12 帰還
小階段を駆け上って行く途中、マヤは塔全体がほんの少しだがグラグラと揺れ始めているのを感じた。
上の階へ登ってみると、まず目に入ったのは、高さ二メートルほどの白い卵形の構造物だった。それは正面の壁に半ば埋まるように備え付けられており、その根元からいまマヤの立っている場所までは傾斜のゆるいスロープが伸びてきていた。
マヤは更にぐるっと辺りを見回してみた。その部屋は、一辺が五メートルほどの四角い部屋で、階下の大きな部屋同様、壁や床が全体的に白で統一されているが、窓はなく、天井全体が鈍い白色光を放って部屋全体を照らすことで内部を明るく見せていた。
ソーニャは、楕円形の構造物の横にある操作パネルのような物を操作するのに余念がない。ピンク色の魔道士服をひるがえして行ったり来たりしている。一方、マヤより一足先にここに登ってきていたルーミアは、階段を上り詰めたところに立って、やや不安げな面持ちでマヤの到来を迎えてくれた。ルーミアはやはり、ソーニャへの恐怖が拭いきれず、少し心細かったのだろう。
マヤはルーミアに「塔が倒壊する前にピムの背中に乗ってここを脱出してね。ピムに頼んでおいたから」と言った。
ルーミアは「わかった」と応えた。
マヤはそこで苦笑いし、「それと、ジュートがね、あなたのお兄さん代わりになってくれるって」と言った。
ルーミアは表情をほころばせた。「ええっ?ジュートが?お兄さん?」
「頼りないお兄さんだけど、よろしくお願いね。ってあたしが頼むのは変かな」
「ううん、そんなことない。だって、もしお姉ちゃんが元の世界に帰らなければ、いずれそうなるだろうって思ってたから」
「それって、あたしがジュートの奥さんになるってこと?よしてよ。あたし、まだ十七なのに」
「でも、まんざらでもなかったでしょ」
「実を言うと、一度、ザエフの温泉宿でそういう意味のことは言われたわ」
「ほら、やっぱり」
「だけどあたし、それに対して何の返事もしていないもの」
「じゃあ、もし元の世界へ帰れなかったらどういう返事をするつもりだった?」
「わからないわ。あたし、何があっても帰るつもりだったし、帰れるって信じてたし」マヤは顔を赤らめ、言った。「でも、もし……もし帰れないってことになってたら、たぶん……」
ルーミアは嬉しそうに応えた。「そう。それじゃあ、あたしもジュートのことを義理のお兄さんとして認めてあげることにする」
「ありがとう。でも、あたしとしてはちょっと心配かな。ルーミアはいつもは優しくていい妹だったけど、たまに厳しいこともあったから。あんまり彼のこといじめないでね」
「もう。あたしがいつお姉ちゃんに厳しくしたって言うのよ」
「あたしがザエフの野戦病院に入院してた時、あたしの媚の売り方が下手だって言ったじゃない」
「だって、あれは本当に下手だったんだもん」
二人はそれからしばらくの間、楽しそうに笑い合った。自分たちの置かれた状況のことなど忘れてしまったかのように。
やがて、作業を終えたソーニャが二人のほうに歩み寄ってきた。やや表情が硬い。彼女は先ほど、異呪のかけ過ぎで血を吐いた。やはりその影響なのだろう。
「装置の準備はできたわ。次は、山矢君を男の子に戻す異呪をかけるわね」
マヤはちょっと当惑した面持ちで「今?ここで?」と尋ねた。ルーミアに男に戻った姿を見られるのが恥ずかしかったからである。
ソーニャは言った。「ええ。と言っても、異呪が効果を現すのは五時間ぐらい先よ。他の異呪と違って、性転換の異呪は魂に直接影響を与える魔法だから、さすがに即効っていうわけにはいかないのよ」
マヤは胸をなで下ろしながら「そう」と応えた。
ソーニャは続けた。「それで、念のために訊くけど、山矢君、誰かに防御魔法とか、何かの封印をかけてもらってる、なんてことはないわよね?」
「何もかけてもらってないけど」
「そういう魔法や封印は、異呪の効果の妨げになるから」
「ええ、大丈夫よ」
ソーニャはマヤが首にかけている鎖を指さし、言った。「そのネックレスは?」
マヤはネックレスを手に取り、「これはルーミアが誕生日にくれた普通のネックレス。魔力はないわ」と答えた。
「わかったわ。それじゃあ、異呪をかけるわね。ルーミア、そこを離れて」
ルーミアは言われた通り、マヤの立っている場所から数歩退いた。ソーニャはそれを確認した後、目を閉じ、両腕を大きく広げた。すると、マヤの体が青白い光のベールのようなもので包み込まれた。時間が経つにつれ、その光の色は次第に青みを増し、ベールの中にあるマヤの体を見えにくくした。
マヤは不安そうな表情で光のベールの中にじっと立っている。ルーミアはそんな姉の様子を、当事者である姉以上に不安げに見守った。姉の体自体には何の変化も見られない。ただ、姉の魂に対して、無理矢理に性別を変えようとする力が働いているのはわかる。ルーミアほどの白魔道士であれば、そのようなことを見通すのはさほど困難なことではなかった。どうやらこの異呪は、以前、山矢健太がマキナスの森に墜落した際、彼を女と思い込んだルーミアが誤って施してしまった処置、つまり男の魂を女の魂として再生し、そうすることで肉体をも女のものに再生しようとしたあの一連の処置を、意図的に行える術に違いなかった。もっとも、アヴニ村のケースでは、一度、肉体が失われてそこから女性の肉体が再生されたので、マヤは完全な女性としてよみがえることとなった。この異呪の場合、おそらく、肉体の消滅、および再生を一瞬にして、しかもリスクを伴わず行えるのではないかと推測される。それがどのような原理に基づいているのかは、異呪の使えないルーミアには想像もつかなかったが。
数分後、姉の体を覆っていた光のベールは消滅した。もちろん、姉の体には見かけ上、変化は全くない。
ルーミアはすぐさま姉のもとに駆け寄り、「どう?具合は」と尋ねた。
マヤは「全然平気。っていうか、手応えがなさすぎて、逆に心配だわ」
ソーニャは閉じていた目を開き、広げていた腕を下ろした後、言った。「大丈夫よ。性転換の異呪はちゃんとかかったはずから」
マヤは「ありがとう、ソーニャ」と応えた。
ソーニャは首を振った。「お礼を言うのは筋違いよ、山矢君。これは、あなたがあたしたちのせいで受けた被害を復旧してるだけ、元に戻してるだけなんだから」
「そうね。そうだったわね」マヤはちょっと微笑んでから「ところで、ソーニャ、あなたはこの後、どうするの?この塔を脱出するならルーミアと一緒にピムの背中に乗って行けばいいと思うけど」と言った。
ソーニャは静かに「あたしは脱出しないわ」と応えた。
マヤは驚いて「どういうこと?」と尋ねた。
「あたしはお父様とこの塔と運命をともにする」
「どうして、そんな……」
「あたしの命はどうせ長くはもたない。それに脱出したところで、あたしはこの戦を指揮した者の一人として、捕まり次第、処刑されるだけだもの。あなたの世界の戦争のようにわざわざ戦争犯罪人を裁判にかけてなどくれないわ」
「じゃあ、モーラやニーナも……」
「ええ。でも彼女たちは生まれつきの戦士。お父様にそういうふうに育てられたから。だからそうなることも覚悟の上よ。それにね、あたし思うの。異世界に関わりのある者は、この戦が終わると同時にこの世界からは消滅すべきだって。本来、この世界にあるべきでないものは、やはり消え去らなければならないって」
マヤは何と応えてよいかわからなかった。
ソーニャは無理に笑顔を作って、言った。「だけどあたし、後悔はしていない。たった二十三年の人生だったけど、普通の人が経験できないようなことをたくさんさせてもらったんだから。それに、元に戻れるなら戻りたいっていう願望は、ちゃんと山矢君に託したもの。だから、今は安心してあの世に行ける」
「ソーニャ……」
「お願いね、山矢君」
不意に、ルーミアの手がマヤの手を握りしめた。マヤはルーミアのほうを振り返らずに手だけを握り返した。
マヤは妹の励ましに勇気づけられ、ソーニャに力強く
「わかったわ」
と応えた。すると、ソーニャは嬉しそうな顔でマヤにうなずいてみせた。
その時、尖塔全体がまたグラグラと揺れているのが感じられた。
マヤとルーミアはまずお互いに顔を見合わせ、次にソーニャの顔を伺った。
ソーニャは二人に促されるように
「じゃあ、異世界への門を開くわね」
と言った。そして、その場でくるりと背を向け、楕円形の構造物の横についている操作パネルのほうへ歩いて行こうとした。
ところが足を一歩踏み出した途端、彼女は急にその場に崩れ落ちるようにうずくまり、口を手で覆ってゴホンゴホンと苦しそうに咳き込み始めた。
マヤはすぐに彼女のとこに駆け寄り、「ソーニャ、大丈夫なの?」と尋ねた。
ソーニャはヨロヨロと立ち上がり、「大丈夫よ。でも、もう時間があまりないかもしれない」と応えてから、また操作パネルのほうに向かって歩き出した。
マヤはそれを見届けた後、ゆっくりとルーミアのほうを向き直った。
姉妹の別れの時が近づきつつあった。マヤの心の中には、悲しさ、寂しさ、心細さ、そういった種類の感情が渦巻いていた。
「ルーミア……」
彼女は妹の名前を呼んであげるだけで胸が一杯だった。
ルーミアは、普段と変わらない微笑み顔を姉に向け
「お別れね、お姉ちゃん」
と応えた。
マヤはこらえきれず、涙を流した。
「ルーミア……。いろいろとありがとう」
ルーミアはそれでも笑顔のまま応えた。「こちらこそ」。
マヤは首にかけているネックレスを再び手に取り、言った。「ルーミアがくれたこのネックレス、大切にするわね」
ルーミアは耳たぶにぶら下がっているイヤリングを指先でつまみながら答えた。「あたしも、お姉ちゃんがくれたこのイヤリング、お姉ちゃんだと思って一生、大事にする」
「お義父さんによろしく言っといてね。命を救ってくれてありがとう、お仕事がんばってください、あたしは向こうの世界に帰ってもずっとお義父さんの娘です、遠くから励ましてますって」
「わかったわ」
「ルーミアも、これからも白魔道士の仕事、がんばってね。でもできれば、もう戦場には行かないで。やっぱりあなたに戦場は似合わない」
「うん。お姉ちゃんがそう言うなら、そうする。お姉ちゃんのほうも、帰ったらまた『ひこうき』の操縦士をやるんでしょ?がんばってね。体に気をつけて」
「ええ」
二人はお互いの手を取り合った。
マヤは妹の手をぎゅっと握りしめ、
「あたし、ルーミアのこと好きだった。大好きだった。だからルーミアのことはどんなことがあっても絶対に忘れないから!」
と言った。
すると。
ルーミアは笑顔のまま、ぼろぼろと涙を流し始めたのだった。
「あれ、おかしいな」彼女はいかにも不思議そうな顔をしてつぶやいた。「あれ、どうしてだろ?おかしいな。あたし、お姉ちゃんを見送る時は絶対に笑顔でいようって決めてたのに。あれ?あれ?」
マヤは驚いた。考えてみれば、マヤは妹の泣き顔を一度も見たことがない。シュラースでナターシャの薬により魂を飛ばされた自分を妹が救ってくれた時は、妹が泣いていたらしいとあとで聞かされはしたが、実際に泣いているところは見なかった。それ以外の場面でも、どんな悲しいこと、どんなつらいことがあっても妹は決して涙を見せなかった。そんな妹が今、自分のために涙を流している。
「ルーミア!」
マヤはたまらなくなって、ルーミアを胸の中に抱きしめた。
「お姉ちゃん!」ルーミアは、遂にマヤの胸にすがりついた。「あたしも、お姉ちゃんのこと、大好き!絶対、絶対忘れないから!」
二人の心の中でいま一瞬、時が止まった。その永遠の時間の中で二人は手をつなぎ、アヴニ村を、マキナスの森を、そしてクフールツ診療院を巡り歩いている。そこには村人やクフールツ先生の笑顔がある。ピムの背に乗って飛び立てば、すぐに彼女たちのもとにラウラとオクタヴィの乗った竜が寄り添ってくる。そしてピムを地上に降ろすと、そこは教会堂の前。白いタキシードを着たジュートがウェディングドレス姿のマヤを抱きとめる。そしてルーミアやラウラたちやそのほか多くの人たちが祝福の拍手でそれを迎える。
しかし、それは一瞬の夢にすぎなかった。二人はもう現実に帰らなければならない。
姉妹はどちらからともなくお互いの体を引き離した。
マヤは最後に
「さようなら。ありがとう」
と言って、楕円形の構造物のほうへ走り去った。
構造物の横で待機していたソーニャは、パネルを操作して構造物のこちら側の一面を開放した。ちょうど卵の殻の一側面をそっくり除去したような形になった。
ソーニャは「中に入って」と言った。「向こうの世界に着くには半日ぐらいかかるわ。その間、山矢君は気を失うけど、大丈夫、向こうの世界ではちゃんと安全なところに到着するようになっているから」
マヤは構造物の中に入り込み、ルーミアのほうを向いて立った。見ると、ルーミアは涙を流しながらも、なんとかして笑顔を作ろうと必死になったいる。マヤも涙をこらえ、最後の笑顔を妹に見てもらおうと努力した。
突然、マヤの視界は白い霧のようなもので包まれた。
数秒後、マヤは体がふわっと浮き上がったような気がした。そしてそのまま、構造物を突き抜けて、ゆっくりと上昇し始めたのだった。彼女は驚いて、自分の体がどうなってしまったのか確かめるために視線を下にやった。ところがそこに自分の体はなかった。つまり彼女は魂だけの存在になって上へ上へと浮かび上がりつつあったのである。もしかしたら、この異世界への門は、魂だけを別の世界に転送して肉体は目的の世界で分子レベルから再構成するのかもしれない。何にせよ、この異呪の原理など、今となっては知りようもなかった。
マヤの魂は、尖塔の頂上を通り越した後もゆっくりゆっくり天高くへと登り続けた。十分ほどしてもう一度、下を見下ろすと、塔がぐらりと倒壊を始めた。その直前、塔の最上階から、ルーミアを背に乗せたピムと、ジュートのぶら下がっているパラシュートが降下してゆくのが見えた。
マヤは眼下に広がる世界に向かって
「さようなら、異世界」
とつぶやいた。
その後、マヤの意識はだんだんと遠のいていった。そして更にその十分後、彼女は気を失った。
*
街の上空を丸一日覆い続けた雨雲は、昼過ぎに東の空へ移動し始めた。
傘をさして街を歩いていた人々が次第に傘をたたみ始めたのを見て、本多智美はようやく、雨がやみつつあることに気づいた。彼女は手のひらを上にして右手を前へ差し出し、雨粒が手に当たらないことをじゅうぶん確認してから、傘をたたんだ。
空を見上げると、東半分はまだ厚い雲に覆われているが、西の方はもうすでに雲の切れ間から断片的に秋の青空が覗いている。このまま太陽が西に傾けば、それらの切れ間から陽も差し込むことだろう。もしかしたら、きれいな夕焼けが見られるかもしれない。智美はかつて学校で「夕焼けが見えた日の翌日は晴れになる」と教わったことを思い出しながら、濡れた路面を踏みしめ、再び歩き始めた。
彼女の向かった先は、一軒の喫茶店だった。ごく普通の喫茶店である。彼女はこの店に今までに何度か来たことがある。高校時代の友人、川名理恵が久々に集まろうと言い出す時は必ずこの店を待ち合わせ場所に指定するからである。この店は市内の某駅付近にある。鉄道網の関係上、この駅付近でみんなが集まるのが一番都合がよく、しかも、理恵の通う大学からほど近いため、理恵自身は比較的楽にこの店に来れる。それが彼女がこの店を指定する理由なのだという。
智美は店のドアを開き、店内を見回した。案の定、理恵は先に来ていつもの席にたたずんでいる。ああ見えて、理恵は時間にだけはバカがつくほど正確なのである。
「お久しぶり、理恵」
理恵は智美にそう声をかけられて初めて智美の存在に気づき、読んでいた雑誌から目を上げて、応えた。
「あ、智美。おひさ」
智美は理恵の向かい側の席に腰掛け、「待った?」と尋ねた。
背の低い理恵は背の高い智美の顔を見上げるようにしながら「いまちょうど約束の時間ね?なら、あたしが待った時間は十分。あたしは待ち合わせの時はいつも、ちょうど十分前に待ち合わせ場所に来ることにしているから」と言った。
智美は嬉しそうに「そうだったわね。ふふ、理恵、昔と全然、変わらない」と言った。
理恵は応えた。「変わったわよ。だってもう二十歳よ、二十歳。二十歳って言ったら、親の許可を得ないで結婚ができる歳よ。これってもうおばさんじゃない」
智美は、親の許可を得ないで結婚ができることとおばさんであることとがどう関係しているのか疑問に思いつつも、敢えて口にはせず、代わりに「でも、二十歳って言われても、なんか実感わかないわね」と応えた。、
理恵は言った。「あんたは来年、もう就職だしね」
智美は、注文を取りにきたウェイトレスに紅茶を注文した後、応えた。「短大ってホント、あっという間に終わっちゃうのね。変化の早さに我ながらちょっと戸惑ってる感じはする」
理恵は西洋人が呆れたときによくやるような仕草を、大げさに真似してみせた。「もっとも、もうちょっと変わってほしい人も、約一名いるけどね」
智美はその仕草がおかしかったのか、軽く笑いながら「美玖のことね」と言った。
「ええ、そうよ。あの娘には、いい加減に約束の時間を守ることを覚えさせないと」
「理恵ったら、まだ美玖の『保護者』をやってるの」
「あんたもよ、智美。あの娘がお嫁に行くまであたしたちがちゃんと保護してあげるって決めたでしょ」
「そうね。そうだったわ」
「そうよ」
智美はちょっと表情を曇らせ「だけど……」と言った。
「何よ」
「あたしたち、本当に美玖を『保護』してあげることができたのかな。美玖のためにしてあげられることを、みんなしてあげられたのかな」
理恵は真面目な顔をして「たぶん、できたと思う。だって、あの後、あの娘はちゃんと部活にも顔を出すようになったし、そのおかげで地区大会で入賞もできたんだし。それに、一浪はしたけど大学にも入れたんだし」と応えた。
「だけど……あたし、思うの。美玖が部活や受験勉強に打ち込んでいたのは、ただ目の前に突きつけられた現実から逃れたかったからじゃないかって。忘れたかったからじゃないかって」
「たとえそうだとしてもよ。あたしたちはしてあげられることをした。美玖も精一杯、立ち直ろうと努力した。お互い、ベストを尽くした結果よ」
「そうなのかな。でもあの娘、あれから一度も男の子とつきあったことないでしょ。何人か告白してきた男の子がいたって話なのに」
「男なんて、できるときもあるしできないときもあるわよ。あたしなんか、自慢じゃないけど彼氏いない歴二十年なんだから」
「それはそうだけど」
理恵はそこで、先ほどまで読んでいた雑誌を、智美のほうへ差し出した。「今、そのことと関連があるかも知れない記事をこの雑誌で読んでいたところよ。ほら、見て」
智美は理恵から差し出された逆さ向けの雑誌を受け取り、自分のほうへ向けてから、その記事に目をやった。そこには
「四年目の真実――あの『アクロバット飛行パイロット連続行方不明事件』は一体、何だったのか:不明になった十人はどこに:いまだ手がかりはゼロ:くすぶる某国の某略説:UFO説を唱える識者も」
と書かれていた。
理恵は言った。「ホント、なんだったんだろうね」
しかし智美は、喫茶店の入口のほうを横目でうかがいながら「ち、ちょっと、理恵、美玖がもうすぐここへ来るのよ。あの娘がこんな記事を見たら……」と言った。彼女の心配症は昔のままである。
「大丈夫よ。すぐにしまえばいいだけのことじゃない」理恵はあっけらかんと応えた。「それにしても、こんな大事件の被害者のうちの一人が自分の彼氏だったら、普通、二度と立ち直れないぐらいのショックを受けるわよねえ。やっぱり、立派に立ち直れたあの娘と、立ち直らせたあたしたち自身ををほめてあげるべきよね」
ちょうどその時、智美の注文した紅茶がウェイトレスによって運ばれてきた。だが智美は、紅茶よりも、理恵の話よりも、美玖がもうこの店にやって来るかもしれないことが気がかりで仕方がなかった。
すると。
喫茶店の入口の扉が開いた。
智美はそこから誰が出入りしたのか、しなかったのか、確認するよりも前に、ただ慌てて雑誌を閉じた。
理恵は扉のほうに目をやった。智美も、雑誌を閉じ終わった後でそちらを注目した。
そこには、髪を肩よりも少し長く伸ばし、いかにも今風の女子大生っぽい服を着、ほんのりと化粧をした美玖の姿があった。
理恵と智美はいささか驚いた。美玖の雰囲気が以前に会った時に比べ、全体的にあか抜けた感じになっていたからである。
美玖はすぐに理恵たちの存在に気づき、彼女たちの陣取るテーブルに歩み寄ってきた。
「ごめん、待った?」
理恵は美玖のその言葉に対し、また大げさに呆れてみせた。「ええ、じゅうぶん待ったわよ。あのね、美玖、もうそろそろ時間を守ることを覚えなさい。遅れるなら遅れるで携帯に連絡ぐらい入れなさい」
智美は「まあまあ。たった数分遅れただけなのに、そんな大げさな」となだめたが、声があまりにも小さく、理恵の耳にも美玖の耳にもほとんど届かなかった。
美玖はからからと陽気に笑いながら「ごめん、ごめん。あと十分遅くなるようなら連絡しようと思ったんだけど」と応えた。
理恵は保護者さながらに「まったく、あんたって娘は」と言った。
美玖は智美の隣の席に腰を下ろした。ほどなくウェイトレスが注文を取りにきた。美玖はホットカフェオーレを注文した。
智美はそんな美玖の様子をまじまじと見つめながら「ねえ、美玖、あなた、髪の毛伸ばし始めたの?」と尋ねた。本当は、化粧もしてるのね、着ている服の感じも変わったわね、何かいいことでもあったの、と訊きたかったのだが、智美にはもちろんそんなことをあからさまに訊く勇気はない。
美玖は「うん。最近、伸ばし始めた」と答えた。
理恵はしかし、智美が訊きたかったことよりも一歩進んだことを美玖に訊いた。「男でもできた?」
理恵のこの口調に、智美は今まで何度はらはらさせられたことか。これは高校時代、いやその前の中学時代、小学生時代から何年たっても変わっていないことの一つなのである。
当の美玖はというと、智美のそんな心配をよそに、無邪気に明るく「うん、できた」と答えた。
さきほどこの店に美玖が現れた時に理恵と智美が感じた小さな驚きは、次第に大きくなり始めていた。美玖は外見の雰囲気だけでなく、態度や振る舞いまでもが、前回に会ったときよりも明るく、はつらつとしたものになっているように感じられたからである。
理恵はしたり顔で「やっぱりね」と言った。
智美は率直に「それはおめでとう」と言った。
理恵は更に「どんな男?」と尋ねた。
「あ、また理恵お得意の『保護者モード』ね」美玖は親友におせっかいを焼いてもらえたことが嬉しくてたまらない、と言った顔をして、答えた。「大学のサークルの学際活動で知り合った、○大の男の子。あたしと同い年で、学年も、一浪してるからあたしと同じ。一年生」
智美は独り言のように「へえ、○大生なんて、すごい」とつぶやいた。
理恵は「つきあい始めて、どれくらい経つの?」と尋ねた。
「まだひと月経つか経たないかってとこ」
「そう」
美玖はいっそう嬉しそうな顔をして「どうせまた『保護者のあたしたちにちゃんと紹介しなさい』とかなんとか言うつもりなんでしょ」と言った。
理恵は「わかってるじゃない」と言った。
美玖は「もう少し落ち着いたら、ね」と応えた。
理恵と智美の驚きはますます大きくなった。美玖のこの態度、単に前回に比べ明るくなったというより、彼女が今まででもっとも幸せだった時期の明るさ、あの最高の明るさを取り戻したかのように見える。そう、まるで山矢健太と知り合ったあの時期の明るさを取り戻したかのように見えるのである。
その時、美玖のカバンの中から着信音が聞こえてきた。
美玖は「あ、メールだ」と言いながら、カバンの中からごそごそと携帯電話を取り出し、携帯の画面に映る文字を見た。その途端、彼女は今日、理恵たちと再会してから今までに見せた中でもっとも嬉しそうな笑顔で微笑んだ。
理恵は美玖の笑顔を見ていると、自分まで嬉しい気分になってきた。「噂の彼からのメールね」
しかし美玖は「ううん。これは友達から。もちろん女のね」と答えた。
理恵は美玖のその答えにやや拍子抜けした。もし彼氏からのメールなら、その内容についてまたおせっかいを焼いてやろうと思っていたからである。だが考えてみれば、美玖が彼氏からのメールに対してだけでなく女友達からのメールに対してさえこのように明るい態度を取れるのは、現在の彼女の精神状態がよほど良好だからだとも言える。
智美が理恵のほうへ視線を移してきた。彼女も理恵と同じことを感じている、と言いたげである。
二人は思った。美玖のこの変化は彼氏ができたことに原因があるのかもしれず、ないのかもしれない。理恵はおせっかいを焼くのは好きだが、それは詮索好きと同義語ではない。だから、美玖が態度や言葉で表した以上のことを根掘り葉掘り訊くつもりは毛頭、ない。美玖はいずれこの変化の理由を話してくれることもあるだろう。ただ、いま重要なのは理由ではなく、その結果として美玖が明るさを取り戻せたことである。美玖は山矢健太が行方不明になって以来ずっと、表面上は普通に振る舞っていても、どこかしら寂しげな雰囲気を漂わせていた。そんな美玖の顔に、高校一年の時に見せたあの太陽のような輝きが戻ってきたのである。二人にとっては、それでじゅうぶんだった。
「さて」美玖は返信メールを打ち終わった後、顔を上げ、言った。「あたしの話はここまで。次は智美の番ね」
智美は「え?」と言った。
「その後、彼氏とはどう?」
「うん、それなりに……」
理恵が口を挟んだ。「この間、双方の両親公認のもとで、二人きりの一泊旅行に行ってきたって。いわゆる婚前旅行ってやつ?」
智美は赤くなって「その言い方はちょっと気が早いんじゃ……」と言った。
美玖はウェイトレスが運んできたホットカフェオーレを受け取った後、今度は理恵に向かって「そういうあんたは?」と尋ねた。
理恵は「あたしは、今は学業が恋人だもん」と答えた。
智美は「司法試験ってすっごく難しいんでしょ?」と言った。
美玖が言った。「がんぱって立派な悪徳弁護士になってね」
理恵が言った。「あたしが目指すのは検事よ。司法試験の合格者は、弁護士以外にも、検事や裁判官になることもできるのよ」
美玖が言った。「理恵が検事ねえ」
理恵は負けじと「見てなさい。あたしが検事になった暁には、世の悪人どもを一人残らず有罪にしてみせるんだから」と高らかに宣言した。
美玖は半ばあきれ顔で「ま、そう言われてみれば、理恵は検事に向いてないってことはないかもね。あんたのその弁舌能力と、おせっかい能力があればね」と言った。
理恵は「そうでしょ。そうでしょ」と言った。
智美は小声で「おせっかいはこの際、あまり関係ないと思うんだけど……」と言った。
三人はそれから何十分もの間、昔話や現在の話や将来の話に花を咲かせた。
翌日は智美の予想通りの快晴だった。空気中を漂う汚れた成分が雨で流されてしまったため、都会の真ん中では滅多に見ることのできない本当の青空が広がっている。できることならこの空に飛び込んで体中にその青い空気を感じ取りたい。そんな気分にさせるほどの心地よい秋空だった。
美玖は昨日、喫茶店で女友達からメールを受け取った。それは今日、その女友達と一緒に出かけることを約束する内容のメールだった。美玖は今、その約束通り、ターミナル駅の待ち合わせスポットでその友達を待っているところだった。美玖が約束の時間前に待ち合わせ場所に現れるのは珍しいことである。実際のところ、携帯電話の普及した今となっては待ち合わせ時間を守ることにそれほど意味はない。いや、場合によっては待ち合わせそのものにあまり意味がないこともある。にもかかわらず彼女がこのように約束時間を厳守したのは、単に昨日、理恵に時間を守るよう言われたからではなく、彼女にぜひそうしたいと思わせるほどの何かが、今日のこの約束にあったからである。
しばらくして女友達が現れた。今の美玖同様、どこにでもいそうな、ごく普通の女子大学生だった。
二人はお決まりの挨拶を二言、三言、交わしてから、待ち合わせスポットを後にし、電車に乗り込んだ。
彼女たちは電車が駅を発った後もとりとめのない雑談を続けた。電車の中で彼女たちに目を止めた者のほとんどは、おそらく、彼女たちのことをいわゆる「何の悩みもない」お気楽極楽な女子学生だと思ったことだろう。美玖が心の中にどんな大きな傷を持っているかなど、その外見から知るすべはないのだから無理からぬことである。
やがて、美玖は思い出したように「そういえば、ねえ、このあいだ言ってたこと、どうなった?」と、女友達に尋ねた。
女友達は「それって、あのことよね?」と訊き返した。
「うん。あなたが両親に会ってくるっていう話」
女友達は美玖のその言葉に対し、ためらいがちにこくりとうなずいて見せただけだった。
だが、美玖にはそれだけでじゅうぶん通じていた。「そう。よかったわね」
女友達は微笑みながら「うん、よかった」と答えた。
美玖は「『案ずるより産むが易し』ってことね」と言った。
女友達は「相良さんの言う通りにして間違いはなかった。ありがとうね」と言った。
美玖は「何よ、改まって」と、照れくささを吹き飛ばすように言った。
女友達は「でも、相良さんのおかげだっていうのは、本当だもの」と言った。
美玖は照れ隠しに、話題を変えることにした。「ねえ、古津さん」
女友達は「何?」と言った。
「一つお願いがあるんだけど」
「どんな?」
「古津さんのこと、名字じゃなくて名前で呼び捨てにしちゃだめ?」
「別にいいけど」
「で、あたしのことも名前で呼んでほしいな」
「うん。わかった」
「あたし、ずっと前からあなたには名前で呼び捨てにしてもらいたかったんだ」
「そうだったの?」
「ねえ、呼んでみて」
「今?」
「うん。あたしもあなたの名前を呼んであげるから」
「わかった。じゃあ、呼ぶね」
「うん」
「美玖」
「なあに、麻弥」
その途端、女友達――古津麻弥は吹き出した。「なんかあたしたちってバカみたいじゃない?」
美玖もたまらず笑い出した。「バカまるだし」
二人のけたたましい笑い声は車両の中に響き渡った。その様子を見ていた乗客たちは、改めて彼女たちを「今時の女子学生」だと断定した。
まもなく、電車はとある郊外の駅に到着した。二人はそこで電車を降り、バスに乗り換えた。
バスに揺られている間、無尽蔵かと思われた二人の話題もさすがに尽き、ふと会話が途切れた。古津麻弥はバスの小さな窓から、抜けるように青い秋空を見上げながら、この四年の間に自分の身に起こった数々の出来事を、もう一度、思い返してみた。
麻弥、すなわちマヤが異世界への門を通る途中に気を失い再び目覚めた時、彼女は六畳ほどの広さの部屋に置かれたベッドの上に仰向けになっていた。彼女はまず自分の体を点検したが、男に戻った様子はなかった。もしかしたら性転換の異呪の効果がまだ現れていないのかと思い、とりあえずその部屋の様子などを調べながら、効果の現れるのを待つことにした。どうやらその部屋はワンルームマンションの一室らしかった。更によく調べてみると、片隅に置かれたテーブルの上に、未記入の戸籍謄本、本籍地移転届、住民票、住民票移転届、とある女子高への転学届けなど数通が広げられているのが目に入った。
彼女は丸一日、その部屋で男に戻るのをじっと待った。だが、性転換の異呪は遂に効果を現さなかった。その頃にはすでに、彼女は性転換の異呪が効かなかった理由に気づき始めていた。この異呪をかける時、ソーニャは防御魔法や封印が異呪の妨げになると言った。よく思い出してみれば、マヤはドゥムホルク攻略戦の直前、ルーミアに生理を遅らせる魔法をかけてもらった。そのときラウラが言っていたように、ルーミアの魔力は普通の魔道士より強力である。きっとその魔法が卵胞ホルモンや黄体ホルモンといった女性特有のホルモンの分泌を促す活動を行ったことが、魂と肉体を男に戻そうとする異呪に対して防御魔法のように働いてしまったのである。
マヤの受けた衝撃は大きかった。彼女はもとより、元の世界に帰れたとしても、男に戻れるとは思っていなかった。女のまま元の世界に帰ってもなんとかなると思っていた。それが、ドゥムホルクの尖塔の最上階でいきなりソーニャに男に戻してあげると言われたため、完全に元の自分を取り戻せるという過剰な期待を抱いてしまった。そのことが却って、男に戻れなかった衝撃を大きく感じさせたのだった。
マヤはそれでもなんとか自分を奮い立たせ、両親のもとに帰ろうとした。だが、どうしてもその勇気が湧いてこなかった。もし両親に自分が山矢健太だと言って信じてもらえなかったら、彼女は国籍のない不法入国者のような存在となる。それはすなわち、彼女がこの世界で、文字通り天涯孤独、本当のひとりぼっちになってしまうことを意味する。
しかも彼女には、自分が山矢健太であることを両親に信じてもらえる自信が全くなかった。彼女は部屋の壁についている大きな鏡に自分の姿を映し出してみた。誰がどう見ても十七歳の女の子だった。この子は実は男だなどと言い出す者は、心を病んでいると見なされかねないとも思えた。
もしここにルーミアがいたとしたら、きっとマヤのことを励ましてくれたに違いない。だが妹はもういない。マヤは妹の存在の大きさを改めて実感した。と同時に、向こうの世界でいきなり女として暮らすことを余儀なくされながら精神に異常を来すこともなく生きてこれたのは、みんなルーミアのおかげだったことを思い知った。
マヤはそれから数日間、飲まず喰わずでただ部屋にじっとしていた。次第に混濁してゆく意識の中で、彼女は何度かルーミアの幻を見、その度に「あたしを励ましにきて。お願い」と話しかけた。無論、ルーミアが現実に姿を現すことなどあろうはずもない。絶望したマヤはやがて、妹に会える最も簡単な方法は、先に天国に行って待つことだと思うようになった。もともと向こうの世界に飛ばされた時点で失われていたはずの命である、惜しくはないとも思えた。天国に行けばナターシャに再会できるのだからそれも悪くはない。このまま何も食べずにじっとしていれば、いずれ自分は天に召される。そうすれば……
そんなマヤを救ったのは、そのワンルームマンションの一階の住人でありオーナーでもある老婆だった。彼女は「あなたはソーニャさんのお友達ね?ソーニャさんにはずいぶん優しくしてもらったわ。私が心臓発作で死にかけている時に、救急車を呼んで助けてもらったこともあるのよ。ソーニャさんはもうここには帰ってこないんでしょ?なら、せめてあなたに恩返しをさせてちょうだいね」と言って、マヤが栄養失調から回復するまで看病してくれ、更にその後も、料理を作って持ってきてくれたりと、いろいろ世話を焼いてくれた。後で聞いた話では、老婆は旧華族の出身で、かつては広大な不動産を所有していたのが、生活費やら税金やらで消費されて徐々に減ってゆき、今では市内にあるこのマンションだけになってしまったのだという。老婆はソーニャがこちらの世界の人間でないことにも、何らかの悪事を働くための拠点としてこの部屋を使っていたことにも薄々感づいていたらしい。それなのに老婆がソーニャに協力するのをやめなかったのは、もしかしたら、自分をこんな境遇に陥れた世間に対しささやかながら仕返しをしてやろう、とでも思っていたからなのかもしれない。
マヤは決心した。自分は山矢健太に戻れなかった。もちろんマヤ・クフールツに戻ることもできない。ならば新しい人間としてやり直すしかないのではないか。驚いたことに、部屋に置かれていた戸籍、住民票、転学届けなどの書類を手に取った途端、その氏名欄にひとりでに「古津麻弥」という文字が浮かび上がった。もちろん氏名だけではない、空白だったその他の欄すべてに、つじつまが合うような適切な文言が自動的に浮かび上がってきたのだった。ソーニャは言っていた。人は世界を超えるとき、特殊な能力を得ると。ソーニャやその父親は、ルーミアたちの世界に飛んだ時、異呪を手に入れた。とすれば、ソーニャがこちらの世界に飛んだ時には、何か別の能力を手に入れたはず。このようにして書類にひとりでに文字が浮かび上がったのは、たぶんこれがソーニャの得た「偽造能力」によって作られた文書だからなのだろう。そしておそらく、ソーニャが山矢健太の高校に帰国子女として入学できたのも、この偽造文書のおかげだったのだろう。
一旦、新しい人間としてやり直すことを決心すると、マヤは気持ちが軽くなったような気がした。「自分は山矢健太だ、なのに実の両親にさえそのことをわかってもらえず、理不尽に孤独な立場に置かれる」と考えるのはつらいことである。だが「自分は天涯孤独の古津麻弥という女の子、ずっと一人で生きてきた、だから全然、寂しくない」と思い込めば、不思議とつらいと感じずに済んだ。
マヤは、まず近所の市役所に戸籍、住民票移転届などを提出した。彼女はなぜか某県の山間部の町から移転したことになっていたが、市役所の職員が町役場に転籍確認をとっても、全く怪しまれることはなかった。
次に彼女は転学届ほか必要書類を転入先となっている女子高に提出した。時期的にも、ちょうど三月になったばかりで、転入するはもってこいのタイミングだった。但し、一年半異世界にいて学力が不足していることを自覚していたため、本来の学年より一年下に転入させてもらうことにした。もちろん、書類がそろっているからと言って、それだけで転入させてもらえるわけではない。彼女が未成年である限り、後見人が必要だったし、学費などの経済的裏付けも必要だった。後見人のほうはマンションのオーナーが快く引き受けてくれた、というよりオーナー自身が、学校など行かずに働くと言い張るマヤに入学を勧めた張本人だった。その際、オーナーが旧華族の出身であることが学校側の信頼を得る上で大きな役割を果たした。経済的な面に関しては、もちろんアルバイトも始めたが、ソーニャがこちらの世界で活動するために用意したと思われる銀行預金が、かなりの額、残っていたため、それでまかなう部分のほうが大きかった。合法的な手段で得られたお金だとは思えなかったが、マヤにはそれを使わせてもらう以外、ほかに手だてがなかった。
マヤは四月から女子高の二年生、古津麻弥としての生活を始めた。意外なことに、友達はすぐにできた。彼女は男っぽい、不思議な魅力を持った女の子として、クラスのみんなから注目を集める存在となったからである。女の生活を異世界で一年ほど経験したぐらいでは、それ以前に身につけていた仕草や振る舞いの男っぽさはそう簡単に消えるものではない。それに、彼女は日本語の女言葉をしゃべり慣れていないため、どうしても口ごもってしまう。そういう中性的でクールな感じが、女子校の生徒たちの目には魅力的に映ったのである。更に、彼女がワンルームマンションで一人暮らしをしていることが知れると、彼女の友人たちは、毎日のように彼女の部屋に集まってきた。たまにその部屋で無断外泊をする生徒もいたため学校側に問題視されてしまうこともあったが、麻弥自身は、そうやっていつもいつも友人に囲まれていることで過去の自分を思い出す暇もないことを、ありがたいと思った。
とは言え、何度も述べたように、マヤはアヴニ村でルーミアによって「再生」された時、魂のレベルで女性化された。そのため、毎日、女子高生の友達に囲まれて平凡な女子高生としての生活を送っているうちに、少しずつ女っぽい言葉遣いや仕草が身に付いてしまった。また、彼女自身も自分がそうやって変化してゆくことを特に拒もうともしなかった。二年後、高校を卒業する頃には、彼女はごく普通の女子高生と化していた。少なくとも、表面的にはそのように見えた。友人たちの中には彼女のそういう変化を残念がる者も少しはいたが、大部分の者は自然の成り行きと受け止めた。
卒業後、彼女は近郊の私立女子大に入学した。もちろん奨学生としてである。その頃にはソーニャの置いて行ったお金も残りが少なくなり、またいろいろ面倒を見てくれていたマンションのオーナーも高齢のため健康を害し、入院しがちだったからである。
オーナーの老婆は間もなく死んだ。麻弥は今度こそ身寄りがなくなってしまった。だが、今や彼女の周りにはたくさんの友人がいた。彼女はもう寂しいと思うことはなかった。学業にアルバイト、そしてその合間を縫って大学の福祉サークルの活動にまで精を出し、彼女は日々、女子大生として充実した生活を送っていた。山矢健太としての記憶も、マヤ・クフールツとしての記憶も次第に薄れ始めた。彼女はこのまま古津麻弥という女性として一生を終えることに対して、何の疑問も持たなくなっていた。
しかし、運命の女神は、麻弥をもてあそぶのがよほど楽しいのか、彼女に更なる試練を与えたもうた。
福祉サークルの活動の一環として、麻弥はひと月前のある日、都心の一流ホテルで開かれる福祉関係の団体の会合に出席することになった。会場がホテルである以上、それなりの格好をしてゆく必要があったので、彼女は一張羅を着込んだうえ、滅多に使わないためタンスの奥にしまい込んであったアクセサリーを引っ張り出してきて身に付けた後、いそいそと会場へ向かった。会場となっているホールの入口の扉を開いた時、向こうから扉を開けようとした人物と鉢合わせするかっこうになった。その人物が、なんと美玖だったのである。美玖はよその大学の福祉サークルのメンバーとしてたまたま同じホテルに来ていたのだった。
麻弥の意識はそこで、過去の回想シーンから、バスの窓の向こうに見える青空へと引き戻された。バスのアナウンスが彼女が降車すべき停留所の名前を告げたからである。
麻弥と美玖が降り立った場所は、小さな飛行場の前だった。もっぱら個人および小企業の所有するプロペラ機やヘリコプターが離着陸するためのこの施設は、アクロバット飛行パイロットだった山矢健太が四年前まで毎日のように通いつめた場所である。
二人はしかし、飛行場の表玄関には足を踏み入れなかった。美玖は麻弥の手を取って彼女を滑走路の端っこのほうへと導いた。更にそこからぐるっと回って滑走路の向こう側に出ると、そこはだだっ広い原っぱだった。川と滑走路の間にあるこのスペースは、飛行場への離着陸コースから外れているため、上空でアクロバット飛行をするのには最適の場所なのである。
美玖は原っぱの上に腰を下ろし、空を見上げながら、言った。「ねえ、麻弥、覚えてる?四年前にも、ちょうど今みたいに、真っ青な秋空の広がる日があったよね」
麻弥も美玖の横に座り込み、天を仰いだ。「うん、よく覚えてる。確か、相良さ……美玖が友達をつれて、あたしのアクロバット飛行の練習を見に来た日だよね?」
「そう。今だから言うけど、あたし、あの時、山矢君にお弁当を渡そうとしてたんだよ」
「え?あたしに?全然、知らなかった」
「渡そうとした直前に八木沢さんに割り込まれちゃって」
「そうだったんだ」
「そのあと、山矢君と八木沢さんの関係を勝手にあれこれ想像して落ち込んだり、理恵や智美に励まされたり、なんてこともあったんだよ。青春の一ページって感じだよね。あたしも若かったんだね」
「その言い方、なんかすごく年寄りくさい」
「年寄りだよ。もう二十歳だもん」
二人は顔を見合わせ、意味もなく微笑み合った。
麻弥は視線を青空のほうへ戻し、言った。「ねえ、前から訊こうと思ってたんだけど」
美玖は両手を背後の地面につき、体重を後方に預けながら「何?」と言った。
麻弥は続けた。「ひと月前、ホテルのホールであたしたちが再会したとき、美玖はどうしてあたしが山矢健太だってすぐにわかったの?」
美玖は嬉しそうな顔をして、答えた。「一目瞭然だよ。だって麻弥の仕草、山矢君だった頃と全然、変わってなかったもん」
「え?ほんと?」
「それに顔立ちにだって山矢君の面影があったし」
「そうなの?」
「そうだよ。確かに仕草も容姿も全体的には女っぽくなってた。でも、部分的には昔と変わっていないところもたくさんあった。それにあたし、山矢君と同じクラスだった時、授業中も休み時間もずっと山矢君のこと見てた。山矢君の一挙手一投足を目に焼き付けようとしてたんだよ。だから、あたしには自信があったんだ。ただ山矢君に似てるだけの人と、山矢君本人を見分ける自信がね」
「そう、そういうことだったんだ。あたし、美玖の前で、山矢健太しか知らないようなことを間違ってしゃべっちゃったのかなって、ちょっと反省したりとか、もしかしたらいままでにも他の人の前で言っちゃいけないことを言っちゃったことがあるのかなって、不安になったりもしてたんだ。それを聞いて安心した」
「麻弥はそんなに口の軽い娘じゃないでしょ。まあ、高校一年の頃の山矢君みたいに『口が重い』ってわけでもないけど」
麻弥は「だけど、あのあと美玖にひとけのないところに呼び出されて『やっぱり山矢君はUFOに拉致されてたのね。そして性転換実験の被験者にされた挙げ句に放り出されたのね』って言われた時は、びっくりした」と言って、おかしさをこらえるようにくすくす笑った。
美玖は口を尖らせて「何がそんなにおかしいのよ。麻弥は異世界に拉致されてたんでしょ。当たらずと言えども遠からずじゃない」と言った。
「ごめん、ごめん。確かにそうだよね」
「あたしは大真面目だったんだからね。そのうち警察に通報しようか、NASA に真相の解明を要求しようかって思ってた。もし麻弥が本当のことを打ち明けてくれなかったら、もう実行に移すところだったんだよ」
「美玖ったら、あたしのあとをつけて家の場所を探り出して、毎日、マンションの前で待ち伏せしてるんだもん。最後には根負けしたわよ。そんなにあたしの正体を暴きたかったの?」
「暴きたかったっていうより」美玖は目を伏せ、言った。「『山矢君』に会わせてほしかったから。『古津麻弥』とじゃなくて、もう二度と会えないかもしれないって覚悟していた彼と、山矢君ともう一度、話ができるなら、してみたいって思ったから」
「そうだったんだ……」
麻弥が美玖のこんな表情を見たのは、高校生時代を含めても初めてのことだった。
だが、美玖はすぐに目を上げ、またいつもの表情に戻った。「ねえ、異世界のことは、やっぱり公表するつもりはないの?」
「うん。したって誰も信じてくれないだろうし、信じてもらおうと思っても何の証拠もないし。まあ、あたし以外の九人の行方不明パイロットの家族の人たちに気の毒だとは思うけど。異世界に引き込まれて魂を抜かれたってことを知らされない限り、無事の帰還を信じていつまでも待ち続けるんでしょうからね」
「じゃあ、異世界のことを知っているのは、麻弥とあたしだけってことね」
「それとあたしの両親」
「ああ、そうか。打ち明けたって、さっき電車の中で言ったよね」
「美玖に『ご両親なら絶対にわかってくれるから』って勧められた時には、正直、不安で一杯だったんだけど、家を訪ねてみたら、一目見てすぐに気づいてくれた。いま美玖が言ったみたいに、やっぱり仕草とか顔立ちに昔の面影があるんでしょうね」
「それで、麻弥はこれからどうするの?ご両親のもとに帰る?」
「ううん。山矢家にある日突然、女の子が住み着いたら、近所の人に変に思われるかもしれないからね。あたしは今まで通り、古津麻弥として暮らすことにする。それで、もし戸籍とかが偽造だってばれそうになったら、その時には『健太は実は女性半陰陽だった』とでも近所の人に説明して、山矢家に帰るわ」
「そう」
今、二人の間を涼やかな秋風が吹き抜けていった。心地よい風だった。
ふと滑走路のほうに目をやると、オレンジ色とクリーム色のツートーンカラーのプロペラ機がちょうど離陸しようとしているところだった。
麻弥はプロペラ機が滑走路を飛び立っていったのを見届けた後、再び口を開いた。「本当言うとね、このひと月の間、すっごくつらかったんだ」
美玖は意外そうに「え?どうして?」と言った。
「あたし、二年半前にこっちの世界に帰ってきてからずっと、自分は古津麻弥だって思い込むことで、苦しさから逃れようとしてきた。男に戻れなかった苦しさとか、両親に自分のことをわかってもらえないかもしれない苦しさとかからね。実際、昔のことは思い出さないようにもしてきたし、頭に浮かんできそうになってもすぐに沈めてしまえるようにもなってた。そのおかげで大学生としてそれなりに充実した日々が送ることもできた。
なのに、そこへ美玖が現れた。そんなバカなって思った。たくさんの人間が住むこの街で、どうしてあたしと美玖が同じ時に同じ場所にいなきゃいけないの、そんな偶然あり?って思った。あたし、運命の女神様によほど嫌われてるのかなって思ったりもした。今から考えたらとんでもない話だって思うけど、あたし、美玖のことを逆恨みしてた時期もあったんだ。あなたさえ現れなければ、あたしの平穏な大学生活がかき乱されることもなかったのにって」
「知らなかった」
「あ、でも、今は違うよ。むしろ感謝してる。美玖があたしの殻を破ってくれたって。あたしがこの二年半の間、ずっとまとい続けた偽りの殻を破ってくれたんだってね」
「偽りの殻?」
「うん。あたし、このひと月の間に、ずっと封印していた異世界での記憶をもう一度、呼び起こしてみたんだ。いま思い返してみると、あたし、あの頃、異世界から帰ってくれば、ただ帰って来さえすれば、それだけで元に戻れるような気がしてた。元の自分を取り戻せるような気がしてた。でもね、考えてみたら、最初から元に戻れるはずなんてなかったんだ」
「どういうこと?」
「あたしが異世界で過ごした一年半の間にだって、異世界は少しずつ変化していたし、こっちの世界だって変化してた。街にだって、あたしの知らない店ができてたり、あたしの知らない音楽が流れたりもしてた。あたし自身だって成長した。女になったばかりのころAカップだった胸も、こっちに戻ってくる頃には寄せて上げればBカップのブラが付けられなくもないぐらいにはなってたしね」
麻弥はそう言ってちょっとおどけたように微笑んでみせた。
美玖は相づち代わりに「ははは」と軽く笑った。
麻弥は続けた。「うまく言えないけど、人は立ち止まることができない存在なんだって、立ち止まっちゃいけない存在なんだって思ったんだ。もちろん、いつまでも変わらない良い物だってあるし、そういうものを守っていかなきゃいけないのも確かだけど、でもそれは、立ち止まれないからこそ守る必要がある、前に進むためにこそ守るのであって、立ち止まるために守るんじゃない」
「うん」
「あたし間違ってた。こっちの世界に帰ることで、元の自分に戻ろうとした。それができないってわかったらすべてをゼロにしてやり直そうとした。テレビゲームでもプレイしてるつもりだったのかもね。うまくいかないなら、セーブポイントまで戻るか、最初からプレイを始めるかすればそれでいいんだ、ってね。でも、現実はそうじゃない。いつも『今、この場所』が出発点なんだよね。昨日まで積み重ねてきたものの上にあるスタート地点から明日に向かって飛び立つ。あたしたちにはそれしかできないんだよね」
「そうだね」
「あたし決めたんだ。もう一度、操縦桿を握ろう、もう一度、アクロバット飛行パイロットを目指そうって」
「ほんと?」
「うん。それが、あたしにとっての『今』のスタートだから」
「そっか」
「今日、美玖を誘ったのはそれが言いたかったら。美玖には真っ先に報告しなきゃって思ってね」
「じゃあ、また山矢君のあの華麗なアクロバット飛行が見られるんだね。がんばってね」
「うん、ありがとう」
「練習の時には、またお弁当作って持ってくね。あ、でも、麻弥はずっと一人暮らしだったから、あたしなんかよりずっとお料理が上手だよね。それなら持ってゆく必要ないか」
「ううん、あたし、料理はそんなに上手じゃないよ。それに美玖のお弁当、食べてみたいから。ぜひ持ってきて」
「わかった。じゃあ、練習の時だけじゃなく競技会の時にも持ってくね」
「競技会にいつ出られるかわからないけど、その時はお願い」
「でも、また八木沢さんみたいな人と麻弥を取り合うことになったらどうしよう……って、あ、そうか。麻弥は今、女の子だった」
「わからないわよ。もしかしたら、女のあたしにそういうことを想う娘が現れるかもしれない。っていうか、女子高に通ってた頃、実際にいたような気もするけど」
「それじゃあ、その娘がまた麻弥に怪しげなペンダントを渡すかもしれないね」
「あたし、また異世界に飛ばされちゃうの?よしてよ」
「大丈夫、今度はもうちょっと早く『ペンダントをはずして』って祈ってあげるから」
「え?」
麻弥は美玖のその言葉を聞いて驚きを禁じ得なかった。山矢健太が異世界に引き込まれそうになった時、彼は複葉機の操縦席で確かに「ペンダントをはずして」という声を聞いた。その声に命じられるままペンダントをはずしたおかげで、山矢はドゥムホルクではなくマキナスの森に落ち、その結果、こうして命を長らえている。あの声、命をつなぎ止めてくれたあの声は美玖の声だったのか?まさか。
美玖は麻弥が急に口ごもったことを不審に思い、「どうしたの?」と尋ねた。
麻弥は「ううん、何でもない」とだけ応えた。あの声が本当に美玖の声だったのかどうかを詮索しても意味はないし、また証明のしようもないと思ったからである。ただ、麻弥は実際、異世界に飛ばされたり、そこで魔法を操る者たちと出会ったりした。こちらの世界でそんな魔法じみたことが起きたとしても不思議はないだろう。だとすれば、麻弥と美玖が偶然、再会できたのも、実は、山矢に会いたいという美玖の強い想いのなせる技だったのかもしれない。あるいは……
ふと麻弥の頭にルーミアの笑顔が浮かんできた。ドゥムホルクでの別れ際、「ルーミアのことは絶対に忘れない」と約束したにもかかわらず、麻弥は忘れないどころか、この二年半の間、忘れようと努力さえした。麻弥と美玖をひき会わせたのは、あるいはもしかしたら、ルーミアの想いだったのかもしれない。姉が偽りの殻に閉じこもっているのを感じ取り、叱咤激励するために美玖と会わせようとしたのかもしれない。それを証拠に、麻弥は美玖とホテルで再会した日の朝、正装すべく、タンスの奥にしまい込んであったアクセサリーを身に付けたが、後でよく考えてみると、そのとき首にかけたネックレスが、実は、異世界にいたころルーミアがプレゼントしてくれた、あのネックレスだったのである。こちらの世界に帰ってきてから一度も付けたことのなかったそのネックレスを初めて身に付けたまさにその日に美玖と再会するなど、単なる偶然だと言われてもにわかには納得しがたい。きっと、そのネックレスがルーミアの想いをこちらの世界に届けてくれたに違いない。そんなふうに思えてならない。
――あたしは最低の姉だ――麻弥は、今日も首にかけてきたそのネックレスを握りしめ、心の中でつぶやいた――ルーミアはこんなあたしを許してくれるだろうか?許してくれなかったとしてもしかたがない。でも今のあたしにできる罪滅ぼしといえば、ルーミアも望んでいたように飛行機の操縦桿を再び握ること、それと、ルーミアを二度と忘れないようにすることだけだ。ごめんね、ルーミア。遠く離ればなれになっていても、やっぱりあなたはあたしの大切な妹――
彼女はその時、もう一つ、別のことを思い出した。異世界から帰る直前、マヤはソーニャに「元の自分を取り戻す」という願望を託された。しかし、麻弥は現在、その願望を現実のものにしてあげたと言えるのだろうか。
――たぶん、取り戻したとは言えない。だけどあたしは今、単に以前の自分を取り戻すのではなく、それ以上のことをしてみせようとしている。美玖や両親にとっては少年パイロット、友人たちにとっては女子大生のあたしが、これから女性パイロットという新たな古津麻弥に変わってゆこうとしている。こんなあたしの想いを、きっと天国のソーニャもわかってくれるはず――
不意に美玖が立ち上がった。西のほうから、先ほど飛び立ったプロペラ機が飛んでくるのを見て、きっとアクロバットを始めるのだろうと予想し、立つことで視界を広げようと思ったのである。
麻弥も彼女につられて立ち上がった。
予想通り、プロペラ機は空中で複雑な模様を描き始めた。以前の山矢の操縦ほどではなかったが、それでも、見るものの目を釘付けにするほどのすばらしい操縦テクニックを披露してくれた。
しばらくそれを見つめていた麻弥が、ふと口を開いた。「そういえば、美玖に伝言があったんだ」
美玖はプロペラ機から目を離すことなく応えた。「誰から?」
「四年前の山矢健太から」
「どんな?」
「『俺は美玖のことが好き』っていうの」
「そう」
「うん」
「実はあたしも、麻弥に伝言があるんだ」
「誰から?」
「四年前のあたしから」
「どんな?」
「『あたしも山矢君のことが好き』」
(完)