目の見た夢
カタカタと、ひしゃげたフェンスが風に吹かれていた。
重い、灰色の雲が空を覆う───曇天。
荒涼と雑然と。
見渡せばそこは打ち捨てられたコンクリートや突き出す鉄骨が累々と地に横たわり、生の気配さえなく、どこまでもどこまでも続いて行く。
かつては建築物だったものたち。
もはや崩れた、昔日の。
カタカタカタ。
風が吹く。
───ねえ、あなたはどこにいるの?
無機質な蛍光灯の明かりにさえ温もりを感ずるような、冷ややかなコンクリートが剥き出しの部屋。死のように音の絶えたそこで、長い髪の彼女が振り返るのを、見た。
「どこに行ったんだろう」
殺風景なこの部屋にはそう呟く彼女、由美子さんともう一人、白衣姿の女性、早紀さんしか見当たらない。後は何に使うのかも分からない機械類が、黒々としたコードに半ば埋もれるようにして、愛想のない部屋の壁に彩りを添えるばかりだ。窓さえないこの場所は、一体何の為のものなのだろう。
ぼんやりと手近なコードを弄っていた早紀さんも手を止め、少し苦みを含む笑みを漏らした。
「博士は研究と言ってはあちらこちらの施設を渡り歩いていますからね。月が欠けて以来、そうでもしないと必要な機材なんて、使うことのできない状況ですから。後考えられるのはここから少し行った所にある、彼ご贔屓の美術館とかでしょうか」
由美子さんが身じろいだ。長い髪が目に掛かる。実はその髪を少しだけ鬱陶しく感じているのは、内緒だ。だけれど彼女の真っ直ぐな黒髪は切ったり結んだりしてしまうにはちょっと惜しいくらいなので、まあしょうがないか、とも思っていたりする。
「へぇ、美術館。科学者さんのような人でも行くんですね」
きっと先入観なのだけれど、私もなんだか不思議な感じがする。理系という人種は、芸術なんて無駄だと言ってはばからないイメージがあるのだ。意外に思って彼女を見ると、早紀さんはちょっと嬉しそうに目を細めた。途端、彼女の印象が少しだけ柔らかいものとなる。
「彼は芸術にも造詣が深いんです」
博士の話をするときの彼女はいつもこうだ。早紀さんは普段は博士の研究などの手伝いをする、いわゆる助手的な立場にあるらしい。しかしこう言ってしまうのはなんだが、そういうことに関して、とても分かりやすい人だ。
私が美術館に行ってみることを提案したら、由美子さんも頷く。
「その美術館、行ってみたいです。ここからだとどのくらいになるのでしょう」
早紀さんは天井あたりに目をやって、少しの間思案顔をした。
「そうですね。ここからだとそんなには遠くなかったと思います。唯ちょっとだけ道が険しくなりますが」
「まあ、今の世の中こんなだから、まともな道なんて最初から期待してませんよ。この施設に来るまでだって大概だったじゃないですか」
由美子さんは気にするなと手をひらひらさせた。確かに彼女の言うことはもっともなのだ。今時、生きていくためにはロッククライミング紛いのことは、日常といっても過言ではない。この間まで病み上がりで、あんなにほっそりしていた由美子さんも、今ではすっかり健康的な筋肉の持ち主となっている。そのお蔭で太くなった足を、実は彼女がこっそり気にしていることも、私は知っていた。
早紀さんもにこりと笑う。
「そう言っていただけるなら。私も最近あちらには顔を見せていなかったので、そろそろ伺おうかと思っていたところなんです」
そうして一度室内をぐるりとチェックしてから、彼女はこの部屋唯一の扉へ白い手を掛ける。私と由美子さんもそれに続こうと歩き出し……私は目の端に気になるものを見つけた。
気になるといっては言い過ぎかもしれない。ただ何となく意識に引っかかった、それだけの事だった。 由美子さんに目配せをすると、彼女も引き返して、スチール棚の上に無造作に置かれたそれを手に取った。どうも薄いA4サイズのファイルのようだ。裏、表と引っ繰り返す。何ということはない、研究所やそこらの廃墟にならいくらでも転がっているような、実験の様子などを記す黒のファイル。
彼女は、そのファイルを、開く。
一瞬。
文章と図が書かれていた。
なんだろう、と思い、
……彼女が走ってきた。
赤と緑とオレンジが入り混じり、透けるような青と蹂躙するような暗い黄色が跋扈する。眩暈が。
走ってくる。走ってくる。長い長い、黒髪が、乱れ。歪んでいる。哄笑する色彩が。振り乱される黒髪が。───眩暈が。
ふいに。
ぬるい温度を感じたのだ。温度を。生ぬるい、どろっとした温度を。肌に。……肌に?
肌だ。肌だ!肌はどこにある?どこだ!眩暈が。眩暈がひどい。うるさい!でも声が。うるさい!うるさい!肌が……。
彼女が走って
「あれが美術館?」
由美子さんが困ったように首を傾げる。髪が目に入って痛い。
「そう。面白いでしょう」
「面白い、面白い……まぁ、確かに」
足元は瓦礫の山。元は何だったかも分からない錆びついた金属片や棒、コンクリートの塊に割れたガラスが、文字通り小高い山を形成していた。目の前はそんな有象無象で出来上がった緩やかな崖である。曇り空の下、その淵で私たちは眼下に聳える巨大な建築物らしきものを眺めて立っていた。早紀さんの白い白衣が風に大きく翻る。
彼女が美術館だと言うその建物は、ひどく不格好なものだった。まるでその辺に転がっている金属を無理に溶接し繋ぎ合わせ、何とか建物の形にしようとした、という様子なのだ。どうにも今立っている場所と、たいして変わらないように思えてしかたがない。広がる鈍色の空のもと、その威容は奇妙な存在感をもって、そこにあった。
「崩れないかな」
心細げな由美子さんの呟きは、私の気持ちそのままだ。何といってもこれから私たちはあの建物に入ろうとしているのだから。
「ここからは崖下りになります。舌を噛まないように気を付けてくださいね。風も強いことですし、絡まないようにもお気をつけて」
そう言う早紀さんは、ふわりと柔らかく微笑んだ。
建物の入り口に着く頃には、重々しく渦巻く雲の群れにも、微かな赤みが紛れ込んでいた。そろそろ日が暮れるらしい。風もいよいよ荒れ模様で、帰りにこの崖を引き返すことはもう無理なんじゃないかと思う。それとも美術館を出る頃には、瓦礫の山自体が崩れてしまっているだろうか。もしそんなことになればこの美術館もただでは済まないことだろう。私の早めに退散しようという提案に、由美子さんも幾分真剣に同意してくれた。
「いらっしゃいませ」
突然、金属的な声が聞こえてきた。
正面のいかにも拾ってきたベニヤ板という風な、腐りかけた木の扉には、打ち付けた釘から鎖が下げられており、その先にある汚れた黄色のプラスチック板が、どうやら受付だったようだ。このキンキンとした声はそこから聞こえてきているらしい。
「入館パスポートをお持ちでしょうか」
早紀さんに視線を向けると、彼女は白衣の胸ポケットから手のひらほどの銀色のプレートを取り出して、ところどころ木のめくれ上がった扉に翳す。よく見てみれば、そこにはpassという字が荒く彫られていた。よく見ないと分からないのは、その他にも散々傷が付いているからである。
「認証しました。宗田早紀さん。ごゆっくりどうぞ」
ドアノブが無いな、と思っていたら、意外にも自動で手前に開きだした。
「あれ。私たちはパスポート無いけど、入っていいのかな」
由美子さんが困惑したように、彼女がプレートをしまうのを見る。
「大丈夫でしょう。その辺りは適当ですから、ここ。そもそもこのご時世、営利目的で美術館なんて運営する人はいませんし、美術品にしても精々が、ばらして何に再利用できるか考える人ばかりでしょう」
早紀さんは建物の中に入って行く。慣れた様子であることから、よく博士とここに来ているだろうことが察せられた。私と由美子さんもそれに続く。
見上げれば案の定、高い高い天井からは光が漏れ込んで来ている。鉄骨が幾重にも渡されてはいるが、いかな曇り空の茫洋とした光でも、それを縫うようにして、おぼろげに陽光は射し込んで来ていた。ぼんやりとした薄明かりに、ふと意識が曖昧になるような頼りなさを覚える。
「隙間風は吹きますけど、それにしてもすごい建物ですね」
「このくらいの規模になると、天井をふさぐのにも一苦労だと伺いました。しかしここまで造り上げただけでも相当なご苦労がしのばれますね」
鉄板を敷き詰めた床の上を、細かな砂粒が渦を描いて舞っている。床は吹き込んだ風によって、一面にざらついた斑模様を展開していた。前を歩く早紀さんの足元の鉄板が、わずかにたわむ。
「それでも展示室の方は、風雨が入り込まないようにかなりしっかりと造ってありますよ。何でもそこだけは、この辺りに建っていた比較的きれいな状態の無人の建物を、そのまま再利用して使っているそうです。博士も同じような事をしながら研究を続けているものですから、そうした折にここの館長と知り合って、以来時間を見つけてはこちらに伺っていらっしゃるようですね」
私はなるほど、と頷いた。同じ荒れ地を漁る変わり者どうし、気が合ったということなのかもしれない。
ぐるりと視線を巡らせば、ここはエントランスと呼んでいいのか、がらんとした何もない空間が広がっている。受付もなければ人の気配さえなく、ただ風のみが寂しげに吹いていた。唯一目につくのが右手の壁沿いを登ってゆく階段であるから、展示室は上階にあるのかもしれない。作品を傷めないための配慮だろうか。
「展示室は上の階ですか?」
階段に目を留めて、由美子さんは少し不安気だ。その針金細工を歪めたような見るからに不安定な様に、何やら感じるものがあったらしい。階段は外を吹く強風に、建物の壁ごとわずかに軋みをあげているようだった。
「はい。地表から距離を取ることで、地面から直接伝わる湿気などを避ける構造になってるんです」
特に気にした風もなく、早紀さんは階段に足を掛けていた。私も足を出しあぐねている由美子さんを励ましつつ、続く。
階段は足元が抜けることこそなかったが、よく揺れた。由美子さんなどは不規則な意匠の手すりから片時も手を離さずに、恐々と何とか上り切ったほどだ。しかしこの階段、いつか落ちるのではないか。私としては申し訳なさそうにこちらを気遣い続けてくれた早紀さんこそが心配だった。
「結構上ったな」
由美子さんの言葉に、私も無骨な柵の間から先ほどまでいたエントランスを見下ろす。私たちが立ち去った今、そこは何事もなかったかのように、再び無人の空間へと戻っていた。風が吹き抜け、由美子さんの黒髪が舞う。
静寂。
話し声も絶え。
世界はこんなに静かだったろうか?
「こちらが第一展示室になります」
「展示室1」という札の掛けられた、金属製の薄い扉が開かれる。
そこは真っ白い部屋だった。照明をを照り返す床はよく磨かれた大理石であり、壁と天井は石膏なのだろうか、全て隙なく白で塗り込められている。十二畳はあろうかという部屋の壁際には絵画や透明なケースに保護されたオブジェなどが、整然と展示されていた。外観や一階部分とはかなり趣を異にしている。神経質なほどに。
「あれ」
肌寒ささえ錯覚してしまいそうなほどのその部屋には、先客がいた。
驚いたように見開かれた目。しかしそれはどこか楽しげだった。若い、青年と言っも良いような年頃に見える。まだ二十代ではないのだろうか。早紀さんと同じような、くたびれた白衣を着ている。白衣。どこか幼ささえ感じさせる、無垢な表情。
既視感を覚えた。
───博士?
「早紀君じゃないか。二人……三人かな。皆してこんな所まで、どうしたの」
早紀さんの後を由美子さんと私も一緒に、狭い入り口をくぐって部屋に入る。過剰なまでに白を煽る照明が目に痛い。
「お二人が博士に会いたいということだったので、もしかしたらこちらかと思い、少し足を延ばして来てみました」
早紀さんがこれまでの経緯を簡潔に告げる。
「そうか。研究熱心だね」
「いえ、博士の作品に興味を引かれただけです」
そう言う彼女は心なし嬉しそうだ。
「……あの」
そこで由美子さんは躊躇いがちに言葉を挟んだ。博士の目が、初めてこちらに向けられる。けれどもその視線は私たちを通り越して、何かもっと別のものを見ているように感じられた。夢見るように。そこには一体何があるのか。私は振り返りたい衝動を辛うじて堪える。
「あぁ、そういえば君たちも久しぶりだね。あれから体調の方はどう?」
「体調の方は、大丈夫、です」
そうしてまた彼女は「……あの」と小さく呟いた。そこで私もさすがに由美子さんの様子に不審を覚えて顔を確認しようとしたが、しかし結局何だか良く分からなかった。けれども彼女がわずかに震えていることは分かった。緊張だろうか。じっと見守っていると、そっと息を吐き出して、口を開いた。
「あれからずっと会いたいと思っていたんです」
博士は首を傾げた。私も内心首を捻る。博士が不思議そうにするのも尤もだ。私でさえ彼女の言わんとすることが分からないのだから。
「何かあったの?」
沈黙。由美子さんは瞬きをしたようだった。
「何か、と言うか」
一呼吸。
「───これは、どういうことでしょうか」
「これ」?何のことだろうか。
「これ……と言うのは」
博士は尚も首を傾げている。由美子さんは思いつめたようにじっと彼を見詰めた。
「助けていただいたことには感謝しているんです。生きていること自体が奇跡のようだとも。でも、だからって……こんな、こんなことって。こんな……気持ち悪い……」
彼女の言葉はそれ以上続かず、俯いてしまった。目が合う。眉を寄せ歯を食いしばり、泣きそうになるのを懸命にこらえている様子は、とてもじゃないが痛々しくて見ていられなかった。私は説明を求める眼差しを、博士に向ける。
彼はようやく合点が行ったようで、「ああ」と頷いた。
「あれ、気に入らなかったのかな。たしかに僕の感性は理解されないことが多いから、まあ、しょうがないのかな。でもせっかくここに来たなら、ちょっとここの作品を見ていくといいよ。そもそも君たちの時も、ここの作品からインスピレーションを得たからね。ここの館長とは、趣味が合うんだ」
特に気分を害した様子はなく、むしろずっと誰かに話したかったことがやっと話せる、といった様子だ。けれども私には、彼の言うことがいまいち呑み込めなかった。そもそも一体……これは何の話だ?
「ここの作品を見ていれば、きっと君にも自分がどんなに素敵なのか、分かるんじゃないかな」
「そうだ」と言って、彼は目を彷徨わせる。
「そう、これが君たちのモデルとなった絵だ」
博士は、私たちの右後方を、緩やかに指し示す。
私たちは振り返り、
───キィ……ン、と。
耳鳴りがした。
キャァ───アアアア。悲鳴が。
笑い声、なのだろうか?
目玉目玉目玉。目玉の群れの中で私は。ああ、生暖かい。口の中にぬるりとした感触を味わった。鉄の味。鉄をどろどろ煮立てたような、でもこれは腐りかけだ。ツーンとした腐敗臭。
誰かが全身に覆いかぶさっている。そいつのどくどくと蠢く血潮を感じた。私が。私が感じた。私が。私が!決してそいつなんかじゃないっ。
雑多なさざめきが耳をつんざく。ギャアギャアと、耳を塞ぎたくなるような。でも、どれが、私の耳?手をさまよわせる。
言葉を使え!言葉を。言葉だけが音を繋ぐ……はず。
言葉を。
目が乾いていた。
そうか。走っているからか。私は由美子さんと一緒に走っている。
目をしばたく。
真っ白な廊下だった。漂白したように何もない。ただ蛍光灯だけが淡々と天井に並ぶ。しかしあまり激しい動きをされると、視界がぶれる。一列に続く蛍光灯がぐるぐるとダブる。
やっぱり目が乾いた。
やがて前方に、簡素な金属の扉が見えてきた。白一色の廊下に、金属の重い輝きが浮かび上がる。由美子さんはその扉に飛びついて、勢いよく手前に開いた。
現れたのは、薄暗く埃っぽい部屋。
廃屋、のような。
訝しがるように彼女は一度立ち止まった。そしてゆっくりと中へ踏み入る。それだけで傷みの激しい木の床は沈み込み、埃が舞った。涙が浮かぶ。何度か瞬いて視界をはっきりさせてから改めて室内を見回すと、そこで妙な感覚があった。私はこの場所を、よく知っているのではないだろうか。
何があったというのだろう。棚やタンスはあらかた倒れ、崩れるように壊れてしまっている。割れ落ちた窓ガラスの代わりには、錆びた鉄板が打ち付けてあった。画面に罅の入ったテレビを迂回して、奥に進む。由美子さんの足が、欠けた白い皿をさらに砕いてゆく。何故だろう、仄かに胸が疼くような気がして私は目を眇めた。
「なに、これ……」
由美子さんがぽつりと呟く。するとそれに答える声があった。
「あの災害で残った家屋の一つです。こちらの館長はこういったものを蒐集して、美術館の展示室として再利用しているそうですよ。ただ、これだけは持ち主が半分生きているような状態なので、改装はせずにそのまま残しているようですね」
いつの間にかそこには、早紀さんが立っていた。ちょっと苦笑しているようだ。そういえばいつ私は、彼女と別れてしまったのだろう。嫌な息苦しさを感じる。
「半分生きているような……?」
困惑したように由美子さんは繰り返した。
「あなたと一緒にいる方の事です」
びっくりしたような瞳がこちらを向いた。けれども驚いたのはこちらの方である。あまりの事に、理解が及ばない。
「博士と館長はとても気が合うようでして、この辺りを発掘中にお互いにとって有用なものを見付けることがあれば、交換し合っていらっしゃるんです。そのご関係の切っ掛けにもなったのが、この建物だったんです」
そう言って目を細める彼女の視線の先には、机だったのだろう、大きな長方形の板が壁に立て掛けられていた。しかしなぜ何もかもが床の上に積み重なる中で、それだけがそんな風に置かれているのか。
「───あの日」
私はそこから目が離せない。
「もう何十年前になるのでしたか。月に建設された大型研究施設。すべての科学技術、優秀な研究者、そして情報がそこに集められました。私が生まれる前の話ですから、もうそれは当たり前のようにそこにありましたね」
机には木目があったはずだ。暗い中、小さなライトの明かりに浮かび上がる、泣いた顔のような。
「でも結局博士がそこに呼ばれることはなかったのですから、私はそんなに大した物ではなかったんだと思っています。実際、地球の方も巻き込んでのあの事故以来、何があったものかこちらとは音信不通のままですしね。私たちにわかることは、その時大きく抉れた月は、もう満ちることが無いということくらい」
いつも持ち歩いている電子末端の付属ライト。動かない体で何とか操作するも、音声通信も出来なければ、情報収得も出来ない。もしかして衝撃で電子末端が壊れてしまったんじゃと、瞬間、息が詰まった。
「博士はそれでも研究を続けることを諦めませんでした。いえ、あなたたちと館長のおかげで、立ち直る事が出来たとおっしゃっていました」
二度目の衝撃。世界の終わるような轟音。
「事故から数日後のあの日、彼は奇跡というものに出会ったと言っていました」
……そのあと、私は、どうした?
「館長が一人の人間を、診療所のようなことをしていた博士のとこへ、運び込んでいらっしゃったんです。この家で見つかった、もう助かるかどうかも怪しい、あなたを」
「私」は。早紀さんを見返した。彼女は確かに「私」を見ていた。「私」の目を。由美子さんではなく、「私」を。
「博士はずいぶん悩んでいらっしゃいました。生命維持装置で暫く持たせることはできましたが、そもそも物資の極端に不足している現在、それにも限界がありましたし。私も見兼ねて、博士に気分転換を進めました。こちらの美術館にでも行ってみればどうかと」
「それで、あの絵を見たんですね」
ぽつりと、問いかけともいえない呟きが、由美子さんの口から零れた。
「はい。そのあとすぐに運び込まれてきた瀕死のあなたを見て、すぐに心は決まったそうです」
由美子さんが力を込めて服の裾を握りこむのが目に入る。
「でも、……それでも、他になかったんですか。助けられたのは分かっています。だけど、人の命を救うって……こんなことなんでしょうか。私たちは本当に、自分の命を救ってもらったのでしょうか」
そこで早紀さんは、何だか不思議そうな顔をした。
「……え?だって博士は医者じゃありませんよ。彼は科学者です。人の命を救うのは───医者の方です」
空白が生まれた。
そして、甲高い悲鳴が響き渡る。
それは誰のものだったのだろう?私だろうか、それとも由美子さんのものだったのだろうか。どうしても分からなかった。
私たちは部屋の奥に駆け出した。ドアが外れてぽっかりと口をあけた廊下へと出て、なおも駆ける。しかし思考は回り続ける。彼女の言ったことの意味を。私は、私は、私は、何だ。
ひなびた家屋の、暗い暗い廊下の突き当たり。きらりと何かが鈍く反射した。視界がぶれて、よく見えない。目を凝らす。錆びの浮いた大鏡らしきそこに、何かが映っていた。
人が。
人が走っている。
長い黒髪を振り乱し、彼女が走ってくる。悲鳴か哄笑か。彼女は何かを叫んでいる。でもうまく聞き取れない。なぜならそれは、言葉ではないからだ。
“由美子さん”
声を掛けようとして、それが出来ない事に気が付いた。声の出し方が分からない。何かが変だ。喉は一体どこにある?喉を掻き毟ろうとして───焦燥を感じた。
そういえば走る彼女の舌は、異様に長くはないだろうか。腕ほどの長さもあるでろんとした赤黒い舌が、彼女の走るのに合わせて大きく揺れる。絡まるのを心配してしまうほどに。目が回る。くらくらと、眩暈にも似て。
長い舌の上に、何かが見えた。既視感。そうだ絵だ。あの絵の中で長い黒髪の女性は長い長い舌を垂らし、その舌の上には……。
ギョロリと。
その舌の上には、目玉が一つ、こちらを向いてくっついていた。
そいつと目があって、ふいに私は理解する。
ああ、あれは私だ。彼女の舌の上で、目玉だけの「私」が鏡に映っている。
彼女は鏡の前で立ち止まった。滑稽に見開かれた三つの目。
キャァ───アアアア。
どこかで絶叫が響いたような気がした。
───気のせいかもしれない。
◇
………
………
………
………
わたしは、どこ?