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「何だ、この怪しい液体は?」
ネイラスが執務机に置いたドロドロとした緑色の瓶を見て、ヴェリオルは眉を寄せた。
「『鋼鉄薬・改』だそうです」
ネイラスが答える。
「鋼鉄薬……?」
「イリス様の兄上が作られた薬だそうです」
「イリスの兄……そういえば調べていたのではなかったか?」
ネイラスは頷き、それから少し渋い顔をした。
「はい。ですが意味不明の情報ばかりで……恥ずかしながら、凡人の私には少々難しい内容で理解できませんでした。『変わり者』としか言いようがありません」
ヴェリオルが鼻を鳴らす。
「まあ、あのイリスの兄だからな」
「この薬を薬学者に調べさせたのですが……極微量の毒が入っているようです」
――毒。
「それは……」
「それにこの薬には学者達も見たことがない成分が入っているらしく、イリス様の毒に強い身体や異常な回復力は、おそらくこの薬を日常的に飲んでいたおかげではないかと学者達は言っています。……と言っても、まだ調べている途中なので断定は出来ませんが」
「…………」
ヴェリオルは目の前の怪しい薬を見つめる。これがそれ程までに素晴らしい物にはとても見えないが……だが、事実イリスの丈夫さは異常だ。
「分かった。引き続き調べろ」
「それから、女官長の引継ぎが終わり、予定通り元女官長フェルディーナがイリス様の新しい侍女となりました」
「……そうか」
ヴェリオルは頷き、顎に手を当てて少し俯く。
いったい、元女官長フェルディーナは何を考え、どういう働きをするのだろうか……。
◇◇◇◇◇
夜――。
「陛下、女官長を復職させてあげて下さい」
イリスの部屋に入ったヴェリオルは、いきなりイリスにそう言われた。
「開口一番それか?」
フェルディーナの存在が不満なのか。ベッドに近付くヴェリオルに、イリスが眉を寄せて訴える。
「ケティが元気になった事に関しては良かったと思いますが、それ以上に……何と言うか、大袈裟に言うと洗脳……されているような気がしてならないのです」
さっそく侍女を洗脳しているのか。ヴェリオルが片眉を上げる。
「俺も引き止めたが、女官長は自ら辞職した。女官長の抜けた穴を埋める為に俺の侍女や女官を後宮に配属させたりと、こちらも迷惑しているのだ。それとケティと言う侍女なら大丈夫だと思うが。簡単に元気になった単純頭なら、すぐに以前のような明るさだけが取り柄の役立たずに戻るだろう。さあ、もう寝ろ」
ヴェリオルは上着を脱いでベッドに入り、イリスの額にキスをして頬を撫でた。イリスがあからさまに顔を顰める。
「それと陛下、どうして私に毒が盛られた事を教えてくれなかったのですか?」
「…………」
情報を与えたのはフェルディーナか。余計なことを、と内心舌打ちしながらヴェリオルは天井を見つめる。
「陛下――」
「不安にさせたく無かっただけだ。さあ、もう寝ろ」
この話は終わりだと、ヴェリオルは目を瞑った。
「ところで陛下……」
「まだ何かあるのか」
多少苛つきながら仕方なく目を開けて、イリスに顔を向ける。
「どなたか他の側室のところに行っていただけませんか?」
「……お前はそればかりだな」
顰め面になったヴェリオルに、イリスも眉を寄せた。
「お相手出来なくて心苦しゅうございます」
「……そんな事は気にするな」
「陛下がいらっしゃると緊張してゆっくり眠れません」
「慣れろ」
イリスが左手でヴェリオルの服を掴む。
「何故私のところに来るのですか。こんなにブサイクで身体も良くないのに」
「…………」
ヴェリオルは溜息を吐いて身体を起こし、負担にならないように気を付けながらイリスに覆いかぶさった。
「本当に分からぬのか?」
本当はとっくに気付いているのではないのか?
イリスの瞳を真っ直ぐ見つめながら、ヴェリオルは顔を近づける。
「…………」
「…………」
イリスの視線が彷徨い逃げた。
「……そうだな」
逃げる瞳を追うようにヴェリオルの顔が動く。
「確かに美しい女なら沢山いるが、お前程愛嬌のある顔の女はいない」
ヴェリオルが右手でそっとイリスの瞼に触れる。
「この少し離れた大きく丸い目も……」
指先を鼻に滑らせる。
「有るのか無いのか分からない程小さく低い鼻も……」
唇をくすぐる。
「大きな口も、慣れれば愛らしい。身体とて、始めは男を抱いているのかと何度も錯覚したが、今ではこの中性的な感じが男も女も一度に味わえて得をしているような気が――どうしたイリス?」
プルプルと震え始めたイリスにヴェリオルは首を傾げた。良く見れば目にうっすらと涙も浮かんでいるようだ。
「痛むのか?」
怪訝そうに訊くヴェリオルに、イリスは笑みを浮かべて首を振る。
「いいえ。ただ、ここまではっきりと言われた事が無かったものですから……、肉体に続き精神にも少しだけ打撃を受けた気分です」
はっきりと……?
いったいどういう意味なのか。
イリスが左手でヴェリオルの胸を押す。
「そんなにこの顔がお好きなら、池に行けば宜しいのではないですか? ゲコゲコ鳴いて飛び跳ねておりますわ」
思いもよらないイリスの発言にヴェリオルは驚いた。まさか、そんな――。
「イリス……! 別に俺はそんなつもりで言ったのではない。確かにお前は蛙顔だが、姿形は重要視するべき点ではなくむしろ――」
気にしていたというのか、蛙顔であることを。
「分かりました。痛いです、触らないで下さい。もうゆっくり寝たいので出て行って下さい。久し振りにメアリアさんの所に行ってはいかがですか? 若く女らしい肉体を思う存分貪って下さい。きっと夢から醒めたような気持ちになりますわよ」
「イリス!」
頬を撫でながら弁解するヴェリオルの身体を押し退けて、イリスは目を閉じる。
「イリス、違うのだ。むしろ人の魅力というのは内面にあり、いくら外見を着飾ろうとも心が醜ければ――」
「静かにして下さいませんか?」
「――その点お前は実に面白い。飽きの来ない味わいがお前にはあり、それは政務に疲れた心に楽しみを与えてくれ、明日への活力となるのだ」
深く息を吐くイリスに、ヴェリオルはなおも続ける。
「だからイリスは何も気にすることはない。俺はたとえお前が本当に蛙だとしても愛し――イリス?」
聞こえてくる寝息に、ヴェリオルは固まった。眠ったというのか、この状況で。
「…………」
いや、まだ傷が癒えていないのだから無理もない。
ヴェリオルはイリスの身体に掛け布をそっとかぶせて、自身も身体を横たえる。
それにしても、ブサイクだと公言しておきながら実は気にしていたなど、イリスも可愛いところがあるではないか。ヴェリオルは口元に笑みを浮かべた。
明日、目覚めたイリスに一番に言おう。
蛙が好きだ――と。
よくよく考えれば、蛙の姿かたちは実に愛嬌があるし、その身もなかなかの美味らしい。外面も内面も、すべてひっくるめて愛していることが、イリスにもきっと伝わるだろう。
ヴェリオルはそう決意して、仮眠をとるために目を閉じた。
◇◇◇◇
朝、執務室に入ったヴェリオルは、既に仕事に取り掛かっていたネイラスからの挨拶を無視して真っ直ぐ執務机まで行くと、椅子に座って腕組みをした。
「陛下、難しい顔をして、どうされたのですか?」
執務机の前に立つネイラスを、ヴェリオルはチラリと見上げてまた視線を正面に戻し、口を開く。
「イリスが怒っている」
「はい?」
「素直な気持ちを打ち明けたのに怒ったのだ」
「…………」
ネイラスはじっとヴェリオルを見つめ、顎に手を当てた。
「ちなみに、イリス様にはなんとおっしゃられたのですか?」
「蛙が好きだと」
「……そうですか」
哀れむような視線を一瞬ヴェリオルに向け、ネイラスは目頭を押さえる。
「なにか、イリスの機嫌が良くなるものを贈ろうかと思う」
ヴェリオルのその言葉に、ネイラスは「ああ……」と思い出した。
「そういえば少し前に、陛下のご命令を受けて、イリス様の為に夜着を準備していたのですが、いろいろあってすっかり忘れていました。巷で流行の夜着ですが、しかし今のイリス様には……」
「すぐにイリスの元へ持っていけ」
「……いいのですか?」
「なにがだ?」
「…………」
ネイラスは微かに口端を上げて頷いた。
「いえ、別に。ご命令通りにいたします、陛下」
夜着はイリスの元に届けられ、その報告を受けたヴェリオルは満足気に頷き、夜にはいつもより少し早めに仕事を切り上げて後宮へと向かった。
そして翌日――。
「宝石と金の延べ棒と領地を用意しろ」
朝、執務室に入ってきたヴェリオルが執務机に向かいながら発した言葉に、既に仕事に取り掛かっていたネイラスとガルトが顔を見合わせた。
ネイラスがヴェリオルに訊く。
「何故ですか?」
「イリスが欲しがっている」
「金の延べ棒を、ですか?」
「ああ」
ガルトは額に指を当て、首を横に振った。
「少々早まったかもしれませんな」
ネイラスが顎に手を当てて微笑む。
「変わった方ですね、イリス様は」
「イリスは贈った夜着が気に入らなかったらしい」
「ああ、そうですか。領地は何処がいいですか?」
「そこらにいる役立たずの貴族から巻き上げろ」
不機嫌な様子でドアに向けて顎をしゃくるヴェリオルに、ネイラスは「そういえば……」と真顔になった。
「貴族――主に側室の親達からの不満の声が高まっていますよ。陛下がブサイクな二位貴族ばかりを寵愛していると。特にロント家は、王妃の座を奪われるのではないかと焦っているようです」
ヴェリオルが鼻を鳴らす。
「ロントか。適当にあしらっておけ」
「了解です、陛下。適当にやらせていただきます」
ヴェリオルは頷き、深く息を吐く。
宝石も金の延べ棒も領地も、すべて用意すれば、イリスの機嫌も良くなるだろう。
そう信じていたのだが、ところが――数日後。
「イリスの様子がおかしい」
眉間に深く皺を寄せて唸るヴェリオルに、ネイラスが小さく溜息を吐いた。
「仕事をしてください」
「しているだろう」
ヴェリオルは目の前の書類にサインをし、ペンを置いて腕組みをする。
「陛下……」
「イリスが珍しく塞ぎ込んでいる。宝石も金の延べ棒も与えたのに元気にならない。もっと大きな宝石を与えたほうが良いのか?」
「…………」
ネイラスは自分の机の引き出しから何かを取り出して、ヴェリオルの前に立った。そして手に持っていたものをヴェリオルの執務机の上に置く。
「これは……鋼鉄薬か?」
首を傾げるヴェリオルに、ネイラスは頷いた。
「はい。学者達がこの薬を弱っていた小動物に飲ませたところ、その小動物が元気になったそうです」
ヴェリオルが片眉を上げる。
「ほお? 元気に?」
「イリス様に飲ませても問題はなく、それどころか元気になるだろうと学者達は言っていました。それと、イリス様の兄上を、出来れば研究所に招き入れたいそうです」
「研究所に、か?」
ヴェリオルは顎に指を当てて暫し考え、立ち上がる。
「――そうだな、有益ならば良いかもしれないが……」
鋼鉄薬を掴んでそのまま歩き出すヴェリオルを、ネイラスは引き止めた。
「陛下、イリス様のところへ行かれるのですか?」
「ああ」
ネイラスが、まだ手に持ったままだったものをヴェリオルに差し出す。
「ではこちらをイリス様へ。ご家族からの手紙です。お喜びになるでしょう」
「手紙?」
受け取ったヴェリオルは、鋼鉄薬をもう一度机の上に戻して、躊躇いなく手紙の封を開ける。中の便箋を取り出してみると、そこにはイリスの身を案じる言葉が細かな文字でびっしりと書かれていた。
簡単に目を通していき、手紙も最後に差し掛かった頃――ヴェリオルが「ん?」と怪訝な声をだす。ネイラスが首を傾げた。
「陛下、何か気になることでも書かれていましたか?」
「…………」
ヴェリオルが手紙の文面をネイラスに向ける。
「『空飛ぶ馬車で迎えに行く』」
「……は?」
「書かれているだろう? ここに」
ネイラスはヴェリオルが示した箇所を見つめて、こめかみに指を当てた。
「空飛ぶ馬車……?」
「なんだ、これは」
「私に訊かれても困ります。イリス様なら何か知っておられるのではないですか?」
「……イリスに訊いてみるか」
空飛ぶ馬車、その言葉がヴェリオルは妙に気になった。
馬車が空を飛ぶとでも……? いや、まさか。
ヴェリオルは鋼鉄薬を持って、イリスに会うために執務室から出て行った。