幼きチャンピオン~神様は見ていらっしゃった
暑い盛りの夏が嘘のようになくなって秋が訪れる。この秋の声を聞くと私は思い出すことがひとつある。
感傷的な秋だからそう思うのか秋だからなんとなく拘りを持つのか。
いずれにしろ胸がジーンとなってしまう秋の思い出というやつだ。
思い出の秋はひとり息子が小学5年生で参加をした大運動会だった。
学校の運動会なんていつも開催され珍しいこともないはずである。小学生の子供たちが元気に跳んだり跳ねたりするオリンピックの小型でお祭り騒ぎだとしか思っていなかった。
その小学生のガキんちょたちの祭典で我が息子は大活躍をしてみせた。親の自分で言うのもなんだが私に似てスポーツは万能。しかも足は早かった。
私は子供の時から跳んだり跳ねたりは大の得意でね。小学校は風邪ひとつひかない元気な男の子だった。健康優良児で6年間無欠席の皆勤賞。まあ自慢は自慢だが。
私は走らせたら早かった。近所の子供のカケッコはいつも一番だった。短距離では他人の後ろを走るなんて記憶にないくらいだ。
私の子供も近所のガキンチョと争って走って負けたことはあまりないじゃあないかと思う。昔から素早い動きで私や女房をハラハラさせまくりだったしな。
そんな丈夫な健康優良児の息子が朝私にこう言ってきた。
「お父さん今度の日曜日に学校で秋の大運動会があるんだ。僕頑張って走るから見に来てよ。僕さ早いんだ。チャンピオンに頑張ってなるから。約束したよ来てよ。来てくれたら嬉しいなあ」
朝のトーストをパクッとした私は何のことだろうかと目が点になってしまう。日頃息子とはコミュニケーションが取れていない証拠が暴露されてしまった。
後から女房に説明を受ける。女房にはいつも学校の出来事を息子は報告をしている。女房経由で息子を得心をする有り様だった。
父親の私に大運動会を見に来て欲しい。ウキウキとした息子の顔は印象であった。
「大運動会で僕ねチャンピオンレースに出てやるんだ。かっこよくチャンピオンになる。お父さん見に来てよ」
息子はお父さん頼むよ見に来てねと言うと一目散に外に駆けて出てしまった。勢い小学校まで駈けて行きそうである。
息子の背中のランドセルがカタカタと音を立てる。元気な息子は私の自慢である。
しかし。私はトーストをかじりコーヒーを飲もうかどうしようかの朝食の最中である。
「えっ早いぞ。俺はまだ行くとも行かないとも返事していない」
息子に逃げられた後で女房はケラケラと笑い出した。
親子は似ているわねぇ。早とちりはあなたも同じですわ。
女房に笑われてコーヒーをゴックンとやる。さて息子の言う大運動会の"チャンピオンレース"とはなにか。私は小学校の記憶を辿ってみた。
私も同じ小学校を卒業しているからわかる。
栄光のチャンピオンレースと呼ばれていた運動会のレース。それは運動会にたくさんある競技種目の中で小学5年と6年だけが争う栄光のレースだった。
午前の最後に各クラスで予選レースが行われ決勝進出の選手が決まる。この時点ですでにクラスの代表で英雄だった。
大運動会の最後の種目、最高の盛り上がりフィナーレとして決勝が行われる。
優勝をしたら小学校で一番足の早い子供。このチャンピオンレースの優勝者は英雄の仲間入りを果たしたことになり永遠に名前が小学校に残る。言わば学校で一番のスターを決めるようなものだ。
午前の5年と6年各クラスのチャンピオンレースの予選だって楽なものではない。この辺の子供は足腰の丈夫なやつばかり。なんせ小学校入学するかしないかで野球やサッカーを初めている。
運動能力の高い子供たちが運動場を力いっぱい駆け回る。走ったタイムの上位選手を選抜して決勝のフィナーレ・チャンピオンレースに行く。
小6年はともかく1学年下の5年生の息子が運動会の花形チャンピオンレースで優勝をすると言い出した。私はエッと思い息子を見てしまう。悪い冗談をこの歳から言うのか我が息子よ。
「優勝するよお父さん」
息子は自信満々な顔をして俺に答える。
チャンピオンレースの類いはこの東海地方の運動会では必ずあるようだ。単にカケッコという話だが花形レースはいずこも同じで大人気と言われている。
カケッコのチャンピオンレースに夢中になるのは何も子供だけではない。
学校中が夢中である。教職員も含めて熱狂する大変な人気種目になっていた。
息子の"優勝をするよっお父さん"の意味がより私にはわからなくなる。なんせ学校のみんなが優勝を目指して切磋琢磨だからだ。親としては予選だけ通過してくれたらそれでよかった。
運動会の観客席の父兄もチャンピオンレースを知っている。もしかして息子がレースに出たらその盛り上がりは大変ものだった。
だから小学5年の我が子供がレースに憧れさらに興奮する由縁であった。
私も同じ小学時代にチャンピオンレースに一度だけ出たことがある。6年でなんとかクラスの予選を通過することができた。そんな予選を通過しただけでも嬉しかったことはよく覚えている。
予選通過をした私はクラスの英雄だった。同じクラスにいた憧れの女の子からエールを送ってもらい有頂天だった。
「足が早いのね。決勝でチャンピオンになって。私応援しているわ」
憧れの女の子に応援しますなんて言われて背筋がゾックとした。
だけどチャンピオンレース(決勝)そのものはあまり覚えていない。なんとなくヨーイドンのピストルが鳴りみんなの後ろを走っていたような記憶しかない。決勝の選手の早いの何のって。
同学年にはプロ野球やJリーグに行って活躍する者もいた。あんな連中に勝てたら俺がプロ野球かサッカーに行けた。へたしたらオリンピック出場果たしたぞ。
チャンピオンレースはレベルが高く子供たちみんなの憧れだ。
運動会が近くなるにつれ息子はチャンピオンレースの練習に明け暮れた。クラスの英雄になりたいという浅はかな欲望。
いやいやそれだけで練習に打ち込むのではなかった。
「また記録が伸びたわね」
息子は体育の授業で短距離のタイムを計測してもらう。その記録がクラスで一番であったことと。
なんと小学校の学童記録に僅か数秒の違いであったらしい。
計測をした教師は自分のタイムキーパーがミスだったかもしれないと思う。体育を専門にする同僚に相談をした。相談を受けたのは体育の女教師。
ここからは申し訳ないが女房から聞いた話となってしまう。
相談を受けた女教師は体育大学時代に短距離の選手だった。インカレの100や200を走ったことが自慢。学童の短距離育成が専門である。
我が息子は体育の授業で好記録が出たと聞きさっそく女教師は走らせてみる。
「うーん好記録ね。ストップウォッチは取り扱いに馴れないとミスジャッジやロスタイムがあるからなんとも言えないわ」
彼女は息子の好記録には半信半疑。鼻から信じていなかった。
授業後に息子は呼ばれて運動場をこの女教師とタイムトライアルをすることになる。女教師は20台前半。インカレでは学生記録に後数秒の快足ぶりを見せた短距離ランナーらしい。女房が言うには美人さんだとか。
女教師は手加減はしないからっと50を計測する。
美人ランナーと学童の息子。同じスタートラインに並びヨーイドン!
息子はクラウチングスタートがぎこちない。足を出す瞬間から遅れてしまう。スタートは練習不足で女教師に大きくリードをされた。
タイムは?
「あらっ早いことは早いわ」
小学校5年の50の学童記録に数秒遅れのタイムを叩き出したようだ。
「スタートを徹底的に練習したら、ひょっとして」
我が県の学童記録は破れるのではないかと女教師は思ったらしい。
続いて100である。こちらは50の倍だからスタートのへたな息子は記録が伸びるのではないかと思われた。
だがそれはシロウトの浅はかさ。聞くと息子のような体力のない学童にはとてつもない長い短距離にあたるらしい。全力で走り切ることはまず無理。女教師としても参考程度という気であった。
女教師と息子。スタートラインに立つ。
ヨーイドン!
前半の息子。歯を喰いしばりインカレランナーについていく。差は数メートル。60〜70まで差を開かないように追走をする。子供ゆえにガムシャラに走ったようだ。
あらっなかなかやるわね。女教師は背中で息子の意気込みを感じた。
しかし調子のいいのはここまで。後半はバテバテになり失速をしてしまう。全力疾走が失速疾走になってしまう。
タイムはどうか。
「うーん前半の走りを考えたら早いことは早いわ。鍛えあげたらもう少しいける可能性もあるわね」
女教師は息子の頭を優しく撫でてくれた。
それから息子は女教師の特別レッスンを受けることになる。なんでも彼女の大学が関係するスポーツトレーニングセンターにお誘いがあったとか。
平日は学校で軽めのトレーニングを受け土日はトレーニングセンターで徹底的に走り込む。
女房は朝から息子の弁当を用意し張り切って出かける。
「先生の言うには息子さんは走りのセンスが良いですって。なんでも手足の運びが天性のもの。うまく鍛えあげたらオリンピック出場も可能なんですって」
女房からオリンピックなどと聞いたら私は目が点になり飛びだしてしまいそうだった。
いくら悪い冗談だとしてもオリンピック出場は言い過ぎだぜ。手短かな県大会だとか小学生陸上大会とかで止めておいて欲しい。
その悪い冗談オリンピック出場なんて言うから女房は"その気"になってしまう。
「早く走らせるには食事も大切なんですって。あなたみたいに好きだけガバガバ食べていては太るだけ。早く走ることはできないの」
トレーニングセンターの専属栄養士から学童向け栄養バランスを教えてもらう。
元来料理は得意な女房は躍起になってしまう。食べて走ったらオリンピックと短絡的な考えにドップリ浸かる。
こちらは別に早く走ったりしたくないぞ。遅く走ったところで日常生活に支障なんてないじゃあないか。そりゃあ女房なんかはバーゲン売り場で走ったりする必要があるけど。
「エッあなた。何か仰いましたか」
しかし息子のオリンピックのために豆や野菜ばかり毎日食べさせられてはなあ。草食動物になってしまう。
「お豆さんは健康にもいいのよ。家計も助かるわ。あの子好き嫌いがないからよかったわあ。また栄養士さんからレシピをもらいましたの。肺活量が増えて楽に呼吸できるようになるみたい」
女房の熱を入れた草食動物の餌のおかげで息子の記録は伸びたらしいけどね。こちらは愚痴が増えて困ったが。
息子はトレーニングセンターに通い出して間もなく大運動会を迎える。
何もしていない子供とは違って息子はバンバンと自己新記録を更新していく。トレーニングの成果か女房の草食動物かの効果ありだった。
「ヘヘッまた新記録だね。先生っやったよ」
息子は記録更新の度に女教師に誉めてもらう。鼻の頭を照れなからこする。
「僕っ先生に誉められちゃった。もう少しで学校記録更新だって。まだまだ早く走りたいや」
秋の季節も手伝い息子の調子は乗りに乗った感じだ。いや記録ウンヌンより美人の先生がよかったんじゃあないか。なんせ父親が父親だから。
学校にチャンピオンレースの学童記録が残っている。このチャンピオンレース記録にわずか数秒まで迫るタイムを息子はたたき出していく。練習のタイムキーパーでだがともするとその記録を抜くこともあった。
女房と息子は息を弾ませて報告をした。女教師も驚く記録である。
「学童記録より早いのか。早いって言うのはなんだろう」
息子は駄馬からイダ天に生まれ変わってしまう。
チャンピオンレース記録より早く走った!
我が息子は一体何者なのだと思い始めてしまう。5年の分際でチャンピオンレースに優勝をしてしまうのか。長年大運動会があるが5年が優勝をしたなんて聞いたことないぞ。息子のような学童の体の成長は一年間も違うとかなりだから。
部屋では女房と息子が手を取り合い喜びだ。息子はチャンピオンレースの優勝を夢見て万歳。
女房は息子がオリンピック出場を果たし金メダルでも手にした姿を夢見ていやがるぜ。
小学校では我が息子一躍ヒーローとなる。新記録を叩き出した息子。同級生たちはいろめき立つ。
「5年生がチャンピオンになるかもしれない。先生に聞いたけど5年のチャンピオンっていないらいよ」
クラスは益々ヒートアップしてくる。
「だって新記録で走りまくるんだよ。早いんだから。6年に負けないらしいよ。先生がこっそり教えてくれたんだ」
息子の練習で出した参考記録を知る子供から勝てる勝てるとおだてられていく。
おっと息子が女教師の勧めでトレーニングセンター通いは学童たちには内緒にしてある。だから早く走ったことは息子の努力の賜扱いである。
5年生チャンピオンになるよ。頑張ってくれと同級生に励ましを受ける。
「そんなあ。まだ走ってもいないチャンピオンレースだよ。チャンピオンになれるなんて僕照れちゃうなあ」
クラスのかわいい女の子から頑張ってと言われた。
「優勝できるじゃあないの。キャアー素敵だわあ。私一生懸命応援しちゃうから」
息子は大変な持ち上げかたであった。
その言われ息子は満更でもない素振りである。父親譲りの性格は手に取るようにわかるのが残念だが。
イダ天になってしまう息子。運動会が近くなるに従い益々練習に力を入れた。ついでに女房の草食動物の餌も加熱してしまう。
ああったまにはうまいものが食いたいぞ!
チャンピオンレースに向けてまっしぐらな息子には仲良しのクラスメイトがいた。
幼稚園からの幼馴染みお寺の息子さんがいたのである。地元の名刹江戸時代から伝わる曹洞宗寺院の跡取り息子(御曹司)さんである。
「足が早い子はいいなあ。運動会でかっこよく走ったら気持ちもいいもんなあ。クラスの女の子も応援してくれるもんなあ」
豆住職くんは体が重く走ることは苦手も苦手。太い足がドタドタと地面を蹴る。また走ってもすぐ息があがってしまい足が縺れてしまい動かなくなってしまう。
「僕は走るのは嫌いなんだ。運動会なんか雨で辞めちゃえばいいよ」
将来の名刹の住職さまは小5にして見事な肥満なるお体である。体全体がプクッと膨れ空気デブとクラスメイトにアダ名されていた。
名刹跡取りの豆住職は幼稚園児から太りはじめ運動は苦手である。特に重い体で競う徒競走などは嫌で嫌でたまらない。
「ボール投げや相撲なら好きだけどさ。僕は一生懸命に走ってもダメなんだもん。足は早くないもん。いつもビリなんだ。そのビリもダントツに遅い。重たいから走っても前に進まないんだ。格好いいスリムな体になりたいなあ」
父親のご住職さんも肥満体質である。だが住職の達磨さんのような体格はきらびやかな袈裟に包まれると威厳がある。いかにも古くからある名刹の住職の雰囲気がかもし出されていた。
肥満体型は親子で同じようであるが将来的に住職になる身としては肥った体が職業柄似つかわしかった。遠目に見ても肥満な親子は恰幅があり子供は豆住職として似つかわしいものである。
我が息子と住職の息子さんは幼稚園からの遊び仲間だった。何かと気が合うらしい。女房に言わせると幼稚園からずっと仲良しはこのお子さんだけらしい。幼稚園の時からふたりして仲良く玩具でいつまでも遊んでいたそうだ。
仲良しさんだから互いによく本音の話もする。豆住職くんが運動会が嫌なんだ、走るのは御免と言い出した。
「肥っていても手足を動かなくちゃ。僕のようにサッサと足を出したら早く進めるよ。足を前に前に出してみて。1・2・3ってリズミカルにさ。やってみようよ」
息子は頑張って走れと激励をした。しっかり足を出していけば豆住職くんも走っていけるとアドバイスをした。
豆住職はウンウンと頷く。仲良しの息子の言葉には頷くらしいが顔いろは悪い。
「早く走ったことがないから嫌なんだ。それにねすぐ疲れてしまうよ。太いから走ることは苦手なんだもん」
嫌がる姿はいじらしい。どうしても嫌なんだと固辞をするが息子はなにとか運動場に誘い出す。
一緒に練習をしよう。一緒に走れば楽しいと言った。
「えー僕が走るの。ヤダなあ。みんなより遅いから。それに早く走ると疲れちゃうよ。明日学校にこれなくなっちゃうと困ってしまうよ」
どうしても走りたくない。ランニングは嫌だと言う。体型が体型ゆえに自分をしっかり知っていた。いくら運動場に誘いをしても息子と走ることはしなかった。仕方なく息子は諦めた。
小学校の授業が終わると息子は運動場で練習をする。その後ろを住職の息子は追い運動場に出てはくる。だが走ることなくベンチによいしょっと腰掛けていた。
「僕は練習はしない。だけど一緒に帰りたいんだ。仲良しなんだもん」
日が暮れるまで息子の練習は続く。豆住職はベンチで本を読んだり宿題を解いたりしていた。
「やあお待たせ。帰えろ。疲れてたあ」
仲良しの二人は一緒の陰となって帰宅である。
二人は喧嘩のひとつもしない幼稚園からの仲良しである。仲良く帰る姿は微笑ましかった。
帰り道の二人は会話も弾む。学校のことからテレビ番組の話と仲良くあれこれと喋っていく。
その帰り道である。我が息子は誰にも内緒にしていることを豆住職に話した。
「もしかして6年生の子に勝てるかもしれない」
目をキラキラさせて豆住職に思っていることを告げた。
5年の息子はチャンピオンレースで6年生で一番早い子供にも勝てる自信があると告白をしてしまう。
話相手は友達の住職くんである。つい本音が出てしまった。
「そうかあチャンピオンレースで6年に勝てるのか。あれだけ練習をしているんだもん学校で一番早いかもしれない。6年生ってメチャクチャ早い子がいるって聞いたよ」
息子はうんうんと感心しながら頷く。
「知ってるよ6年生の子でね特別に早い子がいるんだ」
この6年生の子供は小学校で恐らく一番有名な子供である。
年少から少年サッカークラブに所属。ちょくちょく静岡新聞にその名前が掲載されていた。天才ストライカーと活字が踊っていた。
さらに栄誉なことに清水エスパルスJr.に選ばれている。小学校を終えて中学となればJr.に正式入団し将来は有望なエースストライカーである。
静岡新聞には天才サッカー少年現わると地元欄の紙面は割かれていた。将来の天才スラッガーのエスパルスJr.入りはデカデカと報道をされ地元では知らない者がいないほどである。
小学校でサッカー選手は憧れの的である。こんな歳からすでに有名になっていた。
エスパルスのエースストライカーの父親は元中日ドラゴンズの選手である。新聞報道には父親の遺伝子が伝わりスポーツ万能の素質らしい息子さんとしめられていた。
元中日の父親は息子に野球をやらせたかった。自分自身が短い現役であったため野球に未練もあったのだ。
ところが息子は学校に行くと静岡はサッカー王国。子供の前にはサッカーしかなかった。父親としては時代が違うのかなっと野球は諦めムードであった。
「父親が中日ドラゴンズの選手。だから息子も野球をやってくれたらと確かに思う。なかなか子供は親の思うようにはならない。まるで中日時代の俺の打率みたいなもんさアッハハ」
父親は軽く冗談で言ったつもりである。だが冗談も真面目も良くも悪くも新聞に書かれてしまう。
天才スラッガーの素顔。
息子がJr.で3割バッターを目指す。父親は中日ドラゴンズ。
サッカーしか知らない読者はわけがわからなかった。
小学6年生。走っても蹴っても何をしても抜群の運動神経である。父親の中日魂はすっかり野球を諦めサッカーをやるために受け継がれていた。
豆住職は改めて驚く。6年生と勝負して勝てる。
「エッあの6年生をライバルにしているの。あんな凄いサッカーお坊っちゃんに勝負して勝てるの。なんかチャンピオンレースの決勝に相応しいね。少年サッカーのエリートなんだもん。勝つなんて凄いなあ」
豆住職は太い手をパチパチ叩く。尊敬の念から拍手をしてくれた。
天才スラッガーは確かに足が早い。正式にタイムトライアルをしたわけではないが大方の予想はついた。
「うんエーススラッガーなんだよね。いつも新聞に写真入りで載っているからね。でもチャンピオンレースは僕が勝つんだ。優勝は僕が飾りたいんだ」
日頃の練習の成果。女教師が手取り足取りとランニング方法を教えてくれた結果が如実に出ていた。
僕は勝てるよ。だってチャンピオンレース学童記録を破って走るんだから。
我が息子が自信満々にチャンピオンレースを迎える頃、ライバルのエスパルスJr.エースストライカーは黙々とサッカーの試合をこなしていた。彼は彼なりに将来プロ選手になる夢を追い求めていたのだ。
我が息子は運動会が近くなるに従い記録がアップする。寝て起きたらいくらでも早くなっていく感じなのだ。
指導してくれる女教師が抜群のテクニックであった。うまく息子をその気にさせおだてていた。
「僕優勝するからね。チャンピオンレースは僕優勝するよ。先生とも約束したんだ。僕の記録なら優勝できるんだから」
軽々と優勝を口にするほど自信に満ち溢れていた。
5年生には負けはしない。ライバルは天才ストライカーの6年生。負かすとチャンピオンレースは優勝できる。
息子はエースストライカーより早く走りたいと願っていた。
「清水エスパルスのJr.?お父さんが中日の子かい。ああっお父さんの現役時代はよく知ってるよ。中日の不動の1番打者だったな。足の速いセンターで盗塁も多かった」
そう言えば年は私とあまりかわらないと思った。だから息子も同じようなものなのか。
「中日の選手時代は打者で足が速かったんだ。ヒットをバンバン打ったよ。入団当時には安打製造マシーンだった。内野に転がせば足でヒットを稼ぎまくったな。チャンスに盗塁をバンバン決めていた。よく覚えているよ。静岡だったしな」
晩年はセンターのポジションを若手と争い負けてしまう。レギュラーがダメなら代打となっていく。
「その息子さんだ。サッカーに限らずなにをやらせても万能なんだろう。走って跳んでなんて簡単なことさ」
そんなスーパースターのお子さんに我が息子は挑戦していく。さらには勝つと宣言した。あの中日の1番打者に足で挑むなんて。
父親としては想像すらできない話であった。
運動会の日。秋空に雲ひとつない上天気だった。
「お父さんおはよう。グッスリ眠れたよ。心配して寝れないかなと思ったけど。気のせいか足も軽いや。朝の予選会なんか軽く突破してチャンピオンレースの決勝にいくよ」
明るい笑顔の我が息子であった。少し早目に学校に行くことになる。息子の足には真新しいシューズが光り輝いていた。
父兄の我々はゆっくりと競技プログラムの時間に合わせて学校に向かう。女房は腕によりをかけお弁当を作っている。
「あの子が優勝するようにね。優勝祝賀のお弁当を作って行かなくちゃ」
優勝祝賀の…。また草食動物てことじゃあないか。私は道中でコンビニ弁当が買いたくなってしまう。
息子の通う小学校は俺も卒業している。卒業をして何年だろうかと思い懐しさでいっぱいになる。
懐かしい気持ちで校門をくぐった。なぜか気持ちの上で私は小学校のあの日に逆戻りをしてしまう。
校庭横に父兄席が用意されていた。5年生の席に女房とふたりよっこらしょと座る。すると息子がどこから見ていたのか早くも見つける。
「お父さんお母さん。頑張って見ていてよ」
息子の姿を見て父兄席から応援をする。応援と言っても拍手をパチパチする程度だが。
「ああ見てるよ。ビデオも撮るからな。頑張って走れ」
軽く手を振った。息子はやるでぇーとにっこり笑う。父兄のいる席からクラスの仲間の中に消えていく。
父兄席で子供たちの運動会を女房とふたりチョコンと座り観戦をする。
座ったはいいが退屈をしてしまう。子供たちの運動会を黙って見たらいいんだが。
「知らない子供の競技は飽きるなあ」
子供の授業参観など出たことがないから父兄席は見渡す限り知らない顔ばかり。なぜかテレビでも見てヒマ潰ししたいと思ってしまう。
「携帯サイトでゲームやって暇潰しするかな」
ところが女房は違っていた。学校の役員やPTAをしていることからかなり知り合いがいる。
「ほらほらあなた挨拶してちょうだい。あの細いメガネが"誰誰さん"のお父さん。白い帽子の紳士の方は"誰さん"。あの子とクラスが同じのお父さんは…」
父兄席の出席者をひとりひとり教えてくれる。
わあっ〜わからない。一気に言われたところで、さっぱり。とてもとても覚えきれない。
父兄席の中にお袈裟姿の曹洞宗の住職がいらっしゃった。丸々と肥り住職としての威厳が感じられる。
「あの住職さん知ってるでしょ。息子といつも仲良く遊んでいるあの肥った息子さんのお父さんよ」
お寺の住職さんはみたらわかる。お寺の息子さんは我が家にちょくちょく遊びに来て俺も知ってる。小肥りのポッチャリしたオボッチャンは豆住職さんだ。
しげしげと父親の住職さんをみたら親子さんだ似ている。
「こんにちは住職さん。いつも息子がお世話になっております」
女房はそそくさと近寄り挨拶をする。
曹洞宗のご住職はニコニコして女房を見つめた。
「これはこれは。お父さんとお母さんではないですか。なんとなく息子さんに似ていらっしゃるから、そうではないかなと思っていましたよ。いつも息子が遊んでもらえて。いつかはお礼と思っていました」
ご住職は秋晴れの空の下ニコニコしている。なんとなく御利益がありそうだ。
住職は女房に息子が自分に似て肥ってしまい困った困ったという。住職の困ったというボヤキはかなり真剣なものに見えた。
「運動は嫌い。だから今日の運動会は行きたがらなくてね。お腹痛くならないかとか言い出したんですよ」
困った困ったの理由は走りたくないからであると知る。
「でも足の早いお友達がいろいろ教えてくれたから。我慢をして運動会で走りなさいとお寺を追い出したんですよ」
住職は女房に愚痴っていた。我が息子は足が早いから幸せだと言っていたという。
「拙僧も子供じぶんから運動は得意ではない方でした。走るのはアッハハ嫌でしたなあ」
嫌がって運動会に行かないと駄々をこねたら先代の住職に饅頭を買ってあげると言われて渋々参加んしたらしい。
「まあ親バカなんですが。私はダメでも息子はなんとか。アイツの運動会で元気に走る姿がみたくてやって来ました」
先代もデブらしくやっぱり運動会は嫌がる子供であったらしい。
「ところで聞きましたよ。凄いですなあ息子さん。清水エスパルスジュニアのあの子とチャンピオンレース決勝を争うと言われているんでしょ。うちの壇家さんが教えてくれました。将来のエースストライカーなんでしょあの6年生。清水エスパルスは大変な逸材を青田狩りしてしまった。なんか新聞にありました。そんなお子さんと競い合うなんて凄いですな。うちの息子からみたら雲の上のスーパースターの話だぞなんて聞かされてます」
ご住職はサッカーも野球も大好きだそうだ。なんでも出身の曹洞宗派の仏教大学がスポーツに力を入れており、木魚を叩きながらスポーツ観戦をしていたらしい。
「このチャンピオンレースはお子さんが勝つんじゃあないかと聞いております。チャンピオンレースは人気のある競技。楽しみですな」
住職さんが父兄席であれこれ我が息子を褒めてくれた。ご住職さまの話はまるで仏教説法のごときで他の父兄さんもつい聞き入ってしまう。
「確かに足が早いことは聞いていますよ。エスパルスJr.より早いらしいという噂もね。5年生が6年生に勝つことはチャンピオンレースあまりないですからね。それも楽しみですよ。うちの子供はチャンピオンレースが楽しみで楽しみで朝から騒いでいました」
父兄の中にサッカーが好きな方がいる。野球に詳しい方もいる。俄にスポーツに華が咲く。
そこにしゃしゃり出るのは我が女房どの。いきなりオリンピックの話を始めてしまい父兄席は国際的なスポーツ話に華が咲く。
「小学校からオリンピックを目指していけば大丈夫です」
あちゃあ〜そりゃあ言い過ぎだぞ。
私は女房の首に縄をくくり帰りたくなった。
「あの6年生はエスパルスJr.に行くんですよ。父親は足の早い中日一番打者。野球選手の息子さんだもの」
Jr.は中日の選手の息子と言われ父兄の皆さんため息である。
「5年生が勝つのは嬉しいですよ。しかし6年生のエスパルスJr.が勝つも負けるもさしずめスポーツ覇者決定の瞬間が見られます。私はサッカーより陸上が好きだけどね。5年生頑張って欲しいなあ」
5年生頑張ってと言われ父兄席で拍手が起こる。
ヤァそうまで我が息子を褒められては恥ずかしい。女房はありがとうございますと頭をさげて回る。そこに住職さんも荷担をして我が息子にエールエールであった。
こそばゆい。ここまで褒められては父親の私も悪い気はしなかった。
強いチャンピオンレースの覇者になって欲しい。
いつの間にか父兄席で我が息子は優勝候補の一角となる。
「そうか我が息子はそこまで早いのか。そんなエリートな6年生を相手に高いレベルでチャンピオンレースに臨むのか。道理であいつ気合いが入るわけだ」
私は女房の手前、他の父兄の皆さんには何も知らないようにワザとすっとぼけた。たまさか夫婦揃って息子自慢するわけにいかない。
そりゃあ息子頑張ってくれっと本心は喜びだが。
こうなると息子がかなりやることは5年生の父兄の期待の的になる。期待通りに行かないとこっちが困ってしまう。
私は期待される喜びを噛み殺していた。
「優勝候補なんだなあ我が息子。6年生を押さえて優勝したら凄いぞ。凄いことは充分承知だけど。おいおいライバルの6年生はもっと凄い子供だぜ(勝てるわけない)」
俺の脳裏に中日の一番打者(父親)の盗塁シーンが浮かぶ。中日ファンの誰もが憧れた選手だった。
「あの子のお父さんは安打製造マシーンと呼ばれたんだ現役時代には。塁に出たら快足でカモシカのごとく2塁や3塁を駆けた」
繊細な野球センスをもち安打を打つ。走塁テクニックは抜群で単打を2塁打に、2塁打を3塁打にグランドを野性の獣のように駆け抜けた。中日球場のファンはその華麗な走りに酔いしれた。
あの選手の息子さんがライバルになる。なんであんなスーパースターの子供が今目の前にいるんだ。
父親の私は来年になれば卒業してしまうから我が息子の天下だぞ。ふと良からぬ考えが思い巡る。
運動会のプログラムは順次進行していく。午前の部はいよいよ最終のチャンピオンレース予選会だけとなる。いよいよ我が息子の登場だ。
「やれやれやっと来たか」
父兄同士の盛り上がった息子自慢も最高だが息子の晴れ姿はよりいっそうワクワクしてしまう。
俺はバックに忍ばせたデジタルDVDカメラを取り出した。息子のレースに備えひとつ奮発をしたやつだ。
小型カメラタイプを新しく買い備えたのだ。
運動会が終わったら女房の体重増加体型維持年間記録のために使うつもりだ。
つい女房の顔を見てしまった。
あらっ何かしらっ
睨まれてしまった。
息子の話だとレース登場は5組目の順番らしい。その組は足の早いやつばかり。いくら予選会とはいえ油断はできないハイレベルなレースらしい。
けたたましくスピ-カーが鳴る。チャンピオンレース予選のアナウンスである。
「選手の皆さんにお伝えします。次のレースはチャンピオンレースの予選。予選のレースです」
子供らはキャア〜と歓声を挙げた。
「チャンピオンレースの予選をおこないます。5年と6年は白いテントまでお集まりください。第1組は…」
予選だが子どもたちは全員張り切って集まる。各クラスから集まる子供らも緊張感が走るのがよくわかる。
チャンピオンレースだけは運動会で特別な意味があることの現れだ。
父兄席も落ち着かない。ざわざわと皆さんし始めてくる。息子さんの勇姿を見たくなるのだ。
「いやあうちのボウズはそんなにも足が早いことないですから。せめて予選を通過してくれたら」
こちらも女房に尻を叩かれながらビデオをセットし始めた。
「あなたビデオちゃんと映るんでしょうね。家に戻って再生したら真っ白なんて嫌よ」
なんだ女房は私の腕を信用していないのか。失礼なオバチャンだなあ。
レースの優勝者は学校で一番早いという称号を貰えられる。さらに校長先生の部屋に名前が飾られる名誉があった。
クラスの人気者とはまさにチャンピオンレースの優勝者だった。
競技のプログラムは進行し予選会は始められた。子供たちは声の限り応援を繰り返している。
頑張って〜頑張って
黄色い声援は男の子を嫌がおうにも押し上げた。
第1組から走り始め子供たちは全速力である。早い子供はスタートダッシュから飛び出しそのまま勝負は決まる。大半はこのスタートダッシュで決まるみたいである。
「続きまして5年生5組です。スタートラインまで選手たちは集まってください」
お!やっと来た。我が子息子の登場である。女房は両手を掲げて小躍りしてしまう。
そう言えば女房は二十歳前はかわいらしかったなあ。
スタートラインに息子が立つ。赤い帽子をかぶりいかにも走るぞっとやる気満々である。
観衆の声援が乱れ飛ぶ。
頑張って〜頑張って!
優勝しろ〜
いけいけ!ぶっちぎれ〜
運動会全体が息子を声援していた。私はびっくりしてしまう。我が子はいつの間にこんなスターになっていたんだ。父親としては心地よい陶酔感を味わっていたが。
父兄席からも曹洞宗のご住職さんが声を出してくれた。
「しっかりやれ〜負けるなあ。頑張って走るんだぁ」
ご住職さまから有り難い御言葉をいただいた。息子の背中にお釈迦様と道元禅師が宿った感じだ。
(みんな)位置について
ちびっこランナーはスタートラインにつく。一瞬の静寂が生まれ緊張感が走る。
レースは運動場のトラックを一周400mを単に徒競走をするだけである。
息子に対する声援は止まない。まるでスターになってしまった気分だ。
何かの間違いで父親の私の名前も呼ばれないだろうか。
スターターはピストルを高々とあげた。
子供たちはワアワアと大声援である。大人の観客は黙り一瞬の静寂を作る。
ダァーン!
ピストルは鳴る。ちびっこたちは力一杯駆け出した。きれいなスタートだった。
夢中でビデオを回す。我が子、我が子をしっかり録画しないといけない。
が…。
ピストルの音に反応し選手は一塊に飛び出した。スタートしてトラックを懸命に走りまくる。
赤い帽子の我が息子。
「あれあれ!いないぞ。息子が息子が先頭にいない!赤い帽子がいないじゃないか」
ビデオのファインダーから一丸になった先頭の選手が見える。
しかし探しても先頭の中には息子は赤い帽子の息子は息子はいないのだ。
レースを間違えたのか。赤い帽子は息子に似た他人の子供だったのか。スタートの順番を息子は間違えレースを降りたのか。
いくら見ても息子はいない。他人の子だったのかと一瞬疑った。
隣りでキャアキャア言っていた女房もはて?
気分はギャルな女房は怪訝な顔をしてしまう。
早い一丸の集団が駆け抜けていく。子供らは全力疾走で運動場を駆け抜けた。
その後方に子供の影があった。スタートから遅れてゆっくり駆けている2人の子供の姿である。
あっ!
私は思わず叫んでしまっ。2人の子供姿がファインダー越しにわかったからだ。
のそのそと走るひとりが息子。もうひとりはお寺の息子さんだ。
のそのそ走る。いや走っているというより歩くより少し早い程度である。
デブのご住職さんのデブな息子さんは走っていた。
我が息子は豆住職さんに伴走しながら走り方をあれこれ教えていた。手を振って。足をこうやって前に出して。豆住職は真っ赤な顔をしてウンウンと頷いた。
走っている。我が息子は走っている。お寺の息子さんは肥った体をいやいやしながら、のさのさと足を出し体を嫌々ながら揺り動かしていた。
走っているより歩いている。ともすると歩くのではないかと危惧された。
豆住職くん。とてもではないがあんなに肥満になってしまっては。あの体型で走れとはイジメの類いではないか。面と向かい言わないが社会のルールでは走らせてはいけないのだ。見るからに苦しそうに走り大変だ。
ファインダーから息子を見る。我が息子が足の遅いデブな友達の伴走をする姿が見えた。豆住職に頑張って頑張ってと盛んに教えている姿が見える。
運動場を一周する予選会。我が息子とご住職さんの息子さんは父兄席の前をのそのそと通り過ぎる。父兄は拍手を送った。
お寺の息子と走る我が息子の姿。ファインダーを覗き段々大きくなると私は涙で見えなくなってしまう。目をいくらパチパチさせても涙が溢れて見えやしない。
女房はハンカチを取りだしおいおいと泣いていた。そのハンカチを貸してくれたらよかった。
なんてやつだ。なんてやつなんだ、おまえと言うやつは!
運動場の半分あたりまできたら先頭はゴールインした。それからも息子とお寺の息子はお揃いでのそのそと走る。運動会の観衆は拍手をする。場内われんばかりの拍手が沸き上がった。
「頑張って頑張って。もうすぐゴールインだ」
デブの豆住職も嬉しい顔を見せた。
ふたりは仲良くゴールをする。細身な我が息子とおデブちゃんのゴール。観客からよく頑張ったとさらに盛大な拍手が起こった。
「えらいぞえらい。よく頑張って走った」
なかなか鳴りやまない拍手。観衆の父兄には涙ぐんでいる者もいた。
女房は泣き崩れてしまい私の肩に寄り添ってしまう。おいよせよっ人前だぜ。
熱気溢れるレースは5年生が終わり6年生となる。6年生はエスパルスJr.が期待通りにブッチギリで予選を通過した。
予選レースが終わると昼食である。息子は豆住職くんと仲良く父兄席に戻ってくる。いかにも仲良しさんというふたりだった。
「僕ビリになっちゃった。お腹減ったなあ」
息子は爽やかな顔をして戻ってきた。
チャンピオンレースの小さな主役はお腹が減ったから早くおにぎりが食べたいと女房に頼んだ。
女房はハンカチで目を押さえながら弁当箱からおにぎりやおかずを取り出した。
「美味しいやお母さん」おにぎりも卵焼きもおいしいとパクパクしている。
曹洞宗の住職さんは肥った息子さんの頭をなでなで。高僧の目にキラリと光るものがある。
「よしよしよくやった。最後まで一生懸命に走ったもんだ。えらいぞお兄ちゃん」
威厳のある高僧がいかにも嬉しい父親の顔だった。
頭を撫でられた豆住職は
母親からでっかいおにぎりをもらう。
「ワアッ〜でっかいなあ。嬉しいっや」
パクパクかぶりつく。満面笑みとはこのことである。小学5年生の学童子供の素顔である。ご住職一家は楽しい昼食の時間を迎えていた。
ご住職と豆住職の両の肩にお釈迦さまと道元禅師が仲良くお座りになってもいそうである。
ご住職は息子の豆住職の食事を見守ると我々の席に来てくれる。
本当にありがとう。お陰で我が息子は大変楽しい運動会となりました。
我が息子の顔をジッと見て高僧のご住職さまは深々と頭を下げていただいた。
「我が息子はこれで得度(住職になる資格)を得た気持ちです。豆住職から本寺の副住職に出世ですよ」
盛んに息子の頭を撫でてくれた。
「ありがとう。あんなに足の遅い我が息子をかばっていただいて。拙僧はなんとお礼を申し上げたらよいかわかりません」
有難い気持ちからご住職さまはお袈裟姿で拝み出してしまう。
本当にありがとう。いいレースだった。ではお礼にお経をあげ最高のレースを成仏させてしんぜよう。
チャンピオンになるのは本当のチャンピオンになるというのは。
私と女房はハッとしてしまう。こんな時にお経をあげてもらっても。
ご住職はメガネをはずし袈裟の袖で拭く。高僧の涙はご住職の感動の気持ちの現れであった。
ご住職さまにお礼を言われた息子。褒めてもらえて恥ずかしいなあと照れた。
おにぎりを食べ終り息子はご住職の席へ駆け寄る。
「ね、ちゃんと走ったら早くなれるんだ。僕の言った通りに走ればスピードは増すから。今度はもっと早く走ってみようよ」
いかにも楽しい顔の子供同士の会話だった。
豆住職はにこやかな晴れやかな顔をしていた。
「うん楽しい運動会だよ。カケッコはいつもビリっこしか走ったことがないんだもん。運動会なんかつまんない。だけど一緒に走ってくれたから楽しかったよ。走るのは思ったより楽しいね。ひとりでドタドタじゃあ嫌だけど」
豆住職くんはおにぎりを食べながらケラケラと笑った。
曹洞宗のご住職さまは久しぶりに息子が笑ったとさらに嬉しかった。
「あれだけ運動会は行きたくないとダダをこねていた息子が嘘みたいですよ。雨降りになれ、中止にならないかなあとぼやいていました。寺の木魚を叩きながら雨降れ、雨降れっとお経まであげてしまって。それがなんといい運動会ではありませんか。ワシも袈裟を脱ぎ捨てて息子とカケッコしたくなりました」
ご住職さまは豆住職と親子でニコニコである。おとなしそうな奥様も嬉しそうであった。
お昼休みが終わり運動会は午後からのプログラムとなる。昼食を父兄と仲良く取った子供たちは元気に走りまわり順調にプログラムは進んで行った。
ご住職も心がワクワクとして運動会に張り切って参加をすることにする。
父兄の参加する赤い玉・白い玉の転がしゲームに出場を願う。
小学校の教師はこれには慌てた。
「ご住職さま。体操をするスポーティな服はありませんか?袈裟のままでは走れません。玉転がしは参加はご遠慮くださいませ」
教師数人が集まり高僧を諭す。袈裟で走ってはバチが当たるのでは。ご住職さまに合うサイズのジャージをお貸し致します。
ご住職さまは聞く耳をもたない。高僧は我が道を行くである。
「息子があんなに楽しい顔をしている。拙僧は袈裟であろうとなんであろうと参加させていただく」
ご住職さまは袈裟のままでヨッコラっと親子玉転がしゲームに出てしまう。
「お父様頑張って玉を押しましょう。僕っお父様と一緒になってゲームしたいです」
高僧と豆住職くんは大きな赤い玉をヨイコラショと押していく。
ゲームが始まるとこの親子はなんと早い早い!
まるでお釈迦さまが乗り移ったような勢いだった。親子2代の曹洞宗僧侶さま。お釈迦さまと道元禅師が背後にピタリっとつく。顔を真っ赤にして玉を追いかけた。
ホイサッ、ホイサッ
見事に一位となり最高の笑顔でゴールをした。
いやあ〜勝ったあ〜
豆住職は両手をあげて万歳を繰り返して喜んだ。
住職は久しぶりに息子が心底笑う顔を見たような気がした。
「太ってまったく運動をしない息子がこんなに頑張って走るなんて。拙僧は夢を見てしまった。全く素晴らしい夢を見てしまった」
ご住職は親子でゴールインをし高々と両手をあげた。その姿は大小の達磨さんが万歳をしているかのようであった。父兄席からは盛んに拍手をもらう。
「走る坊さんなんてかっこいい。達磨和尚かっこいい」
走る坊さんだとな。誰だかな?
聞き覚えのある声だぞとご住職さまはヤジのする方を見た。ヤジの主には見覚えがあった。
「あれ?なんだ君か」
ご住職の同級である。異なる学年の父兄席にいた。
「やあ久しぶりだな和尚さん。午前のチャンピオンレース予選でデブの息子を見たよ。あれ誰かに似ているなあと思ったアッハハ」
住職の同級生はピンっときたと言う。
デブで顔も似ている息子。足が遅いしドタドタ走っていたからこれは遺伝だ。和尚の子供だなっとわかる。
「和尚の親子玉転がしを見ていたら走るより転がった方が早いぞ」
アッハハと大笑いをする。
「転がるとは失礼な。それじゃあ達磨さんじゃあないかアッハハ」
ご住職と同級生は久しぶりに遇い意気投合をした。
午後のプログラムも進行をし最終競技になる。運動会最大の呼び物チャンピオンレース決勝がやってきた。
「ただいまよりチャンピオンレースを行います。このレースにて本日の運動会プログラムは全て終りになります」
スピーカーはいよいよ行われるクライマックスのためアナウンスを繰り返す。
「よしチャンピオンレースだ。僕は優勝をしてみせる」
6年生はキイッと口唇を噛みしめる。このチャンピオンレースで必ず優勝をしてみせると意気込む。
集合場所に行く前にシューズの紐を結び直す。いつもはサッカーシューズをはいている。運動会はランニングシューズ。走ってみると少し違和感があった。
「清水エスパルスJr.の俺が優勝するチャンピオンレースだからな」
6年生のクラスメイトからは頑張ってっと黄色い声援を受ける。女の子からの声援には一段と燃えるようだった。
「僕に頑張ってくれってかっ。任せておけって。こんなレースぐらいブッチギリで優勝してみせる」
エスパルスJr.はにっこり笑いクラス席から飛び出した。
頑張って〜清水エスパルス〜
運動会のフィナーレはチャンピオンレース決勝である。スタートラインにつく選手はひとりひとりが校長先生から激励の言葉を貰う。決勝に出るだけで英雄の由縁である。
校長先生もこの小学の卒業生。みんなかわいい後輩である。
「君は足が早いんだね。よく予選を頑張った。優勝してくださいよ」
来年定年を迎える初老の校長。学童はみんな孫に見えてしまう。ひとりひとりの名前を読み上げて握手をしていく。
清水エスパルスJr.の前に校長先生は立つ。
「先生も清水エスパルスの大ファンなんだよ。Jr.からちゃんとエスパルスに入るんだよ。グランパスとかには行かないように」
校長先生に握手されハイと答えた。
が、グランパス?なんだろうかと首を傾げた。
スタートの前にチャンピオンレースの説明が行われる。
「チャンピオンレースは学校で一番早い子を決めるレースです。頑張って学校で一番になってください」
学校で一番。
子供たちは胸が高まる。学校でこの学校で誰よりも早いのは僕なんだぞと子供らは自問する。
「1番になるのは俺だ。クラスの女の子も僕を応援してくれている。優勝をしてかっこいいとこを見せてやる」
スタートラインの6年生たちは気構えた。
スターターは校長先生が務める。定年退職前の大仕事だった。
「位置について」
校長先生はゆっくりとピストルを空高くあげた。
選手らは構えた。
「いくぜチャンピオンになるために」
ズドーン!
運動会はひとつとなる。女の子らは黄色い声を力いっぱい張り上げた。
選手は全員が綺麗にスタートを切る。さすがに決勝である。みんな早い。
第一コーナーまで集団である。直線からのカーブはサッカー少年の得意なもの。トップ集団の三番手あたりでうまく回りこむ。あまり無理をしない走りである。
「コーナーは得意なんだ。直線で差がつかないならコーナーでガンガン抜いてやる」
三番手から直線では前に出るつもり。だが視界を遮られ順位を落としてしまう。レースはグランド一周の400m。直線あり曲線あり。
第二コーナーに差し掛かる。ぐいぐいとアウトから前に出る。このカーブは慣れないとスピードが出ないのである。
順位を4位から3位にあげていく。さらには2位にあげてしまうとトップをグイッと睨みつけた。
そして直線にかかる直前で1位に踊り出た。あまり苦労はしなかった。
クラスメイトはやんややんやの大声援を送る。
「エスパルス〜エスパルス。危ない後ろ後ろ」
1番はよいが2番のランナーが巻き返しを窺う。差はあまりつかない。
コーナーをトップで駆け抜け最後の直線を歯を食い縛って駆け抜ける。
最後の直線はもっとも苦しいところ。2番手のランナーはグイグイ差を縮めてくる。
3m、2m、1mと追い上げてその差は小さくなる。
危ない!頑張れ!逃げ切れるか。
トップのエスパルスJr.は完全にへばった。大きく口を開けた。ただひたすらゴールの来るのを待つばかり。
足は伸びない
腕は振れない
フラフラな状態で目はうつろとなる。
ゴールまで20m。1位と2位はさらに近くなる。
ついに並んだ。
「ちくしょう足が疲れて早く走れない。足が動いてくれない」
残り10m。2番手は1位になり抜く、抜く、抜く。
僅かリードを奪う。
もう観衆は興奮の渦である。ゴール直前でのトップ争い。父兄の中から悲鳴すら聞こえてくる。
抜かれた1位は最後の余力を振り絞る。
「コノヤロー。よくも抜きゃあがったな。負けないぞ。将来のエスパルスのエースストライカーさまを抜くとはいい度胸だ。こんちくーしょー」
拳をギュッと握り直し腕を振り上げた。ラストスパートの気合いである。
余力を両足にかける。頭の中にサッカーのゴールコーナーが浮かびあがり決勝のシュートを決める幻想が見えた。
シュートを幻想したら気のせいか足が思ったように前に出た。
前に、前に、さらに前に出てくれた。
「走れ走るんだ。ゴールインまで行け」
ゴールの白いテープ。ヒラヒラと風に揺れていた。
運動会の大声援は最高潮を迎えた。白いゴールテープはふたりをほぼ同時に迎えたのだ。
子供たちはワアワアと興奮のるつぼである。ゴールの瞬間を目の前に見て騒ぎが収まらなかった。
二人同時なのか。勝者はどっちなんだ。二人が優勝しているのか。
「校長先生どうしましょう。ゴールイン一緒でしたよ」
校長先生はしっかりした口調で言った。
「優勝者は何人いてもいいではありませんか。構いはしません。すばらしいレースでした。文字通りのチャンピオンレースでした。拍手、拍手をしましょう。私はこんな感動するレースを見て定年を迎えるとは幸せです」
厳密に写真判定をしたら鼻の差ぐらいで勝負はついていたかもしれない。
チャンピオンレースの優勝を分けあった二人。ゴール後握手をして喜びを分かち合った。
清水エスパルスJr.はこの優勝に満足だった。表彰台に登り高々と手をあげた。
校長先生からメダルを掛けてもらうと少し涙がこぼれた。
「俺はチャンピオンだぞ。クラスの女の子に応援してもらいチャンピオンになれたんだ」
エスパルスJr.の試合のように観客に喜びをアピール。
父親も同じ小学卒業である。後で知ったが親子揃ってチャンピオンになっていた。
「そんなのかね。お子さんはお父さんに追い付いたのかな」
翌朝の静岡新聞の地方版に小さなコラムが載る。
『小さな友情』そう見出しがつき静岡の小学運動会のエピソードが微笑ましく掲載してあった。
静岡新聞のささやかなコラムは街の噂でなんて感動する話なんだろうかと広まる。
小学校で息子は友達から知らされた。
この小さな友情って君だよ。
息子の父親(私)は妻からコラムを知らされた。静岡新聞の切り抜きのコピーを見せて貰う。
「あなたっあの運動会のことらしいのよ。スーパーで奥様連中が噂していたの。新聞みたらあれって思ったわ」
息子が新聞に掲載されている。女房はしばし興奮をして記事を見せてくれた。半信半疑で私も記事を読んだ。
「へぇー息子も有名になったもんだ。確かにあの運動会のチャンピオンレースだな。小肥りな子供と足並み揃えて小さなチャンピオンか。しかし、よく新聞記者が運動会のその場にいたな」
私は息子の運動会を思い出しながらあらためて新聞記事を読む。
静岡新聞の記者は父兄のひとりだった。子供の応援に運動会に駆け付て偶然に息子のレースを見たらしい。
チャンピオンレースの見処を知る。5年生の我が息子と6年生エスパルスJr.の対決は記者も父兄として運動会にいて噂を聞く。それとなく対決の雌雄を知るところであった。
新聞記者は二人を予測していた。
「6年生はエスパルスJr.選抜だから足は早いわけだ。サッカー選手が鈍足だったら笑いだよ。小5の学童はどのくらいやるのか知りたい」
記者は手元のノートパソコンの端末を叩く。こんな小さな小学校であるが学童記録は新聞社にデータが入っていた。
「小学校の学童記録は全国小学校記録と比較したら平凡なものだ。新記録樹立は簡単だろう。それが6年生か5年生かはわからないが」
端末をクリックしてみると小学校の女教諭がヒットをする。体育大学時代のインカレ記録(100)が提示された。
「あらっ彼女はこの小学校に赴任していたのか。そうそう静岡出身だったな」
女教諭が学童を指導しているとすると新記録は期待される。
新聞記者もこの小学校を卒業している。学童時代はチャンピオンレースに憧れていたことをふと思い出す。
「チャンピオンレースに息子が出てくれたら親子で出場となる」
記者も人の子。親子二代の出場となるとワクワクしてしまう。
「そのレースがあんなことになるとは。あんな場面に遭遇するとは思いもよらなかった」
同じく清水エスパルスJr.も静岡新聞を読んでいた。Jr.はイキマキ憤慨していた。
「チャンピオンレースは僕がこの僕が優勝したんだ。チャンピオンは僕なんだぞ」
人一倍プライドの高い将来のエースストライカーは面白くない。読んだ新聞を投げてしまう。憤慨をして物を投げる姿。父親が三振をしてバットを左手で投げつける仕草そっくりである。
「そんな足の遅いやつが英雄なんて許せない。予選で敗退したやつを持ち上げてなにがいいんだ。だいたい面白くないのはなんで優勝した僕にインタビューしないんだ。エスパルスの将来のエースストライカーをインタビューしないんだ」
チャンピオン優勝のプライドをズタズタにされた思いから怒りは収まらなかった。
部屋から出てサッカーボールを蹴りたくなる。公園に向かう。うさばらしをするのはボール蹴りが一番である。
家の玄関にサッカー用具と父親の野球用具も置かれていた。
父親は引退をし地元静岡でテレビ・ラジオ・新聞雑誌等で野球解説&コメンテーターをしている。
静岡新聞にもコメンテーターとしてコラムを掲載していた。
公園で子供は悔しさからボールを蹴りまくる。見事なボールコントロールで蹴りながら涙が流れた。
「勝者が賛美されないなんて変だ。予選落ちたやつが英雄扱いだなんて許せない。絶対に許せはしない」
蹴る球は段々強くなっていく。エスパルスJr.のボールコントロールはいたって正確だった。
「どう考えたっておかしいじゃあないか。優勝したのに。僕はあんなに一生懸命走って優勝をしたのに。英雄になれないなんて不当だ」
中学に進学してからは清水エスパルスJr.に入りサッカーのスターを歩む男。
こんな扱いをされてプライドを傷つけられた。たまらなく切なくなってきた。ポコンポコン蹴りまくると気持ちも落ち着き払う。
「そうだ。パパに頼んでみよう。パパならなんとかしてくれる。パパは僕の味方だ」
にこやかな父親の顔が浮かぶ。ボールをしっかり手に持つと自宅に戻る。
父親は名古屋や東京でナイター中継があると深夜に帰って来る。ナゴヤドームから静岡までなら元気に東名を飛ばしまくる。
いずれにしろ父親の帰宅は深夜に及ぶ。小学校の子供に起きていられない時間の帰宅であった。
ピンポーン!
深夜の帰宅。女房を起こすつもりで呼び鈴は一度だけ鳴らされる。深夜の訪問者に女房は敏感に反応をする。
「おかえりなさい。思ったより早いわね。今日は大変だったわね」
ナイター中継はテレビで見て中日が逆転さよならをしたことを知ってる。
そのさよならのシーンをうまく解説したことを妻に自慢したいことも知っていた。父親は野球に関しては子供のようになる。
「どーだい。今夜のナイター解説はよかっただろう。俺の言ったとおりに逆転になっただろう。あの若手は代打で打つと思ったよ。いやあいやあ、良かった、良かった。さよならは別れの予感♪」
歌まで始めちゃった楽しそうな野球解説者である。解説者で中日が勝つといつも機嫌がいい父親だった。
「勝つに越したことはないや」
深夜に軽く夜食を取り朝からのスケジュールを確認する。秋からは野球シーズンは終わりテレビやラジオ出演が不規則となる。しっかりスケジュールを確認をして眠りにつく日課だった。
パパいるの
そこに眠い目をした小学校の息子が起きてきた。
パパお願いがあるんだ
パジャマ姿で入ってきた小学生。父親も母親も驚いた。
「なんだ。こんな時間に起きてきて。どうした寝れないのか」
楽しい解説者は我が子の寝惚けまなこをジロッと見る。
「ちがう違う。パパに頼みたいことがあって起きてきたの」
眠い眠いと目を擦りながら父親に頼んだ。
パパお願いだから
朝の静岡新聞デスク。新聞社の社内それはそれは忙しいものであった。
忙しい中に編集部デスクが一本の電話を取る。編集部は2〜3の問い掛けでわかりましたと社会部に回す。
「はいこちらは社会部デスク。うん?社会部だぜ。誰からの電話だ。なんだい。ちょっと、ちょっと、違うだろう。この電話は野球解説者からだろ?野球はスポーツ部に回せよ、スポーツだろうよ野球はさ。社会部は忙しいからそっちにしてもらえよ。そんじゃあな。えっ、社会部のコラムについて聞きたい?なんのコラムだよ、運動会?ああ、わかった、わかった。あのコラムな。が、なんで、野球解説者が社会部に電話なんだい。それがわからないぜ」
電話を置く社会部デスク。
社会部に配属される運動会のコラムを書いた記者を呼ぶ。
「今から野球の解説者に会うぜ。ほらっ、前に中日にいたやつが本社の解説者になっているだろ。あれが、おまえにちょっと話があるらしいぞ」
電話を回されたデスクはようやく用件が呑み込めた。
社会部応接室にデスクと記者は座る。予定の時間に現れる野球解説者の訪問を待った。
「やあこんにちは。突然電話をして申し訳なかった」
解説者は手みあげをヨイコラショと机に置く。
「こちらが運動会のコラムを書かれた記者さんですか。はじめまして私は野球解説者の。いや解説よりあのコラムの子供の父親でしてね。小学のチャンピオンレース優勝の親なんです」
訪問を受けた記者は緊張をした。コラムでは悪者扱いされたかなと苦情を言いに押し掛けたかと身構えたのだ。
日曜日の静岡新聞地方記事特番。静岡の地方の読者を対象にこんな募集が掲載された。
元気ッ子集まれ!
来月日本平・陸上競技場にて学童対象の野球とサッカー教室を開催します。
教室の内容はランニングからスタート。野球やサッカー全般の基礎トレーニングから応用まで。野球やサッカーを楽しみながら一日を過ごしましょう。
主催静岡新聞
新聞のチビッコ募集の掲載は直々に6年生から我が息子は教えて貰う。
「おい5年生。おまえは特別招待選手だ。日本平には陸上の選手が走る専用トラックがある。俺とおまえ。チャンピオンレースの"白黒"を決めようぜ」
清水エスパルスJr.はツイッと新聞の切り抜きと応募要項を渡す。
新聞の切り抜きを見せてもらう。日本平公園は静岡のチビッコの憧れの競技場である。
「なるほど日本平か」
日本平競技場と聞き喜ぶ。
「日本平かい?清水エスパルスの競技場だよ。ちびっ子集まれ!って。なにやるんだろう」
しっかり新聞記事を読む。
「えっと日本平でサッカーと野球がやれるのか。あれランニングもあるじゃないか」
ランニング。日本平の競技トラックは国際基準の本格的な競技場である。
そうか、そうか
わかった、わかったと何度も言った。
「行くよ行く。僕は必ず行く」
チャンピオンレースの優勝者は日本平のトラックで決まる。