1 始まり
その日、街の郊外のその地点から見上げた空は、真っ青に晴れ渡っていた。
本来ならやや濁って見えるその空も、都心から流れてくる排気ガスが昨日の雨と冬の先触れかと思われる冷気によって流されてしまったせいか、その青色の鮮やかさだけが強調されて見えた。まさに「天高く馬肥ゆる秋」などという使い古された言葉を実感せざるを得ない、そんな空模様だった。
とは言え、その日の空は気象学で言うところのいわゆる快晴ではなかった。なぜなら、ほんの2つ、3つではあったが、白い綿雲が空の片隅から中央へと、時ならぬ寒風に吹かれて漂っていたからである。
その場所の周囲には、あまり建物が建て込んでいない。電柱のたぐいも少ない。だから、ひとたび空を見上げれば、その視界には吸い込まれそうな青空と雄大な白い雲の見事な競演しか目に入らなくなる。
また、大きな道路からも離れいるため、車のエンジン音や、気短なトラック運転手が鳴らすクラクションの音に聴覚を邪魔されることもなかった。耳に聞こえてくるのは、少し離れたところにある住宅地からの、かすかな生活音だけだった。
いや、違う。
よく耳を澄ますと、ごく小さくだが、どこからか低い唸り声のような音が聞こえてくる。
しかも、だんだん大きくなってゆく。
大きくなるにつれ、その音がどこから発されたものであるか、明瞭に知覚されるようになった。それは、西の方向、しかもやや上方から聞こえてくる音であった。
ふと西の空に目をやると、先程まで白い綿雲が陣取っていた空を、一筋の赤い矢のようなものが切り裂いていた。
もちろん、本物の矢ではい。なぜならその赤い一筋は弓から放たれたかのようにまっすぐ的をめがけて飛んでいるわけではなく、むしろ、画家が青いキャンバスに赤い絵の具の付いた筆を走らせるがごとく、複雑な曲線を描いていたからである。
そう、それは、真っ赤な複葉機だったのである。
「すごい……」
言葉を発したのは、高校生と思しき制服姿の少女であった。
「ほんと……」
相づちを打ったのは、やはり制服姿の少女だった。
2人はぴったりと肩を寄せ合って西の空を見上げている。まるで気を許すとこの青空に吸い込まれてしまいそうだとでも言わんばかりである。もっとも、片方の少女は背がやや低く、もう片方はむしろ長身なので、肩を寄せ合っていると言うよりは肩と肘をくっつけ合っていると言うべきかもしれない。
そんな2人のつぶやきを聞いてますます得意になったわけでもなかろうが、赤い複葉機が描く模様は更に複雑さの度合いを増した。楕円や8の字は単純な方だった。少女たちは今まで、飛行機がV字型の軌跡を描くなど想像したこともなかった。
「ああっ、落ちちゃう!」
複葉機が機首を下に向けたまま地面すれすれまで落ちてきたとき、背が低い方の少女は悲鳴を上げ、口に手を当てたまま身をこわばらせてしまった。背の高い方の少女はすでに喉さえ凍り付いてしまっていた。
と、その途端。
「大丈夫よ」
少女たちの背後から柔らかな女声が響いた。
すると、あたかもその声が合図であったかのように、複葉機は機首を下に向けたままふわっと浮き上がったかと思うと、カクンと機首を上に向け、今度は勢いよく、それこそ赤い弾丸のように一気に青空を駆け上がっていったのだった。
「びっくりしたぁ」
背の低い少女は自分の感情を素直に言葉で表現した。他方、背の高い少女は手を胸で押さえながら控えめに安堵のため息をついた。
赤い複葉機が東の空の彼方に小さくなり、辺りに再び静かな秋のひとときが戻ってきたことを確認すると、少女たちは、背後にいるはずの、先ほどの声の主を求めて振り返った。
そこに立っていたのは、これまた同じ制服を着た少女だった。
肩のあたりで切りそろえられた髪、日焼けした肌、恐らく体育系のクラブ活動をしているのだろう、見るからに活発そうである。
視線を向けられたというのに、その少女は依然として小麦色の顔を東の空のほうに向けいていた。
背の低い少女はそんな彼女の様子にはお構いなしに、あくまでも自分のペースで
「ほんと、すごいんだね、山矢君って」
と言った。その大きな瞳は、喜び、楽しさ、興奮、好奇心といった、すべてのポジティブな感情ではち切れんばかりにきらきら輝いていた。
一方、背の高い少女は
「ほんと。でもちょっとびっくりしたわ」
と、口の中でつぶやくように言った。背の低い少女とは違い、自分の心の中にある弾け出しそうな興奮をどう扱ってよいのか判じかねている様子だった。
そこでやっと小麦色の顔をした少女は視線を天空から地上へと降ろし、
「でしょ」
と言って、心底嬉しそうに微笑んだ。
背の低い少女は即座に言葉を返した。
「うん。あたし、山矢君のこと見直した。あんなすごいことが出来るなんて」
背の高い方もそれに続いた。
「あたしも。だって山矢君って、普段はあんまり目立たないでしょ。いつも教室の窓辺でぼーっと空を見上げてばかりで」
小麦色の顔をした少女はちょっといたずらっぽくそれに応えた。
「目立たない、とかじゃなくて、変な奴って、はっきり言ってくれてもいいんだよ」
背の高い方が「そんなつもりは」と言い返す前に、背の低い方が言葉を挟んだ。
「ははは、変な奴か。でもほんとに変な奴だと思ってた」
このはっきりしたものの言い方に背の高い少女はいつもはらはらさせられている。
しかし、小麦色の顔の少女は、むしろ我が意を得たりといった様子で
「そうなんだよねぇ。なんか得体の知れないやつなんだよね」
と応えた。「それに顔がとりたてていいわけでもないし、背もあまり高くないし」
「なのに」背の高い少女はおそるおそる口を挟んだ。「なのに『あの人』なの?」
普段口数の少ないこの少女にペースを合わせたつもりなのか、小麦色の顔の少女は少し間をおいてから無言のままゆっくりとうなずいた。
「あ、帰ってきたよ」背の低い少女はそう言って東の空を指さした。
見ると、やや茜色を帯びてきた陽の光をその機体に反射させながら、赤い複葉機が軽やかに、優雅に舞い降りてきた。
「いこ」
小麦色の顔の少女はそう言って二人の友を促しながら、すでに駆けだしていた。
その間にも複葉機は見る見る高度を下げ、やがて柔らかくなでるように滑走路へと滑り込んだ。
小麦色の顔の少女の走るペースは、普段のクラブ活動で鍛えているせいか、はたまた別の理由からか、小走りと言うにはいささか速すぎた。
「ああん、美玖、速い。ちょっと待ってよ」
彼女の2人の友が息も絶え絶えに不平をこぼしているのが、彼女の耳にはもう届かないらしい。彼女の関心は駐機場に入って行く赤い飛行機を目で追うことにのみ注がれている。活発な彼女と、運動がそれほど得意でない2人との間の距離は開く一方だった。
数分後に追いつくことが出来たのは、彼女が友の要求を聞き入れたからではなく、何か他の理由でぱったりと足を止めたからである。そこは駐機場のど真ん中だった。
駐機場と言っても、もちろん旅客機の飛び立つ大空港のそれとは違う。この飛行場にあるのは大きくてもせいぜい個人所有の小型ジェット機にすぎない。それも頻繁に出入りするわけではない。辺りは閑散としていて、プロペラ機が1、2機、エンジン音を響かせてはいるが、案外静かなものだ。
美玖と呼ばれた小麦色の顔の少女が足を止めたのは、先ほど舞い降りた赤い複葉機から30メートルほど離れた場所だった。
「美玖ったら」
やっと追いついた2人の友は改めて不平をこぼそうとした。しかしすぐにやめた。相手にその不平を受け入れるだけの余地がないことに気づいたからである。そう、美玖という少女の視線は複葉機に――と言うよりも複葉機の操縦席横の扉を開けて出てこようとする人物に――釘付けとなっていたのである。
それは、小汚い野球帽をつばを後ろにしてかぶり、ゴーグルを目ではなく額にかけ、真っ白なTシャツの上に古ぼけた革のジャケットを羽織り、黄土色のゆったりしたズボンをはいた少年だった。
彼は地面に降り立つや否や周りの様子には目もくれず機体の前に回り、慣れた様子で今し方停止したばかりのプロペラをいじり始めた。
「山矢君」
美玖は声をかけた。そして、山矢と呼ばれたその少年がちらっと自分のほうを見、またすぐに視線をプロペラのほうに戻したのを確認してから、ゆっくりと複葉機のほうへ歩みだした。
美玖の2人の友人には、その様子がまるでビデオのスロー再生のように映った。次の瞬間に何が起こるのか予想がつかなかったからである。
美玖はどんどん進んでゆき、山矢少年のほんの1メートル手前でやっと足を止めた。
しかし山矢の視線は完全にプロペラに固定されているようだった。
「ちぃーっす」少し腰をかがめて山矢の顔を覗き込むようにしながら美玖は言った。「調子どう?」
山矢はそこで再び視線を美玖に向け
「ああ、いつもどおりだ」
と応えた。
「そっか」
美玖はとても嬉しそうにそう言った。
「ああ」
山矢もわずかに口元をほころばせながらそう応えた。
その瞬間、美玖の友人たちの心のVTRは、スロー再生から通常の再生へと変わった。
「今日ね、友達連れてきたんだ」
美玖はそう言葉を続け、友人たちのほうに視線をよこした。
「同じクラスの川名理恵と本多智美。知ってるでしょ」
すると山矢もつられて視線を向けてきた。ちょっと怪訝そうな顔をしている。
「山矢君、こんにちはーっ」背の低い少女は待ってましたとばかりに複葉機のほうへ駆けだした。
一方背の高い方は小さな声で「こんにちは……」と呟きながら、ためらいがちに飛行機のほうに近づいた。
山矢は二人の挨拶に対しぶっきらぼうに
「おう」
と応え、またすぐに機械いじりに戻った。
アクロバット飛行による緊張の余韻なのか、それとも、先程まで熱く燃えていたエンジンのすぐそばにいるせいか、山矢の額には大粒の汗が光っていた。一心不乱にエンジンを見つめるその眼差しは、普段学校では決して見ることのできないものだった。
しかし、美玖の友人たちをもっと驚かせたのは、山矢の眼差しよりも、むしろそんな山矢を見つめる美玖の眼差しだった。
まるで、持てるすべての感情を、想う相手にぶつけようとしているかのような……。
彼女たちが機体のそばまでやってくると、山矢は機械を見つめたまま
「相良、おまえ、部活はいいのか?」
と美玖に尋ねた。
美玖はちょっとばつが悪そうに
「うん……。今日はサボリ」
と答えた。
「出なくていいのかよ」
「いい……ことない」
「じゃあ出ろよ」
「うん……」
さっきから何か言いたくてうずうずしていた背の低い方の友人はここぞとばかり口を挟んだ。
「ねえ、山矢君、美玖が山矢君の飛行機の練習を見に来たら迷惑なの?」
背の高い方の友人は、あまりにも直接的なその言い方に仰天し小声で「ちょっと、理恵ったら」と囁きながら彼女の制服の袖を引っ張った。
しかし、当の本人はおろか、山矢も美玖もさほど気にしていない様子だった。美玖など逆に、いいことを訊いてくれたと言わんばかりの表情だった。
山矢は答えた。「いや俺のほうは別に構わないんだけどさ、相良が部活続けられなくなったらやばいじゃないか」
「なるほどね」背の低い少女の応えは意外にも素っ気なかった。しかしその表情が何かに納得したことを物語っていた。
そこで山矢は機械いじりの手を止め、やにわに歩き出した。「部品が足りない。取ってくる」
彼の姿は、50メートルほど離れたところにある倉庫の中に消えていった。
その途端、背の低い少女は美玖に向かって
「許可します」
と言った。
美玖は当然「何を?」といぶかった。
「美玖が山矢君に告白することを、です」
友人はわざとくそまじめな表情を作ってそう答えた。
美玖は呆れたように肩をすくめて
「理恵、あんたいつからあたしの保護者になったの」
と訊いた。
「小学生の頃、あなたと同じクラスになったあのときからです」
「はいはい、それはどうもありがとう」
「ではもう一人の保護者の許可もいただきましょう」
「はぁ?」
背の低い理恵は、背の高い智美を見上げ発言を促した。
「どうですか、保護者その2」
智美はいきなりコメントを求められ、狼狽した。
「え?いえ、そんな、許可とかそんなのじゃなくて、その……、ただ、美玖が好きな人がどんな人なのか、ちょっと見てみようと思っただけで、別にそんな……」
「そういうこと」美玖はいかにも納得したと言いたげにうんうんとうなずいて見せた。「それで突然、山矢君の飛行機の練習を一緒に見に来たいなんて言いだしたわけね」
「そうです」理恵はまだ保護者口調だった。「それでたったいま許可を与えてもよいという決定を下しました」
「はいはいありがたく頂戴いたします」美玖はおどけて、何かを受け取り拝むような仕草をして見せた。
「でも……」智美は申し訳なさそうに、大きな体を縮こめながら言った。「山矢君がどんな人かはわかった。その……ちゃんとした人だって。だから……あたしも許可を与えてもいいかな……」
美玖はちょっと嬉しくなった。口調は依然として「わかりました、保護者様、ありがたく頂戴つかまつります」などとおどけていたが、自分のことを心配してくれる友人たちに感謝したい気持ちで一杯だった。
「山矢君ね」美玖は語り始めた。「実は帰国子女なんだ。飛行機の操縦もアメリカで覚えたんだって。山矢君自身はずっとアメリカに住みたかったらしいんだけど、親に反対されたみたい」
「じゃあ、あんまり喋らないのは……」理恵が美玖を見上げた。
「うん、小さい頃は日本に住んでいたし両親も日本人だから発音は全然普通なんだけど、単語があんまりわからなくて、からかわれたことがあるらしくて」
「そうだったの……」智美はまるで我がことを悲しむかのような表情をした。
そこへ、山矢が戻ってきた。山矢は3人がいままで何か真剣な話をしていたらしいことに気づいているふうではあったが、敢えてそれを無視して再びエンジンいじりに取りかかった。
智美は思った。山矢は決して鈍感ではない。ただ、いま美玖が語ったような事情でぶっきらぼうになってしまっただけだ。さっきだって美玖の部活のことを心配してくれたではないか。
一方、理恵は美玖がなさなければならないある重要な仕事を思い出した。
「ねえ、美玖、あれ、渡さないと」
理恵に肘をこづかれて、美玖もその用件を思い出した。
その用件。それは、その日の昼休み、気の弱い家庭科教師を丸め込んで(脅して)半ば強引に調理実習室を借り切り、こっそり持ち込んであった食材で作り上げた手作り弁当だった。山矢がいつも飛行機の練習の後、ファーストフードやコンビニのサンドイッチを頬張っているのを見て思い立った作戦だった。
「そ、そうね、渡さなきゃ」
美玖はめずらしく緊張気味だった。料理の腕にそれほど自身があるほうではなかったからである。
しかし彼女はうじうじとした行動を好まない。何事に付けてもやるときは思い切ってやってしまう。それが彼女の持ち味なのである。
美玖は覚悟を決め、弁当箱の入った巾着袋を山矢の目の前に差しだそうとした。
ところがその瞬間。
「やまやくぅぅぅぅぅん」
どこからか、ねばねばと糸を引きそうなほど粘っこく甘ったるい女の声がした。
美玖とその友人たちは、声の出所を探るべく首をぐるりと一周させた。しかし少なくとも背後には誰の姿も見あたらなかった。
発見できたのは、首を体と共に360°回転させ、元の向きに戻したときだった。驚いたことに、いつの間にか美玖と山矢の間の2メートルほどの空間に一人の女が割り込んでいたのである。
美玖たちはあまりの唐突さに、文字通り呆気にとられた。
女は確かに美玖たちと同じ制服を着ている。しかし彼女のことをここで「少女」と表現するのはいささか無理がある。なぜならその制服が描き出すボディーラインがあまりにも成熟したものだからである。いや体だけではない。女の顔立ち自体が、少し日本人離れしているせいもあってか、艶っぽい、大人の色香を醸し出していたのである。
しかし美玖たちを驚かせたのはその登場の仕方や容姿だけではなかった。
女はあろうことか、馴れ馴れしく山矢の腕を取ってその豊満な胸に包み込み、あげくその唇が相手のそれに触れてしまいそうなほど、顔を接近させたのだった。
「ハーイ、山矢君。お元気?」
女のなまめかしい唇から甘ったるい吐息とともにそんな言葉が漏れた。
山矢はそれに対し、無表情のまま「おう」と答えただけだった。
「山矢君たら、相変わらず素っ気ないんだから」女は不満げだった。「ねえ、『ケンタ』って呼んじゃだめ?同じ帰国子女同士なんだから、別に構わないでしょ。そしたらもっと親しくなれると思わない?」
「やめろよ」山矢はあくまでもクールだった。「苗字でいい」
美玖の友人たちはようやく初期の混乱から立ち直りつつあった。冷静になった頭でよく考えてみると、あの女には見覚えがあった。確か彼女はスペイン人だったかイタリア人だったかのハーフで、今年の4月に美玖たちの高校へ転校してきたばかりの2年生だったはず。一応、美玖たちの1年先輩ということになる。
「あの」理恵は、智美よりもさらに10センチ背の高いその女を見上げながら訊いた。「山矢君のお知り合いですか」
女は大袈裟に驚いて見せた。いま初めて美玖たちの存在に気づいた、と言わんばかりに。「山矢君、彼女たちは誰?」
「同じクラスの女子たちだ」
「ふーん」
女は彼女たちを値踏みするような目つきで、美玖、理恵、智美の順に眺めた。そして最後にもう一度美玖の顔を睨み付け、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「わたしは八木沢ソーニャ。山矢君の最も親しい友達。そしてたぶん……恋人候補」
さっきからずっと固まったままだった美玖が体をぴくりとさせた。
「ち、ちがうだろ」さすがの山矢も少し狼狽したようだった。
ソーニャと名乗った女は「うふっ」と妖艶な笑みをこぼした。
美玖たち3人はまず理恵がはっきりとした口調で
「川名理恵です」
と名乗り、次に智美が消え入りそうな声で
「本多智美です」と続き、最後に美玖が、彼女にしては珍しく呟くような声で
「相良……美玖です……」
と自己紹介した。
「よろしくね」ソーニャは感情のこもらない口調でそう答えた。もはや彼女の関心は美玖たちにはないらしい。「ねぇ、山矢君」
「なんだ」
ソーニャは手にした小さなバッグの中から何かを取り出し「これ」と言って山矢に手渡した。「プレゼント」
山矢はそれを手でつまんで目の前に垂らした。それは銀色の鎖にぶら下げられた紫色の小さなペンダントだった。
「あなたにあげる」
「俺に?」
「もうすぐアクロバット飛行競技会があるでしょ。この紫色の石は値段は高くないんだけど、わたしの生まれ故郷では幸運と安全のお守りとして大事にされているものなの。山矢君の実力なら史上最年少優勝は間違いなし。でも万が一ってことがあるから」
山矢は瞬時、黙り込んだ。そして、ペンダントとソーニャの瞳を見比べた。きっとそれは時間にすれば1秒にも満たなかっただろう。しかし、美玖たちにしてみればそれは永遠にも等しい長さだった。なぜなら山矢が次にとる行動が予想できなかったから――いや、本当は、予想はできていたのだが、その予想通りのことが現実に起こって欲しくないという願望があったから――だった。
「わかった。もらっとくよ」山矢は無情にも、それを受け取ってしまった。
理恵の傍らで再び美玖の体がぴくりと動いた。
「あ、あの……、山矢君……」美玖はなんとか声を絞り出した。「あたしたちそろそろ帰るね……」
山矢は視線を久々に美玖のほうに向けた。
「そうか……」
山矢の反応は相変わらずぶっきらぼうだった。しかし理恵と智美にはその口調が、いつも通りの素っ気なさにも思えたし、いつもとは違う、何か余韻めいたものを残しているようにも思えた。
「じゃね」美玖はくるりと向きを変え、来たときと同じ勢いで駆けだした。
理恵と智美はその場で一礼をしてから美玖の後を追いかけた。
2人が次に美玖に追いつくことができたのは飛行場にほど近いバス停のベンチ前だった。1分ぐらい前に到着していたはずの美玖は、すでにベンチに腰掛け、弁当箱入りの巾着袋を手に提げたまま、がっくりと肩をうなだれていた。
そんな彼女を前にして、友人たちはかけるべき言葉を見つけあぐねた。
「ふふっ」突然、美玖が小さな笑い声をあげた。「あたし、何やってんだろ」
「美玖……」
「なんか、バカみたい。一人ではしゃぎまくって。山矢君はあたしにアクロバット飛行競技会のこと教えてもくれてなかった。でもあのソーニャって女は知ってた。あたしは山矢君の練習を見に来るようになってからまだ2ヶ月。きっとあの女はもっとずっと前から山矢君と親しかったんだよ」
「そんなことわからないじゃない」理恵が言った。
「だってあんなに親しそうだったし」
「彼女は外国育ちなのだから、きっとあれが普通なのよ」智美が反論した。
「いくら外国育ちでもあれは特別だよ。バカみたい、あたしバカみたい。理恵や智美にも迷惑をかけてお弁当作るの手伝わせたりして、ホント、バカみたい」
「ううん、それは違うわ」智美が珍しくきっぱりと言った。「迷惑なんかじゃない。あたしたちがあなたの世話を焼いたのはそうすることが楽しかったから。うまく言えないけど、あたしたちはあなたと喜びや楽しみを共有したかったの。決して迷惑なんかじゃないわ」
「でも」
「智美の言うとおりよ」理恵はいつも通りはっきりとものを言った。「あんたにバカなところがあるとすれば、それは現実を見てないところよ。山矢君、あのソーニャって女に抱きつかれて喜んでた?恋人候補って言われて肯定した?美玖、あんたは勝手な想像を膨らませてうじうじと思い悩むようタイプじゃないでしょうが」
「理恵、智美……」美玖は顔を上げ二人の友の目を交互に見つめた。
「きっと大丈夫よ」智美が応えた。
「今日はお弁当渡し損ねたけど、次は必ず、ね」理恵もそう励ました。
「うん……、わかった」
美玖は自嘲に満ちた作り笑いを捨て、やっと本来の晴れやかな笑顔を取り戻した。
その後、理恵が学校でそれとなく探り出したところによれば、実は山矢はアクロバット飛行競技会のことを美玖にもソーニャにも誰にも言わないつもりだったのに、山矢がコーチと話すのをソーニャが立ち聞きして知ってしまったらしい、とのことだった。
もちろん美玖は山矢に、競技会に応援に行くことを申し出た。山矢は、こちらも当然のごとく難色を示した。競技会の会場が遠くて交通の便が悪いことがその理由だった。しかし、美玖は持ち前の積極性でなんとか山矢から同意を取り付けた。ただそれと引き替えに美玖が部活をさぼって飛行場へ練習を見に来るのを控えるよう約束させられた。その結果、先日失敗に終わった弁当作戦に再チャレンジする機会が、競技会の当日まで訪れないこととなってしまった。
それから10日後の日曜日、遂にその日が来た。
美玖は朝3時に起きて弁当の支度にかかった。某県にある競技会会場までは電車バスを乗り継いで2時間半ほどかかる。その上、日本の競技会に出るのが初めである山矢は、新人扱いのため、演技の順番が早いのである。もっともそのおかげで、演技が終わった後にお昼ご飯としてゆっくり弁当を食べてもらうことができるのだが。
5時に最寄りの駅前で理恵、智美と待ち合わせていつもの路線に乗る。普段はお目にかかることのできない閑散とした都心を抜けるころ、ようやく陽が昇り始めた。某県方面へ向かう電車は対面式クロスシートだったため美玖と理恵は遠慮なく体を伸ばして居眠りをした。智美も眠くて仕方がなかったが乗り過ごすことを心配して結局、一睡もしなかった。
某駅から乗り継いだバスの中で、智美は持参してきた雑誌を拡げて美玖に見せた。そこには『史上最年少で優勝を狙う天才パイロット山矢健太』という記事が小さく掲載されていた。この前ソーニャが言っていた「山矢君なら優勝間違いなし」という言葉は、決して大袈裟ではなかったのである。
そのうち美玖と理恵がうつらうつらし始めた。心配性の智美は乗り過ごしはしないかとまたやきもきした。しかしそれは杞憂だった。
「見て」
理恵が窓の外を指さした。
3人で山矢の練習を見に行ったあの日と同様、いやあの日以上に晴れ渡っている真っ青な空に、セスナ機が一機、ぐるりと輪を描いたのだった。
バスを降りた後も美玖たちは会場までの道のりを迷うことはなかった。青空の中で優雅に舞踊する飛行機を目指して歩けばよかったからである。
彼女たちは一般の客席を通り過ぎ、関係者以外立入禁止という看板の前で睨みをきかせている係員に、山矢に昨日渡されていた通行証を見せ、奥へと進んだ。
山矢たちが陣取っている場所はすぐにわかった。観客にアピールするために派手に塗装された無数の飛行機の群の中にあっても、あの真っ赤な複葉機はひときわ目立つ存在だった。
「山矢君」美玖は機体のそばに立つ山矢の背中に声をかけた。
山矢はすぐに振り向き「おう」と、いつも通りぶっきらぼうな相づちを返してきた。
美玖は彼のそばまで歩み寄り
「頑張ってね」
と言った。
「おう」
「あの、山矢君」美玖は今度は一瞬もためらわなかった。「これ、お弁当。演技が終るころちょうどお昼でしょ」
「ああ」山矢は、美玖が差し出した巾着袋をまじまじと見つめた。
「食べてね」
理恵と智美はそのとき初めて見た。あの山矢健太が本当に嬉しそうに微笑むところを。
「ああ、わかった」
瞬間、山矢と美玖の存在するその空間が、暖かい色で包まれた。理恵と智美にはそう感じられた。それは本当に心地よい空間だった。本来第3者にすぎない彼女たちにとってさえそうなのである。美玖本人の感じている喜びが一体どのようなものなのか、彼女たちには想像もつかなかった。
しかし次の瞬間、その空間の調和は、突然流れ込んできたドぎついピンク色によって乱されてしまった。
「やまやくぅぅぅぅん」
ソーニャだった。ド派手なピンク色の超ミニワンピースを着たソーニャが、その大きな体からは信じられないような敏捷さで、山矢と美玖の間にするっと割り込んだのである。
「ハロー、山矢君」
「お、おう」山矢もびっくりした様子だった。
「頑張ってね。絶対優勝してね」ソーニャはこの前と同様、山矢の腕を取って胸の谷間にに押しつけ、彼の顔から10センチほどのところにまでその唇を近づけて話した。
「ああ、頑張る」
「ねえ、わたしのあげたお守り、持ってる」
「あ?あの紫色の石のついたペンダントか?たぶんどこかにあると思う」
「お願い、演技中は必ず首に掛けて。大切なお守りだから」
「ああ」
「絶対よ」
「わかったよ」
山矢とソーニャが仲むつまじく話すさまを他人が見れば、まず間違いなく恋人同士だと思うだろう。理恵と智美は心配になって、恐る恐る美玖のほうに目をやった。
ところが美玖は、堂々と胸を張ってソーニャを睨み付けていた。口元に不敵な笑みさえ浮かべている。
理恵と智美は取り敢えず安心した。ただ、ここでもう一つ別の心配事が生じた。美玖のあの挑戦的な視線にソーニャがどう反応するか、ということである。
ソーニャも美玖の視線に気づいた。まさかこんなところで修羅場を演じることになるのだろうか。智美の心配症はその度を極めた。
ソーニャはしかし、その視線を軽い微笑みでいなし、山矢に「じゃあね」と声を掛けてから、出現時と同じ敏捷さで、するりとその場を去っていったのだった。
後に残された4人は呆然とその背中を見送った。
彼らがようやく我に返ったのは「おい健太」という、男の人の声がしたときだった。
「コーチが呼んでる」山矢が言った。「俺、そろそろ準備しなきゃ」
「うん、わかった」美玖が応えた。「頑張ってね」
「ああ」
「じゃあ、またあとで」美玖はきびすを返そうとした。
「あ、相良」山矢は唐突に美玖を呼び止めた。
美玖はちょっとびっくりした。「何?」
「俺、演技が終わったらお前に言いたいことがある。ずっと前から言いたいと思っていたことなんだ」いつも伏し目がちに話す山矢が珍しく美玖の目を見つめていた。
美玖は最上の微笑みを返した。「うん」
「じゃあな」山矢はくるりと背を向け、複葉機のほうへ歩いていった。
「さて」美玖は友のほうを振り返った。「あたしたちは観客席のほうへ移動しよ」
「うん」理恵と智美はうなずいた。
いよいよ山矢の演技の順番が回ってきた。
「エントリーナンバー3番。山矢健太」
DJふうの場内アナウンスがそう告げると、それほどたくさんはいない観客たちの間から控えめなどよめきがわき起こった。山矢健太の名は結構有名らしい。
「山矢君」
美玖は祈るように独り言ち、弁当箱入りの巾着袋を握りしめた。そして少し離れたところにある飛行場からあの赤い複葉機が飛んでくるのをじっと待った。
ところがどういう訳か、いつまで経っても山矢の機体は現れる気配を見せなかったのである。