5
「酒盛りをされております」
ヴェリオルは耳を疑った。
イリスに不満がないかもう一度しっかりと聞き出してこいと命じてから、数時間。漸く戻ってきた女官長は、信じられないことを淡々と話した。
「厨房から高級酒を持ち出し、酒盛りをされております」
「…………」
昼間から酒を持ち出して飲んでいるのか、側室が。どういうことだ、もしかして自棄酒なのか?
ヴェリオルは身を乗り出して女官長に訊いた。
「余のことは何か言っていたか?」
「お酒をくださいとおっしゃられておりました」
「……他には?」
「特には何も」
「何か言っていただろう」
「いいえ」
「泣いていたか?」
「楽しそうに笑っておられました」
「…………」
ヴェリオルが考え込む。何も言わなくなったヴェリオルに代わり、ガルトが女官長に退室を命じた。
女官長がドアを閉める音が静かな室内に響く。
ヴェリオルは無言で立ち上がった。
「陛下、どちらに行かれる気ですかな?」
舌打ちをしたヴェリオルの前にガルトが立ち、書類を差し出す。
「気分転換に、少し散歩に行くだけだ」
「急ぎの書類がこんなにもあるというのに、ですか?」
ヴェリオルが髪をかきあげ視線を逸らす。
「すぐに戻ってくる」
「いけません」
「…………」
ヴェリオルはガルトから乱暴に書類を奪い、座って仕事をする。
早く終わらせて後宮へ――しかし最後の一枚を終えた時にはもう夜だった。
「陛下、お食事は?」
「いらん」
ヴェリオルは自室に寄ることなく、早足に後宮に向かう。
後宮の入り口では、いつものように女官長が待っていた。
「イリスの部屋へ」
「……はい」
部屋の前まで来ると、ヴェリオルは女官長に手を出した。
「鍵を出せ」
女官長から奪うように取った鍵でドアを開け、その鍵をヴェリオルはポケットにしまう。
「これは余が預かる」
女官長の返事を聞かずに、ヴェリオルは部屋に入った。
「う……、これは」
入った瞬間、部屋に広がる酒臭さに眉を寄せる。
床には酒瓶が転がり、テーブルの上には飲みかけの酒と食べかけの食事が、ぐちゃぐちゃになった状態で放置してあった。
イリスはと視線をベッドに移すと、そこにはなんと侍女が大の字になって眠っていて、主であるイリスは端のほうで身体を丸めて眠っていた。
「何故侍女が……」
ヴェリオルはイリスに近付き、眠っている身体を揺らす。
「おい、起きろ、おい」
「ん……。ケティ……やめて……」
酒臭い息をヴェリオルに吹きかけ、イリスは身体を捻る。
「誰が『ケティ』だ。起きろイリス、イリス!」
身体を抱き起こすと、イリスは漸く薄く目を開けた。
「やっと起きたか」
「…………」
「イリス」
「………!」
イリスはぼんやりとヴェリオルを見つめ、カッと目を見開いた。
「陛下!?」
驚いた顔。ポカンと開けた口からよだれが流れ、ヴェリオルは眉を寄せ、それを掌で拭ってやる。
「な、なななな何をなさっておられるのですか!?」
「お前こそ、何をやっている」
ヴェリオルがイリスの足下にいる侍女を指差し訊き返した。
「俺を差し置いて、何故侍女がお前と寝ているっ」
「……はい?」
首を傾げるイリスにヴェリオルは舌打ちをし、手を伸ばして侍女の腕を掴んだ。
「退け! ここは俺の場所だ」
乱暴にベッドの外へ放り投げようとすると、イリスが慌ててヴェリオルにしがみついた。
「へ、陛下!? 乱暴はおやめ下さい!」
「離せイリス!」
「お願いです陛下! ケティは私の大切な侍女であり友人なのです」
「うるさい! 俺とこの侍女、どちらが大事だ!」
「え? それは勿論ケ――」
『ケ』とは何か。『勿論陛下』ではないのか。ヴェリオルがイリスの手を振り払い、ケティを高く持ち上げた。
「陛下!!」
イリスが必死の形相でヴェリオルにしがみつく。跪き、縋り、懇願する――。
「…………!」
ヴェリオルは胸が高鳴った。と、その時。
「ふぇ? 陛下……?」
聞こえた声に、二人の動きがピタリと止まる。
侍女が目を覚ました。いいところで何故また、といらつくヴェリオルを侍女は見下ろし、とんでもない発言をする。
「あー、陛下。夢の中にまで出て来るとは、図々しいでございますねぇ」
「…………」
ヴェリオルは侍女を片腕で荷物のように抱えた。
「女性に乱暴とは最低男でございます。気色悪いでございます。気色悪いへんた……うー、お腹が苦しい、苦し……うえぇ!」
気色悪いとは何だ、『酔っていて気持ちが悪い』と言いたいのか。しかしそれにしても、何という不敬な発言、教養の無さ。
これがイリスの侍女なのか。イリスがおかしいのはもしやこの侍女が傍に居るからなのかとヴェリオルの心に怒りが湧く。
「黙れ! そして吐くな!」
床に転がる酒瓶を蹴飛ばしながらヴェリオルは隣接するケティの部屋に向かい、ドアを開けてケティを中に投げた。
イリスが甲高い悲鳴をあげる。
「なんて酷い!」
「酷いのはどちらだ!」
牢に入れられてもおかしくない発言を侍女はしたと、分からないのか。それなのに侍女を庇うのか。
力いっぱいドアを閉めてヴェリオルはベッドへと戻り、涙を浮かべるイリスを抱きしめた。
「心配せずとも侍女はベッドの上に投げてやった。怪我などさせてない」
本当は床に叩きつけたのだが嘘を言いい、イリスの顎を指で持ち上げる。
「俺に何か言う事があるだろう」
先程の続きを。縋りつき、泣きながら謝罪しろ。
イリスがヴェリオルの顔を見つめる。そして口を開いた。
「こんな所で油を売っていないで、早くメアリアさんの元に行って下さい。きっと待って――」
「違う!」
そうではないだろう。この女はやはりおかしい。あくまで意地を貫き通すつもりなのか。それともまさか、本気でそう思っているとでも言うのか。
「お前は……本当に変わっているな。皆、寵愛を得るのに必死なのに。それに……」
ヴェリオルがイリスのほつれた髪を、すくい上げるように撫でる。
「俺が……俺が他の女を抱いても、嫌だと思わないのか?」
「え? 思いません」
「即答するな!」
そして嘘をつくな。
ヴェリオルが腕に力を込めると、眉を寄せてイリスは更に続けた。
「どんどん他に行って下さいませ。お世継もまだなのですから」
世継ぎ……。
ここにきてまで、またその話になるのか。
「……お前が産もうとは思わないのか?」
『王の子』が欲しいだろう。
しかしイリスは、目を見開いて激しく首を振った。
「冗談じゃありません!」
そうやって、気のない振りをしているのか。
「いるかもしれんぞ、この腹に」
ヴェリオルの手がイリスの下腹を撫でる。
懐妊していないことを分かっていての言葉。そんなことはありえない、だが……。ふとヴェリオルの頭の中に、イリスが赤子を抱いている姿が浮かぶ。
「…………」
おかしい。何を考えているのだ、自分は。この女の頭のおかしさが移ったか。
ヴェリオルは頭の中の光景を振り払い、イリスの顔を覗き込んだ。
「ど、どうしましょう……」
イリスが真っ青になって視線を彷徨わせ、救いを求めるようにカクカクと首を動かし辺りを見回す。
壊れた人形のような動き。笑わそうとでも思っているのかと、ヴェリオルは思わず溜息を吐いた。
「まあ、あり得ないけどな」
「……あり得ない?」
ハッと正気を取り戻したイリスがヴェリオルを見上げる。
「面倒を避ける為、子は妃にのみ産んでもらう。その為の対策は、しっかりとしている」
子の世継ぎ争いにまで、巻き込まれたくは無い。
「そうですか、良かったです。……でもそんな事、教えてよいのですか?」
「…………」
しまった、とヴェリオルは気付く。つい重大な秘密をばらしてしまった。
「内緒だぞ。この事は、ごく一部の者しか知らないからな」
まだ『処分』するには惜しい存在に、しっかりと口止めをする。
「ええ!? やめて下さい。こう見えて私、口が軽いのですよ。それに、国の秘密を知るというのは危険です。私を巻き込まないで下さい!」
「お前な……」
重大な秘密を知った感想がそれか。深い溜息をヴェリオルは吐いた。
「それならば早くメアリアさんを王妃にして、世継を産んでもらって下さい」
「王妃?」
あの小娘が? ヴェリオルが鼻で笑う。
イリスは首を傾げた。
「王妃候補なのでございますよね?」
そんな噂が流れていたか。それも『ロント』の娘なら仕方がないか。
ヴェリオルが片眉を上げる。
「それがどうした」
「……足繁く通っていると――」
足繁くは通っていない。
「だからなんだ」
その噂を知って、イリスはどう思ったというのか。
「…………」
「…………」
「……は?」
ポカンと口を開けるイリス。
……何も言わないのか。頭の中が空っぽなのかと、ヴェリオルはもう何度目か分からない溜息を吐く。
「もういい。他の女の話などするな」
「え……?」
驚くイリスの頬に、ヴェリオルは唇で触れた。
口付けると何か温かいような不思議な気持ちになるが、それがヴェリオルには何か分からない。
耳に響くイリスの悲鳴に、気持ちが高揚した。
◇◇◇◇
「元気ですね、今日の陛下は。久し振りのイリス嬢はいかがでした?」
朝、ヴェリオルが真面目に仕事をこなしていると、ネイラスが書類を手渡しながら囁くように訊いてきた。
ヴェリオルはチラリとネイラスを見て、視線を戻す。
「良くなかった」
「その割には満足気ですが?」
少し離れた場所から聞こえる咳払いで会話をやめて、ネイラスは仕事に戻る。
それから黙々と仕事をこなしていると、ノックの音が聞こえた。ネイラスがドアを少し開けて、何の用か確認する。
「陛下、女官長が報告に来たそうですが」
ああ、とヴェリオルは思い出した。イリスがどのような様子であるか報告に来るようにと命じてあったのだ。
ヴェリオルが頷くと、ネイラスが女官長を執務室に入れる。女官長は頭を下げて、ヴェリオルの前まで行った。
「イリスは?」
ペンを置き、ヴェリオルは背もたれに身体を預ける。
「落ち込んでおられます」
「落ち込む?」
何故。
「疲れているだけではないのか? むしろ喜んでいるだろう」
「…………」
女官長は無表情でヴェリオルを見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「陛下は、後宮がどのような場所か分かっておられません。要らないのなら関わらないであげてください。そして要るのなら……何が起こっているのか把握し、それなりの体制を整えてください」
ヴェリオルが眉を寄せる。
「……何が言いたい?」
「ブサイクな側室の元に陛下が通う。それを美しい側室がどう思い、イリス様に対してどう行動するのか想像してはいただけませんでしょうか?」
「…………」
そこまでいわれて漸く、ヴェリオルは思い当たった。
「小競り合いのことか」
「小競り合いの範囲など超えております」
それ程状況が悪いのか。しかし――。
「イリスは辛い素振りなど見せたことはないが……。そうか、心配をかけまいと、黙っていたか」
ヴェリオルが顎に手を当てて頷くと、ネイラスが思わず呟いた。
「陛下、どういう思考でそこに辿り着くのですか?」
ネイラスを一瞬睨みつけ、ヴェリオルは女官長に命じる。
「誰がイリスに嫌がらせをしているか調べろ」
女官長が頭を下げて返事をしようとしたその時、少し離れた場所から声がした。
「調べてどうされるおつもりですかな?」
ヴェリオルが眉を寄せて声のした方向――左手にある机で仕事をしていたガルトに視線を向け、女官長が姿勢を正す。
ガルトは立ち上がり、ヴェリオルに向かって歩を進めた。
「調べて――、二位貴族の娘が一位貴族や他国の姫から嫌がらせを受けていると分かったとして、それで陛下はどうされるおつもりですか?」
「…………」
どうするのか? 自分は。
何か『思い』はある気がするが、考えが浮かばない。
「……とりあえず少し調べて報告を」
ガルトの溜息が聞こえた。
女官長がヴェリオルに向かい、一歩踏み出す。
「陛下、女官長である私の力など後宮では微々たる物です。すべての女官が私の言うことを必ず聞くわけでもなく、すべてを把握できるわけでもありません。ましてや後宮は、現在圧倒的に手が足りていません。今は小さくとも、いずれ大きくなります。早急に対策をお願いいたします」
「…………」
興味が無かったゆえに放置していた後宮、しかし――。
「似ておられますね」
俯いて額に手を当てていたヴェリオルは、女官長の言葉に顔を上げる。
「なに?」
訝しげなヴェリオルに女官長は答えることなく、無表情に頭を下げて執務室から出て行った。
誰に、似ている――。