ったとき、山矢健太はそれほど驚かなかった。なぜなら、アクロバット飛行競技会でのあの「事故」以来身の回りに起こったことを総合的に判断すると、どう考えてみても、現在自分のいる場所が今まで住んでいた世界ではないことは明らかだったからである。
最初、ルーミアやその父が自分を治療するのに手から緑色の光を出したり、物に手を触れることなく動かしたりするのは、奇術か何かだと考えることにした。言葉のレッスンの中でルーミアが世界地図だと言って見せてくれた紙片に、山矢の全く見たことのない形が描かれているのも、この地では、衛星写真から作られた正確な地図ではなく、いまだに何百年も前の古地図を使っているのだろう、と自分自身を説得した。しかし、毎夜、病室の窓から夜空を見上げているうちに気づいた事実は、決定的なものだった。夜空に浮かぶ月が、形は満月のまま欠けることがなく、表面の模様だけが毎日少しずつ変化していたのである。
山矢は覚悟を決めた。というより、他にどうすることもできなかった。こうなった以上、一刻も早く体を治し、自分がこの世界に迷い込んでしまった原因を探り、そしてできるならば元の世界へ帰る方法を見つけなければならない。
とは言え、24時間ベッドに縛り付けられているという今の状況は拷問に近かった。有り余る時間を少しでも効率よく消費するためには、言葉を覚えることに没頭するしかなかった。
小さかった頃、周りの子供たちにからかわれながら英語を習い覚えた経験が、こんなところで役に立った。幸い、アウスグ語は発音が難しくなかった。実のところ、彼の英語の発音はあまり流ちょうなものではなく、それがからかわれる主たる原因となっていたのである。しかし今覚えつつあるこの言語は、少なくとも発音の点で彼を悩ませることも、からかいの原因となることもなさそうだった。
しかも昔と違い今は周りに自分をからかう者はいない。いつも傍らにいるのは、自分が単語をたった一つでも覚えるたびに、お世辞ではなく心の底から祝福してくれる、優しい少女だけだった。
山矢は最初、ルーミアは自分よりも年上だと思った。彼女は責任感が強く、看護士──山矢はそう思っていた──という仕事に対しとても勤勉で、また誇りを持っていた。すごく大人びて見えたのである。
かと思えば、とんでもなく幼いことをするときもあった。昨日、山矢が発音練習中に不意にゲコゲコッとした声を出してしまったときなど、彼女は例によって大笑いしたあげく、何を思ったか突然緑色の服に着替えてきて、カエルのような作り声で「わたしはあなたの妹ガエルよ」と言い出す始末だった。
そこで山矢は、女性に年齢を尋ねるのは失礼かとも思いつつも、まず自分は16になったばかりだと告げてから、思い切って彼女に歳を訊いてみた。この世界の1年が彼の世界の1年と同じ長さなのか確信はなかったが、今までに聞いた話から判断すると、大きな違いはないだろうと思われた。
すると彼女は、自分は15歳だと答えた。
山矢がルーミアは年上だと思っていたことをうち明けると、彼女は自分はそんなにおばさん臭いのかと言ってわざとむくれて見せた。
しかし最後には笑顔に戻り、こう付け加えたのだった。
「あたしは一人っ子で、近所に歳の近い子供もいなかったから、小さい頃は少し寂しい思いをしていたの。ヤマヤがあたしの兄弟代わりになってくれたら嬉しいな」
患者が意識を取り戻してから2ヶ月経った。経過は順調だった。少なくともルーミアや父親の目から見ればそうだった。
しかし、患者は不満だった。いまだに喉と口と目しか動かすことができず、おまけに声もカエル声のまま元に戻っていないことが患者には納得できないらしかった。
ルーミアはまず、声のほうは父の言いつけを守らず患者に声帯を酷使させた自分の責任だ、と謝罪し、きっと肉体が完治する頃には治るはずだ、と見通しを述べた。次に体が動かない理由を説明するため、エラーニア王国の民なら小学生でも知っているような、白魔道の基礎知識を教えてあげることにした。どうもこの患者の故郷ではあまり魔道学が発達していないらしい、と考えたからである。
男性白魔道士の役割と女性白魔道士の役割には違いがあり、男性のほうの仕事は肉体の再生、女性のほうは魂の再生である。自分のかけた再生の術によって患者の魂は再生したが、肉体を完全に再生するには、父のような優秀な魔道士でも3ヶ月から半年を必要とする。それまでは『不動の術』をかけて肉体の活動を完全に凍結させなければならないのだ、と。
患者は一応納得したが、すぐに別の不平を漏らした。3ヶ月も体を動かさなかったら筋肉が完全に衰えてしまい、歩けるようになるまで更に半年も1年もリハビリしなければならないだろう、と。
ルーミアは更に説明した。不動の術は肉体を、健康だったときの状態のまま、時間軸を越えて保存する。物理的に拘束しているのとは訳が違う。だから肉体が完治し、術を解きさえすれば、患者は怪我をする前と全く同じように活動することができる、と。
すると患者は、辛うじて動かすことのできるすべての部分を使って喜びを表現した。叫び声の一部は患者の地元の言葉だったためルーミアには何を言っているのかわからなかったが、とにかく、患者の笑顔を見ることができたことは彼女にとっても無上の喜びであった。
そこでルーミアは、いつものようにアウスグ語のレッスンを始めた。レッスンといっても患者はもうほとんどエラーニア王国の住民と同じように話せるようになっている。数週間前からレッスン内容は、言葉そのものを教えると言うよりも、雑談を通してアウスグ語の言語習慣──この単語はイメージが悪いのでこういう場面では使うべきではないといったような──を身につけさせるものになっていた。
その中で、患者はこんなことを質問してきた。前から思っていたのだが、窓の外で男の子たちが話す声を漏れ聞くと、「わたし」を意味する単語が、ルーミアが使っているのともルーミアの父が使っているのとも違う。これはなぜなのか、と。
ルーミアは説明した。アウスグ語では「わたし」を表す言葉が何種類もあり、年齢、性別、身分によって、使い分ける必要があるのだ。いままで一つしか教えなかったのは、混乱を避けるためだ、と。
すると患者は言った。自分の故郷にも同じ言語習慣がある。「わたし」のことを男は『ボク』と言ったり『オレ』と言ったりするが、女は『ワタシ』か『アタシ』と言う。その他、語尾にも『~デス』、『~ダ』、『~デアル』などがあり、状況によって使い分けることになっているのだ、と。
ルーミアは応えた。アウスグ語も同じだ。年齢や性別に応じて別の言い回しを使わなければならないことさえあるのだ、と。
患者は少し不安そうに尋ねた。ではいま自分の話しているアウスグ語は、自分の年齢や性別に合っているのか、と。
ルーミアは
「全然大丈夫。あたしがちゃんとあなたの年齢と性別に合った言葉使いを教えてあげたのだから」
と応えた。
「ただ一つ問題があるとすれば」彼女は付け加えた。「ヤマヤっていう名前は、あたしたちには少し発音しにくいの。ねえ、『マヤ』って呼んでじゃだめ?」
患者は少し怪訝そうな顔をし、本当はヤマヤは苗字であって、ファーストネームではないのだ、とうち明けた。
ルーミアが、ではケンタと呼ぶべきかと尋ねると、患者は、自分はファーストネームで呼ばれるのが嫌いなので苗字の方がいい、「マヤ」は自分の故郷ではどちらかと言うと……の名前だが、ルーミアたちが呼びやすいなら別にそれで構わない、と答えた。
患者の発音が少し乱れたため聞き取れない部分があったが、構わないと言っているのだから問題ないだろう。ルーミアはそう判断した。
「じゃ、これからは『マヤ』って呼ぶわね」
ルーミアがそう言うと「マヤ」は嬉しそうに目だけの微笑みを返してきた。
それから1ヶ月後、遂に患者の不動の術を解く日がやってきた。
ルーミアは患者に調子はどうかと尋ねた。すると患者は調子はよい、ただ1点を除いて、と答えた。
その1点とは声のことだった。ルーミアが聞く限り、もはやカエル声ではなく、あるべき普通の声のように思えたが、本人は依然として違和感を訴えていた。
ルーミアは改めて、声帯を酷使させ完治を遅らせてしまったことをしまったことを詫びたが、患者は気にするな、と優しい言葉を返してくれた。
父の指示に従い、ルーミアが、患者の全身をぐるぐる巻きにしている包帯──実はこれは包帯ではなく白魔法の効果を高めるための魔力が込められた魔布だったのだが──を解いていった。患者はしきりにルーミアに素っ裸を見られるのを恥ずかしがった。ルーミアは、マヤは意外と恥ずかしがり屋さんなのね、と言いながら、手際よく、しかし丁寧に包帯──魔布を解いた。
続いて、ルーミアと父が声をそろえて呪文を唱え始めた。いよいよ不動の術の解除を始めるのである。患者は、高ぶる興奮を抑えるためか、じっと目を閉じたまま呪文が終わるのを待った。
今まで青白い色だった患者の全身がピンク色を帯びてきた。やがて手足が小刻みに震え始める。肉体の活動が再開されつつあるのである。呪文を唱えながらルーミアはその様子を見守った。白魔道士の彼女にとって、それはもっとも喜ばしい、充実した瞬間だった。
呪文が終わった。
ルーミアはすぐさま患者のそばに歩み寄り、問題はないか尋ねた。
患者が問題ないと答えると、ルーミアの父は、ではゆっくり上半身を起こしてみてくれ、と言った。
患者は言われたとおり、ゆっくりと起きあがった。ルーミアは固唾をのんで患者の反応を待った。
ところが患者が次にとった行動は、ルーミアはもちろん、経験豊富なルーミアの父にさえ、全く理解できないものだったのである。
患者は、まず自分の胸に手をやり、怪訝そうな顔をして1言何か呟いた。次にその手を下へ滑らせて陰部に当てるや、突然わめきだした。
「マヤ、どうしたの!」
ルーミアは患者の肩を抱いてやることで精神を沈静化させようと試みた。しかし患者は鬼面ような恐ろしい形相でルーミアを睨み付け、アウスグ語で
「どうしてあたしが女になってるのーっ!?」
と叫んだのだった。